【つの版】度量衡比較・貨幣234
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は若狭国の続きです。

◆若◆
◆狭◆
若狭武田
武田信栄
武田信栄は、安芸分郡守護である武田信繁の嫡男です。先祖は甲斐源氏の武田信光で、承久の乱の後に安芸守護に任じられました。信光は甲斐にとどまり、安芸には守護代を派遣しましたが、孫の信時は蒙古襲来に際して安芸へ下向します。信時の曾孫の信武は足利尊氏に仕えて甲斐守護となり、子の信成に甲斐守護職を、氏信に安芸守護職を分与しました。のち氏信は安芸守護職を解任されますが分郡守護職を保ち、子の信在、孫の信繁に至ります。信栄は足利義教に気に入られて相伴衆となり、義教の命令で一色義貫を殺し若狭守護となりますが、遠敷郡や三方郡には一色家の守護代三方氏の勢力が残っていたため小浜に入れず、大飯郡高浜に館を構えました。
武田信賢
義貫の死から2か月後に信栄は28歳の若さで急死し、子がなかったため弟の信賢が跡を継ぎます。信繁は信賢に家督と安芸分郡守護職を譲りますが、信賢は若狭に赴き、安芸は引き続き信繁が治めました。信賢は一色家の残党らによる一揆の鎮圧に尽力し、小浜に拠点を移します。また安芸を巡って大内氏とも争ったため応仁の乱では東軍に属し、丹後の一色家を打ち破って幕府から丹後守護にも任じられましたが、文明3年(1471年)51歳で病死しました。
後世の伝説によると、武田信賢の子に彦太郎信広なる者がおり、宝徳3年(1452年)若狭を出奔して関東へ向かい、古河公方足利成氏に身を寄せました。やがて陸奥・出羽を経て蝦夷地に渡り、蠣崎季繁の婿養子となって家督を継いだといいます。これは江戸時代に蠣崎氏改め松前氏が先祖を名門武家に仮冒したものと思われますが、若狭と奥羽・蝦夷地が海上交易によって古くから結ばれていたことは確かです。
武田国信
子は幼少であったため弟の国信が跡を継ぎ、東西両軍の和睦をまとめるため丹後守護職は手放します。その後は幕府と管領の信任を得て若狭一国を領有し、京都や畿内近国の動乱に際してしばしば出兵を要請されました。
武田元信
国信の嫡男信親は父から家督を譲られますが早世し(異説あり)、弟の元信が跡を継ぎます。管領細川政元が将軍足利義材を廃位し、義高を擁立した明応の政変に際しては政元・義高を支持し、北陸に逃れて上洛しようとした義材改め義尹を撃退しています。しかし義尹を支持する越前朝倉氏や丹後一色氏に東西から攻撃され、若狭国人衆の土一揆にも苦しめられました。
海路で周防へ逃れた義尹は大内氏の支援を受けます。やがて細川政元が内紛で暗殺されると、大内義興は義尹を奉じて上洛し、義高改め義澄を駆逐して義尹を将軍に返り咲かせます。政元派・反大内派であった武田元信はこれにより中央への影響力を失い、永正16年(1519年)に子の元光に家督を譲って出家しました。しかし大永元年(1521年)義尹改め義稙が管領細川高国(政元の養子)と対立して堺に出奔し、高国が義澄の子義晴を将軍に擁立したため、還暦を迎えていた元信は高国と和解して上洛、復権を果たします。同年に禁裏御所の修繕費として5000疋(銭5万貫)を朝廷へ献上し、その功績を嘉して従四位下から従三位に叙されますが、同年末に没しました。
武田元光
跡を継いだ元光は、小浜に堅牢な御瀬山城を築き、その北麓に館を築いて拠点としました。彼は細川政元の養子澄元の娘を正室に迎えていましたが、細川高国の政敵である細川晴元(澄元の子)とその重臣の三好元長は、堺で義稙の養子(義澄の次男)である義維を将軍に擁立し(堺公方)、義晴と高国に対抗します。元光は義晴・高国を支援し各地で転戦しますが、享禄4年(1531年)に高国が戦死すると晴元と和睦します。晴元も義晴と和睦して堺公方を廃止し、元長を排除して畿内を制圧しました。
