ルカ・グァダニーノ映画「QUEER クィア」の全ての謎を解いてみる(細かすぎて伝わらないかもしれない考察…&感想)
はじめに
ルカ・グァダニーノ監督の新作「QUEER」。
個人的には制作発表された頃から待ちに待っていた作品。ただし、なかなかに難解な映画な模様。
それでこの映画を理解するために、作者のウィリアム・S・バロウズや彼が属すると言われるビート・ジェネレーションについて少しばかり勉強もして予習もしてきました。
(関連記事は最後にリンク貼っておきます)
さらに映画「QUEER」に関する記事を読み、関連動画も観て、原作本、英語の原書も読み(6割ぐらいの理解力だけど)、脚本もチェック。もうどこで何を読んだのか分からなくなってる…😅。
ということで今回は、映画「QUEER」の謎を出来るだけ解き明かしてみようという記事です。なにしろ「何なんだろう?この表現…」と言うのが満載の映画なので。
ネタバレはガッツリ含まれますので、知りたくない方は回避してください。
あと考察部分は私個人のものや、関連記事、関連動画(のコメント欄も)、海外掲示板などで読んだものがミックスされています。よりオフィシャルに近い信頼できるものから(監督のインタビューを元にしていたりするので)、「それは個人の感想ですよね?」という妄想に近いものも含まれますので、そこは読まれる方のリテラシーで判断してください。
英語版予告。
日本語版予告
ストーリー
舞台は1950年のメキシコ・シティ。
主人公のウィリアム・リー William Lee (演:ダニエル・クレイグ)は、酒、ドラッグ、男漁りに明け暮れる日々を送っていた。
ある日、若いGI(兵士だけど情報官的な感じ)であるユージーン・アラートン Eugene Allerton(演:ドリュー・スターキー)と出会い一目惚れする。
リーの執着の甲斐あって二人はそれなりに関係を築く。しかしアラートンが何を考えているのか(特に彼のセクシュアリティが)分からないリーは、もっと深く彼を知りたい&もっと一緒にいて関係を深めたい想いでエクアドルに一緒に行こうと提案する。エクアドルのジャングルにあるテレパシー能力を発揮できると言われる植物”yagéヤーヘ”を見つけて試してみようと。かくして二人は南米のジャングルに踏み入るのだが…。
***
”ヤーヘyagé”≠”アヤワスカAyahuasca”であり、ヤーへという植物はある種の伝説の植物の名称。実際にその辺りの呪術師に使われているのはアヤワスカだと判明する。
アヤワスカは幻覚作用はあるけど、テレパシー能力は獲得できない(←当たり前)。
バロウズはyagéを英語読み?で”イェージ”と呼んでいたらしく、原作本では”イェージ”表記だったりもします。
追記:バロウズ&ギンズバーグの「麻薬書簡」の中にヤーへについての詳しい記述がある。
「麻薬書簡」は、バロウズがヤーへを探して中南米を旅した旅行記(アラートンは出てこない)、ヤーへを見つけて試した感想などをギンズバーグに手紙形式で語っている。そしてバロウズの手紙から数年後にギンズバーグも南米を訪れ、自身もヤーへを試し、その感想をバロウズに報告する手紙を書いていて、それらまとめたもの。
エピローグにはその抽出方法なども記されている。
ヤーへはアマゾン一帯に分布している成長の早いつる植物:Banisteriopsis caapiで、長さ15メートル以上に育ち、直径7センチから10センチくらいになる。現地のインディアンの種族によって呼び名が変わり、アヤフアスカ、ビルデ、ネピ、ナテーマなどと呼ばれる。
ヤーへはツルさえ十分にあればだれでも一時間かそこらで調製できる。一人分を作るのに驚くほど大量のツルがいる。ツル丸ごとだと2キロぐらい、あるいは樹皮をそぎ落としたものだと二つかみほど。使用の為の調製方法には二種類ある。プトマヨのコファン族の使う手法ーコファン族はヤーへの名手として名高いーでは、一人あたり二キロのツル丸ごとをよく叩いて、ボロボロになった木を軽くひたるくらいの水を加えて一日中煮詰める。できるのはだいたい二オンスくらいの黒っぽい液体だ。これは危険なほど強い分量だー致死量の半分ーでもこの地方では標準的で、それ以下の分量を使おうとかゆっくり飲もうといったことはコファン族は思いつきもしない。
中略
もう一つの方法は樹皮だけを使う方法だー樹皮の内側の部分が最も有効だとされる。樹皮をツルからナイフでそぎ落とすと空気に触れてすぐに赤くなる。一人に十分な樹皮を得るには、二十センチから二十五センチくらいのツルを四本ばかり削がなくてはならない。樹皮を数時間冷水につけて、その水を漉して一時間かけて飲む。私の見積もりだとこの方法では煮詰めた混合液二オンスで得られるものに比べて三分の一くらいの分量が得られる。水で薄まっているのと摂取に時間をかけるので、効き方もやわらかくなる。この分量だとヤーへで不安を感じたり幻覚を見たりしたこともない。
こんな感じで結構詳細な抽出方法まで調査している。新鮮なツルでないとダメ。乾燥させたり有効成分を抽出したり保存しようとしたけどダメだったとか、触媒として○○という別の植物の葉っぱを入れて一緒に煮込む…なんてことも書かれている。実際に上記のアヤワスカのWikiページに書かれている抽出方法にもその辺りが同様に書かれていて、バロウズのフィールドワークが案外ちゃんとしたものだったことがわかったりします😅。
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製作背景
監督がバロウズの「QUEER」との出会い、制作に至った流れを語っている動画。
「QUEER」は、ルカ・グァダニーノ監督が17歳の頃(1988年)、ちょっと変わった子供でロンリーだった彼が(父親はイタリア人、母親がアルジェリア人、育ったのがエチオピア。6歳頃にイタリアに戻ってきたのでイジメにあったりしていた)、当時住んでいたシチリアのパレルモにあった本屋で出会ったのが原点。優しい店主の許可を貰ってよく立ち読みさせてもらっていたそう。
それで何気なくタイトルに興味が惹かれたので読んでみたら、もうそれ以前とそれ以降では考え方が変わるほどの衝撃を受けたのだとか。まるで鏡のように、自分の奥深くにあるDesire &Connection 欲望と繋がり(を求める心?)に気づかせてくれた。
タイトル”QUEER”について
面白いと思ったのは、イタリアでのタイトルは「Diverso」だったと監督が言っていること。
英語で言ったらDiversityでしょうか?”多様性”的な感じ。
原題の”Queer”や、日本初版時の邦題”おかま”みたいに、侮蔑的な意味合いがあるのか正確には分かりませんが、一応意味的にはDifferentのような意味で、侮蔑的なものはなさそうでした。
イタリア語で侮蔑的な意味を含む単語で検索掛けたら、omosessuale(ホモセクシュアルのイタリア語)、frocio、frociaggine なんかが出てきました。だからDiversoはそういう単語では無さそうです。本来の意味合いとはズレてるのかもしれないけど、この侮蔑的意味を排除したイタリア語訳のタイトルに、なんだか優しさがあるなぁと個人的には思ってしまいました。
”Queer”という単語についての由来とか歴史とかも調べたので、興味ある方はコチラの記事もどうぞ!
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で、話戻って、
グァダニーノ監督は、20歳で自分なりに脚本を書いてみたり、監督になってからも映画化を考えたりもしたが、ず~っと映画化権が取れなかった。
そして「チャレンジャーズ」で脚本家のジャスティン・クリツケスと出会い、今なら映画化権取れるかも?と再度確認したところOKだったので早速映画化に動き出した。それが2022年の春。二人は話し合って意見のすり合わせ、そして原作にない部分をバロウズ専門家からの意見を参考に追加し、7月には脚本が完成。そしてキャスティングをダメ元でダニエル・クレイグにオファーしたところ、トントンと事は進んで8月にはOKの返事を貰ったと。
想像以上に事が運んで、監督は「Miracles of Cinema、素晴らしい作家のJ. G. Ballardが言うところのMiracles of Life」だと。(「Miracles of Life」はバラードの作品。彼はスピルバーグが監督した「太陽の帝国」の原作者。少年時代を上海で過ごしている人物←少年時代を異国で過ごしたという点でグァダニーノ監督は親近感をもってるのかも?)
そしてバラードとバロウズは親友というほどの仲ではなかったが、60年代頃からの顔見知りであり、お互いの作品をリスペクトし合い、バロウズがクリスマスカードを送ったこともあるのだとか。
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テーマについて
グァダニーノ監督は、この映画のことをこう言う。
「This was a love story, real real deep love story.」
これはラブストーリーだ。本当に本当に深いラブストーリーだ。
ラブストーリーであることには間違いない。
ではどんなラブストーリーなのか?
「二人の人間の波長が合ってる時間よりも、合ってない時間の方が多いラブストーリー。
報われない愛の話でもなく、愛してもらう為に必死に相手を自分に向けさせようとする人物の話でもない。
人と出会う中におけるpossibility in the impossibility 不可能性の中の可能性の話、またはimpossibility in the possibility 可能性の中の不可能性の話。
それらは今までの作品の中でも探ってきたテーマ。
しかし同時に、いままではそういう映画のテーマの深い部分をじっくり見つめる機会を持てなかった。それが今回の作品では、原作の中にそのもっと奥へと誘う箇所がいくつかあった。ひとつはエクアドルのホテルで二人が夢を見ている時、Leeの足の上にアラートンが足を置くシーン。自分自身をコントロールしていない状況、他者への配慮を抑制していない時に、どのように愛を表現するか、そういうことについての物語」
う~ん、なんだか難しいこと言ってますねぇ😅。
”不可能性の中の可能性”は、何億という人がいても真に人と繋がることなんてできない。テレパシーもないのだから。そんな不可能だと思っている状況の中で一瞬でも繋がることができる相手が現れたら?Once in a millionの可能性。アヤワスカを用いたら、その不可能を可能にすることができるのか?という探求。
一方、”人と出会う中における可能性の中の不可能性”というのも言い方違うけど本質は同じで、何億という人がいて、人と出会い、触れ合うことは可能。コミュニケーションもとれる。しかし、その人が本当に考えていること、または本人が意識していない部分も含めて他人を真に知ることは不可能なのではないか?触れ合ってもひとつになること、魂が溶け合うことは不可能。しかしもしそれが出来たとしたら…という探求。
この超レアな可能性、心が繋がる、お互いに溶け合う…それはどういうものか?それが愛?愛を感じるとはどういうことだろうか?それをじっくり掘り下げてみた作品…愛についての物語、だから監督はラブストーリーと言っていると私は解釈しましたが、どうでしょう?
登場人物
*ウィリアム・リー William Lee(演ダニエル・クレイグ)

主人公のウィリアム・リーは、小説「QUEER」原作者であるWilliam ・S
・Burroughs ウィリアム・S・バロウズを投影した人物。話も彼の自伝的内容がベースになっている。
リーLeeというのは母親の旧姓で、彼がペンネームや作品内の自分を投影したキャラに度々使用した名前。
(父親の家系が最初の計算機を作ったことで富を得た一族。よって基本的にはブルジョア出身の人物。信託財産によって毎月ある程度のお金を貰っていた。しかし薬中で殆ど使い果たしていたような人物でもある。処女作「ジャンキー」によると薬の売人なんかもやってる。それで本名だと都合が悪いのでペンネームを採用という流れもある)
バロウズは1914年生まれ。よって映画の設定である1950年頃の実年齢は36、37歳あたり。映画の中でLeeを演じるダニエル・クレイグの年齢は56歳頃。なので現実ではアラートンのモデルになった人物との年齢差もそこまでではなかったことになる。
バロウズはミズーリ州のセントルイス生まれ。ヨーロッパにも遊学し(ウィーンで医学を学んだりもしている。その時に知り合ったユダヤ人女性を救うために偽装結婚もしている)、ハーバード大学やコロンビア大学にも通い、ニューヨークで知り合った詩人のギンズバーグ、作家のケルアックたちと共に後年”ビート・ジェネレーション”と呼ばれるようになる。しかし、この時点ではまだ著作らしいものも殆ど書いておらず、ブルジョアの知識人とはいえ、この頃から始めた薬物のせいでほぼジャンキー状態だった。(NYでのバロウズの生活の様子などは映画「Kill Your Darlings」や、ケルアックとの共著「そしてカバたちはタンクで茹で死に」なども読むと参考になります。アッ、もちろん彼の処女作「ジャンキー」も)
幼少期のバロウズは一人になることや暗闇が怖かった。使用人に寝るまで部屋にいて貰わないといけないほど。ある日女中がアヘンの話をしていて、彼女にどういう薬かと訊いたら、「素敵な夢が見られるクスリよ」と教えられた。それ以来大人になったらアヘンをやりたいと思っていたというから筋金入り😅。しかし命落とすところまではやらなくて、ところどころで断薬治療を受けたり、また始めても割とコントロールしているようなところがある。結局ビート三人衆の中では一番長寿の83歳まで生きることに。
そんな彼がなぜメキシコシティに来たかというと、ビート仲間とNYで過ごした後、テキサスで大麻栽培をしようとしたが上手くいかず、次に移ったニューオリンズでヘロイン所持で捕まる。ただその捜査手順が違法だったために収監されずに済むが、再度捕まれば7年の収監を免れないので弁護士が国外退去を薦めた。そういうわけで妻と子供二人を連れてメキシコシティに引っ越すことになった…と言う経緯。
GI法(復員兵援護法:バロウズは第二次大戦時に半年ほど軍に所属。ただ鬱や精神的不安定を理由に除隊されている)で支給される手当を頼りに、マヤやアステカの文化、言語などを学ぶという名目でメキシコ大学に入学する。
(この辺りの経緯も処女作「ジャンキー」に書かれている)
映画の中のLeeは作家なのか、何してるのかよくわからない人物ですが、実際のバロウズは30歳半ばで家族連れの学生薬物中毒者もしくは国を追われた犯罪者という状態だったわけです。
映画の中では悠々自適に暮らしている独身貴族かというように錯覚しますけど(原作小説でも家族は出てこない)、この人物背景を頭の片隅に入れておく必要があります。←のちに映画内のアレコレを理解するのに必要なので。
*ユージーン・アラートン Eugene Allerton(演ドリュー・スターキー)

ユージーン・アラートンは、そんなバロウズがメキシコ・シティで出会ったアデルバート・ルイス・マーカー Adelbert Lewis Markerがモデルになっている。↓この写真の人物。バロウズ(右側の人物)も確かにまだ30代で若い。
フロリダ、ジャクソンビル出身の21歳。ドイツで第二次大戦の戦後対諜報部隊で働いた元軍人。彼もメキシコ大学の学生として滞在していた(映画の中ではその諜報部関連の何らかの仕事をしている感じでしょうか?)。
映画の中にあったヤーヘ探索の旅には実際に同行し、週に2回のセックスの相手をするという協定を結んだのも事実らしい。しかし執拗なバロウズに対してどんどん嫌気がさし、関係は悪化していった。
旅から帰ってきて、メキシコ・シティで”ある事件”(←後述する)があった後、故郷フロリダ、ジャクソンビルに戻る。バロウズはいくら手紙を書いても返事をしてくれないマーカーをジャクソンビルにまで訪ねて行ったりもしている。そこで彼の処女作「ジャンキー」の原稿をレストランに忘れ、紛失している。
*ジョー・ギドリー Joe Guidry(演ジェイソン・シュワルツマン)

Leeの友人であるゲイ。メキシコシティで彼らの溜まり場になっているShip AhoyでLeeとよくつるんでいる。
モデルになったのはバロウズのビート・ジェネレーション仲間であったアレン・ギンズバーグ(←一説です)。
演じたジェイソン・シュワルツマンの変身過程のインスタ↓。ここにはモデルはギンズバーグと書かれている。
街で引っかけて寝た男にタイプライターなど、何かしら物を盗まれては愚痴ってる。
Leeとは違い、ゲイであることを恥じることなく生きている様子。ゲイ雑誌とかも持ち歩いてましたよね。
(ギンズバーグがモデルなら彼はユダヤ人(シュワルツマンもユダヤ系)。ユダヤ教は同性愛禁止。なのでゲイであることに罪悪感を持っていてもおかしくないのに、あえて自己嫌悪を持たないキャラとして描かれる。一方、Leeはゲイだと自認はしつつも内在するホモフォビアで自己嫌悪に陥っている(だから薬をやっている部分もあるのでしょう)、ジョーの存在はLeeの問題をより浮き彫りにする効果を生んでいる。ただのコミック・リリーフではないという見解もありました)
Leeに薄っすら恋愛感情があるようにも描写されている。
現実のギンズバーグとバロウズの関係もなかなかに複雑で、彼らは実際に肉体関係があった。
バリー・マイルス著「ウイリアム・バロウズ 視えない男」によると、
NYでビートの仲間と一緒に過ごした後、バロウズとギンズバーグは離れていてもずっと手紙のやり取りを続けていた(この辺りが「麻薬書簡 The Yage Letters」として本になっている)。ヤーへの探求、小説を書くことなどギンズバーグが応援し、バロウズの原稿を出版社に売り込んだり、エージェントのような役割も果たしていた。
そしてバロウズがメキシコシティからアフリカのタンジールに移り住む前にNYで過ごした期間、彼はギンズバーグのところに滞在する。この時にギンズバーグは熱心に文学的、思想的議論を交わし、かいがいしく世話をし、バロウズもギンズバーグに依存するように関係を深めた模様(この時に性的関係も持っていた)。
後にタンジールで孤独に暮らすバロウズの元に、ギンズバーグは生涯の恋人であるピーター・オルロフスキーと共に訪れ、二人で性的に慰めてあげようとしたりもする(ギンズバーグはある意味ヒッピー思想の先駆者で、フリーセックス等は当たり前、従来の枠にとらわれるような人物ではない)
(ちなみにバロウズ作品「インターゾーン」のインターゾーンとはタンジールがモデル。当時のタンジールはモロッコの中にありつつ、紛争を経てイギリス、スペイン、フランス、さらにはアメリカも管理体制に加わったどこが主権なのか分からないような国際都市(インターナショナル・ゾーン)だった)。
Joe Guidryがギンズバーグをモデルにしているという意見にある程度納得しつつ(容姿が晩年のギンズバーグにちょっと寄せているので)、もう一人モデルなのでは?と私が思う人物がいる。それはバロウズの友人で、ルシアン・カーに殺されたDavid Kammerer(詳しくはコチラ)。
故郷セントルイス時代からの長年のゲイ友。バロウズよりも少し年上だがほぼ同年代(ギンズバーグとバロウズは12歳も違う)。一緒にヨーロッパを旅したりもしている。しかしそう言う関係には全くならない相手だった。彼も、当時にしてはかなりオープンにゲイとして振る舞い、年下のルシアンを追いかけ回していたし、ルシアンのレポートを代わりに書いたりといいように利用されてもいた。ここがGuidryがオープンリー・ゲイのキャラで、寝た相手に物を盗まれる(=利用される)設定と少し被る気がする。
*Dr. Cotter and husband

レスリー・マンヴィール演じるコッター博士、とその夫。
エクアドルのジャングルで夫と共に暮らして薬の研究をしている。
この人物にモデルがいるのかは不明。色々な記事を読んでてもそういう話は見かけなかったし、ググっても特に出てこない。おそらくフィクションな存在?何かあれば追記したいと思います。
原作ではドクターは男性で妻と一緒に暮らしている。映画では性別逆転させているのはどういう意図があるのだろうか?
