ポジティブな「テロ」として、「本屋」をつくること
先週は久しぶりにスケジュールがかなり厳しくなってしまい、あまりこのnoteを更新できなかったので、今週これから取り戻したいと思う。このnoteは、僕の思考のメモ代わりというか、自分で前の日に考えたことを整理するために書いているという側面が大きいのだけど、おかげで、かなり書きたいことが溜まってしまった。いろいろ迷ったのだが、まずはやはり先週末の宇野書店のオープニングイベントの振り返りから書いていきたい。
「宇野書店」のオープンから1週間経って、予想外にたくさんの人に来ていただいて、僕もスタッフの皆さんも嬉しい悲鳴をあげている。
靴を脱いで、人工芝のフロアに上がるというコンセプトについては、はっきり言って賭けだったのだけれど、思いのほか好評でとても嬉しい。選書に関しても、本当にいろいろ迷ったのだけれど、かなり今の僕の視界をそのまま反映したものになっている。もう少し棚が置ければ、この辺のジャンルをもっと強化したいというのも実はたくさんあるし、並べたかったけれど、そもそも取り次ぎに在庫がなく、泣く泣く断念した本も死ぬほどある(選書をしていて、いちばん辛かったのはこの点だ)。
お客さんにもいろいろいて、やっぱりいちばん嬉しいのは、別に新刊でも何でもないけれど、僕が好きな本をこの「宇野書店」で見初めて買って帰ってくれたことをSNSの投稿やレジでのやりとりから知ったときだ。別に欲しいと思っていなかった本に人が偶然出会うという、実店舗の本屋に今残された最大の機能に特化したのがこの「宇野書店」なので、ここは今のところ狙い通りに機能していると思う。
その一方で残念なのは、お客さんの中に数人だが、「僕と仲の悪い〇〇さんの本がちゃんと置いてあるんですね」とか「意外と少ないんですね」とか、そういったことをニヤニヤしながら聞いてくるタイプの読者がいることだ。僕は「本に罪はない」と思っているので、僕が内容を評価すれば、どれだけ仲の悪い人の本でも、僕が自分の著作で批判している相手であっても普通に「宇野書店」に入れている。その程度のことがわからずに、人間関係でしか物事を考えられないような人間に対しては、僕は軽蔑しか感じない。そもそも業界の人間関係を話題にしてしまう人間というのは、議論の中身に頭が追いつかないので、代わりにバカでもわかる人間関係のことを積極的に口にして「自分もわかっている風」の気分に浸っているだけだ。そういった人は、せっかく書店に足を運んだのだから、一度謙虚に妥当な自己像に立ち返って(ここは人間とのコミュニケーションの場ではないので、見栄を張る必要はない)、そこで出会った本ときちんと向き合ってほしいと思う。
で、オープニングイベントの話だ。イベントは、内山晋太郎さん、篠田真貴子さん、三宅香帆さんと僕の4人でのトークセッションを行った。テーマは「本」と「本屋」の社会的な機能についてだ。当日はそこから広がって今日における教養や情報と人間との関係についてかなり深い議論ができたと思う。詳しいことはPLANETSのYouTubeチャンネルに上がっている(前半は無料公開している)ので、そちらをご覧いただきたい。
ちなみにこのチャンネルでは宇野書店の動画をプレミアムコースで随時公開していく予定だ。金曜日の國分功一郎さんのイベントは満席だが、チケットが買えなかったという人も、こちらに後日動画がアップされるので、そこで見てほしい。今、発売中の安宅和人さんのイベントも同じように後日、動画をアップロード予定だ(将来的にはこのチャンネルでのイベント生中継も検討している)。
で、今日はこのイベントを通じて考えたことを、簡単にまとめておきたい。
僕が話したことは、僕にとって「本屋をつくる」というのは良い意味でのテロリズムのようなものだということだ。
人間というのはどうしようもない生き物で、ものすごく濃密で洗練された他人の話を聞くよりも、ものすごく安直で、ありふれた「自分の話」をするほうが気持ちよくなってしまう。