武田信豊
天文8年(1539年)元光は病気のため隠居し、子の信豊に家督を譲りました。彼は細川晴元・土岐頼芸と同じく近江守護・六角定頼の娘を妻に迎え、丹後国加佐郡を平定して白井氏を郡代に任じました。しかし晴元は三好長慶らに敗れて将軍義晴ともども京都を追われ、丹波・近江・若狭を拠点として上洛を図りますが打ち破られ、永禄4年(1561年)摂津に幽閉されます。信豊も家督相続を巡って嫡男の義統と対立し、近江へ追放されました。
武田義統
義統は足利義晴の娘を正室とし、義晴の子義輝から「義」の偏諱を授かっており、義輝とは家族同然の間柄でした。義輝は三好長慶と和睦して京都へ戻り、室町幕府を立て直そうと奔走しますが、長慶が没すると三好一族との対立が表面化し、永禄8年(1565年)5月に暗殺されます。義輝の弟の義秋(義昭)は義統を頼って翌年若狭に赴きますが、義統は内乱鎮圧のために出兵できないまま永禄10年(1567年)4月に42歳で没しました。
武田元明
義統の跡を継いだのは、数え6歳の嫡男・孫犬丸です。彼の母は足利義晴の娘で、義輝・義秋にとって孫犬丸は甥にあたります。当主が幼少なうえに若狭国内は守護代の内藤筑前守、武田氏分家で大飯郡高浜城主の逸見昌経、大飯郡佐分利郷の武藤友益、三方郡佐柿国吉城主の粟屋勝久、三方郡井崎城主の熊谷直之などの国人衆が群雄割拠しており、若狭守護や守護代の命令に従おうとしませんでした。逸見昌経に至っては丹波守護代の松永長頼(久秀の弟)の支援を受けて信豊・三好方につき、越前朝倉氏の支援を受けた武田義統に反旗を翻して戦っていたほどです。
やむなく義秋は越前朝倉氏を頼り義昭と改名しますが、朝倉氏は永禄11年(1568年)に若狭に侵攻します。若狭の国人衆は次々と打ち破られ、後瀬山城は包囲されて開城し、7歳の孫犬丸は朝倉氏の本拠地である越前一乗谷へ連れ去られ庇護下に置かれます。これにより若狭は事実上朝倉氏の支配下に入りました。義昭の上洛を支援するためとも言えますが、甥を人質にされた義昭は朝倉氏を見限り、美濃を制した織田信長に身を寄せます。
同年信長は義昭を奉じて近江に侵攻し、六角氏・三好氏らを撃破し上洛、義昭を将軍に擁立しました。越前朝倉氏はこれに従わず、信長の要請にも関わらず孫犬丸を返そうとしなかったため、信長は永禄13年/元亀元年(1570年)4月に幕府軍を率いて若狭へ侵攻しました。「若狭国人武藤友益を討伐する」との名目でしたが、友益が信長に敵対行動をとった様子はなく、これを口実に若狭から朝倉氏の勢力を一掃したうえで越前へ攻め込む計画です。
逸見昌経・粟屋勝久・熊谷直之ら他の若狭国人衆は信長に服属し、国吉城を本陣として提供しました。この越前遠征軍には信長の同盟者である徳川家康、三好長慶の家来であった大和の松永久秀、摂津の有力国人である池田勝正らも参加し、総勢3万にも及んだといいます。若狭に隣接する敦賀の金ヶ崎城はたちまち陥落し、幕府軍は嶺北に迫ろうとしていました。
ところがこの時、南近江の大名六角義賢(定頼の嫡男)、北近江の有力国人浅井長政が挙兵し幕府軍の背後を脅かします。彼は信長の妹(お市の方)と結婚しており、信長にとっては義弟でしたが、隠居していた父の久政や朝倉氏や六角氏と長年縁の深かった家中を抑えきれなかったようです。仰天した信長は敦賀から若狭に戻り、朽木元綱の協力を得て京都へ帰還しました。