夫を演じたLisandro Alonsoはアルゼンチン人の映画監督、脚本家。
(グァダニーノ監督は、仲間の3人の映画監督に出て貰ったと言っていた)
この映画、俳優以外の人物、国際色豊かなキャストが多い。
アラートンがいつもチェスをしている女性Mary メアリーを演じたのがAndra Ursuța。彼女はルーマニア生まれのアメリカ人で彫刻家。
Ship AhoyのオーナーTom Westonを演じるのはAriel Schulman。彼はHenry Joostと監督チーム・ユニットを組んでいる人物。
Ship Ahoyの常連客John Dumé ジョン・ドゥメーを演じたのはアメリカの俳優、コメディアン、監督、脚本などをするDrew Droege。なんでもクロエ・セヴィニーのモノマネで有名なんだそう。
似てるんだろうけど顔のインパクトに意識が持っていかれてしまう😅。
クロエ・セヴィニーもグァダニーノ監督作品「We are who we are」で、レズビアンの軍人である主人公の母親役で出てました。
他にも本職は俳優でなさそうな人たちが出てくるので、それらはこの後に紹介してきます。
メタファー&シンボリズム&考察
ざっくりと時系列順に解説していきたいと思います。
長~い&細かいので、適当に飛ばすなり、目次見てピックアップするなりしてください。
Chapter 1:How do you like Mexico?
ムカデ➀
映画のオープニングから登場し、その後も象徴的に出てくるムカデ。
これはこの映画のまさにシンボルと言っていい。非常に重要!!

「君の名前で僕を呼んで」を象徴するアイテムが”桃”🍑だとしたら、
「QUEER」を象徴するアイテムは”ムカデ”です。
ムカデはバロウズの他の作品でも度々登場するモチーフ。
クローネンバーグが監督したバロウズ原作の「Naked Lunch 裸のランチ」では、巨大ムカデをミンチで細かくして粉にするとか、グロい描写も満載。
そして「QUEER」本文にもこんな箇所がある。
”制限がなくなったとき何が起こるか?何ごとも許されているこの土地の運命はどうなるのだろうか? 人間は姿を変えて巨大なムカデになる・・・ムカデが人家に押し寄せる・・・寝台に縛りつけられた人間の真上に長さ十フィートのムカデが立ちはだかる。これは事実なのか?あの空恐ろしい変身作用が起こったのだろうか?ムカデというシンボルの意味はなにか?
制限、抑圧がなくなり巨大化するもの…それはおそらく”欲望”だと思います。
加えて、グァダニーノ監督は「ムカデは抑圧。この映画の中でのヴィラン(悪役)」だとインタビューでも言っている。
Leeのアラートンへの欲望と、その暴走を抑えないといけない抑圧。
この心の中でうごめく感情、これを石の下や地面の下で蠢くムカデで表現しているのでしょう。
加えて、この作品で最も欲望を象徴している人物と言えば?
そうLeeです。なのでムカデ=Leeというイメージも含ませているのが、よ~く見ているとわかってきます。そう思って見ると、納得できることが沢山出てきますので覚えておいてください。
あと脚本家のジャスティン・クリツケスの言葉で興味深いものがありました。(ムカデの意味とは直接関係ないので飛ばしてOK。興味ある人だけお読みください)
ムカデは日本語では百足。英語でもCentipedeと書いて、”Centi”の部分はラテン語の”百”から来ている(Pedeの部分が足の意味)。Centuryが世紀=百年単位 なのと同じですね。
しかし百足と名付けられてはいるけども、実際は足が百もないんだとか。
つまり名前だけ。有名無実化していると。
この話をクリツケスがわざわざ持ち出した意味を考えるに(答えは教えてくれてない( ̄▽ ̄;))、おそらく、”男”や”女”、さらには”クィア”という名称=ラベルを人は貼りがちだけど、果たして実際に100%男や100%女、または100%クィアというものはどれほど存在するのだろうか?…という視点を提示してくれている気がします。
バロウズは後に”言葉はウイルス”だと主張していました。言葉は概念を作り、閉じ込め、それがウイルスのように広がり支配すると信じていた。
私がなんとなく浮かんだ例をあげると…”大安吉日”。
元は占い的なものが起源なんでしょうけど、大安の日なんて月に何日もあるし、良いことが起こるかもしれないけど悪いことも普通に起こる。人だっていくらでも死んでいってる。まさに実態が伴っていない言葉のひとつ。
しかし人はこの言葉の概念(=良いことある日)を信じ、それが多くの人に広がり、まるでこの言葉に支配され、コントロールされてるかのように大安吉日に宝くじを買ったりしている。
よって、あなたが信じてる”男”、”女”、”クィア”という概念も一度非実体化=バラバラに解体して考えてみてはいかがですか?何か違うものが見えてくるかもしれませんよ?…ということを示唆しているのではないかということです。
ムカデのネックレスなどについてはまたのちほど…
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「I’m not Queer. I'm disembodied.」
作品中で登場人物たちが印象的に言うセリフに
”I’m not Queer. I'm disembodied."
がある。
原作の邦訳では「幽体離脱した」とか「僕はこの地上の存在じゃない」とか亡霊、霊魂的に表現されている。私はこれ、ちょっとニュアンスが伝わっていないような気がするんです。
”Disembodied”は実体のない状態のことをいう。
この”Disembodied実体のない状態”は、エヴァンゲリオンの旧作見た人なら、人のATフィールドが破壊されて皆LCLになった状態…みたいな感じで想像すると分かりやすいかも?そして「クィア」という作品全体に、ガフの扉が開いた先の”魂の戻る場所”のような、人間は大きな魂の一部で、その魂の一部がGhost in the shell、つまり個々の肉体の中に閉じ込められて実体化している=Embodiedされている…的な思想が通底してます。
つまり男や女、さらにはクィアだという肉体という入れ物(肉体の性や精神の性を左右するモノ)から解放された状態が、ここでいう”Disembodied”な状態。それを魂と呼んでるなら理解できる。魂にジェンダーがあるイメージはないから。ただ一般的な人が死んで幽霊や亡霊になった的に捉えると違和感が出てくる。幽霊は生存時の性別を継承してる印象があるから。ジェンダーから解放されていないので。
よって邦訳の”幽体離脱”は単に体から魂が一時的に抜け出てる状態なので、ジェンダーは維持しているから違和感があるし、”地上の存在でない”は死んでしまったとも捉えられるけど、もう魂になって天界に行った=大きな魂の元に帰った=ジェンダーに左右されない存在となったと捉えられるので、こちらはいいと思うけど、あまりにも詩的表現過ぎて、論点がぼやけてる気もする。
バロウズはゲイだと自認していたけど、だからと言って自分がゲイだと世間におおっぴらに発信するでもなく、ラベルを貼ること、貼られることを避けていたような印象がある。それは彼の内面化したホモフォビアの影響があったのかもしれないし、ジェンダーを超越したメタな視点で、人間を”魂”で見るべき、自分はそう見て貰いたいというあらわれだったのかもしれない。
バリー・マイルス著「ウィリアム・バロウズ 視えない男」やドキュメンタリー映画「Burroughs」などを見るに、私はホモフォビアのフォビアは”嫌悪”の意味で使われるけど、本来の”恐怖症”と言う意味で、バロウズはクィア・フォビア、つまりクィアと呼ばれることへの恐怖症だったような気もする。
「ウィリアム・バロウズ 視えない男」の幼少期のバロウズに関する記述にこうある。
バロウズは学校にはけっしてなじめなかった。孤独感が強すぎ、富裕層階級の生徒から少し変な奴だと思われていた。(中略)「家族には疎外感を感じ、溶け込めなかった。幼少のころから、わたしは自分を受け入れてくれない世界に住んでいるのだという感情を抱いていたが、そのことが人に不快感を催させるような特徴をはぐくんだのだ。わたしは内気でつむじ曲がりであるとともに、こせこせし、しつこかった。冷たい青い目をしたセントルイスのある老貴族はパイプの吸い口を噛みながら言った…『あの子には二度とわが家にきてもらいたくない。まるで羊を殺す犬のようだ』。あるセントルイスのレディは『あの子は生きた屍ね』と。
家族からも、学校でも、果ては老貴族やレディがどういう知り合いかは不明だけど、地域の大人からも毛嫌いされるに近い評価をされている。まさしく"Queer"という言葉の本来の意味である「変わった奴」と子供の頃から皆に言われ続けてきたことは想像に難くない。そんな風に言われることを気にしない、逆に誇りに思うほどの人物だったらいいのだろうけど、バロウズは暗闇を怖がり、部屋で一人で寝るのも無理なほどの繊細な子供であった。その子が「変わり者」と言い続けられて平気でいられただろうか?私は幼心にかなり傷付き、それがクィア恐怖症になって彼のアイデンティティの一部になり、”クィア”は勿論、いかなるラベルを貼られることへの拒否に繋がった気がする。それを自己欺瞞、自己正当化するために”Disembodied”という概念に辿り着いた…ということではないだろうか?
一方、作中でアラートンも
”I’m not Queer. I'm disembodied."
と言う。
彼の場合はラベルを貼られたくないというよりも、ジェンダー・アイデンティティが未分化、未決定の状態だったので、「クィアかどうかわからない。まだハッキリ形になっていないんだ…」という意味で言ったのかなと。それでアヤワスカでLeeと融合することで、その答えを探る、または見つけようとする。
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カール・ステインバーグ Karl Steinberg
Leeが最初にデートしている相手はKarl Steinberg。
そしてダビデの星ペンダントをしているのでユダヤ人だと分かる。
私的には、この人物のモデルこそ、おそらくバロウズの友人だったアレン・ギンズバーグ。彼もユダヤ人だし、名前の~Bergも被る。←二人の年齢差もちょうどバロウズとギンズバーグのように差がある。よって先述のJoe GuidryはDavid Kammerer説を推したい。
同じくビート作家だったケルアックもギンズバーグのことをCarl Marx カール・マルクスとして作品に登場させている。なぜならギンズバーグの母が共産党員で、彼もそういう思想を受けついでいたから。なので共産主義を唱えたカール・マルクス Karl Marxからカールをとっている。このKarl Steinbergもドイツ、ミュンヘン生まれ、バルチモア育ちという設定(ギンズバーグはニュージャージー出身だったはず)。
ギンズバーグとバロウズは後に関係を持つようになるのですが、「QUEER」執筆時点では熱心に手紙をやり取りする理解者止まりの関係。性的なものも含めて繋がれそうで繋がれない。なのでKarl Steinbergとも関係が進展せずに別れる描写になっているのも納得。
あとユダヤ(のペンダント)がクィア文脈と合わさると、ユダヤ人迫害と同性愛者迫害のダブルミーニングになる場合が多い。迫害や抑圧の象徴。1950年代、アメリカでも同性愛はまだ禁止されていたので(メキシコは緩かったが、カトリックの国でもあるのでそこは同じ)、そういう時代背景をこのアイテムで冒頭に表現していたのかもしれない。
Karl SteinbergはオランダのモデルDaan de Witが演じている。彼の顔には映画のようにそばかす(なのか?)は特にない。Karl Steinbergの顔がそばかすだらけなのはどういう意味があるのかは不明。原作ではwith a few frecklesとなっているので少しだけある程度の描写。何か意味がありそうだけど…。
一応アートの世界においてそばかすは、以前は”不完全さ”の象徴で、現在では”自然な美”、”ユニークさ、個性”、”信憑性”などを表しているそうです。
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ジャカランダ(ハカランダ)の花
Karl Steinbergと別れた後に、ベンチに座ったLee。周りには紫の花木が咲いている。
これはメキシコ桜とも呼ばれるJacaranda ジャカランダ(スペイン語ではハカランダ)の花。
↑の記事によると、メキシコシティに多く植えられているのに日本人が関係しているんだとか。ビックリ😲!
原作では紫の花ではなく”青い花”と表現されている。
この時のLeeの心情としては、異国で孤独。誰かと繋がりたい想いがある。しかし上手くいかない。よってこの”青い花”はそんな彼のブルーな気持ち(悲しい&憂鬱)を表現していることになるのだそう。
一方でジャカランダの花言葉を調べると、
美しさ、リニューアル、新しいはじまり、幸運、またはスピリチュアリティなどもある。
カールとの関係が終わって”新しい始まり=アラートンとの出会い”を予期するかのような意味が込められている可能性もある。肉体的だけでなくスピリチュアルな繋がりをも求めるLeeのことを考えると、スピリチュアリティというのも納得できる。
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鹿のトロフィー🦌
Leeがジョーと会うバーの壁に飾られている剥製の鹿の首。ハエがタカっている(←普通は処理しているのでありえないと思う)。
本来は、縁起や長寿、昇進、富貴、繁栄、幸運などの意味として飾られるそう。
しかし、この場面のあとにLeeが透けて行き、ジョーの話も上の空になることを考慮すると…この鹿のトロフィーは、首が胴体から切り離され=(誰ともつながれずに)世界(または社会)から切り離され、壁に掛けられる=固定、動けない、その空間に囚われていることを表している。
ここでもう一つの留意点は、店にはチロリアンの鳩時計もあり、テレビもフランケンシュタインのような奇妙な音を立てていると原作にはある。映画では砂嵐。
ちなみにこのチロリアンの時計、鳩時計みたいだけど出てくるのがハトっぽくない(ちょっと何かは不明。猫?)。そして文字盤のところに”目👁”みたいなものがあり、その周りを二匹のムカデが囲っている意匠になってます。
メキシコとチロリアンという妙な組み合わせ。テレビも変な音を立て、さらに壁に鹿の生首がかかってる、つまり不思議な異世界に迷い込んだ感を醸しだしてるわけです。←これはこの映画で一貫して意図的に取り入れられている。
そういう異国の不思議な空間に囚われ、誰とも真に繋がれずに、鹿の首にハエがタカっていることを思うと、この場所で自分も腐っていく、朽ちていってるような絶望感をLeeが感じているということ。だから体も透けて消え入るようになっているのかと。
個人的にはユダヤのペンダントと同様にハエは「君の名前で僕を呼んで」でも象徴的アイテムとして登場していたので、多少前作へのオマージュ的なものもあるのかもしれませんし、監督のお気に入りのモチーフなのかも?
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闘鶏🐓
アラートンと初めて会う運命的な場面。二人の間では闘鶏が繰り広げられている。
これはどこにも説明や考察を見かけなかったので、個人的な考察。
原作にはこの闘鶏は出て来ず、単に若者のグループと路上で遭う程度の描写。なので”闘鶏”は映画オリジナル部分。絶対に視覚的に何かしらの意味を込めているに違いない。
この場面直前、寂しさから友人に付き纏っていたLeeは彼らから拒絶され、さらに聞こえよがしに陰口まで言われる始末。気分的にかなり落ち込んでいる状況。
ここでの闘鶏、まずは”闘い”という意味から”Leeの葛藤”を表現しているのではないか?
寂しさとの葛藤、クィアとして差別&侮辱されることへの葛藤、自己嫌悪への葛藤、それでも誰かを求めてしまう欲望との葛藤、薬物中毒者としての葛藤などなど…。
そこにアラートンが現れる。
すると、ここからはアラートンとのこれから起こり得る…駆け引き、彼への巨大すぎる欲望との葛藤、そんなLeeの精神的戦いの幕開けを象徴しているようにも見えてくる。
闘鶏はメキシコ、南米などでポピュラーなギャンブル。ただし多くの地域では実は違法だったりする。ここに同性愛者で薬物中毒者のLeeが来て…と違法なものを一堂に集め禁断さを強調している。さらに闘鶏を応援する集団による罵声と熱気で緊張と興奮を高める。このある種スリリングさとドキドキする感覚で場が満たされたところにアラートンが登場。Leeはまさにズッキューン!!💓心臓バクバク…となり、場面構成と心情のオーバーラップが見事で、超ドラマチックな演出になっているわけですね。
あと闘鶏はbravery and resistance 勇敢さと抵抗を象徴しているとも言われる。恋した人物に勇敢にアプローチすること、相手から抵抗に遭うことや、自分の欲に抵抗して自制する…。
何より闘鶏はオス同士で行われるので、やはり同性愛の関係と結びつけやすいモチーフでもある。この場面でよく闘鶏を持ってきたなと感心するばかりです。
そして、なにより闘鶏を英語で言うと…CockFighting!!
