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✨引用記事✨ 〜シーボルト、ワグネル、平山英三、安田禄造。ウィーン万博からセセッションへ〜

ウィーン万博の記録、「澳国博覧会参同記要』に記載された随行御雇外国人職務分担人員表はまず、「ドクトル、ワグネル」にはじまる。ワグネル(1831-1892)に続いては「ヘンリー、ホン、シーボルト」および「パロン、ホン・シーボルト」の名があるが、この二人は、先に述べたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの、 それぞれ次男と長男にあたる。長男アレクサンダー・フォン・シーボルト(1846-1911)は一八五九(安政六)年、父の再来日に同行、 父の離日後も日本に残り日本のウィーン万博参加に積極的に関与した。彼はウィーン万博参加に際し顧問にワグネルを推薦、出品物に巨大工芸品(例えば名古屋城の金のシャチホコ)を加えて日本を印象づけるよう進言するなど、ウィーン万博成功の陰にあってその功績は大きい。一八六九(明治二)年、あとを追って来日した次男ハインリッヒ・フォン・シーボルト (1852-1908) もまた、身につけていた日本語の能力を生かしオーストリア公使館の通訳として任官している。
ウィーン万博を成功に導いたのは、お雇い外国人ワグネルであった。ウィーン万博五十年を機に京都岡崎で万国博覧会参加五十年記念博覧会が開催されたが、このとき建立されたワグネルの顕彰碑が岡崎に現存する。ワグネルの功績の大きさを物語るものであろう。
功績の一つに、「技術伝習」がある。「技術伝習」とは、万博派遣員の一部に現地における実習を通じて西欧の先端工業技術を習得させ、帰国後日本の産業振興に役立てようとの試みである。ウィーン万博参加に際して掲げられた、重要な参加目的のひとつであった。ワグネルは伝習生二五名についてそれぞれ現地での実習機関の選定と交渉にあたり、伝習事業を成功にみちびいた。このとき、英語の通訳として万博に随行していた平山英三(1851-1914) が伝習生として、日本人としてはじめて海外のデザイン教育機関であるウィーン美術工芸学校(現ウィーン応用美術大学)でデザインを学ぶことになった。ここに日本とオーストリアのデザイン交流が幕をあける。

一八七三年、工業先進国イギリスは自国の産業デザインの改革を目的として、国立のデザイン教育機関スクール・オヴ・デザインを開設した。ヨーロッパ大陸でいちはやくスクール・オヴ・デザインをモデルとして設置されたのが、ウィーン美術工業博物館付属のウィーン美術工芸学校である。開校は一八六八年、 日本の明治元年にあたる。平山は開設間もないオーストリアのデザイン教育機関に就学したことになる。ウィーン美術工芸学校における正規の在籍は約二年半、在籍は建築学科、指導教員は主任教授ヨーゼフ・ストルク (1830-1902)のほか、 オスカー・バイエル(1849-1916)、アロイス・ハウゼル(1841-1896) らであった。ストルクの後任が近代デザイン史に名を残すヨーゼフ・ホフマン(1870-1956) であるから(就任1899)、平山の在籍期間は西洋近代デザイン史の黎明期にあったといわねばならない。当時ヨーロッパのデザイン手法は様式の学習とその再構成が中心であり、平山の受けたデザイン教育もまたその線上にあった。 帰国後平山は農商務省に勤務のかたわら、日本美術工芸振興団体龍池会に属し、機関誌『龍池会報告』誌上に自身が学んだウィーン美術工芸学校の学則、あるいはウィーン美術工業博物館の二代目館長ヤーコブ・フォン・ファルケ (1825-1897)の著作を「美術工業ノ概論」として抄訳発表するなど、ウィーンでの知見をもとにデザインの啓蒙にはげんでいる。平山が日本で二番目の国立デザイン教育機関である東京工業学校(のちに東京高等工業学校に改称、現東京工業大学)付設工業教員養成所工業図案科講師に就任したとき、ようやくにしてウィーンで学んだ教科が、教育の現場でカリキュラムとして生かされることになった。帰国後すでに、約二十年が経過していた。
一九一〇(明治四三)年、東京高等工業学校工業図案科で教鞭をとっていた安田禄造 (1874-1942)が、正規の文部省留学生として三年間、「図案学研究」のためウィーン美術工芸学校に留学することになった。安田は工業教員養成所工業図案科第三期の卒業生であり、平山英三の教え子である。安田がウィーン美術工芸学校で指導をうけたのは、ウィーン分離派(分離派は日本では「セセッション」として紹介されることが多いので、以下セセッションと略称する)の指導者でありまたウィーン工房の創設者でもあった建築科教授ヨーゼフ・ホフマンである。ただデザインの新傾向をたずさえ帰
国した安田を待ち受けていたのは、工業図案科の突然の廃止という悲運であった。こののち安田はデザイン教育機関の再興に力をそそぎ、その熱意はやがて一九二二(大正一○)年の東京高等工芸学校 (現千葉大学工学部)の設立として結実した。安田は東京高等工芸学校の教授として、のちには校長としてデザイン教育にあたり、ウィーンで受けたデザイン教育の伝統は平山を経て、ふたたび安田禄造に受け継がれることになった。なおウィーン美術工芸学校の後身であるウィーン応用美術大学には、戦後も多くの日本人が留学生として学んでいる。

オーストリアにおける日本美術工芸への関心はウィーン万博以降高まりをみせ、ウィーン・セセッションは一九○○年、第六回展としてヨーロッパ最大の日本展を開催している。


ーーデザイン史フォーラム編『国際デザイン史  日本の意匠と東西交流』(思文閣出版、2001)所収、緒方康二『オーストリアとのデザイン交流』p115〜117より

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