そのためにSNSのような、誰もが簡単に不特定多数に発信できる武器を手に入れた途端に、読むことよりも書くことが楽しくなってしまう。そしてほとんどの人は、書くに値することを考える力がないために、タイムラインを眺めて「今この人になら石を投げても構わない」というターゲットを選び、集団リンチの快楽を獲得するくらいのことしかできない。この状況に、一人の批評家として、そして出版人としてどのように抵抗しようかと、僕はずっと考えてきた。
たとえば5年前に僕が提唱した「遅いインターネット」という運動もその一環だ。
あの頃から僕がずっと考えてきたのは、これは一種のテロリズムのようなものだということだ。人間の「聞く」よりも「話す」ことを好む傾向は基本的に変わらない。正確に言えば、人間は双方向のコミュニケーションを本能的に好み、一方向のコミュニケーションを好まない。それでも僕たちが本を読んでいるのは、そのマゾヒスティックな、圧倒的な快感を経験的に知っているからだ。
他人が吐いた言葉に、それも必ずしも自分という個人に向けられたものではない、不特定多数に向かって書かれた言葉に、森の中で虫に刺されるように、花の匂いに幻惑されるように襲われて、そして一方的にその心身を侵略され、変えられてしまう――この「変身」の快楽こそが、僕は読書の本質だと思っている。
だから、このSNS以降のインターネット社会がもたらした状況、すなわち常にどこかの誰かと双方向のコミュニケーションを取っている――「界隈」や「業界」やSNS上の想像上の読者の眼を気にしている――状態を一時停止することは、テロリズムのようなものだと僕は思うのだ。
テロリズムの本質とは、制度のハックだ。比較的小規模でも象徴的な場所でそれを行うことで、敵国の社会に動揺を与え、敵国のメディアをハックし、そのことによって効率的に自己の存在をアピールする。それがテロリズムの論理だ。僕はどうすればSNS的な双方向のコミュニケーション、タイムラインの潮目を読み合う不毛な相互承認・相互評価のゲームを一時停止できるかをずっと考えてきた。そしてたどり着いた結論の一つが、実空間をプロデュースすることであり、最近の僕の言葉で言えば「庭」を作ることだった。
実際のテロリズムのように一過性で消費されてしまうものではなく、街の機能として、SNS的な人間同士の相互評価や承認の連鎖ではなく、人間が孤独に物事と向き合える場所を、人間が本という物事に襲われて、変身してしまう場所というものをこの手で作り上げること、そしてそれを常時運営して日常化していくこと――これが僕の考えるポジティブなテロリズムなのだ。どんなにおしゃれでSNSでシェアされやすい場所ができたとしても、そこが常にその場の中心人物やボスの嫌いな人の悪口を言って結束を固めるような陰険な飲み会のような場所だったら意味がない。そこはSNSと変わらない。書店は、特にこの「宇野書店」は、そういった共同体からの承認を効率よく獲得するために、他の誰かの顔色ばかり伺っている場所では絶対にあってはいけないと思うのだ。
思春期の僕がいちばん影響を受けた作品の一つが、1993年公開の『機動警察パトレイバー2 the Movie』だ。
これは、東京で発生した大規模テロを描いた作品だ。PKOで、部下を死なせてしまった自衛官が、現代日本を生きる人々に「戦後」というものを本質的に再考させるために行動を起こす。紛争地域に派遣されていた彼は、自分の部隊がゲリラに襲撃されたとき、憲法9条の解釈をもとに反撃することを許されなかった。その結果、部下は全滅し、自分だけが生き残った。そして生き延びた彼は、東京を舞台に戦争状況を再現することで、平穏に暮らす人々に自分たちの享受する「平和」とは何か、そして「戦後」という長すぎた時代について再考を促そうとするのだ。
その手段は、人々のコミュニケーション手段を破壊するというものだった。まず象徴的に「橋」を破壊し、そして共同溝を爆破して電話やインターネットを遮断する。さらに放送塔などを破壊して放送メディアを遮断し、最後にECM、つまり軍事用の電波妨害装置で無線を封鎖する。こうして人々のつながりを断つことによって、人間を強制的に情報メディアから遮断し、擬似的に孤独にする。そうすることで、国民一人ひとりに内省を促す――それが彼のテロだった。
