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【つの版】度量衡比較・貨幣235

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は若狭国の続きです。

福井県

◆若◆

◆狭◆


京極高次

 関ヶ原の戦いの後、家康より若狭国8万5000石を授かった京極高次は、翌年には旧領のあった近江国高島郡のうち7100石を加増され、9万2100石の大名となります。当初は若狭守護武田氏の居城であった小浜の後瀬山城(および麓の守護館)に入りますが、手狭であるとしてその北の雲浜に小浜城を新たに築き始めました。ここは西に若狭湾の支湾である小浜湾が開け、北に近江国今津方面から流れてくる北川、南に丹波方面から流れてくる南川があって濠をなし、海陸の交通の結節点にあたっています。後瀬山城と守護館もこの近くにありますから、古くから重要な地ではありましたが、小浜城はダイレクトに海に面する海城となり、城下町をその南北に広げたのです。

 またこの頃、京極高次は正室の初とともにイエズス会の宣教師からカトリックの洗礼を受けて入信し、キリシタン(キリスト教徒)となりました。父の京極高吉と母は天正9年(1581年)安土城下の修道院で受洗しましたが、高吉がその数日後に死去したため「仏罰だ」と噂され、子供たちには洗礼が授けられていませんでした。高吉の妻(洗礼名ドンナ・マリア)は秀吉の禁教令下にあっても信仰を堅持し、その影響で高次らも受洗するに至ったのです(秀吉の側室であった竜子は受洗せず)。父母の縁に加え、海上交易で栄えた若狭のために南蛮商人との取引を円滑ならしめんという打算もあったかも知れません。ただし家康は翌年に貴人のキリスト教入信を禁止したため、彼らの受洗は公にはされなかったといいます。高次は母マリアを若狭に招いて庇護し、小浜城と城下町の建設を進めましたが、完成しないうちに慶長14年(1609年)47歳で没しました。

京極忠高

 高次と初の間に子は産まれませんでしたが、侍女が儲けた庶子の熊麿がいました。彼は関ヶ原の戦いの時に大坂城へ人質として送られており、慶長8年(1603年)11歳で江戸へ赴き家康に拝謁、元服します。家康の子秀忠は初の妹・江を娶っていた縁もあり、烏帽子親として偏諱を授け、忠高と名乗らせました。慶長11年(1606年)には秀忠の娘初姫を正室に迎え、3年後に父が没すると17歳で跡を継ぎます。

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦し、豊臣秀頼の母淀殿(茶々)が忠高の継母・初の姉であることから、両軍の講和は忠高の陣において行われました。講和後は大坂城の外堀を埋め立てる工事の責任者となり、翌年の夏の陣でも活躍しています。寛永元年(1624年)に越前北ノ庄藩が減封されると、越前敦賀郡2万2000石が分与により加増され、小浜藩の石高は92100+22000=11万4100石に及びました。

 忠高は先代に引き続き小浜城の建設や城下町の整備、領内交通路の改善や河川改修を行い、代官の苛政を戒めるなど善政を敷きます。しかし正室の初姫と折り合いが悪くて子ができず、寛永7年(1630年)に彼女が没した時は臨終にも立ち会わず相撲見物に興じていたとされ、怒った秀忠は彼が葬儀へ立ち会うことすら禁じたといいます。

 寛永11年(1634年)、京極忠高は前年に無嗣断絶した堀尾家の後を引き継ぎ、出雲・隠岐26万石に加増転封されます。京極氏は南北朝時代から戦国時代初期まで出雲守護でしたから縁はありますし、石高の上でも倍増以上となります。秀忠は2年前に没していますし、家光が忠高の政治手腕を高く評価してのことで懲罰とは言えませんが、忠高は3年後の寛永14年(1637年)に45歳で急逝します。彼には跡継ぎの男子がおらず、甥の高和が末期養子として認められますが播州龍野6万石へ転封となり(のち讃州丸亀へ国替え)、高次以来の京極宗家は彼の子孫が継いでいくこととなります。

