常設展のススメとすごいぞ舎密局!(なんて読む?🙄)
・はじめに〜常設展のススメ〜
美術への愛知りそめし紅顔の美少年だった時分には特別展(企画展)にばかり目を奪われていたものだが、大人になっていよいよ愛とはなんなのかわからなくなってきたけふこのごろ常設展(コレクション展)のおもしろさに目を見開かされつつある。若者は学割を生かして美術館と映画館に金を落としまくれ!大人は常設展へGO!
というわけで、ブンパクこと京都文化博物館のフィルムシアターに溝口健二監督の『雨月物語』を見に行ったついでに常設展へ。老若男女人種国籍すべてを超越してお客さんがテトリスになって同じ色のTシャツを着た人たちが次々消えていた特別展『鬼滅の刃展』を華麗にスルーしつつ。アニメ関連の展示も頻繁に行っているブンパク、一昔前には『西尾維新展』に足を運んだことを思い出すが、そうしたライトな展示を特に学生の長期休みにぶつけて調達した資金をシュヴァンクマイエルのオブジェ作品に焦点を当てた展覧会(今でも記憶に残っているほど最高だった!)などシブい企画に回してくれるバランス感覚が魅力個人の見解です。
さておき、館内のフィルムシアターでは、古い日本映画を中心になんと1本500円で映画が見れる!本当は金のない若者こそがこうした文化施設や、京都国立近代美術館で定期的に催されるNFAJ=国立映画アーカイブの上映イベントなどの機会を利用すべきなのだが、「博物館や美術館で映画が上映されている」という事実そのものが認知されていないせいか、自分が学生だった頃から現在に至るまで、この手のイベント会場はいつも決まって一面の銀世界。白髪頭とグレースーツと樟脳の臭いがズラリと居並ぶ有様である。若者よ!我とともに雪景色を染める墨汁の一滴となれ!
ちょうど祇園祭の最中だったためか(府外の皆さんへの周知度がどの程度のものかわからないが、日本三大祭りのひとつたるあの神事は1ヶ月ほどかけて毎日執り行われるのだ)『祇園祭と京都の歴史』的な展示をやっていた。『鬼滅の刃』展とは対照的に、こちらのお客さんはいわば少数精鋭、多くが一人客で、観光客と思しき外国人の方が熱心にガラスケースに見入っているさまが印象的。
・常設展と特別展の違い
ところで、意外とちゃんとわかってない人も多いような気がするので、ここらで常設展と特別展の違いやそれぞれの特色を説明しておこう。
“常設”展ゆうからにはずーっと一緒の変わり映えのせん展示内容なんかなー思たら全然ちごて、ちょいちょい中身が入れ替わってたり季節ごとに新たなテーマが設けられて全体が再編成されてたりするから気をつけろ!そーゆー意味では「コレクション展」という別称の方が実態に即しているのかもしれない。よーするに、特別展(企画展)みたいに国内外いろんなとこから作品を借り受けてくんのとちごて、自分とこの館が保有してるコレクションだけを使って展示を構成してますよ〜、というのがコレクション展=常設展の意味なのだ。
・関西常設展の思ひ出
が!そのコレクションとて一定不変ではない。寄贈や買い上げによってどんどん増えていくからますます気をつけろ!
以前京都市京セラ美術館(旧京都市美術館)になにかの特別展を見に行った際、学芸員のお姉さんに「ちょうど先日ウチに大口の寄贈があったばかりでして。今ならピカソやゴヤの版画作品をご覧いただけますよ」と促され、常設展へ。はたして「大口の寄贈」とは実業家・零三郎(れいさぶろう)が一代で築き上げた世界からも注目を浴びているコレクション、通称“ZERO COLLECTION”の一部であった!
零は複製品であるため絵画と比べて安価で購入できる版画を中心に買い集めていたそうで、今般の展示においても、ピカソやゴヤ、珍しいところではロートレックなど名だたる巨匠たちの版画作品を50点ほど見ることができた。特にゴヤの版画代表作『ロス・カプリチョス』連作、中でもみんな大好き『理性の眠りは怪物を生む』(ガラスケースに入れられて特別扱いになっていた)を生で見れたことに感動!

↑当日の展示内容を詳細に記録した写真日記。が、今改めてGoogle検索したら「零三郎」でも「zero collection」でも自分が書いたこちらの記事以外1件もヒットがなく、大いに戸惑っている。どういうこと?僕がなにか派手な記憶違いをしているのか?