わかりますよね🤭。まさに男同士のガッツリぶつかり合いを描いたこの映画そのものw。
実際この後、アラートンへの挨拶は完全無視されて敗北するが、ゲイバーで会った男と本当にコック・ファイティングをするわけで…。(´∇ノ`*)オホホホホ
奇しくも日本語でも”鶏姦”と書いて鶏で男同士の性行為を表す言葉がある。なぜ鶏なのか?生殖器と肛門が同じ穴だからだそう。
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ニルヴァーナ➀「Come As You Are」
この闘鶏の場面で流れているのが、ニルヴァーナの「Come As Your Are」。
「QUEER」では、舞台である1950年代には存在していないニルヴァーナの曲を三曲も使用している。(彼らが活躍したのは90年代初め頃。残りの二曲も後ほど解説)
これまた時空を超えた?時空が歪んだような?不思議な雰囲気を醸成させることに成功している。(合ってないという意見も見たけど😅、これは敢えての演出)
ニルヴァーナのボーカル、カート・コバーン Kurt Cobain は原作者バロウズのファンで、生前交流もあった人物。
高校生の頃にバロウズ作品に出会い、作詞にも影響を受けてきた。
そしてバロウズにコラボして貰えないかとコンタクトをとり、完成したのがこの作品。
"The 'Priest' They Called Him"
バロウズの朗読にコバーンがギターで「きよしこの夜」とアメリカ国家の演奏を加えたもの。
制作過程(1992年)では二人はまだ会えてなかったが、その後1993年10月に実際にバロウズの元をコバーンが訪れている(のが上のサムネの写真でしょう)。そこからさらに6か月後の4月にコバーンは亡くなる。
コバーンと会った後、バロウズは
”There’s something wrong with that boy”
あの子はなんだかおかしいところがあるね。
と言っていたそう。何かしらのものを感じ取っていたのでしょうね…。
バロウズは仏教よりもサイエントロジーにハマっていた時期があるそうなのですが( ̄▽ ̄;)(洗脳されることはなく単なる好奇心から研究的に)、同じビート・ジェネレーション作家のギンズバーグとケルアックはかなり仏教に傾倒していき、それが作品にも如実に反映されている。
Nirvanaニルヴァーナというバンド名も=涅槃 煩悩が消滅した悟りの境地、入滅、死去 という意味の仏教用語。コバーンもキリスト教家庭で育ち、その後仏教に傾倒していたと言われるので、そもそもの影響はビート作家たちからの可能性は高そうではある。
ここでグァダニーノ監督がニルヴァーナを選曲した意味が何層にも渡って意味があるように思えてくる。
➀まずはバロウズとコバーンの交流。二人の縁。
②コバーンもクィアな人物だったという説は以前から言われ続けている。
バロウズもゲイでありながら妻子をもった経験がある。コバーンもコートニー・ラブとの間に娘をもうけている。しかし両者とも妻子を幸せに出来なかった点も共通している。
③さらにはバロウズもコバーンも薬物問題を抱えていた。
(コバーンは過剰摂取で自殺未遂、その後、銃による自殺←銃はバロウズにとってもある意味象徴的なアイテム)
自己破壊 自己嫌悪 現実逃避 …おそらく同じような悩み、苦しみを抱えていた。
④Leeとアラートンという親子ほどの年齢差。バロウズとコバーンも祖父と孫ほどの差(上記作品制作時で78歳と25歳)。この年齢の壁を越えた交流という点でも共通点がある。性別、年齢、様々な枠から解放された”人対人”、”
魂対魂”で向き合っている。
これらから、グァダニーノ監督は「QUEER」という作品によって、自分が尊敬するバロウズ、そして同じくバロウズを尊敬していたコバーンにもトリビュートを捧げているのではないかとも言われている。
この映画は、バロウズのアイデアと文章、コバーンの音楽、そしてグァダニーノの映像と演出…三人の天才によるコラボ総合芸術とも考えられるわけです。
そして「Come As Your Are」の歌詞も深掘りしてみる。
コチラの方が歌詞の解説を丁寧にしてくださっているので参照。
この歌についてのカート・コバーンの発言
>about people, and what they're expected to act like.
人々について、そしてどういう風に振舞うべきかを期待されることについて(の歌だと言っている)。←社会的に期待される役割に自分を当て嵌めようとして苦しむのではなく、Come as you are つまり、そのままのあなたのままで来いよ!という、そのままの自分を受け入れるSelf-Acceptanceな歌ということ。
プロデューサーであるブッチ・ヴィグの発言
>I think that song is about acceptance, and about misfits
>You're cool no matter how screwed up you are.
>‘Come As You Are’ is an ode to accepting someone for who they are.
受容と不適合、不適格なものたちについての歌。
君がどんなにダメになって(失敗して)も大丈夫だということ。
そのままの自分を受け入れることへの賛歌。
まさに「QUEER」のなかでは、Leeが世間から拒否され落ち込んでいるところで、「いや、おまえはそのままでいいんだ!」と肯定してくれる歌詞が流れている訳です。
Leeは当時の社会においては社会不適格者。同性愛者であり、薬物中毒者でもある。
歌詞の中にある
”Come doused in mud, soaked in bleach”
は当時のシアトルにおけるヘロイン中毒者に、注射を打つ前に消毒すること、それによってAIDSの拡散を防ごうとするキャンペーンからインスパイアされた歌詞だそう。
そして何度も出てくるパート
And I swear that I don't have a gun
No, I don't have a gun
誓うよ、俺は銃なんて持ってないんだ。
社会的に不適格だけど、だからと言って社会を攻撃しようとしてるわけじゃないんだ=誰のことも傷つけたいわけじゃない…これが「銃なんて持ってない」ということなんでしょう。しかし社会はまるで私がクィアというだけで銃を持って攻撃してくるかのように恐れ、逆に攻撃してくる。「それって、おかしいだろ!」という心の叫びにも聴こえる。
(結局その”銃”でコバーン自身が亡くなるという皮肉…。)
または”銃”とはシンボルとしては男根の象徴だったりします。
すると「俺はペニスを持っていない」と言ってることになる。
つまり今の息苦しい社会は男性が作ったホモソーシャルな社会。その社会が自分たちにホモソーシャルのメンバーになるべく期待や制限を強要をしてくる。その結果、そこに当て嵌まらない奴らは生きていくのが苦しい。だから俺はそんな奴らの仲間じゃないよ。お前に何も強要なんかしない。そのままのお前でいいんだよ…ということになる。
あと、これまた繰り返される
Memoria
思い出のように、記憶の中のように…
思い出の中にある子供の時のように、無垢な、そのままの自分、世間の抑圧など感じず、自分の見せ方を考えたりしなかった頃の自分への追憶。
または無垢な想いで付き合えた昔の友人たち。同性だからと拒絶されたらどうしよう…なんて悩むことなく、ただ一緒にいることが楽しくて仕方なかった子供時代のように、人と関われたらいいだろうなという懐かしい想い…。
そう思うと、子供というのはまだEmbodiedが完了する前の魂という気がしないでもない。
崩れ落ちそうになっているLeeを励まし、肯定し、前に進ませようとしているかのよう。カート・コバーンが苦しみを共感、理解した上で応援してくれているかのように挿入されている。
そこでアラートンに出会う。
歌のおかげか?(Leeには聞こえてないけど😅)この後のある種ひるまずにガンガンアプローチしていくLeeの行動につながっている気さえする。
無言のシーンなのにこれだけ多くの要素が数秒の間に重層的に重なり合ってる。前シーンからの影響、登場人物の内面にくすぶる感情(自己嫌悪、自己否定、孤独感など)、闘鶏の意味&解釈、音楽(歌手と歌詞の選択理由)。
グァダニーノ監督が、この作品は多くのレイヤーで構成されていると言っていた意味が非常によくわかる場面だと思います。
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SHIP AHOY
メキシコシティにおける登場人物たちが集まる中心地的なカフェ・バー。
メキシコなのに少しアメリカ風、アールデコ調にセットが作られているんだとか。バーのオーナーTom Westonもアメリカ人の設定、よってメキシコシティ滞在のアメリカ人達が集まってくる…ということらしい。だからLeeもアラートンも常連だったわけです。
セットデザインは、画家Wolfgang Tillmansの静物画シリーズや、20世紀初頭ヨーロッパとアメリカを結んでいた客船ノルマンディ―号などからインスピレーションを受けて作られている。バロウズが住んでいた当時のNYの雰囲気を再現したかったのだと。
内装に船のリム(骨組み)をイメージしたものを取り入れている。グァダニーノ監督が言うには、観客が現実世界から離れて、アンダーウォーターの世界を楽しんでる気持ちになって貰うことを意図しているんだと。
つまりここでも異世界感を演出している。
”Ship Ahoy”とは、船乗りたちのフレーズで、「おーい」と注意を向ける使い方、または「よう!やあ!」という挨拶的にも使ったりする言葉。
海外を旅している異邦人達が集まってきて、気軽に声を掛け合える場所という感じでしょうか? Leeがアラートンに気恥ずかしくなるほど仰々しい挨拶をして注意を引こうとした(「お~い、おぼえてるか~い、さっき目があった俺だよ~」)という意味でも、確かに店名どおりにLeeは行動したとも言える!?😅
プロダクション・デザインのStefano Baisiによる解説動画。
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大袈裟な挨拶
SHIP AHOYで先程目が合ったアラートンが座っているのを見つけ、わざわざ立ち上がって演劇のような挨拶をするLee。
映画の中でもなんともムズムズするような気恥ずかしさを感じるシーン。
これは原作通りの表現。居心地の悪さを感じたあなたは正しい!!
Leeはフレンドリーでカジュアルな挨拶をしようとするのだが、悲惨なことになる…と原作にはある。
まるで旧世界の威厳のある儀礼的な挨拶をしてしまい、そこにはいやらしい欲望が漏れまくり、同時に硬い体を折り曲げたので痛みと自己嫌悪に潰されそうにもなる。それと同時に時間と場所を間違ったような、信頼出来てかわいげのある子供のような笑顔(を作ろうとした)がバラバラに引き裂かれて、絶望的な気持ちになっていた…と、こんな感じで表現されてる。
文中に”in simultaneous double exposure”とあるので、映画内で度々Leeのイマジナリーな手がアラートンを撫でたりするのを、現実と妄想、二重露光的に表現していましたが、まさにこの時のLeeの状況も二重露光的。威厳ある挨拶をしようとするがぎこちなくなり、笑顔を作ろうとするが絶望で変な顔になり、自分が想像する最適解と実際に行っている惨めな姿のギャップが二重露光のようになっている瞬間。
こんな複雑な何とも言えない表情をダニエル・クレイグはよく演じ切ったもんだと感心します。最初予告で観た時に、なんて居心地の悪いシーンなんだと思ったのですが、やけにコメント欄で絶賛されていて、この原作の部分を読んでようやく納得できたのでした。いかに忠実にやってのけたのかと。
そしてアラートンは「なんじゃこのオッサン…ノミでも付いてるのか?…関わらない方がいいな…」という感じでス~っと視線を外し無視する。あの”間”はそんな感じの意味😅。
アラートンはスッと自然に無視する(流す)名人だという設定もある。それを知っていると、あの対応もあれ以上ない演技なんですよね。
なのでこのシーンは”二人の気まずさ”を堪能してください!!(笑)
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ムカデ②:ペンダント
(あのペンダントはロエベのもの。今ならロエベで売ってるのかな?)
LeeがThe Chimu Bar チム・バー(この界隈で有名なゲイバー)で引っかけたワンナイトの相手(演:Omar Apollo 彼はシンガーソングライターで音楽でも参加してる)が付けていたムカデのペンダント。
(チム(またはチムー)はインカより古い民族。男同士がまぐわってるような形の壺の描写などが原作では出てくる)
↓Omar Apolloが「QUEER」の挿入歌「Te Maldigo」(意味は”I curse you” あなたを呪う)を歌っている動画。ムカデのペンダントをしてるのがチラッと見える。この動画の中の店にいる人たちも性別がハッキリしないクィアな人ばかりな感じになっていますね。チム・バーをイメージしてそうです。
↓この動画は2800万回以上再生されてる。なんとグラミーの新人賞にノミネートされてるほど有名な歌手でした(;^_^A。上手いはずだ。両親がメキシコ人のインディアナ州生まれのアメリカ人。メキシコの市民権も持ってる。そしてゲイをカミングアウトもしているそう。
話し戻して、原作ではこのペンダントは出てこない。
ここでのムカデが象徴するものは、おそらくゲイ達。
陽の光を避けて闇の中で蠢くムカデと、世間の目から逃れて、アングラな自分達だけの世界(ゲイバー)で蠢いて相手を探しているゲイ達を重ねていると考察。
原作ではこの店がゲイバーであることが言及されてるが、映画ではそういう場所だとはハッキリ言及されていない(男しかいないけどね)。なのでこのムカデのペンダントによって、一気にそういう怪しい世界、ゲイ達の蠢く欲望と抑圧の世界を表現しているのだろうなと。
さらに衣装デザイナーのJonathan Andersonが言うには、彼が編み編みタンクトップを着ているのは、ムカデがその網に引っ掛かっている。つまり欲望が囚われている=抑えられてるイメージなんだと。なるほど。
そしてここでのムカデ=ヴィランの意味としても解釈してみる。
性欲を満たしてくれて、お金も要求せず、このワンナイトの男のどこがヴィランなの?と一瞬思います。しかし、Leeが求めているのはとてつもない寂しさを埋めてくれる心で繋がれる相手。ここでお金を要求されたらまだ割り切れるものの、お金を要求もされず、次会いたいとも言われない。つまり全く自分の中身に興味をもってくれてないのがわかる。自分が価値がない人間だというこの強烈な一撃は、さらに自己否定、自己嫌悪につながるわけです。なのでこのワンナイトの相手もヴィランということになる。
ちなみにこのチム・バーでの話、バロウズの処女作「ジャンキー」でも全く同じ内容の箇所がある。これは後ほど説明しますが、おそらくバロウズの”ルーチン”のひとつでもあるのでしょう。(元々一つの作品なので、切り離した段階で尺埋めの為に重複させたのかもしれないけど)
あとこの青年の歯並びが歪つなのが最初気になったのですが、原作にこう書かれていました。
The boy smiled, revealing very red gums and sharp teeth far apart.
その少年が笑うと、赤い歯茎と尖った離れた歯が見えた。←これを表現するためにわざわざ付け歯をしていたんだそう。
Omar Apollo shares behind-the-scenes photos from Luca Guadagnino’s ‘QUEER’ pic.twitter.com/MdzPvvbwUo
— Film Updates (@FilmUpdates) November 29, 2024
最初のカール・ステインバーグもソバカスだらけだったし、この青年もちょっと容姿に残念な部分を入れてる。それでLeeが今ひとつ夢中になれない相手として登場させ、一方でアラートンの美しさが完璧で際立っているという効果を狙っている気がしますね。
あと”ぼかし問題”も(笑)。
このオマー・アポロのワンナイトの相手と、途中アラートンも全裸で出てきてペニスが見えてるのにぼかしが入ってない。一方LeeとアラートンのS〇Xシーンではぼかしが入ってる。何、その一貫性の無さ!と思うけど、おそらく、ハリウッドではもうここ十年くらい?は”付けペニス”を使用してるんですよね。マイケル・ファスベンダー主演の「Shame」で、彼がブラブラさせているので巨根と話題になっていたけど(これが2011年)、それ以降ではペニスが話題になる度に「あれは偽物でした~」という種明かしされることが殆ど。なので今回も”付けペニス”なのは明らかなのでぼかしなしになったのでは?ディルド(張型)が画面に映ったからといってもモザイクかからないのと同じで。←とはいいつつ、一応本物のペニスを見せてる体なんだから不自然ですけどね😅。
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新聞記事と銃🔫
日が変わって、Leeは友人のJim Cochanを引き留め、カフェで新聞記事を読み聞かせている。
Cochanを演じるDavid Loweryもアメリカの監督兼ライター。ここもチョイ役で俳優以外が演じてるパターン。
このLeeが読んでる記事内容が意味深。
酔った夫が、市場から帰宅した妻に45口径を振り回し、結果、妻と三人の子供を殺害。その後手首に剃刀を当て自殺しようと試みた。しかし治療を必要とするほどではなく、いくつかのかすり傷を付けただけだった。
これは、バロウズのことを多少知っているならばすぐにピンとくる内容。
バロウズは1951年9月、メキシコシティのBounty Bar(SHIP AHOYのモデル)が入る建物の上階にある自分の部屋で、(内縁の)妻であるジョーン・ヴォルマーを銃で殺害しているから。
この夫婦、そろって薬物中毒者で、その購入代金にお金を浪費し資金不足に陥ったバロウズは、いくつか持っている銃を売ろうと考える。買い手が来るまでに友人たちと飲んでいたところ、ウィリアム・テルごっこをやろうということになり、妻ジョーンの頭にショットグラスを置いて銃を撃った。それがグラスではなく妻の額を貫き、彼女は死亡。
バロウズは後に証言を変え、弾が込められているか確認しようとした際に銃を落とし暴発したんだと。友人二人も証人になり(ひとりはルイス・マーカー)、家族からの賄賂もあり、たった13日で拘留を解かれる。(当時のメキシコは(今もかもだけど)賄賂天国だったので)
(ギンズバーグはジョーンに自殺願望があり、自分からグラスを頭に乗せて死のうとしたんだと擁護したとか←さすがに友人庇い過ぎじゃない?(-_-;))
結局二年の執行猶予が付くことに。その期間にバロウズは「QUEER」を執筆しはじめ、それまで本腰をいれてなかった作家としての活動を本格的にするようになっていく。
ジョーンの死がなかったら作家になっていなかっただろうとバロウズは言っていた。そして、この事件は”Ugly Spirit 醜い精霊”のせいで起ったんだと信じるようになる。この霊に憑りつかれコントロールされているという恐怖が絶えずあり、これと向き合い闘うための手段が執筆活動だったのだと。
この事件が、作中でLeeが銃を持っていること、銃が重要なモチーフになっていることの一つの理由であろうし、この先のいくつかの描写にも関わってくる部分。銃=罪悪感とも考えられる。
原作者バロウズの背景とこの新聞記事がリンクしていること。そしてこの後も、このバロウズの”妻銃殺事件”が作品内に反映されていくので覚えておく必要があります。
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チェス
アラートンはチェス・プレイヤー。
これは掲示板かどこかのコメント欄の考察。
アラートンはゲームを楽しんでる=駆け引きを楽しんでいる。
なのでLeeとの関係もゲームのように駆け引きを楽しんでいるんだと。
そう言う彼のスタンスを象徴しているのが”チェス”なんだろうと。
だから彼の”表情が読めない””何考えているか分からない”というキャラも、そこに繋がっていると。
一方で、Leeが駒を並べるのを手伝おうとする場面がある。しかしその置き方が無茶苦茶なのだそう。全くチェスのことがわかっていない=駆け引きが出来ない、恋愛ゲームが下手すぎるLeeを表していると。
実際、アラートンのモデルになったルイス・マーカーもチェス・プレイヤーだったそうで、バロウズはそのことに対して文句の手紙をギンズバーグに書いていたのだそう。
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闘牛士のスライド
数日後、アラートンとカフェなどで過ごすことが多くなったLee。
出かける前に闘牛士のスライドを覗いている。
これは単純に、今日こそ彼を仕留めたい=射止めたい!!ということかなと。
もしくは、ケルアックが「On the Road」でバロウズのことを”Old Bull Lee”と呼んでいたので、そこから闘牛=Bull Fightで持ってきたと考えるのは強引かな?
