見出し画像

「何も起きていない」観測記録|第一回|何も起きていない

特に困っていない。でも、何かが噛み合っていない。
そう感じたことがある人に向けて書いています。

これは物語ではありません。

同じ人が、同じ世界に立ちながら、
自分との距離を少しずつ測っている記録です。

ここに残っているのは、
何も起きていないはずの中で、
ほんのわずかにずれていく感覚だけです。



目覚ましは鳴らなかった。
正確に言うと、鳴ったのかもしれないが、私はそれを覚えていない。
起きたら朝で、カーテンの隙間から薄い光が入ってきていた。それだけだ。

体調は悪くない。
特別いいわけでもないけれど、支障はない。
どこかが痛むわけでも、熱があるわけでもない。
今日を休む理由は、見当たらなかった。

ベッドから起き上がって、足の裏を床につける。
冷たい。
その冷たさに、少しだけ安心する。
感覚がちゃんとある。

洗面所までの数歩、やけに身体が重く感じる。
疲れているわけでも、眠気が強いわけでもない。
ただ、身体にかかる重さだけが、いつもよりはっきりしている。
重力を、意識している、という感じに近い。

洗面台の前に立って、蛇口をひねる。
水の音だけが、先に耳に入る。
手を濡らして、すぐに引っ込める。
冷たさは想像どおりで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
特別な感想は出てこない。
触れた、という事実だけが残る。

キッチンに行って、コップに水を入れる。
半分飲んで、残りを流しに置いた。
朝食をとるかどうか、少しだけ迷って、結局やめた。
迷った理由はよく分からない。
考えた、という感覚だけがあって、結論はなかった。

窓の外を見る。
天気は悪くない。
だから気分がいい、ということにもならない。
悪くない、としか言えない感じが、どこかに残る。

洗面所に戻って、鏡を見る。
鏡に映る自分は、昨日とほとんど変わっていない。
顔色も普通で、表情も特別なものはない。
顔を洗って、髪を整えれば、いつもの自分になるのだろう。

誰かに会えば、たぶん「元気そうだね」と言われると思う。
実際、元気だと思う。
少なくとも、困ってはいない。

なのに、どこかが引っかかっている。

感情というほどではない。
問題として取り上げるほどでもない。

ただ、何かが噛み合っていない。

原因を探そうとしても、探す場所がない。
仕事がうまくいっていないわけでも、
人間関係で揉めているわけでもない。
環境に不満があるわけでもなかった。

「特に問題はありません」
そう言えば、たぶん通る。

だから、この引っかかりは、いつも後回しにされる。

靴を履いて、家を出る。
ドアを閉める音が、思ったより大きく聞こえた。
鍵をかけたかどうか、一瞬だけ不安になって、
確認して、安心する。
鍵をかけた自分が、別に存在していたかのように感じる。

電車に乗る。
車内はいつもと同じ匂いがする。
誰かの柔軟剤と、金属と、少しの湿気。
混ざり合って、どれでもない匂いになる。

周りの人たちは、眠そうな顔でスマートフォンを見ている。
目線を上げている人はほとんどいない。

誰も、困っていないように見える。
私も、その一人だ。

電車の中で、立ったまま揺られている。
つり革には掴まっているけれど、どのくらい力を入れているのかは分からない。
気づいたときには、手首のあたりに微妙な緊張があった。
意識すると、抜ける。
しばらくすると、また戻る。
その繰り返しを、眺めていた。

立っている位置が、ほんの少しだけ定まらない。
電車はもちろん揺れているが、倒れそうでもない。

ただ、自分だけ、
ほんの数ミリ、立ち位置がずれている気がする。

この感覚を、これまで何度も無視してきた。
忙しくしているときや、誰かと話しているときは、
一時的に消えるからだ。

消える、というより、奥に押し込まれる。

押し込まれたままでも生活は続く。
仕事もできるし、笑うこともできる。
だから問題にはならない。

ただ、静かになると、また戻ってくる。
今日は、その戻り方が少し早かった。

ホームにつくと、エスカレーターに並ぶ列ができている。
自分は横の階段をのぼる。

足元を見ていると、自分が速いのか遅いのか分からなくなる。
下から見上げたときは億劫だったが、思ったより早く着いた。

エスカレーターに並んでいた人たちは、まだ下にいる。
動いているはずなのに、止まっているように見えた。

会社のビルのエントランスに入ると、空調の匂いが変わる。
外より少し乾いていて、少しだけ人工的だ。
遅刻せずに着いたことに、かすかな安心感がある。
エレベーターを待つ列に並ぶ。

中は静かで、誰も何も言わない。
同じビルで過ごしている人たちなのに、名前も、声も、ほとんど知らない。私も何も言わず、前を向いて立つ。

デスクに座ってパソコンを開く。
メールがいくつか届いている。
返信が必要なものと、そうでもないもの。

仕分けはできる。
作業もできる。
画面の中の文字は、ちゃんと読める。

なのに、
どっちがパソコンを使っているのか、
使われているのか分からなくなる。

会話もする。
「おはようございます」と言って、
相手も「おはよう」と返す。

特別なことは起きない。
私は、普通の顔をして立っている。

スマートフォンが震えて、通知が一件。

開いて、内容を確認する。
返す言葉は、画面の手前で止まる。

ここではない場所で、誰かの世界が動いていることだけが、静かに流れてくる。
私はそれを受け取っているのに、どこにも繋がっていない。

夕方になって、仕事が終わる。
朝の行動を巻き戻すかのように、家に戻る。

部屋は出てきた時とまったく同じなのに、少しだけ冷たい。

今日という日が、まだ自分の中で終わっていない気がするのに、身体だけは重い。

そのまま布団に入る。

今日も、何も起きていない。
このあとも、たぶん何も起きない。

布団の中で、今日の断片が、浮かんでは消える。

そのうち、瞼が重くなってくる。

私はこの「何も起きていない状態」を、なぜか、しっかり覚えていた。



この記録は、続きます。

第二話|どこにも届かない 


いいなと思ったら応援しよう!