朝倉義景は三好三人衆や本願寺、延暦寺などを味方に引き入れ、大規模な信長包囲網を形成します。若狭武田氏を庇護下に置いたことで甲斐・信濃・駿河を制圧した大大名の武田信玄も呼応し、家康と遠江を巡って争ったうえ三河や美濃も脅かしました。しかし元亀4年(1573年)4月に信玄が急死すると包囲網は瓦解し、信長は信玄に呼応した足利義昭を追放して天正と改元、浅井・朝倉を次々と打ち破ります。5年間一乗谷に囚われていた武田孫犬丸は解放され、同年9月に若狭に帰国し、翌年13歳で元服して武田孫八郎元明と名乗ります。しかし信長は家来の丹羽長秀に若狭を任せていました。
武田信繁―国信―元信―元光―信豊―義統―元明
信栄
信賢
若狭国主
丹羽長秀
丹羽長秀は織田家の重臣で、義昭上京の際に六角氏征伐で手柄をあげ、元亀2年(1571年)に近江国佐和山城を授かり、浅井氏滅亡後はその旧領である北近江を統治していました。さらに若狭一国を授かり、織田家臣で最初の国持大名となったのです。ただし長秀が知行として与えられたのは若狭中部の遠敷郡のみで、三方郡には粟屋勝久と熊谷直之、大飯郡には逸見昌経がこれまで通り割拠し、長秀の与力(軍事協力者)とされました。武藤友益は追放され、その所領は逸見昌経に与えられています。
長秀は近江佐和山を居城とし、主君に従って各地を転戦したため、遠敷郡には家臣の建部寿徳が郡代として派遣され、小浜に入りました。彼は近江六角氏の家臣でしたが、早くに仏門に入って寿徳と称し、父秀清は信長との合戦で討死しています。兄秀直は六角義治に仕えますが駒井某に殺害され、寿徳はその仇討をして武名をあげ、信長に召し出されました。その後は中川重政や丹羽長秀に仕え、吏僚として活動しています。
天正9年(1581年)正月の京都馬揃えでは、若狭衆は丹羽長秀の組で参加しています。3月に逸見昌経が没すると所領は没収され、旧武藤領であった佐分利郷の石山城3000石が武田元明に与えられ、長秀の与力とされました。元明はしばしば若狭返還を要請しましたが、信長には認められていません。また元明は近江京極氏の娘竜子(母は浅井長政の姉)を娶り、2男1女を儲けています。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田元明は明智光秀に呼応して挙兵し、若狭衆や義兄の京極高次とともに近江へ侵攻、佐和山城や長浜城を制圧しました。しかし光秀が敗れると賊軍となり、元明は謝罪恭順の意を示そうと丹羽長秀に招かれますが謀殺されます。彼の子らも殺されたようですが、弟の義勝は氏を津川と改め、京極高次とともに越前の柴田勝家に身を寄せました。ここに若狭武田氏は滅亡したのです。
丹羽長秀は清洲会議において若狭一国を安堵されますが、佐和山城と近江の所領は堀秀政・柴田勝家に譲ることとなり、代わって琵琶湖西部の滋賀郡と高島郡を獲得しました。こちらの方が若狭に隣接しており、敦賀や琵琶湖水運を脅かして勝家を牽制するには有利です。果たして翌年の賤ヶ岳の戦いでは長秀が勝利に貢献し、勝家の所領であった越前と加賀南部を領国に加え大大名となりましたが、2年後の天正13年(1585年)に病没しました。また賤ヶ岳の戦いの後、秀吉は若狭のうち佐柿城(国吉城)と三方郡・遠敷郡8万6000石余を木村定重に、大飯郡高浜城1万7000石を堀尾吉晴に授け、長秀の与力としつつ牽制させています。
丹羽長重
長秀が没すると子の長重が跡を継ぎますが、彼は秀吉に難癖をつけられて若狭2郡(遠敷・三方)15万石に領国を縮小され、定重は越前府中城主に、吉晴は佐柿城主を経て近江佐和山城主に国替えされます。高浜城と大飯郡は山内一豊に授けられますが、彼はすぐ近江長浜城主に国替えされ、結局若狭3郡は丹羽長重が領有します。しかし天正15年(1587年)には若狭を取り上げられて加賀南部に減転封されました。