我地に平和を与えんために来たと思うなかれ
我汝らに告ぐ
然らずむしろ争いなり
今からのち
一家に五人あらば
三人は二人に二人は三人に分かれて争わん
父は子に、子は父に
母は娘に、娘は母に
これは劇中で犯人が引用する新約聖書の一節だ。ナザレのイエスが、自分たちの教団、つまり初期キリスト教に加わると、家族や地域の共同体から孤立し、やがてそういったものそのものを破壊してしまうであろうことを宣告した言葉である。
原始キリスト教は、すっかりユダヤ人の共同体と一体化してしまった当時のユダヤ教に対する批判から始まった。本来の一神教の教えは、神の前ではいかなる人間も平等であるということだった。どこの家族の出身だろうが、どこの共同体の出身だろうが関係なく、神の前では平等である――それが本来の一神教の教えだった。
しかしこの頃のユダヤ教は既に堕落し、既存のユダヤ民族の共同体と一体化していた。そして既存の共同体の秩序を裏付けるための戒律が支配する場所になっていた。これに対して、ナザレのイエスは厳しい批判を加え、当時差別されていた娼婦や徴税人、あるいは異民族に対して広く門戸を開いた教団を作り上げた。そこでは、神の前ではすべての人間が、その性別や職業や共同体のメンバーシップに関係なく平等であることが説かれた。だからこそ、イエスは自分の教えは既存の家族や共同体を破壊するものであることを宣言しなければならなかったのだ。
やがてイエスの教団は弾圧され、イエスも殺された。しかしイエスの教えは、当時のローマ帝国の中に広まり、後のローマ皇帝はポピュラリティーの獲得のための政策の一環としてキリスト教を公認した。そして数世紀のうちに、キリスト教はローマ・カトリックとして西ヨーロッパの農村共同体と一体化し、つまり既存の社会秩序と一体化して、再び共同体のための宗教となってしまった。そして1000年以上経って、今度はマルティン・ルターが本来の一神教の姿に立ち戻るよう要求を始める。一神教的な世界宗教の歴史とは、この反復だ。
これは1950年代〜60年代に吉本隆明や柄谷行人がよく引用していた聖書のエピソードとそれについての議論なのだが、おそらく押井守も彼らを経由してこのエピソードとそれにまつわる議論を知ったに違いない。そして中学校3年生のとき、押井守経由でこのエピソードを知った僕は、あの頃からずっと、自分の考える世界の真実を世界に突きつけるための「テロ」のようなものをやってみたいと思っていた。
もちろんそれは、いわゆる軍事的な破壊行為を伴うものではない。そうではなく、もっと肯定的なものをやりたいと思っていた。「〜ではない」という否定の形ではなく、「〜である」という肯定のかたちで、それをやりたいと思ったのだ。ただその方法が、若い頃の僕にはよくわからなかった。そしてあれから30年以上の時間が経って、ようやく僕は都市の中に、自分の考える人間と物事との理想的なコミュニケーションが発生する場所、つまり「庭」を作ることこそが、そのポジティブなテロリズムなのではないかと考えるようになった。そして僕は本屋を作ることにしたのだ。
今、SNSや居酒屋のようなコミュニケーションスペースで氾濫しているのは、「とにかく自分の話を誰かに聞いてほしい」という欲望の連鎖だ。それはその人に一時的で即効性のある承認を与えるかもしれない。しかし前述したように、自分の話をたっぷり聞いてもらえるという感覚は、人間に即効性の高い麻薬のような安心感を与える一方で、人間の心をとても貧しくさせる。そしてそれはカルトが洗脳のために用いる手法の第一歩でもある。
今の世の中で本当に必要なのは、むしろ共感を前提としない一方向のコミュニケーションである。柄谷行人的に言えば、それは「教える」「学ぶ」といった関係の間に発生する一方向のコミュニケーションである。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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