Leeは闘牛なんて興味無さそうなのに、このカットを入れている意味、他に思い当たりません😅。
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El Puto Gringo
ジョーがSHIP AHOYでLeeとアラートンに聞かせる話。
どうやって警察官を喰ったか知ってる?と話し出すジョー。
いつも私の部屋に電気が付いてると、やって来てお酒を飲んでいく警察官(自警団の男)がいるのよ~。五日前ぐらいかしら? その時も彼はやって来て、私も酔っぱらってムラムラしていたから、なんだかいろいろあって、つい牛がキャベツをガッツくようにいただいちゃったのヨォ~(ンフッ!😋)
そしたら次の日、飲み屋の近くを通りかかったら、酔ったその男が出てきて「一杯飲んでけ」って言うのね(←おそらくまたしゃぶれという意味)。
「飲みたくないわ」と断ると、ピストルを出して「飲めッ!」って脅してきたの。(←最初、この”ピストル”がペ〇スの隠語かと思ったw わざわざ”Pistola ピストラ”とそこだけスペイン語で強調するから。でもさすがに路上でそれはないかなぁ…)
それで近づいて彼からピストルを取り上げたら、店の中に入って電話で仲間を呼ぼうとしたのよ。だから私も店に入って電話を壁から引っ剥がしてやったの。そしたらね、今や奴らから電話の修理代を請求されてるの。やだわぁ~。で、私の部屋は地上階なんだけど、その男が窓に石鹸で「El Puto Gringoこのクソカマアメ公!」って書いたのよね。消すのもめんどくさいし、そのままにしてるんだけど、ちょうどいい宣伝になってるわぁ~😚。
スペイン語の”Puto”や”Puta”が英語の”Fu〇king”に該当するのは知っていたのですが(Puta Madre=Mother Fuckerなので)、Putoだけでもホモセクシュアル、同性愛の意味合いがあるとは初めて知りました。
この話がのちほどのLeeやアラートンの行動に影響を与えることになる…。
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Green Lantern グリーン・ランタン
SHIP AHOYの常連Dumeデュメーが(また別に)属すると言われるゲイバー。
グリーン・ランタンはもう全身でQueerと叫んでいるような、ここでいうならオカマっぽいゲイ達が集まる店で、デュメーはまだマシな方なんだそう(←結構オネエっぽいですけどね😅)。SHIP AHOYはゲイバーではないので、そういうグリーン・ランタンのBoy達(主要な顧客たち)はあまりここでは歓迎されていないのだそう(←とはいえLeeとかジョーとかデュメ―とか、ゲイばかり集まってるけど…)。
これはどこまで常識として浸透してるか分かりませんが、DC Comicsのヒーロー、Green Lantern グリーン・ランタンはGayとしてカミング・アウトしたんですよね。
初代のグリーン・ランタンだったアラン・スコットがゲイと公式発表されたのが2012年なのかな?
そもそもこのコミック、1941年から続いている。その当時からアラン・スコットにゲイっぽい要素があったのかどうかは詳しくないのでわかりませんが、もし当時からそういうヒントがあったなら、バロウズは読んでいてもおかしくないし、ゲイのクィア・コーディングとして”グリーン・ランタン”という店名を出してきたのかもしれない。
2011年のライアン・レイノルズ主演の「グリーン・ランタン」
これは初代グリーン・ランタンのアラン・スコットではなく、二代目のHal Jordan ハル・ジョーダンだそう。なのでゲイではないようですが、宇宙全体でグリーン・ランタンというのは3600個?3600人?いるそうで、上の予告観て貰ったら分かりますが、いろんな宇宙人がいる。つまりみんな奇妙な(Queerな)連中とも言えるわけで、グリーン・ランタン・ボーイズがQueerな集団というのはやはりこの辺りから来てるのかも。
この映画でレイノルズとブレイク・ライブリーが共演して結婚に至ったんですよね。でもBombedと評価されていたので失敗作、黒歴史としてレイノルズも自虐的にネタにしているそう😅。いまやライブリーがかなりの性悪で、その影響で夫婦そろって評判ガタ落ちだけどどうなるんでしょうね?
HBOで2025年に新作のグリーン・ランタンのドラマ?かが製作されるという話もあるみたいだけど、これまたアラン・スコットが主役のクィア・ムービーではなく、二人のバディによる捜査物になるとかどうとか?
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映画「オルフェ」
二人が観に行く映画はジャン・コクトーの「Orphée オルフェ」(1950年)。
監督で画家としても有名なコクトーは当時61歳。主演のジャン・マレーが36歳。この二人、10年ほどマレー(24~34歳)がコクトー(48~58歳)の愛人だったと言われている。←言われてみればコクトーの描く男の横顔と口から顎のラインがソックリ!
この映画は原作小説でも登場するので、バロウズも自分たちとコクトー達の関係を重ねて登場させた可能性は十分ある。
ギリシャ神話のオルフェウスの話を現代風にアレンジした作品(とはいえもう70年も前の作品だけど😅)。
死んだ妻を取り戻すために冥界に行くという話。日本神話でもイザナギとイザナミで似た話がありますよね。
このオルフェの話、ある意味映画後半の描写を紐解くカギになります。映画全体にも重要な意味を持ってくる。なので頭の片隅に残しておいてください。その場面のところでもう一度説明します。
この映画「オルフェ」で特異なところは、冥界に行くのに鏡を通っていくという部分。「QUEER」のなかでもその部分が引用されている。
ネットの意見では、まずアラートン自体もLeeだという意見があります。
何言ってんの?と思われそうですが😅、アラートンとは…若く、美しく、他人からも欲情され、クィアである自分への自己嫌悪、自己否定が深刻化する前の段階の昔のLeeの姿を具現化した存在だと。Leeは現在のアル中&ヤク中で孤独で悲惨な状態になる前の若かりし自分を追い求めているのだと。
勿論これが正解だという風に監督は明確に言及してはいない。あくまで観客の意見ですが、そういうニュアンスはチラチラと感じます。
なにより、メキシコにいた当時のバロウズの写真がコレです。

Leeよりアラートンに似ていると思いませんか?
あと恋愛においては全く自分と違うものを好きになるパターン、特にゲイ・ムービーでは伝統の”金髪には黒髪”みたいな真逆キャラをもってくることが多いのですが(グァダニーノ監督の「君の名前で~」もそうですよね)、この二人は金髪同士になっている。そんなところでもアラートン=若かりしLeeの具現化説は一理あると思う。
ここからは私の深掘り。
映画を観てる二人、Leeは隣に座るアラートンを妄想の手で触っている(ファントム・ハンド、または“ectoplasmic fingers” and “phantom thumbs.”エクトプラズムな指、ファントムな親指 と原作では書かれている。この辺りが幽体離脱という表現に繋がったのかな?)。
アナタの中に入りたい、アナタの頭の中に触れて何を考えているのか知りたい…そんな感じに愛撫する。
なので、このシーンでオルフェが鏡に入っていくという描写は、アラートンの中に入りたいというLeeの描写と重なっているのに加えて、鏡面に映る自分=Lee自身の中に入っていくという物凄く多重構造な意味合いをも作り出しているわけです。前に進んでいたと思っていたのに実はループになってる。←ここも後半の描写に掛かってくる。
オルフェを冥界に誘う運転手ウルトビーズがこう言う。
It's not about understanding, It's all about believing.
これは鏡の中に入ることを疑うオルフェに対して、理解しようとしても無駄だ、信じるんだ! ということですけど、「QUEER」のこの場面においては違う意味になってくる。
アラートンの頭の中に入って彼を理解したいLee。そんなLeeに「理解することじゃないんだ、全ては信じることなんだ」と言ってることになる。
Leeの究極の願望、アラートンの頭の中を覗きたい、というのは叶う訳はない。一瞬垣間見れたとしても絶えず変化し続ける人の内面を”理解”することなんて不可能に近い。それなら、究極的に主観である”信じる”しかないではないか?ということ。アラートンが自分のことを好きでいてくれてる…と信じることさえできれば幸せになれるわけで、彼を理解できないと思っている限り、そこに疑念が生まれて永遠の苦悩に囚われる。
The possibility in the impossibility不可能性の中の可能性、入ることは不可能だけど、入れると信じることは可能…みたいな?
そしてアラートン=Lee説にも当てはめると、自分自身を理解することより自分自身を信じること、ということになる。これも絶えず変化する自分をある程度は理解できても完全に把握、制御できる人間なんておそらくいない。そうできると思っているならそう信じているだけ。自分が鏡の中に入れない人間だと”理解”していたらいつまで経っても入れないわけで、この場合の理解は”制限”になっている。逆に信じるは”無制限”、無限の可能性を与えてくれることになる。
う~ん、深い。
こういう過去の映画へのオマージュが、自身の作品のワンシーンに重層的に、広く深く思考を巡らせる装置になっている。
写実的なものを描いていた時代から、抽象表現、シュールレアリスムなどを経て、多くの思想や考えなども画面に取り込むようになってきた芸術絵画の世界。映画というものが、そういうアートの先にあるんだということがよくわかるシーンでもあります。
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ニルヴァーナ②「Marigold」
レストランのジュークボックスから流れる曲。
これはカート・コバーンの作った曲ではなく、ニルヴァーナに後から加盟したデイブ・グロール(サムネ左の長髪の人物。フー・ファイターズのフロントマン)によるもの。
歌詞がこんな感じで、
He's there in case I want it all
He's scared 'cause I want
He's scared in case I want it all
He's scared 'cause I want
アラートンに多くを求めて怖がらせてるかもしれない…と思ってるLeeの心情と重ねてる感じでしょうか?
Leeとアラートン、またはLeeがこの先出会うどの人物とでも距離感が出来ることを指摘しているのでは?という意見もあった。求めすぎてしまう、その加減を知らないから怖がらせてしまう…。
実際友人だったギンズバーグとNYで暮らした時、物凄く彼に依存し、あの世話好きっぽいギンズバーグが恐れをなした…とバロウズの伝記作家が語っていたので、この指摘は間違いではなさそう。
マリーゴールドは、6色のマリーゴールドの絵が並んでる、という感じで歌詞の中に出てくる。
歌詞の中で何を意味しているのかはイマイチよく分からないのですが、一般的なマリーゴールドの解釈としては、
仏教では、知性、憐み、学びの旅
人間関係においてだと、絶望した愛
メキシコでは「死者の日」に飾られる花
だったりするようです。
この後二人は一応性行為に至るわけで、アラートンにとれば自身のセクシュアリティ探求の学びの旅であるだろうし、
(ここのレストランで食べてるものがシシカバブ。肉の串焼き。これもちょっとこの後の性的なものを彷彿とさせる形状。棒状のものを咥えてる。お互い視覚的に刺激した可能性あり!?( ´艸`))
作品の舞台がメキシコだけに、二人の恋が”死ぬ”予言めいてる気もするし、Leeは結局、恋破れて絶望することになるし、まあそれなりに当て嵌まってる気がしますね。
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BOBOストーリーとルーチン
アラートンと食事中にLeeが話し出す”A wise old queen BOBO”の話。
これはバロウズが書き溜めていたという小話=Routineルーチンの一つだと思われる。原作邦訳ではルーチンを”十八番”、オハコの話という風に訳されている。
彼はこういう一つ閃いた設定から自由に話しを展開して、長くても4、5ページほどの小話をファイルにして貯めていった。そしてそういうルーチンを物語に挿入したり、あるいはルーチンばかりを繋ぎ合わせて一つの物語にしたりということをしていた。
彼の代表作「Naked Lunch 裸のランチ」は、こういうルーチンばかりを繋ぎ合わせた小説と言われている。なのでストーリーに脈絡がないし、どこから読んでも楽しめるのだそう。それぐらいぶっ飛んでる。
その「Naked Lunch」をデビッド・クローネンバーグが映画化してる。
主役ウィリアム・リーを演じたのは「ロボコップ」のPeter Weller。
変な宇宙人みたいなものや喋る昆虫タイプライターとか色々出て来てますが、そういう閃いたキャラや設定を悪ノリ的に広げていった小話という感じ。(ここでもムカデやウィリアム・テルのマネ、BOBOの話も出てきます)
ルーチンは、ドラッグをやってる時に浮かんできたこと、友人たちと話している中で閃いたものだと言われている。それで友人たちとそのキャラに扮して小芝居を演じて盛り上がっていたりもしたそう。なのでLeeがBOBOの声色で話をするのは、ある意味BOBOルーチンを演じているということらしい。
「QUEER」では、BOBOから聞いた話という体でLeeはアラートンに、「愛が大事、協力して(愛し合って)寂しさから逃れよう」ということを遠回しに言っている。
I had a duty to live and to bear my burden proudly for all to see, to conquer prejudice and ignorance and hate with knowledge and sincerity and love.
同性愛者という重荷を背負って、それらに対する偏見や無知、憎悪に打ち勝つには、知識と誠実さと愛で対抗して生きなければならない。
‘No one is ever really alone. You are part of everything alive.’ The difficulty is to convince someone else he is really part of you, so what the hell? Us parts ought to work together. Reet?”
誰も本当の意味では孤独ではないんだ。生けるもの全体(が一つの生命体と考えた時)の一部でしかない。ただ難しいのは、彼も君の一部だと納得させるのが難しいってことだ。ではどうすればいい?私たちがすべきことは一緒に取り組むことじゃないかい?
BOBOと言う名前の由来を調べたらこういうのが出てきた。
a person having both the values of the counterculture of the 1960s and the materialism of the 1980s; a bourgeois Bohemian.
60年代のカウンターカルチャーと80年代の物質主義の両方の価値を持った人物で、ブルジョワ&ボヘミアンの頭部分をとってBOBO。なのでクイーンなのにヒッピー的な思想を語っている。クイーンといっても代名詞が彼だったりするので、オネエの意味でのクイーン。
ここでブルジョワな育ちでボヘミアンな生き方をしている人物と言えば?そう、バロウズです。なのでBOBOはおそらくバロウズのアルターエゴ(別人格)。Queenという設定も、Queerと一文字違いなわけで、否定はしているけどQueerなバロウズの中のQueenな部分を別人格化したキャラということなのだと思います。
この映画のテーマ、孤独や愛することについてのバロウズの意見が反映された割と重要な話。単なる酔っ払いの与太話ではないのですね😅。
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Prince 「17days」
そして二人でバロウズの部屋に向かう時に流れ出すのがプリンスの「17days」。
歌詞と和訳はコチラのサイトで詳しく書かれているので参照してください。
歌詞としては、遊ばれてる女性がその報われていない状況を歌った感じでしょうか?割と男への恨み節っぽい。
なので、Leeがこれから(一応)報われる場面でなぜ流れるのか?少々疑問。そして一旦曲が途切れた後、数シーン後に再び流れ出す。ちょうどアラートンがLeeを遠ざけ始める頃に。なので二人の蜜月期間が17日ほどだった…みたいに言いたいのか?肉体的には一応報われたけど、結局心が自分に向くところまではいかないわけで、そのツレないアラートンの態度に対する恨み節…なのか?
プリンス自身、セクシュアリティ的にはゲイではない。多くの女性と浮名を流してきた。なんでもエホバの証人の信者だったそう(←初めて知った)。なので信条的には同性愛は認めてなかった可能性はある。ただ業界やファンにもクィアやゲイが多いので敢えて否定したり攻撃したりはしなかったということかなと。
ただ彼自身、メイクや女性っぽい衣装など、性別を超えた自己表現でクィア・アイコンとして捉えられてきた一面がある。
「パープル・レイン」のフリルたっぷりの衣装はまだカワイイもので、昔に白いレースの下着みたいな衣装も見た記憶がある。しかしだからと言って女装してるという風にも見えなくて、何とも言えない性別のミックス感があった。それこそがプリンスというイメージ。
↓この衣装も男性的というよりかは女性的な衣装、ビキニパンツにニーハイブーツみたいなのを履いてる。それでも全体として男っぽさもあって本当に不思議な魅力。男と女のセクシー成分だけを抜き取って纏った…みたいな感じ。
そしてプリンスもオーバードーズで2016年に死亡する。
最近アメリカで、中毒者がゾンビのようにボーっと路上で佇んでる恐ろしい状況を生み出したとして有名なフェンタニルの過剰摂取が原因だそう。
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Leeの部屋での情事
不味いブランデーを飲んで、二人が性行為に至る場面。
この場面では、アラートンが割と積極的。
どちらかと言うとLeeを誘っているようにも見える。Leeの部屋に置かれているものを興味深そうに観察したり、Leeがどんな人物か知りたいと思っている様子。
それで先ほどのジョーのEl Puto Gringoの(ゲイに喰われちゃう)話、あれがアラートンの脳裏にインプットされていたし、直前にLeeからBOBOの話を聞かされて、愛で理解し合うことの大事さを説かれていた。そういう諸々に加え、自分の性的好奇心も重なってああいう行為に至ったということでしょう。
それにアラートンはおそらくお酒に弱い。
殆どの場合ラムコークを飲んでいる。もしくは正体がなくなるほど深酒したくない、自分を失いたくない人物。髪型、服装にしてもキッチリしていて、自分を制御している印象がある。←このキャラ設定が後ほどの結果に関係してくる。コントロールから外れた時の彼こそが本心が漏れ出た瞬間。
ここではLeeの進めるままにブランデーを飲む。これはかなり心を許している証拠。エイヤッと殻を破る、彼なりにかなりの冒険をしようとしている様子が窺える。表には出していないが。
ただ、おそらくアラートン的にはここがLeeに対しての興味という点では頂点に近い。そこからは興味を失っていく。Leeは自分の欲望を押し付けるばかりだし、話もBOBOルーチンのように一方的に独り語りを繰り広げることが多い。アラートンと言う人物と向き合って、彼が何を好きか?何に感動するのか?何に興味を持つのか?何に悩んでいるのか?何に苦しんでいるのか?そういうことを知ろうとはしていない。彼の若い体に欲情しているだけの肉欲おじさんに見えても仕方ない。口でいろいろ言う割に精神的つながりを構築しようとはしていないわけです。結局ムカデ・ペンダントの男に対してとLee自身やってることは変わらないという皮肉。
Leeの立場的には、そんな余裕がまずない。そしてある意味”愛の奴隷”と化しているので、ご主人様を笑わせたり、喜ばせたり、反応してもらう”お恵み”を貰うことに躍起になっている。一緒に、対等に、何かをすることで得られる精神的な繋がりを共有しようというところまで頭が回っていない。だから自分がアラートンを満足させた後、もうそれだけで満足して一服しようとしていた。それに対し、アラートンはお返しにLeeの処理もしてあげた(手だけだけど)。アラートンにとっては、S〇Xとは相互的な行為だと思っているのがよくわかる部分。
二人の見てる部分、求める部分がここからして既にズレている悲劇。
おそらくこのズレにアラートンは気が付いた。これがこの後に距離を取り始める理由のひとつ。
もう一つは、「君の名前で僕を呼んで」でも、オリバーと初めて寝た翌朝のエリオはオリバーと少し距離を取るような行動に出ていた。自分が求めた行為と言え、その結果に困惑したり、嫌悪感を感じたりもする。したことは良かったし別に後悔はしてないと思う反面、なんとも説明できない感情の存在に気が付いたりもする。それらを消化していくのに時間がかかる。アラートンも同じような状況だったのかもしれない。試してみたいと思った同性愛行為だけど、いざやってみたら、Leeに対してではなく自分の中にあるホモフォビア的な嫌悪感に戸惑っていたのかもしれない。
そういう状況のアラートンにさらにしつこくLeeが迫ってきたので、距離を取らざるを得なかったとも言える。
*折れたあばら骨
この性行為のシーンと、後ほどの旅行先での性行為のシーンでも言及されるアラートンの折れたあばら骨。
これは何を意味しているのだろうか🙄?前振りもなく唐突に話題になる。
私が思いつくのは”アダムのあばら骨”ぐらいでしょうか?