酒井忠勝

 代わって小浜藩主となったのは酒井忠勝です。酒井氏は三河松平家譜代の家臣で、忠勝の祖父正親は家康生誕時に臍の緒を切る役をつとめ、父忠利・伯父重忠は家康に仕えて活躍し、それぞれ武蔵国川越と上野国厩橋(前橋)の城主となっています。忠勝は秀忠・家光に仕えて老中とされ、10万石の大名となっていましたが、寛永11年に若狭・越前敦賀・近江・安房11万3500石に加増されて国替えされたのです(2年後に下野1万石加増)。譜代では唯一の国持大名で、近畿では井伊家の彦根藩に次ぐ大身です。これより廃藩置県まで14代240年間、酒井家は小浜藩主として存続します。

 忠勝は家光に信任されて幕政に参与することが多かったものの、小浜藩の統治もゆるがせにはせず、町奉行や代官を設置して支配体制を固めました。また税制や郷中法度を定め、五人組制度を導入し、治安維持、水利施設の整備、植林や開墾の奨励、人身売買の禁止などを布告しています。慶安4年(1651年)に家光が薨去すると、後を継いだ家綱に仕えました。

 翌承応元年(1652年)、若狭国遠敷郡新道村(現若狭町新道)の庄屋であった松木庄左衛門が磔刑に処せられています。小浜では古来年貢として大豆を徴収しており、もとは1俵あたり4斗でしたが、京極高次が藩主になると小浜城の建設費用として増税し、大豆1俵あたり4斗5升に引き上げました。京極忠高を経て酒井忠勝の代になってもこの税制は維持されたため、寛永17年(1640年)若狭国内252村の名主が集まって陳情を行います。しかし陳情は認められず、慶安元年(1648年)に庄左衛門ら総代20名が逮捕投獄され、厳しい吟味によって総代たちは次々と屈服しました。ところが庄左衛門だけ屈しなかったため、藩はやむなく大豆納を1俵あたり4斗に戻すことに応じ、代わりに磔刑に処せられたといいます。人々は彼を義民として称えました。

 忠勝には嫡男の忠朝がいましたが、ゆえあって廃嫡・勘当されており、四男忠直に明暦2年(1656年)70歳で家督を譲り隠居した後、寛文2年(1662年)7月に76歳で逝去しました。同年5月には近江・若狭を中心とする大地震が発生し、京都・畿内に大きな被害が出たほか、小浜城も破損しています。

酒井忠直

 忠直は藩政においては父の政策を受け継ぎ、新田開発や治水、震災からの復興に尽力しています。若狭国東部の三方郡には「三方五湖」と呼ばれる5つの湖がありましたが、寛文地震によって地面が隆起し、湖水が溢れて近隣11村1500石の田が浸水しました。忠直は排水のため運河を開削することとし、三方郡奉行の行方なめかた久兵衛正成と普請奉行の梶原太郎兵衛を総奉行に任じて普請を命じます。

 この工事には2年の歳月と銀99貫余(金1659両余)が費やされ、総人夫数は22万5000人に達し、寛文4年(1664年)に2つの湖を繋ぐ運河「浦見川」が完成しました。翌年には耳川の水を湖に注ぐ荒井用水が完成し、これらの周辺には広大な新田が開拓されることとなります。

 寛文8年(1668年)兄忠朝の子の忠国に1万石(安房国平郡内4500石、越前国敦賀郡内5500石)を分与し、支藩である安房勝山藩を立藩しました(廃藩置県まで9代200年間存続)。

 寛文12年(1672年)には姉の子である堀田正信を預かっています。彼は下総佐倉藩主でしたが、12年前に突如幕政を批判する文書を提出して無断で帰国し、乱心したとして改易され、弟の脇坂安政が治める信州飯田藩に預けられていました。しかし安政が播州龍野へ国替えされたため、母方の叔父である忠直に預けられたのです。ところが5年後に正信が密かに配所を抜け出して京に赴き、清水寺や石清水八幡宮に参拝する事件を起こしたため、忠直は責任者として閉門処分を受け、正信は阿波徳島藩へ預けられました。