他にもリニューアルオープン前の滋賀県立美術館にて、とある特別展にしょっぱさを感じた帰り、ふらりと寄った常設展でコーネルの箱がこともなげに展示されていて飛び上がったり、京都国立近代美術館の同じような帰路にエルンストのロプロプやルオー数点を発見して歓喜したりと、特別展を遥かに上回る特別さを持った常設展に巡り会う機会も珍しくないのだ。美術狩人(アートハンター)たちよ、ゆめゆめ油断めさるな!
なお、滋賀県立美術館は1992年に日本最初のコーネルの回顧展を開いた一事が伝説として語り継がれており、その関係からかコーネル作品を幾つか所蔵している模様。京都国立近代美術館はデュシャン関連の展覧会やイベントをこれまでに幾度も開催しており、ダダ・シュルレアリスム系のええもんをぎょーさん持ったはる。
・美術館の前についてる「近代」「現代」ってなんなの?
ちなみに、美術館の前についてる「近代」やら「現代」やらってなんなの?現代に存在しているという意味では全部現代美術館なんじゃないの?とつい考えてしまいそうになるのだが、さにあらず。これは館設立時に掲げられた作品収拾の目的や理念を表しているのだ。即ち、近代美術を中心に収拾・展示を行うのが近代美術館(ゴッホ、ピカソまで)、現代美術(デュシャン以降)を中心に収拾・展示を行うのが現代美術館ってわけ。このあたり、美術で区切らず館で区切って覚えておくとわかりやすい。近代美術/館。現代美術/館。ね?
もっとも、京都国立近代美術/館に現代美術そのもののデュシャンやダリなどダダ・シュルレアリスム系の作品が多く収蔵されていることからもわかるとおり、これらは厳密な区分けではなく、あくまでスローガンのようなもの。
・京都文化博物館の常設展を見に行ったら大収穫があった話
というわけで、ようやく本題。
『祇園祭と京都の歴史』的なタイトルのブンパクの常設展に行ってきたら個人的にめちゃくちゃ収穫あったよ〜という話なのだった。
特におもしろかったトピックが2つ。
①京都における映画発祥の歴史に関する展示
②時の明治政府肝煎りで京都に建設された施設“舎密局”に関する展示
まずは①から。
京都は俗に“日本映画発祥の地”などと呼ばれる通り、古くから映画との関わりが深い。
映画というメディアの公式の誕生日は1895年12月28日、パリのグラン・カフェの地下1階にあったダンスホール、通称“インドの間”にて、リヨンで感光剤の工場を経営する父を持つオーギュストとルイのリュミエール(フランス語で“光”を意味する!)兄弟が、一度に一人しか画面を覗き込むことのできなかったエジソンのキネトスコープを多人数同時視聴が可能なように改良したシネトマトグラフという装置の売り込みを兼ね、自分たちの工場から出てくる労働者の姿を固定カメラで撮影した世界初の実写映画『工場の出口』を含む計10本の短編フィルムの上映会を催した時点に遡る。
商才に秀でていた二人はその後リュミエール協会を設立、世界中にカメラマンを派遣し、膨大な数の記録フィルム=“教育映画”を世に遺した。その中には京都をはじめとする当時の日本の映像も含まれている。
・日本映画発祥の地、京都
さて、映画誕生翌年の1896年、パリ万博の視察と商用でパリを訪れた実業家・稲畑勝太郎(いなばたかつたろう)は、フランス留学時の級友でもあった(!)リュミエール兄弟からシネマトグラフの興行権とフィルムを買い受け、リュミエール社のカメラマンのコンスタン・ジレルを伴って帰国。さらに翌1897年(明治30年)の1月下旬から2月上旬にかけ、雪の降る夜、京都電燈株式会社の中庭に特設ステージを組み、日本初の映画の試写実験に成功した。
当時の京都電燈株式会社の写真も展示されていたのだが、ズドーン!と上空に伸びた発電塔の威容が印象的で、この側で日本初の映画上映会が行われたというエピソードは、エジソンと覇を競った天才科学者ニコラ・テスラによる秘密の電流実験にも似て胸アツ(産業革命後18世紀後半〜19世紀後半頃までの西洋では、電気こそが万物の生命エネルギー=エーテルの正体なのでは?だってカエルに電気流したらピクピク動くじゃん!との臆見が根強く、例えばメアリ・シェリーによる古典小説『フランケンシュタイン』でヴィクター博士が名も無き怪物nameless monsterに電気によって生命を吹き込むのはそのため)。
京都電燈株式会社があったのは現在京都随一の飲み屋街になっている木屋町の中で、跡地には立誠小学校が建てられ、その後校舎老朽化による改修を経て立誠シネマという単館系映画の上映館に変わり、かろうじて歴史的な由緒を保っていたが、2017年7月30日に惜しまれつつ閉館。