神様はアダムのあばら骨からイヴを作ったと言われてる。元々はアダムひとつで、そこからイヴが生まれ、子供が出来、多くの人類に分かれていった。つまり人類は皆、アダムと言うひとつの生命体から派生した一部なのだと。LeeがBOBOの話で言っていたところと通じる。
そして人間が抱える孤独、寂しさの根源はこの失われた一部があるからと考えると、性行為で誰かと繋がることはミッシング・ピースを取り戻す、完全体になって寂しさを克服する行為となる(実際にはならんけどね)。そういう寓意を込めてあばら骨を性行為と絡めて登場させているのではないでしょうか?
”折れたあばら”で調べると、イヴというパートナーが出来たことで、”美しい始まり、美しい関係”という意味もある。一方で肉体的や精神的な”脆弱さ”、”過去のトラウマに対する痛み”、そういうもののシンボルでもあるそうです。アラートンの過去に何があったのか不明なので、ここは判断し辛いですね。
もうひとつ思ったのは、キリストが磔刑にされた時、槍で刺されたのが脇腹辺り。つまりあばらが折れたりしていてもおかしくない箇所。使徒のトマスが復活したキリストの傷に手を入れるまで信じなかったという逸話がある。Leeがトマスのように、アラートンが体を許してくれるのが信じられない…という意味であばらあたりをそっと撫でていた…ということもあるのかも?
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その他気付いたもの。
タイプライターの置いている机の上の窓枠にムカデがいる。
メガネの扱い方:自分のは丁寧、Leeのは雑。→自分は大切に守りたい。他人は雑でもいい。アラートンの隠れた自分本位な部分が出た瞬間かも?(←地味に勝手なところもある)もしくはLeeとの性行為に興奮して、自分の冷静さを徐々に失っていていることを表現?
Leeのベッドルームに半裸の男が背を向けた絵が飾ってある。のちにアラートンの背中を愛おし気に見つめるLeeが出てくる。常々美しい男性の背中に美意識を感じている男だとわかる。
あとLeeがアラートンのパンツの上からペニスを咥えるような描写。これが上映される国によって規制がかかってカットされてたりするようです。掲示板では、私の国では映っていた!私の国では映ってなかった!と報告会状態になってました(笑)。日本版はガッツリ咥えてましたよね~(´∇ノ`*)オホホホホ♪。
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Baked Alaskaと焼き豚
Leeとアラートン、二人の会話で出てくるベイクド・アラスカ。
アイスをメレンゲで覆って火で炙った、↓こういうデザートです。
これはHotな外見、しかし中身は(Leeには)冷たいアラートンのことだとLeeは言いたいわけですよね。
そこで新しいメニューとして提案するのが、生きたままブランデーかけて火をつけ、泣き叫ぶ豚の丸焼き(←悪趣味(;^ω^))。
これは普通に考えてLee自身のことを言ってるとわかる。
豚は何を表しているのか?
豚は欲望、淫欲、怠惰、さらにユダヤやイスラム教では食べてはいけない動物。つまりタBoo~🐷。タブーね😅。ここに同性愛とも掛かってくる。
そんな豚の様な自分(Lee)が、生きたまま丸焼けにされる。
まさに地獄の苦しみを味わっている自分の状況を豚に投影。暗にアラートンに訴えて慈悲を求めてる。表面的には笑い話にしながら、心の中では泣いている…だからあんな泣き笑いみたいな変な顔になっているのかなと。
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エディプス・コンプレックス
ジョーの友人(or 若いお相手)がOedipusエディプスの話をする。
母親を愛していると、身体的に愛していると。
原作では軍の精神科医に分析して貰った時にエディプスだと言われたという流れで出てくる。バロウズも何かしらを意図して挿入したと思われるが、その真意が今ひとつわからない。
全ての男はある程度エディプス・コンプレックスを抱えているというのはよく聞くが、それがこの「QUEER」の中でどういう意味があるのか?
ただ”母”に関することで気になってる部分がいくつかある。
まず、Leeが最初に話していたKarl Steinberg。彼との会話でも母と息子の関係について話している。Leeとの関係を進めない彼に対して、「母親が(同性愛を)気に入らないもんね」と言い、オクラホマシティに住むユダヤ人ゲイ友の話を聞かせる。どこにでも住めるお金があるのになぜ母親の元を離れないのかと訊くと、離れたら母親が死んでしまう、と答えたという話。
映画の中では、Leeがワンナイトする男がバーで座っている時、彼のテーブルの上に”聖母マリア”の絵が置かれていたり(←ゲイバーのテーブルにそんなの置いてるの変じゃない?)、ジャングル探検から二年後にジョーと再会した時、常連客だったDumeが病気の母親の世話をしに故郷に帰った話をしたりもする。母親がもう死んだことまで言及)。
アラートンがいつもチェスをする相手もMary(マリアの英語名)ですし、ゲイ、クィアな男性と母親、つまり彼らの中にある母性に対する想いやエディプス・コンプレックスについて何かしら示唆している気がするのだけれど、いまひとつわからない。
ジョーがエディプスなんてありえないと一蹴するのはわかる。ゲイである彼らは女性に欲情しないのだから、母親を身体的に愛せるという話を否定するのはもっともなこと。しかしKarl SteinbergやDume、オクラホマシティの友人は母親の影響下にあって、肉体的には愛せないけど精神的に強いアタッチメント、愛着がある。彼女らの要求に応え、嫌がることは避けようとする。
自分を産んでくれた母親に対して、自分は子供を作れないから負い目があり、その罪悪感を埋めるために母親の奴隷に自らなるということか?
なにかしら”母性”、または”息子から母親への愛”が裏テーマの一つな気がするのだけど…。Dr.Cotterが映画では男性から女性に改変されてるし、その彼女がLeeの恋愛を応援するという流れになっている。ここにも母性の片鱗を感じる。
バロウズの妻ジョーンも、彼の同性愛行為を許容していたらしい。
妻でありつつ、母親的存在だった風にも感じる。その彼女を殺したことを考えると、父親殺しのエディプスではなく母親殺し…う~ん、ワカラン!!🤪
クィアという存在はエディプス・コンプレックスとエレクトラ・コンプレックス(娘から父親への愛ね)が複雑に絡まってるということなのか!?
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「Sui Ghiacciai」Verdena
SHIP AHOYでLeeが泥酔してるところで流れ出す曲。タイトルは「氷河の上で」という意味らしい。
Verdenaは Italian Nirvana と言われるイタリアのオルタナ・ロックバンド。ニルヴァーナの影響を強く受けているそう。1995年結成なのでニルヴァーナのカート・コバーンが亡くなった後。
さらに作詞ではカット・アップのテクニック(バロウズの代表的な創作テクニック)を使用しているそうで、バロウズの影響もある。
歌詞の内容は、この場面でのLeeの心情に沿っている。
英訳歌詞のサイト↓
最後の
Test me
And accept me
But endless
You're hurting me like
My heart is breaking
But I would survive
But I would survive
という部分なんか、まさにこの時のLeeの心情そのものと言った感じ。
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第一の夢:不思議なシークエンス
泥酔したLeeがアラートンを追いかけ、
”I want to talk to you , without talking…”
と言った後に倒れ、夢をみる。
この夢の内容、一部は原作でも描かれている。ただ挿入されている箇所はDr.Cotterの小屋で寝ている時。よって時系列が変わっている。
(これはバロウズの代表的なテクニック「カットアップ」の手法をグァダニーノ監督も用いたといっていいかもしれない。文章などをバラバラにして、意味が通るように再構築して新しい作品を作る手法なので)
バロウズによる1985年の追記解説部分に、この夢のイメージがどこから来たか書かれている。
ジャングルの後メキシコに戻って来て、メッキが剥がれてきたナイフを研いでもらおうと研ぎ師を探して歩いている時、途轍もない落ち込みに襲われ涙が止まらなくなったという。
なのでこのシークエンスの全体としての意味するところは、おそらくLeeの落ち込み、鬱状態の心象風景、潜在意識の具現化を表現しているものだと私は解釈します。
では細かく見ていきます。
➀ナイフ研ぎ師
この部分は原作における夢の中の描写にはない。よってグァダニーノがバロウズの解説内容から発展させ追加したと思われる。
まずナイフが何を意味しているのか?最初ピンときませんでした。
しかしバロウズのこの一文で、あ~そうなんだと納得。
Whatever happened to this knife called Allerton.
アラートンというこのナイフに何が起こっても…
アラートン=ナイフということなんですね。
原作でも映画でも、アラートンに出会う日の昼間にLeeがナイフを触る描写があり、ナイフとアラートンが同時期に登場していることがわかる。
ナイフ(アラートン)はLeeを傷つけるものであり、
Leeが研ぎ師を探すのも、ナイフのメッキが剥がれてきたから。
ちょうどアラートンと関係を持って最高潮に浮かれた状態だったところから、彼が冷めだして素っ気なくなる。キラキラな関係のメッキが剥がれてきたかのような状態の時期と重なっている。
そしてこの研ぎ師が、自転車を改造したかのようなペダルを踏んで回す機械を使用する。
ここの車輪、サークルはLeeのグルグル回って先に進めない心理状態だろうし、車輪を繋ぐチェーン、もしくはベルトも円環で無限状態。この状況を強調するのにピッタリの小道具。後に出てくる”あのヘビ”にも通ずる。
Leeの行き詰って同じ場所をグルグル回りながら、それでもなんとかアラートンとの関係を再び輝かせたい心理…という風に考察しました。
②置き去りにされた赤ん坊
これはバロウズの息子(といろんなところで指摘されている)。
原作の夢の中では、この息子を”抱え上げる”描写で出てくる。
バロウズによる1985年の追記部分にこの夢について説明しており、どこか予知的な内容だったと言っている。
なぜ予知的なのか?
それは実際バロウズは自分の息子ウィリアム・バロウズJr.をほぼネグレクトするからです。(なので原作の抱え上げる描写よりも、映画の放置する方がより現実に即しているとも言える)
バロウズ自身も父親とはうまく関係を築けなかった人物なのですが、自分の息子とも上手く関係を築けなかった。
まず息子を妊娠中、妻ジョーンは薬物中毒で、ジュニアは生まれてすぐ禁断症状が出ていたと言われてるほど。
そしてジュニアが4歳のときに妻を殺害(←詳細は後ほど)。
妻の連れ子のジュリーは母方の祖父母に、バロウズJr.は自分の両親(祖父母)の元にすぐ預けてしまう。
そこから子供の世話は両親任せ。ときどきプレゼントとかは贈っていたみたいだけど、ほぼ会うこともないままジュニアが思春期に入り祖父母と上手くいかなくなった時、父親として息子と暮らしてはどうかと両親に提案され、モロッコのタンジールに住む自分のところにジュニアを呼び寄せる。
しかしここでも碌に面倒も見ず、自分は友人たちやゲイの恋人たちと過ごす。そしてジュニアが言うことには、それらの父親の友人のひとりから性的虐待を受けたのだと(それをバロウズが見ていた、黙認していたとも)。ジュニアが父親の同性愛仲間を毛嫌いしていたという話も、それが理由なら筋が通る。(かまってくれない父親への八つ当たり的虚言の可能性も無きにしも非ずだけど…)
祖父母のいるフロリダに戻ってからは、性虐待のトラウマからか、ジュニアもアルコールとドラッグに溺れていく。
彼自身も作家になろうとして本も数冊(自伝的なもの)を書いたりもするが、うまくはいかない(←父親への尊敬と憧れもある模様。彼が最後のビート作家という識者もいる)。20代後半で肝硬変になり、当時まだ珍しい肝臓移植を受ける。生存率30%ほど。一応成功はするが、合併症など予後も余り状態はよくなかった。
(この頃にバロウズの伝記映画「Burroughs」にジュニアは出演している。
(「QUEER」公開に合わせてコチラも現在公開中)
そこでは父親と交流をもっている。ただ、当時バロウズの秘書だったグラワーホルツ(一時期肉体関係もあった若い青年)がバロウズをかいがいしく世話していて、バロウズにとっては理想の息子の代わり。グラワーホルツにとってもジュニアは父の愛を取り合うライバル。最後まで父親からの愛を享受できない悲哀が画面に記録されている。祖父母から貰ったうさぎのぬいぐるみ、目が取れてるけどこれが僕なんだ…なんて言ってたり。悲しすぎる😭)
そしてバロウズの友人のギンズバーグが酒を止めるように言っても聞かず、再び飲酒を始め、最終的に1981年、ハイウェイ脇の側溝で倒れているのを発見され病院に運ばれたが、33歳で死亡。
(ギンズバーグが入院や手術の面倒を結構見ている。バロウズも何度かは病院に行ったり、費用を工面はした模様。だたジュニア死亡時さえ会いに行くこともしなかった)
こういうわけで、1985年時点で自分の息子の死を既に経験しているバロウズにとれば、この夢の描写は予言的だったということになるわけです。
ではなぜこんな夢の描写を描いたのか?執筆時に予言する意図はなかったはず。
それは「QUEER」を執筆中、先述したようにバロウズはかなりの鬱状態にあったからでしょう。
妻のジョーンが死、アラートンのモデルであるルイス・マーカーも自分の前からいなくなり、彼に何度手紙を書いてもずっと無視されている。
先ほどの研ぎ師を探して街を歩いている時に涙が止まらなくなったということから、かなりの鬱状態に陥っていたことがわかる。
そう考えると、この時点でのこの赤ん坊は、愛する人たちに置き去りにされた自分自身を投影したものだったのかもしれない。原作の中ではひざまづいてこの赤ん坊を抱きかかえる。そして泣き声が悲しみの波のように迫ってくる…とある。それは自分自身の悲しみを癒そうとしているように見える。
映画の挿入箇所で解釈するなら、距離を取りだしたアラートンに対して、赤ん坊のように無力で泣き叫ぶしかできない状態のLeeの深層心理を表現したかったのかも。
③囚人服
そして登場人物たちが囚人服で次々に現れる。
これも原作にある。
A group of people were standing there in convict suits.
原作では「なぜ彼らがここにいて、赤ん坊は泣いてるのか?」…と書かれているので、Lee自身もなぜなのかわかっていない。
しかし囚人服を着ているということは、そこは牢獄だということになる。
つまり、Lee自身も囚人。この鬱で落ち込む空間に閉じ込められた囚人。
原作の解説にこういう言葉もある。
Lee is a prisoner of love (←宇多田ヒカルの歌が脳内で流れちゃうw)
ジョーが扉を指さし出ようと誘い、最後にアラートンがアップで出てくる。
なので、アラートンという愛の牢獄に閉じ込められているLee、そんな不毛な場所にいる必要はないとジョーが促している…という風に解釈できる。
先述したように、「QUEER」執筆時は、妻ジョーンを殺害し、拘留は解かれたが執行猶予期間の最中。なのでバロウズは実際に罪人ではあるわけです。その辺りもここの描写に影響を与えていると言っていいでしょう。
④ムカデ③
ここで意味ありげに赤い壁を這うムカデのショットが挿入される。
これはどういう意味なのか?
おそらくですが、Leeのさらなる深層心理に潜っていくことを表現しているのかと。
ムカデは地面の下にいる生き物。なので表面の心理ではなく、その下にある深層で蠢いている心理を表している。
赤い壁は血の色、肉体を想起して、体の、脳の、心理のもっと奥に入っていく…。
ムカデの動きに注目すると、光が当たる部分から影になっていく部分に移動していく。やはりこれもより暗い方へ、心の奥の、よりドス暗い闇の方へ入っていくことを表現していたのでは?
⑤浮く裸の女性
そして入っていった深層心理には、脚がない空中に浮かぶ女性が現れる。
これはバロウズの妻ジョーン・ヴォルマー。
ちゃんとクレジットにもジョーンと書かれている。
腕に薬物中毒者らしく注射器が刺さっているのもわかりやすい。
(ただジョーンはベンゼドリン(アンフェタミン)中毒で、確か経口摂取していた旨がバロウズの伝記に書かれていた。なのでヘロイン中毒者のように注射器は使ってなかったとは思うのだけど…どうなんだろ?🙄絵だけで理解させる為には仕方ないですけどね)
この場面は原作にはない。これもグァダニーノ監督の創作部分だと思われる。
ただ原作でもLeeが ”I'm not queer, I'm disembodeied."と言う箇所は確かにあり、そこにも女性が出てくる(ジョーンとは書かれていない)。
これはLeeの妄想描写になるのかな?エクアドルの街を歩いていて(エクアドルが「チムーの土地、Leeの淫夢の土地」と言っている)、美しい現地の少年を見た後、エクアドルの少年達と性的ファンタジーを行う描写がある。そして場面が急に変わり、竹製長屋でランプに照らされた女性の体を前にして、別人の体を通して、欲望があることを感じる…という描写に続く。その時に上述のセリフを言う。この後にホテルに戻ってアラートンとセ〇クスするので、この妄想でエロい気持ちになったからということかなと。
上記の妄想の後、町を歩き続けて実際に買春しようかと悩みながら、Leeは自分の欲望を抑圧する社会的倫理観などに対して怒っており、どうして好きなように出来ないんだ(罪悪感を感じるんだ)!もし好きに出来たら…薬をやりまくって少年達を多目的召使いにして…と黒い欲望を想像する。
よって、少年たちとの妄想の後に女性の体に対して欲情する自分を想像するというのは、同性愛や少年愛、買春など、そういう罪悪感をなんとか否定、打ち消そうとしていることを象徴しているのかもしれない。又は女性という母性の象徴に許しを乞うている意図もあるのかも?