浅野長吉
代わって若狭国主となったのは浅野長吉(慶長3年/1598年頃に長政と改名)です。彼は秀吉の正室・寧々の養父である浅野長勝の婿養子で、血縁関係はありませんが秀吉の義弟として長く仕えてきた人物です。賤ヶ岳の戦いでは功績をあげて近江大津城2万石余を授かり、のち若狭国8万5000石を授かりました。文禄2年(1593年)には徳川家康への抑えとして甲斐国21万5000石に加増転封されますが、甲斐へは子の幸長が赴いています。
木下勝俊
代わって若狭国主となったのは木下勝俊です。彼は寧々の兄弟木下家定(杉原孫兵衛)の庶長子で、小早川秀秋らの異母兄にあたります。彼が領したのは遠敷郡・三方郡の6万2000石で、大野郡高浜城2万石は異母弟の木下惟俊(利房)が授かりました。浅野長吉に続いて身内を封じることで、要衝の若狭を豊臣政権の手の中に確保しようとしたわけです。勝俊の娘は家康の子松平信吉に嫁ぎ、秀吉が没すると勝俊は家康に従いました。
慶長5年(1600年)、家康は会津征伐にあたって勝俊を伏見城の留守役としますが、7月に宇喜多秀家ら西軍が攻めてくると、勝俊は伏見城を退去して京都へ逃げていきました。これは家康の重臣・鳥居元忠に疑いをかけられたためとも、豊臣家の軍勢に逆らうのをよしとしなかったためとも諸説ありますが、このために戦後は利房ともども改易されています。
京極高次
代わって若狭国主となったのは京極高次です。京極氏は近江佐々木源氏の流れを汲む名門武家で、足利尊氏の腹心佐々木道誉(京極高氏)以来幕府の重鎮として栄えましたが、高次の祖父高清・父高吉の頃には内乱で没落し、被官であった浅井氏を頼りとする有様でした。高吉は浅井家当主久政の娘を娶って高次・高知・竜子らを儲け、浅井家が滅ぶと信長に身を寄せ、竜子は武田元明に嫁ぎます。本能寺の変の時、高次は明智光秀・武田元明に呼応し近江長浜城に攻め寄せますが、光秀が敗れると柴田勝家に身を寄せました。
この時、武田元明の寡婦である竜子は秀吉の側室となり、柴田勝家が滅ぼされると兄弟である高次らの助命嘆願を行いました。これにより高次は許されて天正12年(1584年)近江高島郡2500石を授かり、2年後には5000石に加増されます。さらに九州平定での功績により高島郡大溝城主として1万石を授かり、大名に列しました。天正15年(1587年)には浅井長政とお市の方の娘・初を正室に迎え、天正18年(1590年)小田原征伐の功績により近江蒲生郡八幡山城主2万8000石を授かります。翌年に従五位下・侍従に叙任され、文禄4年(1595年)には近江大津城に移って6万石を授かり、翌年に羽柴氏・豊臣姓を賜って従三位・参議(宰相)に叙せられ公卿に列しました。また弟の高知もこの頃には信州飯田城主として10万石を授かっています。
京極高次はこの時33歳に過ぎず、さして武功があるわけでもないのに姉妹や正室の尻の七光り(閨閥)で出世したとして「蛍大名」と陰口を叩かれました。しかし関ヶ原の戦いに際しては西軍から東軍に寝返り、大津城に籠城して西軍を引き付け、自身は開城して剃髪出家したものの、東軍の勝利に貢献することとなります。家康は戦後に彼の功績を讃え、若狭一国を授けたのです。これより廃藩置県まで270年続いた小浜藩の誕生です。なお弟の高知は早くから家康に従って東軍に与し、戦後は丹後一国を授かりました。
◆京◆
◆極◆
【続く】
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