そして2020年7月21日、おそらくは同年同月の23日から翌年8月8日までの期間に開催された東京オリンピックの観光客需要を見込んだ大きな流れの一環として、高級リゾートホテル「THE GATE HOTEL 京都高瀬川」として再オープンを果たした。

唯一の救いは“日本映画発祥の地”の立て看板が残されていることだが、一映画好きとして、かつて立誠シネマに足を運んだ身としても、暗澹たる気持ちにさせられることも事実。今年の春、ホテルへの建て替え後初めて付近を通りがかったら、高瀬川沿いの桜がたいそう綺麗であり、観光客たちは皆地味な看板などには目もくれず一心不乱に桜をバックに自撮りまくっていた……

というわけで、日本映画発祥の地たる京都が誇るブンパクの常設展示には、かつて映画撮影に使われていた巨大な木製の手巻き式カメラ(ごっつい三脚の上にごっつい木箱がポンと置かれており、横にハンドルが取り付けられている。カメラの原義がカメラ・オブスキュラ=「暗い部屋」「暗箱」である点を想起させられるまんま箱!感が今となっては新鮮)や、セルロイド製の8mm・16mm・32mmのフィルムロール、黒澤明の映画『羅生門』のポスターや封切り時の新聞記事などが展示されており、映画ファンなら必見。
・舎密局ってなに?
とはいえ、今回最大の収穫はなんといっても明治期以降の京都文化、のみならず日本文化全体を再興したと言っても過言ではない“舎密局”という施設の存在を知れたこと。
府外はもちろん京都在住者であっても、舎密局ってなに?そもそもなんて読むん?って方も多いのではないだろうか。ついこの間まで僕もそうだった。これで「せいみきょく」と読む。ほとんどキラキラネームに近いが、オランダ語で化学を意味する単語「chemie シェミー」(英語のchemi-calだろう)に夜露死苦的に無理くり漢字を当てはめた和語であるらしい。
明治維新後、天皇陛下が“東行”(という言葉があるそうな!展示物のキャプションに書かかれてあった。よーするに天皇はんがそれまでの居所であった京都御所を離れて東京に旅立たはったゆうことね)なさると、京都の文化経済は次第に停滞し始めた。そこで海外からイケてる技術者を招聘して伝統産業をアップデートするとともに、欧米に追いつけ追い越せで強く美しい国日本を形作っていくことに。そのための拠点のひとつとなったのが、京都府が設立した理化学研究所・舎密局だったというわけ。
沿革は以下。
明治3年(1870年)に明石博高の建議により府知事槙村正直が仮設立、同6年に本建築が落成。開局後は広く受講生を募集し、ドイツ人のワグネルら外国人学者を招き、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石鹸の製造、鉄砲水(ラムネ)、ビール等飲料の製造、七宝、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及に努めた。また、その本格的な理化学の講義は島津源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発達に大きな役割を果たした。が、明治14年、槇村知事の転任によって閉鎖。建物も同28年に消失し、その跡地は地元ではなかなか有名な美術高校・京都市立銅駝(どうだ)美術工芸高等学校になっており、今では看板だけが残されている……
なお、もともとは1880年(明治13年)6月 に太政大臣三条実美公なら「日本最初京都画学校」というマンマすぎる命名を受けて日本最初の画学校として創立した銅駝校は、2023年に京都市立芸術大学の京都駅東部東部エリアへの新築・移転に合わせ同地域へ新築・移転。同年4月1日に校名を「京都市立美術工芸高等学校」と改称の上開校。もはや舎密局の名残はほとんど感じられまい。今度看板だけでも見に行こ(残っててくれ……)
・最強助っ人外国人ワグネル先生
概要から察するに、舎密局は単なる理化学研究所などではなく、その実態は最新の科学技術と幅広い文化芸術の知識を実践的に学べるドイツのバウハウスのような工芸美学校に近いものだったらしい(しかもバウハウスより半世紀も早い!)。
調べているうち、沿革にも登場したお雇い外国人ゴットフリード・ワグネルがわが国の伝統文化や工芸芸術に果たした役割はまことにとんでもない広がりを持つものであることがわかってきた。当初1868年にあるアメリカ企業が長崎で始める石鹸製造の事業に参加する目的で来日した(当時の日本には石鹸を使用する文化がまだなかったため、事業そのものは失敗したそう)ワグネル先生は、京都舎密局開局と同じ1870年に佐賀藩に雇われて有田に赴いており、なんと有田焼の近代化にも貢献しているのだ!