グァダニーノ監督は、この女性をジョーンと明確にして登場させた。原作でバロウズはジョーンと記さなかったのに。
ただ映画では少年達との妄想部分が全てカットされているので(これは倫理的に表現規制が入ったんでしょうか?)、グァダニーノ監督はここでジョーンと明確にすることで、彼女をバロウズの”罪悪感の象徴”として表現したかったのではないだろうか?後に彼女を銃殺したこと、それはバロウズが死ぬまで付き纏った罪悪感の象徴ですから。
映画の物語的に全く関係ないジョーンを登場させるのは違和感がある。ただこの映画、「QUEER」という小説の映画化であると同時に、バロウズという人物の生涯もなぞっているんです。なのでジョーンを登場させるのは必然といえば必然。バロウズを語る上で避けられない人物。
ジョーンに脚がないのも、空中に浮いているのも、宙ぶらりんで動けない、つまりその罪悪感がどこにも行かないことを表しているのはないだろうか?
さらに面白いなと思うのは、西洋の幽霊は基本足があるんだけど、日本の幽霊は足がないイメージですよね?グァダニーノ監督がどこまでそれを意識していたのかは不明ですが、このジョーンも所謂幽霊的存在と捉えるならDisembodiedな存在はジョーンの方。なのにバロウズの分身であるLeeが”I'm disembodeied."と言う。ここはLeeの夢の中だけど、そこでLeeも霊体化していて、先に霊体になっているジョーンと再会しているということかなと。それでこの場面の次にLeeの足だけの場面になる。これもLeeが霊になっているということを表現したかったのかも?
あと、南米への旅の途中、Leeが処方箋を貰う医者を演じていたのがMichaël Borremansという芸術家。彼の作品に、↓のサイトなどを見て貰うとわかるように、脚や下半身がないものが多数あったりする。この辺りからもグァダニーノ監督はインスピレーションを受けたのでは?という意見も見かけました。
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⑥足とムカデ④
切られた足。そこを這うムカデ。
切られた足は、これもおそらく動けないことの喩え。このシークエンスにあった囚人もそうだったし、ジョーンの体も同じ。そこは一貫してどこにも行けないどん詰まり、閉じ込められてる、動けない状態を表現してる。
アラートンとの関係が上手くいかない状態を表しているだろうし、アメリカから逃れてきて、今は動けず、不毛なただれた生活をメキシコで送らざるを得ない状況のことかもしれない。
そこにムカデが這う。
よく薬物の禁断症状時に体中を虫が這う感覚に襲われる…ということを聞いたことがある。
いろんな罪悪感、嫌悪感を抱えつつ、さらに薬物中毒者、ジャンキーである自分に対しても罪悪感と嫌悪感、不快感を抱えている…。中毒者としても負のループから抜け出せない状態に陥っている。この罪悪感というヴィラン=ムカデという形で登場しているとも考えられる。
ただこれが夢のシークエンス最後に出てくるので、なにかしらまた違う意味があるのかもしれない。
*****
New Order「Leave Me Alone」とヘロイン
Leeが一人でヘロインを打つシーンで流れるのがNew Orederの「Leave Me Alone」。
ここでの歌詞もLeeの心情に上手くシンクロさせている。
”We live always underground.”
この部分、まさに地下に住むムカデ→母国から逃れてメキシコで暮らすゲイ達→ゲイであることに加えて、母国における薬物所持の罪から逃れているLee。地表から逃げて地下に潜ってるイメージと重なる。
You get these words wrong
Every time
You get these words wrong
I just smile
君はいつだって僕の言葉を間違って受け取る
だからただスマイルするしかない…
→Leeの想いがアラートンに”思った通りに”伝わらないもどかしさ、苦しさ、こんなに好きなのにどうしてわかってくれないのか?と言う部分と重なる。
このヘロインシーンの前に、Leeはアラートンに南米への旅を提案しています。原作ではそこに至るまでにかなりの葛藤がある。アラートンのことが好きすぎて四六時中一緒にいたい、四六時中イチャイチャしていたい。しかしアラートンはドンドン引いていき距離を取り始める。それでLeeは彼が質屋に入れてた”カメラ”を、それも彼が質札を失くしたので通常以上にお金をだして買い戻してあげたりする。そうすることでアラートン自身もその好意を受け入れてるくせに、反面、自分が金で買われてる感覚を突き付けられて気に入らない。なのでさらにLeeから離れる。このおじさんと関わらなければ自分が男娼みたいな気持ちにならなくて済むから。Leeとしては別に彼を買ってるつもりはなく、とにかく喜ばせたいだけ。こんな感じでまたしてもすれ違い、気持ちのズレが大きくなっていく。
そういう流れがあり(映画では省略されている)、アラートンがドンドン離れていくものだから、SHIP AHOYにツケがある彼に、この店の共同出資者になろうかなと考えてる…なんて言ってみたりもする。店のオーナーになれば無視できなくなるだろうと。そんな姑息なやり方でも構わないほど必死になっていくLee。彼自身も自覚していながらもどうしようもない状態。
そんな状況で、必死なLeeはアラートンに南米行きを提案する。旅行という形で出来るだけ自然に一緒にいられる手段として。
アラートンは「考えておく、今の仕事が終わるのが10日後だからその時に返事するよ」と答える。ただLeeはアラートンがそこまで必死に仕事をしてるわけではないのを知っているので、10日待っても答えはNOだろうと思い、「仕事だって?じゃあ、その日数分の給料を私が払うよ」とまで言う。
もうとにかく必死なんですね😅。そんなこと言えばより引かれるだろうに…ということを言ってしまう。もうこのどうしようもない状況に耐えきれなくなって、ヘロインを打つ…という流れになるのだと思われます。
そして興味深いと思ったのは、このLeeの欲望を抑えられない、そして誰かを異常に欲してしまう状態というのは、薬の禁断症状時によくあるという意見(真偽は不明。ただそういう意見を見かけた)。Leeはジャンキーなのが基本設定(わざわざ映画では説明してくれてませんがバロウズがそうだったので。まあ見てたらわかるけど)。なので彼の行動や思考パターンはジャンキー特有のものであるということを留意しておく必要があるわけです。
そう考えると、一連の過剰でおかしな行動も大体説明が付くような気がします。
そしてヘロインなどをやると、その孤独感が一気にどうでもよくなるんだそう。満たされた恍惚感に包まれるのだから当然といえば当然。
だからここで流れる歌のタイトル「Leave Me Alone」は、「一人にしてくれ、ほっておいてくれ」と、まさに薬をやっている時のLeeの心情そのものだという指摘を読んで、ハァ~なるほどね~!と、薬をやったことない私にも非常に腑に落ちたのでした。
It's gonna be so quiet in here tonight
ヤクでキマっている時は精神が研ぎ澄まされて周りの雑音が消えていく感覚になる、数時間一点を見つめ続ける…なんてことも言われる。バロウズも靴の先を見つめて8時間過ごした…なんて書いている。
なので、あのヘロインシーンはそういうLeeのトリップしている状況を映像化してみせている。夜から朝に、タイムラプスで一気に時間経過を表現しているのもそれが理由でしょう。
海外コメではこのヘロインシーンが素晴らしいという意見が多い。
確かに本当のジャンキーのような演技で素晴らしいとは思うけど、そこまで何が凄いのかは…私にはよくわからなかった。海外では薬物経験者、ジャンキー仲間が共感してるんですかね?😅
机に置かれている本は 「Appointment in Samarra」。
1934年に書かれたJohn O'Haraの処女作。
ヘミングウェイが「何を書いているか分かっている男が書いた素晴らしい作品が読みたいなら、「Appointment in Samarra」を読め」と薦めていたほどの作品。
車ディ―ラーの男が衝動的に取り返しのないことを繰り返し、最後はガス自殺する…という話のよう。Leeの衝動的な行動で取り返しのつかない方向に突っ走っていってる+ヘロイン注射(ある意味自殺行為)をこの本で強調している感じでしょうか?
New Orderの前身バンドが「Joy Division」。そのリード・ボーカルだったIan Curtisイアン・カーテイスも23歳の若さで自殺している。妻と子供を残して。カート・コバーンと似てますね。ただセクシュアリティに関しては別の女性との関係があったとかで、クィアではなさそう。ただそういう離婚問題、養育権等の諸々のことで鬱状態に陥ってはいたらしい。
そしてこのイアン・カーティスもバロウズに心酔していた一人。バロウズの作品「Interzone」から”Interzone”という曲を作っているくらい。
そして1979年のベルギーでのイベントでカーティスは自身のアイドルであるバロウズに会っているそう。
ただファンには気さくに接し、自分の家にやってきた若者にもマリファナをねだって一緒にやるようなバロウズが、このときは”Fuck Off”(どっか行け!)と言って相手にしなかったとか。ただこの情報は真偽のほどは不明。どこか伝聞の途中でそうなった可能性もあるとか。
カーティスはカフカや、先述した”Miracles of Life”と言っていたという「太陽の帝国」の作家J.G. Ballardのことも好きだったそう。いろんなものが繋がってるし、グァダニーノ監督はよくそれらを勉強していることがわかる。
Chapter 2:Travelling Companions
ルート・マップ
映画では原作よりも省略している部分も多いのですが、おおよその移動経路を載せてみます。
まず原作でも映画でもメキシコシティからパナマシティまではバス移動。
(この移動道中がプリンスのアップテンポの曲「Musicology」が流れてるあたり)
そこからエクアドルの首都であるQuitoキトまで飛行機。

映画では飛行機移動あたりでLeeの体調が悪くなってきている。
そしてアンデス山脈の高地にあるキトに着くので、風が強く寒そうな描写になっているわけです。
キトを起点に、エクアドル内の移動はこんな感じ。↓↓↓

西側はマンタやグアヤキルなど海や河口に面した町
アンデスの東側はアマゾン。コッター博士の家はそちら側にある。
まず体調が悪いので、キトで医師に処方箋を貰う。
その後、海沿いの町マンタに移動する。ここが二人で海に潜ったりしていた所。
映画ではマンタからグアヤキルに移動しているのですが、移動描写がないので、画面に映ってる”ある物”に気付かないとわからない(後で説明します)。そしてグアヤキルにアラートンを残して(一応サリナス行きのバスがどうとか言っているので一人で向かったのかも?)、Leeが一人キトに戻り、ヘルナンデス博士にヤーへの場所を聞きに行く。そしてグアヤキルに戻り(ここも省略)、プヨの奥にあるコッター博士のところに赴く。
原作では、マンタから海沿いを南下したかったが洪水で道が塞がれていたので飛行機でグアヤキルへ。数日そこで滞在し、La Playas ラ・プラヤス(地図上ではヘネラル・ビジャミル)、サリナスと移動し、その海辺のリゾートであるサリナスにアラートンを残し、Leeはキトにヤーヘの情報を聞きに行く。
サリナスに戻って合流し、グアヤキル、ハバオヨ、アンバトと経由して、プヨからコッター博士のところへ。
映画では随分省略されてしまいましたが、原作でも省略された町で特に何かするほどでもなく、名前が出てくる程度です。
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A Nuestros Amores
道中、Leeとアラートンがヤーへについて訊く店の名前。

これはMaurice Pialatモーリス・ピアラ監督の「A Nos Amours」(1983) (To Our Loves)という映画へのオマージュなんだそう。スペイン語読みにしてる。
映画のプロットを読んでみましたが、15歳の少女スザンヌが虐待的な家族に育ったからか愛を感じることができず、次々と男を変えて付き合っていく話な模様。タイトルも「私の愛した男たちへ」的な感じかな?
「QUEER」にオマージュとして名前を出す共通点は何なのか?まったくピンと来ない( ̄▽ ̄;)。イタリアでもメキシコでもなくフランス映画だし。
sexual awakeningがテーマとも書かれているので、性の目覚め的な感じ?これまたLeeやアラートンとも重ならない。
ここでピアラ監督とグァダニーノ監督を深掘りしてみると、グァダニーノ監督はピアラ監督を尊敬&影響を多大に受けていて、「A Nos Amours」は「君の名前で僕を呼んで」の方に影響を与えていたことが判明。確かに、「君の名前で~」の方はエリオの性の目覚め的な部分があったので納得。
グァダニーノ監督のピアラ評はこんな感じ(抄訳ですが)。
「ピアラ監督は容赦なく、決して目を逸らさなかった。現代の映画では考えられないほどに冷徹で、まさに挑発的とも言えるほどだった。近頃はエッジの効いたものを作るのではなく、角を滑らかにするようなものが殆どですが、彼はエッジを作り出し、各要素と格闘していた」
これからわかるのは、観客の理想に迎合した中途半端なハッピーエンドで客を喜ばせようとする作品を作るのではなく、各キャラが血の通った本当の人間として作品の中で生き、悩み、苦しむ様を冷徹に描き出すことを大事にした作品を作りたい…そういうことを「A Nos Amours」という名前を出すことで暗に表明している感じでしょうか?
もうこの時点で、Leeとアラートンがハッピーエンドなんてなまっちょろい結末を迎えね~ぞ!と言っていたということ?凄ッ!気付けるわけないっ!😅
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Prince「Musicology」
南米の旅の描写が続き、背後で流れるPrinceの「Musicology」。
歌詞はコチラ参照。https://genius.com/Prince-musicology-lyrics
コレと言って映画の登場人物の心情と重なる感じでもない。
この
Keep the party movin'
Keep the party movin'
Uh, don't stop dancin'
Keep, keep, keep the party movin'
というところで、Leeとアラートンのパーティーがテンポよく移動し続けてる感じを表現したのかな?😅
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Junk Sick
Leeの体調が悪くなっていく描写。原作ではJunk Sickと書かれている。薬物中毒症状、または禁断症状といった感じでしょうか?
メキシコシティからパナマシティまでは、その辺の薬局で薬を買ってる描写が続く。
薬局で買っているのはparegoricパレゴリック:18世紀に最初に作られたアヘン、アニス油などを成分とする下痢止め薬…つまり麻薬成分のある鎮痛剤。阿片チンキと訳されてました。
その他にもマリファナやコカインもLeeはやってる。
(アラートンは映画では何もやってなさそうだけど、原作ではマリファナはやっていて、やってもすぐ眠たくなると書かれている)
おそらく、アラートンと旅行に来れて物凄く浮かれてる。それで普通以上にやり過ぎてしまう。それが後の健康状態の悪化に繋がるのかと。
で、エクアドルのキトに来たら急に処方箋がないと買えないことになる(国によって規制が違うのでしょう)。それで禁断症状がひどくなる流れ。(標高の高さとかも関係するのかな?🙄コカの葉が高山病に効くなんて話もある)
(ただ映画ではアラートンがキトの薬局で何か買い、Leeが抱きついて喜んでる?ような描写がある。しかしその割に症状は回復しない。この辺りは謎…)
あとJunk Sickとは、てっきり薬が切れてきた禁断症状だけなのかと思ったら、薬をやった後でもなるそう。体調に合わなかった場合にも同様のインフルエンザのような症状が出るんだとか。
どっちにしても薬のせいでインフルエンザのように寒がってるわけですね。(実際標高も高いから寒いんだろうけど)。
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「NO」の謎
LeeがJunk Sickで寒く、アラートンのベッドに行っていいかと訊く場面。
原作ではアラートンに「起きてる?」「寒い?」と訊く。
するとアラートンは「Yes」「Yes」と答える。
しかし映画では「Yes」「No」と答える。ベッドにパンイチで寝てるアラートン。確かに寒くはない様子。
ココの改変が気になる🤔。
原作でもこの後に寝ぼけたアラートンが足を被せてくる…と描写するので、映画と同じ。ただ、寒くて毛布などを被っていたら、二人の脚が絡まる様子が絵的に撮れない。なので何も被らない設定にするために改変したのか?その方が印象的かつ官能的になるから。
何といってもこの場面、ラストシーンで、いや映画全体にとっても重要になってくるシーンです。
グァダニーノ監督によると、この場面が映画後半の原作に無い創作部分に影響を与え、テーマの深掘りに寄与していると言及していたので。
ということで”謎”の答えは最後に。
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第二の夢:二人の間で空中に浮く紙
そしてLeeの(アラートンも?)夢の中の不思議な場面が映される。
これはFrancis Alÿsフランシス・アリス の「La Leçon de Musique」(音楽レッスン)(2000) という作品からの引用。彼はベルギー出身で、メキシコを拠点にしているアーティスト。
映画では念力で紙を動かしているようにも見えますが、アリスの絵画では二人の男が息を吹き合って紙のバランスをとって浮かせているように見える。
これは何を意味するのだろうか?
この絵画の解説を探してみたのですが、ズバリ、コレ!みたいなのは見つけれらず…
The two guys can’t stop blowing, or the paper falls というNYTimesの説明文から、緊張感のあるバランス、どちらかが引いたら崩れる危うさ、やめるにやめれない状況…もしくはポジティブに考えると、二人が協力してバランスを保っている、絶妙な調和…そういう風にも捉えられる。タイトルがミュージック・レッスンなのを考えると、後者の、絶妙な調和、協力して調和のとれた音楽を紡ぎ出そうとしている…と捉えた方が妥当でしょうか?
で、今回も夢でLeeの心理を表現していると考えると、
(ここはアラートンもいるので、二人の夢が重なってると捉えてもいいかもしれない)
これは二人の”気持ち”のバランスが揺れ動きながらも絶妙に保たれている状態を表しているのではないだろうか?