忠隆以後

 天和2年(1682年)7月、酒井忠直は53歳で逝去し、子の忠隆が跡を継ぎました。彼は父の遺言により弟の忠稠ただしげに越前国敦賀郡内および近江国高島郡内の合計1万石を分与し、支藩の敦賀藩(鞠山藩)を立てています。ただし敦賀郡の大部分は小浜藩領で、藩主は江戸に定府しており、陣屋には数人の役人しかいないという状態でした。

 忠隆は在位5年にして36歳で没し、子の忠囿ただそのが17歳で家督を相続します。彼は在位20年にして宝永3年(1706年)に37歳で没し、後継ぎがなかったため養嗣子として忠音ただおとを迎えました。

 彼は敦賀藩主酒井忠稠の次男で、家督を相続した時は17歳でした。10年後に徳川吉宗が将軍に就任すると奏者番・寺社奉行・大坂城代を経て老中まで出世しますが、享保20年(1735年)急病により46歳で逝去しました。同年には小浜一帯を大洪水が襲い、連鎖して飢饉も相次ぐようになります。

 忠音の嫡男忠通と忠竜は夭折していたため、三男の忠存ただあきらが跡を継ぎますが、彼も在位5年にして21歳で夭折し、弟の忠用ただもちが跡を継ぎます。彼は奏者番・寺社奉行・大坂城代を経て京都所司代まで出世しますが老中になれず、宝暦7年(1756年)家督を弟の忠与ただよしに譲って隠居します。彼は宝暦12年(1762年)42歳で没し、子の忠貫ただつらが11歳で跡を継ぎました。

 この頃、小浜藩の財政は危機的状況にあり、領民は困窮して百姓一揆を起こすありさまでした。こうした中で忠貫は教育に力を注ぎ、安永3年(1774年)には藩校・順造館を創設しています。同年には小浜藩医で蘭学者の杉田玄白中川淳庵が『解体新書』を刊行し、将軍家に献上されました。

 杉田氏は近江源氏佐々木氏の支族で、もと真野氏・間宮氏と称し、武蔵国久良岐郡杉田村(現神奈川県横浜市磯子区杉田)に住んで後北条氏に仕え、のち杉田氏を名乗りました。玄白の曾祖父を八左衛門忠安といい、藤井松平家(下総古河藩主)に仕えて300石取りの物頭を務め、その次男甫仙は蘭方を学んで古河藩の医師となりました。しかし元禄6年(1693年)古河藩が藩主の乱心で改易となり、甫仙は浪人となったのち小浜藩に召し抱えられたといいます。甫仙の子は同じ号を名乗り、その子が玄白です。

 その後は天明の大飢饉への対処や蝦夷地の防衛任務に駆り出されるなどして財政はさらに圧迫され、養嗣子(敦賀藩主家)の忠進ただゆき、忠貫の実子の忠順ただよりが跡を継いだ頃には30万両もの借金を抱えていました。忠進の子の忠義ただあきは幕末に京都所司代に就任しますが、安政の大獄に協力して自藩出身の志士・梅田雲浜らを逮捕したことから尊王攘夷派に恨まれ、一時娘婿の忠氏に家督を譲って隠居しています。

 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、忠氏は新政府軍に降伏して隠居し、養父の忠義(忠禄)が藩主に返り咲きました。明治3年(1870年)小浜藩と鞠山藩が合併すると、忠禄は鞠山藩主の酒井忠経に知藩事の位を譲り、明治6年(1873年)に61歳で世を去りました。子の忠道、孫の忠克、曾孫の忠博は伯爵に叙せられ、子孫は現代まで存続しています。

◆若◆

◆狭◆

【続く】

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