それだけではない。
契約期限満了で有田を去ったワグネル先生は、わが国の工芸芸術やデザイン教育にとっての一大画期となった1873年のウィーン万博において、日本事務局のアドバイザーとして参加。出品物の選定から技術指導、目録の作成などに携わり、八面六臂の大活躍でわが国の出展を見事成功に導いたのだ。さらにはこの時一緒に渡欧した川原忠次郎ら“教育伝修生”の指導にも熱心だったというから、そのスーパーヒーローぶりには驚かされるばかりだ。
↑ワグネルとウィーン万博について調べる中で素晴らしい本に出会ったまとめ。わが国のウィーン万博出展成功の陰には、ワグネルのほか、シーボルト父子ら有能すぎる助っ人外国人たちの大活躍があった。
なお、このウィーン万博に関連する文書の中で初めて「美術」という言葉が使用されたことは有名だが、それが正確にいかなる外国語の訳語としてであったのかは長らく論争の的になってきた。上掲記事にて引用を行った論文集の中にはなんとその正体を明かした論考も含まれており、なんでもそれは「工芸」を意味するドイツ語であったという(たしか。後で同書を発掘したら引用記事作ります)
つまり、日本の「美術」はそもそも、一般に考えられているような絵画や写真といった「純粋芸術」=“fine art”ではなく、デザインや工芸といった「応用芸術」=“useful art”として幕を開けたのだ。
ここにわが国における「美術」の需要発展の歴史の特殊性なり歪さを見て取ることができよう。
・おわりに〜伝統は「敵からも学ぶ」リベラルな姿勢によって守り抜かれる〜
さて、結論としてなにが言いたいか、今回の展示のなにに僕が激しく感銘を受けたのかといえば、「時の明治政府や藩の役人たちはエラかった!」ということ。
旧体制を打倒し新たに権力の座に着いたことで夢と希望に満ち溢れていただろう彼らは、「日本を強く美しい国にしたい」と心の底から願ったがために、外国人を教師として招き、外からの刺激によって伝統産業を復興することに成功したのだ!
そして、そうした流れの中でお雇い外国人たちの知恵と技術を必死に吸収した舎密局の生徒たちや、ワグネルやシーボルト父子らに随伴した教育伝習生たちの尽力によって、日本の美術工芸やデザイン教育の発展の未来が開かれたのだ!
つまり、他を排除することなく謙虚に学ぶ先人たちの努力のおかげで今日における日本の繁栄の一端があり、消えかかっていた伝統文化の火が守り抜かれたのである(もっとも、この“伝統”は明治期にかなりremixされただろうことが予想されるが、それなくしては途絶してしまっていたに違いない)。
こうした歴史的事実に触れるにつけ、伝統の固守という理念を外国人排斥のイデオロギーと暗に繋げて訴えんとする現在わが国の政権与党、Libera Democratic Party(リベラルで民主主義的な政党)なる素晴らしい理念から遥かに隔たった政党政策のなんと情けなく愚かなことか!
見てきた通り、自称保守が口にする美しい日本の伝統、今日われわれが目にできるような伝統文化の多くは、明治期に外国人の手ほどきを受けてremixされたものである可能性が高いわけだが、はたして彼らはその事実を知っているのだろうか?そもそも伝統とは自由と寛容の精神に基づきremixを受け入れることによって初めて存続が可能なものだということが、今回の一事からもよく知れよう。
異なるものを排斥せんとする頑迷な態度はかえって伝統を衰退させ、文化的・政治的な自力を弱体化させる。明治期の為政者たちは鋭くもそのことを見抜いていたに違いない。
そう、今最も必要なのは「自身がよりよくなるためなら“敵”からだって盗んでやる!」というラディカルな無差別精神=真のリベラリズムなのだ。
謙虚に、真摯に、かつ貪欲に。
エラかった先人たちの姿勢を見習って、みんななかよくしよう。
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ちなみに、舎密局は京都だけではなく大阪にもあった!
日本最初の理化学専門学校として、京都舎密局に数年先駆けた1869年(明治2年)に開校、初代校長はオランダ人科学者のハラタマ先生。
なんでも、この大阪舎密局が明治22年に京都に移ったことが、現在の京都大学のルーツなのだそうな。
すごいぞ!すごすぎるぞ舎密局!
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