メキシコシティで素っ気なくなっていたアラートンが、旅の間は a good traveling companion 良い旅のお供 でいてくれてる(原作にもそう書かれていた)。Leeにちゃんと付き合ってくれるし、薬買うのにも協力してくれるし、体調悪いのを気遣ってくれるし、ベッドにも入れてくれた。「ヨシッ!イイ感じに想いのバランスが取れてきたのでは?念力で薄い紙(危うい関係)を保てるほどにテレパシーにも近づいてきたんじゃ?」…と言う感じでしょうか。
アラートンにしても、ちょっと気持ち悪いシツコイおっさんだと思っていたけど、なんだかんだ旅していたら楽しいかも?と、再び心を開き始めていて、そういう意味で危ういながらもバランスがとれて来ていた…。それでこの後の海辺でのシーンなんかでは、割と楽しく過ごしてる描写になるのではないでしょうか?
このシーンの為に絵に合わせた衣装まで作ったそうで、気合入ってる。それだけ意味のあるシーンとも考えられる。
この映画の衣装デザインはJonathan Anderson。
ロエベのクリエイティブ・ディレクターで、映画「チャレンジャー」のデザインも手掛けてる。ユニクロとコラボしてたから名前は見たことある人も多いかも?
イギリスのthe Designer of the Yearに選ばれたりもしている。
彼によるLeeとアラートンの衣装デザインコンセプトが興味深い。
Leeは朽ち果てた死骸に引っ掛かってるような服、反対にアラートンは体にフィットした服のイメージ。(魅力が)減少していく感じと魅力が溢れる感じ、飢えと満足、渇望と充実感…というコントラストを意識している。
ダニエル・クレイグがインタビューで言っていたのは、Leeが白を多く来ているのは”コカイン”とか”ヘロイン”の白い粉のイメージなんだとか😅。反対にアラートンはTranslucent半透明(ちょっと透けてる感じ)の衣装が多いんだとか。確かに体の線がよくわかるピタッとした服が多いし、乳首の場所がよくわかるみたいな服もあってエロいなぁ~とは思っていたけどw。この見えそうで見えない感じが、アラートンの本性が見えそうで見えない感じと重ねてるということでしょうか?
Jonathan Andersonとグァダニーノ監督とは”Sisterhood”(←二人ともゲイなのでね)と言ってたくらい、お互い何考えてる読めるほどのツーカーな関係なんだそうです。
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キトの医師:Michael Borremans
Junk Sickで苦しむLeeが訪ねたのはユダヤ人の医師。
この医師を演じるのが、先述したベルギーのアーティストである Michael Borremans。彼の作品はコチラを参照↓。
彼と、メアリーを演じたAndra Ursutaは同じエージェントに属している模様。
グァダニーノ監督はアートと映画の橋渡しを意識しているのだと。
こちら記事によると、
彼女の彫刻は”ボディ・トランスフォーメーション”や”ミソジニー”を表現しているんだとか。
そう言う意味だと、Leeの夢の中に出てきた足のないジョーンは、彼女の作品からのインスピレーションが強いのかも?当時のバロウズは結構ミソジニーで、女性のことを悪く言ってるんですよね(のちに変化しますが)。
あと、彼女のこの体が溶け合ったみたいなオブジェは、のちのLeeとアラートンの融合シーンに、これまたインスピレーションを与えていてもおかしくない。
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海辺の町マンタ&グアヤキル
そしてやって来ました、海辺の町マンタManta。
(撮影はシチリアのビーチだった模様。何かの植物のトゲがいっぱい落ちていて、撮影のカットがかかった途端、アァ~と叫びながら棘を抜いていたんだとか😬)
原作では竹で出来た小屋に泊まって…みたいな描写だったので、映画で彼らの後ろに映ってる竹のコテージみたいなところに泊まって数日過ごしたという感じでしょうか?
このゲイ・ムービーお決まりの水辺のシーンについての私の考察は、コチラの記事で詳しく書いてます。
ここで水辺が出てくるということは、二人にとって、自然の中にいることで、抑圧から解放された、より本心を曝け出している状態だということ。
「君の名前で僕を呼んで」でもガルダ湖から引き揚げられた彫像で握手するシーンの後、休戦と言って水遊びして仲を深めてましたし、秘密の泉に行ったところで初めてのキスもしてました。
Leeは勿論だけど、アラートンのノビノビとした感じこそ注目すべき点だと思います。彼は基本Uptight(お堅く)で本性を曝け出さないように自分と外の世界に膜を張ってる人物。その彼がハジケてる。
この心の解放があったから、のちの”二度目のS〇Xシーン”に繋がる流れなんですね。それも手コキ程度でなく挿入まで…🤩。
ここで、映画ではわかりにくいのですが、原作ではマンタからグアヤキルという街に移動してきています。先ほど載せた地図参照。
映画では移動の場面が挿入されていないのですが、S〇Xの最中に外の風景をカメラが映す時、ある塔が映っているので移動してきたことがわかる。
この塔、もしかしてグアヤキルにあるのでは?と探してみると、ありました!!街のシンボルの時計塔なんですね。
ということで、映画の中でもグアヤキルに移動して来て、そこのホテルでS〇Xをしていたんですね~。芸が細かい!!w
あと、個人的に気になっているのは、マンタの海で泳いでるLee。なんだかタコみたいな口してタコ踊りみたいな動きしているんです🐙。
原作でLeeがBOBOの話をする中でこういうくだりがあります。
「敵意ある存在に脅かされる時、タコが墨を吐くみたいに、Loveという煙幕を張るんだ」
グァダニーノ監督のこの原作の読み込み具合を鑑みるに、愛の煙幕で二人を包み込みたいLeeを表現するために、ダニエル・クレイグにタコの演技指導をしててもおかしくないのではないでしょうか?←考え過ぎ?😆
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Quitoキトの植物学者
キトの植物学者Doctor Hernandezを演じたのはAndrés Duprat。彼も脚本家、建築家、キュレーターの肩書を持つ人物。
Yageがどんな植物か?その効果などを教えてもらう。
博士はLeeにこう言う。
Yage は、どこかへ導いてくれる扉のようなものではなく、鏡のようなもの。
それを覗き込んだ時、そこに見えるのは自分が好むものではないかもしれない。それを悟った時には、もう手遅れになっているかもしれない…と。
ここで”鏡”がまた出てきました。映画「オルフェ」で鏡が出てきたこと、そしてその中に入ってみたものの、思うような結果が得られなかったという内容と符合しているんですね。
ちなみに、原作ではヘルナンデス博士は名前さえ出て来ず、Leeがキトの植物学者に会いに行ったという2行ほどの描写で終わってる。映画のような会話もないし、ドクター・コッターの地図も描いて貰わない。
YageがAyahuascaという植物であり、学名はBanisteria caapi。Puyo辺りのジャングルに生えていると教えてもらうだけ。コッター博士のことは、Puyoに着いてから現地の人に教えてもらう流れになってます。
Chapter3:The Botanist in the Jungle
Dr.Cotter
この第3章は原作からかなり改変がなされている。
まず原作ではコッター博士は男性で、妻を伴っている設定。
用心棒の蛇、ペットのサルやナマケモノがいる点はほぼ同じ。
しかしながらLeeたちへ対応が随分違ってきます。
コッター博士はほぼ警戒心を緩めないながらも、一応現地の魔術師とのコネを活かしてayahuascaを手に入れてあげてもいいと言う。それなのに3日間ものらりくらりとはぐらかし、結局Leeとアラートンは諦めて帰ってしまう。そこでここでの話は終わる。
なので映画のようにayahuascaによる幻覚体験は一切なし。
グァダニーノ監督的にいうと、原作のLee達は扉を開けかけたがすぐ閉められた。
映画はその扉を開けて、中に何があるのか見てみるところまで描こうとしたんだと。
映画でのコッター博士は、Leeのアラートンへの想いを察知し汲み取り、協力してくれるお節介バ…エエおばちゃんになってるw。
コッター博士を演じたのはレスリー・マンヴィル。
最近観て憶えている彼女の作品は、この「ミセス・ハリス、パリへ行く」でしょうか。
この映画も「QUEER」と似たような時代の1950年代が舞台。片やこんな品のあるミセスを演じていたと思ったら、今回はミセス・ハリスの面影の欠片もないぶっ飛んだおばちゃん。そりゃ皆が驚いて絶賛しているわけです。
余談ですが、マンヴィルがゲイリー・オールドマンの最初の奥さんだったとはシラナンダ。その後オールドマンはユマ・サーマンと結婚したり、イザベラ・ロッセリーニと付き合ったり、5回も結婚してる(懲りないね~😅)。「フレンズ」でアル中の俳優役をしていたけど、実際にアル中の問題も抱えていたんだ…マンヴィルよりオールドマンの実生活の方が気になっちゃったw。
コッター博士の夫を演じたのはLisandro Alonso。彼も役者ではなくアルゼンチン出身の監督、ライター。
このコッター博士のあるジャングルについての話。
あのジャングルは全部セット😲。
ローマのチネチッタ・スタジオ近くの工事現場に穴掘って、本物の木やフェイクの木を植えて作ったんだと。
エクアドルに視察に行った時に、現地の植物学者からPUYOに実際生えている植物リストを貰い、それらのいくつかがシチリア島に生えていたので取り寄せたりもしたそう。
ただグァダニーノ監督は、ローマではコストが高く、フェイク植物も彼の拠点であるベルガモなら半額くらいで買える。だからチネチッタでの撮影は最初で最後…みたいなジョークも飛ばしていた(伝説的なチネチッタでの撮影は長年の夢だったんですけどね)。別の動画でもローマに15年ほど住んでたけど、どの瞬間も嫌いだった!といって笑いを誘っていた。千年の都と言われるくせに、とにかくインフラのカオス具合が見るに堪えないんだそう(苦笑)。
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コッター夫妻の仮面
ayahuascaを飲んだ後、コッター夫妻が帽子で作った仮面をかぶって、原住民祈祷師が歌いそうな歌を唄う😅。
どこかで読んだ考察では、この時点では、まだ本心を出せずに仮面を被っている状態(特にアラートンかな?)を表現しているとか。
あの博士の、ムッチャ適当に歌っているように聞こえる歌がジワジワ来ます🤣。
あと帽子の模様も催眠効果を誘うような感じですよね。
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吐き出す心臓
ただの草と根っこ煎じて飲んだだけじゃん?…と思っていたら始まる幻覚描写。
この部分の考察は、まさに絵の通り、心を吐き出す、本心を露わにするという意味だと。
そう思うと、最初のLeeとアラートンの性行為の場面。あそこでアラートンが不味いブランデーで吐いていた描写も、本心を露わにしたから性行為に至ったということだったんだなと。
この辺りのグロさはクローネンバーグの「裸のランチ」のグロさと通じるものがある。「裸のランチ」ではバロウズの定番キャラである”喋る肛門”というなかなかスゴイものがでてきますので😅。
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焚き火の前で消える体
これはアラートンの言葉通り、I’m disembodied 実体のない状態になったことを表現している。もし”幽体離脱”というなら、怪しげなドラッグをやって臨死体験していると言ってもいいかもしれない。
ここまでは服を着ているけど、次のシーンから裸になっているので、実体がなくなり、次のシーンの二人は所謂”魂”になって溶け合うように絡み合っているということなんでしょう。
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ダンスシークエンス
Leeとアラートンの体が溶け合うような映像が続くシーン。
Leeが酔っぱらってアラートンに言った言葉
”I want to talk to you, without speaking.”がまさしく叶う瞬間です。
(このセリフが”S〇Xしたい”の隠喩だとも捉えられるので、このダンスの幻覚=S〇Xしてるという可能性もあるかも?そこは各自の判断に委ねてる感じでしょうか?)
そして息が合った動きをしている。ここまでずっとズレていた二人が漸くシンクロ出来た瞬間でもある。
ここでの映像表現は、ここまで度々使用されてきた二重露光で重なり合うような表現に加えて、イギリスの画家フランシス・ベーコンの作品からインスピレーションも貰っているそう。
グァダニーノ監督が2022年にイギリスで開催された「Francis Bacon: Man and Beast 」というエキジビションを見たのだとか。
↓のフランシス・ベーコンの作品群、顔がグニャ~と崩れたようなポートレートや、体がグニャ~と混ざり合ったような絵が出てきます。まさにLeeとアラートンの混ざり合ってる場面のよう。
調べてみると、バロウズとベーコンは面識があった。
50年代、バロウズがモロッコのタンジールに滞在していた時期にベーコンも当時の恋人と滞在していた。その恋人がかなりのアル中サディストで、ベーコンの前歯全部折れたのも彼のせい。その後ベーコンは去り、長い間交流はなかったようだが、晩年に何度か対談している映像が残っている。
ベーコンの方が5歳ほど年長。1940~50年代には既に顔がグニャ~となったポートレートを描き始めていたようなので、まさにこの映画の中の時代と重なっている。
そしてどこまで意図してフランシス・ベーコンを参照したのかは謎ですが、ダニエル・クレイグがそのフランシス・ベーコンを題材にした1998年の映画「愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像 Love Is the Devil: Study for a Portrait of Francis Bacon」に出演しています。30歳頃。
ここでのダニエル・クレイグの役どころは、「QUEER」とは逆。
フランシス・ベーコンはゲイの画家であり、その家に忍び込んだ若い強盗で、そのままベーコンの愛人になる役(ベーコンは基本的にMなのか、悪い男が好きなんでしょうね~)。老いた芸術家の愛の対象。つまりアラートンのような役を既に経験していたということで、ぐるっと一周回った感があるのです。
007ジェームズ・ボンドの前にはこういう役をやっていたから、自分的には今回の役も別に特別なことじゃないとも言っていました。1993年の舞台版「Angels in America」でもモルモン教徒で隠れゲイの夫役をやってたりもします。
というわけで、映画の中でもベーコンの作品を彷彿とさせるような映像表現(体が溶け合うような)があり、ダニエル・クレイグの起用もあり、「QUEER」はこの作品へのオマージュ的な部分もありそうです。ちなみにグァダニーノ監督のミューズ的存在ティルダ・スウィントンも「愛の悪魔」には出てたりする。
このダンスについて話している動画によると、
二人ともダンスは苦手なのでチャレンジングだった。撮影の合間などに一ヶ月ぐらい一緒に練習をしたそう。そのことで距離も縮まったと。
最初はセットの土や石がある場所でのダンスだったが、そこで寝転がったりすると傷だらけになるので、100パウンド=45Kgほどのコーヒーの粉を敷いて、その上で踊ったのだと。←なるほど、体に付いていた茶色い粉はコーヒーだったんだ。
振付を担当したのはPaul Lightfoot and Sol Léonというコレオグラファー・コンビ。Solさんは女性だったんですね。イギリス人とスペイン人。
コンテンポラリー・ダンスなので、おそらくLeeとアラートンの動きにもひとつひとつ意味がありそうだけど(創作に二ヶ月かかったそう)、それを解説してるのは見つけられなかった。あの”手のひらを指さして回す”動きの意味が知りたかった…笑。
ただこのダンス・シークエンスは結構評価が分かれてる感じでしょうか?
批判的な意見としては、長すぎると。
確かに私もちょっと冗長過ぎるかな?とは思いました。それぞれの動きが何を意味しているのか分かるならまだしも、訳の分からない動きをあの尺で見せられても、いつまで続くんだ、コレ?となったのも事実。ただ、深読みするなら、ドラッグの効果がいつまで続くんだ?という不安にさせる要素と重ねて(のちにアラートンが恐怖する伏線にもなり得る)、ああいう尺にもっていったのなら、一応納得できるかな。映像表現としてはおもしろくて、ホラーっぽいという意見もあるけど、私は嫌いじゃないです。
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涙の意味は?
ayahuascaによる幻覚の後、部屋に戻ってる二人。もう幻覚ではないので元通り服を着ている。
そして二人は横になり、それぞれ涙を一筋流す。
ここでのLeeの涙はおそらく嬉し涙の可能性が高いかと。
いままで切望していた愛する人と溶け合うような経験が出来たわけですから。I had a conversation with you without talking という感じでしょうか?
(ただ、あの融合体験中にLeeも喜んでる感じでもなかったんですよね。叫んだり苦しんでるような表情が多かった。思っていたものと違った失望の涙の可能性も否定できない)
一方のアラートンはというと、彼の涙はやはり恐怖や後悔から来る涙かと。
翌朝の彼の反応からして後悔しており、見たモノから目を逸らしたい様子がありありとしていた。見るんじゃなかった、行くんじゃなかった…映画「オルフェ」の寓意がここで効いてくる。
では何が怖かったのか?
