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「何も起きていない」観測記録|第九回|自分を生きている

第一回|何も起きていない

前回|第八回|戻れる場所



朝、目が覚めたとき、私は特に何も思わなかった。

眠かったし、少し身体が重い気もした。

夢の内容は覚えていない。
覚えていないことを、残念とも思わなかった。

カーテンの隙間から入る光は、いつもと同じ角度だった。

今日が特別な日だ、という感触はない。
何かが始まる予感も、何かが終わった感じもない。

ベッドから出て、顔を洗って、コップ一杯の水を飲む。

冷たさを確かめるでもなく、
味を意識するでもなく。

ただ、その動作が、続いていた。

外に出ると、人は相変わらず多かった。

駅までの道。
信号の前で立ち止まる人たち。
スマートフォンを見ながら歩く人。
急いでいる人。急いでいない人。

歩く速度も、交差点の流れも、信号の待ち時間も、
何ひとつ変わっていない。

私も、その流れの中に混ざる。

遅れないように歩き、
邪魔にならない位置を選び、
前に進む。

無理に合わせている感じはない。
かといって、自分のペースを主張しているわけでもない。

自然に、そこにいる。

けれど、以前と同じか、と聞かれたら、
少しだけ、違う。

説明できる違いじゃない。
比べて分かるような差でもない。

ただ、歩いているとき、
自分の足が、ちゃんと地面に触れている感じがあった。

浮いていない。
踏みしめてもいない。

ただ、触れている。

仕事をしているときも、同じだった。

考えることは考える。
判断もする。
人と話す。

正解を求められる場面もあるし、
分かりやすさが必要なときもある。

私は、それに応じて、ちゃんと対応する。

頭は動いている。
言葉も出る。

無理をしている感覚は、ない。

かといって、力が抜けすぎているわけでもない。

集中している。
でも、張りつめてはいない。

ただ、自分がどこに立っているのかが、
前よりはっきりしている。

昼休み、一人で座っているとき、
ふと、考えが浮かんだ。

「私は、何かを得たのだろうか」

少し考えて、
すぐに、その問いを手放した。

得た、という言い方は、
どこか違う。

何かが増えたわけじゃない。
知らなかった知識を、手に入れたわけでもない。
新しい能力が、使えるようになったわけでもない。

むしろ、
余計なものが、前に出なくなっただけのような気がした。

以前の私は、
頭のどこかで、ずっと止まらなかった。

変じゃないか。
ずれていないか。
理解されるか。

その確認が、
頭のどこかで、止まらずに続いていた。

今も、それがゼロになったわけじゃない。

気になるときは、
ちゃんと気になる。

「私は大丈夫なのかな」
そう思って、揺れる。

でも、その揺れの中に、
長くはいなくなった。

「そう思う自分がいる」
それだけで、立ち止まれる。

修正もしない。
否定もしない。

ただ、横に置く。

誰かと話していて、
言葉が少し詰まったとき。

以前なら、慌てて整えようとしていた。

今は、一呼吸置く。

沈黙ができる。

沈黙ができても、
壊れないと、知っているから。

沈黙の中で、
自分の中に何が残っているかを見る。

それが、分からなくてもいい。

分からないまま、
次の言葉が出てくることもある。

家に帰ると、部屋は静かだった。

靴を脱いで、
荷物を置いて、
椅子に座る。

部屋の空気は、朝と変わらない。

特別な感情は、湧いてこない。

寂しいとも、
満たされているとも、
言い切れない。

でも、
ここに戻ってきた、という感覚はある。

私は、自分がどこに戻ってきたのかを、
説明しようとしなかった。

説明しなくても、自分には分かる気がしている。
——そう思いたくなっているだけかもしれない。

ときどき、考えることはある。

もし、この状態を知らないまま、
生き続けていたら、どうなっていただろう、と。

知らないままでも、
「これが普通」だと思って、
生きていたのかもしれない。

私は、
「自分を生きている」
という言葉が、あまり好きじゃない。

どこか、立派すぎる気がする。

目標のようで、
達成項目のようで。

私は、
何かを成し遂げたわけじゃない。

人を救ってもいない。
大きなお金を稼いだわけでもない。

ただ、
自分の感覚から、逃げなくなっただけ。

逃げなくなった、というより、
逃げる理由が、なくなっただけかもしれない。

逃げているつもりもなかったし、
逃げていることにも、気づいていなかった。

怖い、という感覚は、なかった。

でも、今なら分かる。

たぶん、
怖かったのだと思う。

正しさは、今も外にある。

社会の基準も、
他人の期待も、
なくなってはいない。

私は、それらと、
距離を取りながら、生きている。

近づきすぎず、離れすぎず。

その距離感を、自分で選べている——
つもりでいる。

それが、
いちばん大きな違いだった。

何かを決めたわけじゃない。

生き方を変えた、
という実感もない。

でも、
自分が立っている場所だけは、
他人の正解では、決めなくなった。

迷うときもある。
分からなくなることもある。

答えは出ない。
たぶん、これからも、はっきりした答えは出ない。

それでも、戻れてしまう。

説明される前の自分に。
名前をつける前の感覚に。

私は、この状態から
離れないようになったのかもしれない。

この状態を守る、というほど、
強い意志もないけど。

私の物語には、
「何も起きていない」。

ここには、事件も、
答えも、
成長もない。

あるのは、
同じ人間が、同じ世界に立ちながら、
自分との距離だけを、
少しずつ変えていった、その記録だけ。

私は、今日も、
特別なことはしない。

自分の感覚を、
まだ名前をつけないまま、
そのまま置いて、一日を終える。

それでいいのかどうかは、
まだ、分からないまま。


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