幾つかの考察で言われていたのは、彼はまだ自身のセクシュアリティ、クィアやゲイであることを受け入れられていない人物。しかしその自分自身認められていない本当の自分の姿が見えてしまい怖くなったと。Leeとの相思相愛の部分も見えたが、まだ関係を築く準備ができていなくて怖くなったと。
ここ原作だとそもそも幻覚シーンがないですし、コッター博士宅滞在中でもアラートンに手を出そうとするLeeを邪険に扱ったりして、こんな相思相愛感は全くなかったりします😅。なのでグァダニーノ監督としては、ある意味かなりロマンチックに改変しているんですね。
私はもう一歩踏み込んで、アラートンは自分の本当の姿と同時に、溶け合ったLeeの中に将来の自分の姿も見えたんだと思うんです。アラートンはLeeの若い時代を具現化したような存在としても描かれている。Leeが泥酔した時の悪夢の中で、妻のジョーンに”Aren't you Queer?”と訊かれて、”I’m not Queer, I'm disembodied.” と答えてました。つまりLee自身も若い時は自分のセクシュアリティを認められていなかった。その自己否定の時期を憶えているので、アラートンが同じことをLeeに言った時に”I Know”と共感する相槌を挟んでる。
そしてそういう自己否定し続けてきたLeeの過去が見え、薬で苦しさや寂しさを紛らわせジャンキーになり、愛を求める情けないモンスターになって若い男に付き纏っている。自分もそんな運命を辿るかもしれない現実を突きつけられたら、こんなクールを装っているアラートンには恐怖でしかない。そう見えてしまったが最後…Leeが目の前にいることは自分の恐ろしい未来を突き付けられているようで耐え切れない。なのでサッサとコッター博士宅を去り、Leeの前からも姿を消したのではないかと。
そしてLee自身も、ずっとアラートンの中を覗きたいと思っていたけども、自分の中も覗かれてしまったわけで、それでアラートンが失望したことも感じ取ってしまった。よってその後はアラートンの決断に無言で従うしかなかった。
もうひとつの考察としては、
バロウズやギンズバーグが使っていた言葉に”schlup シュラップ”というものがある。「裸のランチ」でも出てくる言葉。(参照の掲示板スレッド)
なんだか造語っぽいので今ひとつ把握出来ない部分もあるのですが、ギンズバーグは”魂の融合”的に使っていたそう。←これはここまでの流れの解釈と同じ。
一方バロウズは、二人の魂(体も?)が混ざった時に、強い方に弱い方が吸収されて(消えて)しまう…という概念で使うことが多かったらしい。
Leeとアラートンのどちらが強かったかは不明ですが、キャラが強いのはLeeの方だと考えるのが妥当。Leeに吸収されて自分が消えてしまいそうな感覚をあの幻覚の中で見たのなら…それは確かに怖くなっても仕方ない。自分をコントロールすることを強く意識しているキャラとして描かれているアラートン。そんな彼にとって自我の消失ほど怖いものはなく、かなりのダメージを与えたことは間違いない。
バロウズファンのグァダニーノ監督だと、この説が案外有力なのかもしれない。
翌朝のコッター博士もアラートンに「昨日の自分を見るべきだったわね」と言っていた。初めてなのに自我を失うほど没入していたからだろう。博士的には「あんた素質あるよ!」ってことだけど、アラートン的には自我を失うのは怖くて仕方ない。マリファナとかだっけ?楽しい気分も増大するけど悲しい鬱な気分の時にするとそちらも増大するっていうの?それのもっと強力なバージョンだと考えると、確かに怖くなる気持ちもよくわかる。
Epilogue:Two years later
空から落ちてくるLee
真っ暗な星空から地上に落ちてくるLeeの描写から始まるエピローグ。
ここまでもシュールでぶっ飛んだ描写があったので、そこまで驚きはしないものの、それでもエッ?どこから来たの?なんで?…とは思ってしまいます😅。
ダニエル・クレイグが演じた007ジェームズ・ボンド映画「SKY FALL」に掛けてるのか?と思ったりw。
ロンドン五輪でも女王陛下と一緒に空から落ちてましたからねw。
ジェームズ・ボンドじゃなくて、何か他の映画でもこの落ちてくるシーン見た記憶があるんだけど思い出せない🤔。
一応いくつかの記事で指摘されていたのは、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」を視覚的に彷彿とさせているのではないかということ。
確かに宇宙空間っぽいところは似てる。ただあんなふうに落ちてくる描写あったかな?🙄
しかしこの記事の解説が割と納得できるものでした。
「2001年宇宙の旅」でも、ラストに主人公のボウマンが突然年老いていってベッドに横たわる描写がある。その時の部屋の色合いがグリーン基調。そして新しい存在スターチャイルドに生まれ変わる。
「QUEER」のラストでもLeeが急に年老いて、ホテルのベッドに横になる。その時のホテルの色調がグリーンに変化しているんですね。そしておそらく人生を終え、新しい命に生まれ変わる。
人類の叙事詩である「2001年宇宙の旅」を引用することで、この映画は長~いバロウズという人物の叙事詩を描いてきたんですよ…というメッセージなのだろうと。←そうなるとラブストーリーと言うよりもライフストーリー映画と言うことになる。
原作のエピローグ部分を読んでいると、こんな一文も発見しました。
Mexico City is a terminal of space-time travel.
メキシコシティは宇宙&タイムトラベルのターミナルだ。
メキシコシティやNYは、時間や空間を越える錯覚を覚えるターミナル的都市なんだと。この辺りから宇宙から落ちてくる(時間も空間も越えてきた)描写になったのかも?
あと調べてみて興味深かったのは、「2001年宇宙の旅」の監督キューブリックは違ったのですが、原作のSF小説家アーサー・C・クラークはゲイだったんですね。それもバロウズと3歳違いで同年代の作家。しかしながらバロウズとクラークはパーティで一度会ったことがあるくらいで親交はなかった模様。
このクラークも一度女性と結婚してたり、その後スリランカのコロンボに移住し、そこで30歳下のスリランカ人の男の恋人と暮らしていたらしい。なのでバロウズと共通する点は多そうです。
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SHIP AHOY 再び
二年ぶりにSHIP AHOYを訪れるLee。
昔の常連は殆どいなくなっているが、ジョーだけは相変わらずいて一緒に酒を飲む。
この時のLeeの風貌がアラートンに似ていると指摘されている。
髪の毛をピッチリ撫でつけ、服装も以前よりも清潔感がある。そしてカメラを持っている。
これは何を意味しているのか?いくつか意見がある。
アラートンがLeeの分身、若い時のLeeを具現化した存在だったと強調するため。
または、二年経ってもアラートンのことを想い続けていて、彼の要素を取り入れ、彼になりたい、彼といまだに一つになりたい願望が容姿にまで出てきている…という意見。
あとは、ジャングルでの体験を経て、今は薬を止めてSoberシラフの状態になっている…という意見も。←空から落ちてきてダンッと地面に足を付けたのが、”地に足付けて生きている”というそのままの表現だったりして!?英語でも "Down to earth" と言いますしね😆。
どれもそれなりに納得できる意見かと。
あとジョーが教えてくれたアラートンの近況について。
(原作ではジョーはおらず、いろんな人に訊きまわってる)
半年程前に軍の大佐と一緒に南米の方に向かったという。
ここ、原作では大佐とその妻と一緒にとなっている。
それだと、二人のガイドとして付き添った感が強い。
Leeとの旅で発見した強力なドラッグの知識を活かして仕事に繋げた。もしくは金儲けに活かそうとしている…なかなか侮れない人物。ジョーの所持品を奪っていく相手と同様、アラートンもLeeを結局利用&搾取した風に取れなくもない。
このガイド契約には何か怪しい感じがした…とも言われている。アラートンが逆に騙されてトラブルに巻き込まれてるという印象も受ける。殺されて霊になっているからラストシーンで現れるのか?
一方映画では大佐しか出てこない。アラートンはLeeとは違う男(=大佐)と一緒になっている(交際している)と解釈している意見もチラホラ。その男と南米を再び訪れ、融合体験をしにいった…と。他の男に移ったアラートン。完全に自分とは終わったことを知って、Leeは打ちのめされたんだと。だから次の夢の場面になるんだと。
ただ、「アラートンが南米でLeeと合流するとか言っていた」というのが何を意味するのかは不明。南米でLeeと融合した話を勘違いしたということか?
映画ではこの後、ジョーがLeeのカメラを見て、「いつ手に入れたの?」と訊く。そして自分のカメラは盗まれたと言う。この会話は原作にはない。私が思うに、自分のカメラは盗まれた…そしてそれは質屋に売られて金になってるだろうと暗に言ってる。そしてまた別の人間がカメラを買って(例えばLee)、カメラは人の間を巡っていく。つまりアラートンも同じように男の間を巡っていくのよ…とLeeに遠回しに言っているようにも思える。そういうもんでしょ?男って…というゲイ友なりの慰め。
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第三の夢:ラスト前のシュール描写
ジョーとSHIP Ahoyで話をした後、ホテルで眠り、夢=シュール描写のシーンになっていく。
ホテルの部屋+ミニチュア
このLeeが寝てるホテル、最初にワンナイトの彼と寝た部屋と同じ。
このあと夢の中で見るのもこのホテルだし、ラストシーンに老いた姿で寝るのもこのホテル。繰り返し、ループのような錯覚を与える効果を生んでいる。
特徴的なアールデコっぽいスタンドランプと、二本の煙突がある窓の外の景色が同じ。渦巻き模様のカーペットも。
(この二本の煙突も意味深。二本の男根を象徴しているのかな?)
そして夢の中で、机の上に置かれている模型のようなホテルの中を覗き込む。
これが、処方箋をくれた医師役Michael Borremansの「The Journey」という作品から来ているのではと言われている。

確かに似てますね。カーペットの渦巻きで催眠術にかかり、このミニチュア世界に入り込んでいく、まるで魔法に掛かっていくような不思議な空間が生まれています。
渦巻き模様は、ネトフリで伊藤潤二の「うずまき」のアニメを見たからか、個人的には不穏な雰囲気以上に恐怖を感じるようになってしまったのですが😅、英語で検索掛けると、
rebirth、 spiritual path、 growth、 evolution
と、割とポジティブっぽいイメージが多かった。これらの単語は確かにこれから出てくる具象の持つイメージとも重なっているので、ある意味納得できる。
このミニチュア・ホテルはLeeの過去を表しているという考察がありました。終わったはずのアラートンともう一度出会ってやり直したいのだと。確かにやり直したいと思っているのは同意ですが、私は過去ではない気がします。最初の夢と同様だと考えると、Lee自身の潜在意識を覗き込んでいる…という風に捉えた方が妥当ではないでしょうか?
ミニチュアの中に入ったLeeは再び同じ部屋の扉を開ける。するとアラートンが寝ている。(ただここでポイントなのは、同じ部屋に入ったはずなのに、中が全然違うのです。これについては後ほど)
ここでの考察でなるほどと思ったのは、Leeにとって特別な存在だったアラートンが、あのメキシカンの男と同じ部屋で寝ている=ワンナイトの相手、おそらく二度と会わない相手…になってしまっているという解釈。
ジャングルではぐれ、別の男と南米に行ったという話を聞き、潜在的にもう会うこともないだろうと感じているからでしょうか?
寝ているアラートンの上にガラスの板が浮いてる意味が全く分からなかったのですが、これも後ほど私なりの考察を記します。
***
ちなみに、このホテルはミニチュアそのものでしたが、実は多くのシーンもミニチュアで作っていて、実写と合成しています。
動画を見ると、ほぼ全てのシーンがミニチュアで作られているんじゃ?というほどですね。凄い!!サムネに出てる横倒しの客船はどこに出てたんだろう?記憶にないなぁ…。
映画全体の少し現実味のない不思議なトーンは、このミニチュアのおかげなんですね。映画「Poor Things 哀れなるものたち」と通じるものがあるという意見も。
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無限∞のカタチの蛇=ウロボロス
ホテルの部屋に入ったLeeの足元に、無限∞のカタチをして自分の尻尾を飲み込みながら涙を流す蛇がいる。
これは西洋に昔からあるシンボル、Ouroborosウロボロス。
(ネトフリドラマ「百年の孤独」の中でも出てきました。∞ではなくて円環のウロボロスでしたが)
象徴する意味としては、無限性(不老不死)、永遠、円運動、死と再生、破壊と創造、命のサイクルなどなど。
ここでポイントなのが、この蛇が涙を流すこと。
勿論アラートンとの関係を終わらせて(=死)再生するという意味も込められてもいるでしょうが、やはり主には永遠に、無限に続く苦しみの涙を流しているという解釈の方がわかりやすい。
このウロボロスがLeeの足元近くにあるので、Leeの状態を示しているのだと。
ではLeeの苦しみとは?というと、寂しさ、ドラッグ中毒、報われない恋、クィアであることの自己嫌悪、疎外感、罪悪感など…。この繰り返す苦しみの象徴がウロボロスということのようです。
追記:バロウズ&ギンズバーグ著「麻薬書簡」のギンズバーグのヤーへ体験を語っている中にウルボロスではないが”蛇”が登場する。
嘔吐感が出て、外に駆け出して吐き始め、一面ヘビに覆われて、ヘビ天使みたいで、後光つきの彩色ヘビが体中にいて、宇宙を吐き出すヘビのような気分でー
ヘビ天使って何?って感じですが、彩色のヘビとか、宇宙を吐き出すヘビとか、なんとなく映画の中に出てきたウロボロスのイメージの元ネタというか、インスピレーションはこの辺りから来ているのではないでしょうか?
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ムカデ⑤ペンダント
一方、寝ているアラートンが付けているムカデのネックレスが蠢く。
ここでのムカデの考察の一つとしては、
ムカデは前にしか進めない動物の象徴…なんだと。
Leeは同じところでグルグル回って動けない状態なのに対して、アラートンは対照的に前に進んで行っている(確かに別の男と再び南米に行ってしまった)。二人の意識のズレを対比的に表現していると。
(それ以外の意味もこの後説明します)
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ウィリアム・テルの真似
足元のウロボロスが消え、意識を再びアラートンに戻すと、寝ていた彼がベッドに坐り、おもむろに頭にグラスを載せる。暗黙の了解でウィリアム・テルの真似だということでLeeが銃で撃つ。しかし銃弾はアラートンの額を撃ち抜いてしまう。
このウィリアム・テルの真似は、映画の前半、Leeが読んでいた新聞記事でも妻を銃で殺した男の話、その後のパーティー(”I want to talk yo you , without talking”というシーン)でもメアリーがおもちゃの銃で真似ていたり、このシーンへの伏線は張られていたわけです。「裸のランチ」でも何度か出てくるバロウズのルーチンのひとつ。
そしてこれこそがここまでにも書いてきましたが、バロウズが妻ジョーン・ヴァルマーを殺してしまった事件。彼が生涯罪悪感に苛まれることになった事件をモチーフにしています。
1951年9月6日、アラートンのモデルであるルイス・マーカーと南米の旅からメキシコシティに戻ってきたバロウズは、パーティで共に酔った妻のジョーンと一緒にウィリアム・テルごっこをやろうということになる(バロウズはガン・マニアで、日頃から銃の練習などもしていた)。そして彼はグラスではなく妻の額を撃ち抜いてしまう。←のちに落とした銃が暴発したと裁判では供述を変えているが…。
実際の現場の建物↓。
映画におけるこの描写の意味、こういう考察がある。
➀:アラートンへの執着を断ち切る行為。報われない恋に終止符を打つ。それで銃を撃った後に一瞬嬉しそうに笑顔を見せるのだと。苦しみから解き放たれた喜びで。
しかしすぐに自分がしてしまったことに動揺し、アラートンに駆け寄り、抱きしめ、キスをする。
②もうひとつ興味深い説もある。ウィリアム・テルごっこはお互いに信頼し合っていないと成立しない。同じ意識レベルでないといけない。そうでなかったら失敗する。これはLeeとアラートンの関係にも当てはまる。彼らは同じレベルで恋情を抱いていることはなく、ほぼズレたままだった。それを象徴してもいるのだと。
これらの考察も確かに!と思う。加えて、私はやはりこのシーンはバロウズが抱えている罪悪感の象徴なんだと思います。ジョーンを殺したことはとてつもなく大きい罪悪感を生み出すことになるのは勿論、バロウズは自分の同性愛指向に対して嫌悪があり、ずっと罪悪感を抱えている。それはジョーンと出会う前から。そしてジョーンを殺害してしまい、息子もネグレクトし、どんどん罪悪感が募っていく。この逃れられない苦しみのループ。ウロボロスの象徴とも符合する。
私は最初、バロウズがジョーンを殺した話を読んだ時、彼の潜在意識の中には彼女を殺すことでヘテロな婚姻関係から解放され、これで漸くゲイの道を突き進める…みたいな悪意があったのでは?と疑ったのでした。邪魔するものを消したい願望の表れと言う感じで。
しかし、これはちょっと違う気がしてきました。
まずこの二人は事実婚で、籍を入れてるわけではない。なので別れるのにそこまで困難なわけでもなかった。(息子がいるけど、結局その後も面倒みないし)
次に、ジョーンはバロウズの同性愛指向を黙認していた。彼女の方も一時期バロウズと離れていた時期に別の男と寝ていたり、本当にその辺りは自由なフリーセックス感が強い夫婦。バロウズが若い男と寝てようが、嫉妬したとか気にしていたとか、そういう話はどこにも書いていなかった。なんならそういうぶっ飛んだバロウズだからこそ、ジョーンは居心地よく好きになった印象さえ受ける。
なので、わざわざ殺す動機がない。純粋に薬か酒でラリッた夫婦がバカなことをしてしまっただけな気がしています。だからこそ余計罪悪感を強く感じる。
更に超深読みすると、ウィリアム・テルの場合、リンゴを頭に乗せます。
リンゴといえばアダムとイブが食べた果物。人類が抱えた原罪の象徴。
バロウズの逃れられない罪悪感とこの原罪をもうっすら重ねているのかも?
こんな感じで色々考えていた時に、アッ!?この夢のシークエンスはもしかして…という閃きが💡ありました。
それは…
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オルフェ再び
その閃きとは、このシュールなLeeの夢のシークエンス、映画前半で出てきたコクトーの映画「オルフェ」(又はオルフェウスの神話)と符合する!!ということです。
まずオルフェの妻エウリュディケの死因は毒蛇に噛まれたことなのです。
→Leeの足元にいたウロボロス、明らかに色彩が毒蛇を連想するものでしたよね?
死んだ妻エウリュディケのポジションがアラートンなわけです。Leeにとっては終わった恋=死んだも同然の恋人。(死んだ妻ジョーンのイメージもバロウズのことを知っているなら重なる)
なので、あのアラートンの上に浮かんでいたガラスは、おそらく土の下、冥界にいる的な意味合いなのかなと。地上の世界と冥界との境界線的な感じ。映画「オルフェ」では冥界に行くのに鏡を通って行ってましたから、この場面では鏡の代わりにガラスにしている感じでしょうか?映画「オルフェ」でも”鏡”を通るときにフランス語でしきりに”ガラス”を連呼してるんですよね。
そう考えると、アラートンの首に地下世界の住人であるムカデのネックレスが付いていたのも納得できます。
そしてこの閃きに至った一番の理由が、アラートンを抱きしめていた時に急に後ろの窓から音がして、Leeが後ろを振り返る…という謎描写が挿入されていたから。そしてもう一度アラートンを見ると、彼は消えているわけです。
オルフェウスの話も、地上に戻るまで絶対に振り返ってはいけないと言われていたにもかかわらず、振り向いたことで妻は消えてしまう。まさにこの夢のシークエンスと符合しているわけですね。
そして、このシーンが冥界のイメージだという理由がもうひとつ。
前半、空中に浮かぶ妻ジョーンのシーンがありました。あの部屋とこの部屋の間取りが同じなんです。反対に言うと、ここはあのホテルの部屋に入ったはずなのに、ホテルの部屋の時の間取りと異なっている。
ホテルの時は入り口から入って正面に大きな窓があって二本の煙突が見える。そして左右の壁に扉もある。床は渦巻きカーペット敷き。
一方この冥界バージョンの部屋は、正面に小さい窓が二つになり、入り口以外に扉はなく、床も板張り。壁の色も黄色、床の茶色と合わさって土のイメージに近い。
さらに、ジョーンのシーンをよく見てみると、彼女が浮いているテーブルの上をムカデが這っているんですね。もうこれは地下の世界=冥界のイメージで間違いない。
最初は何を見せられているんだろうと思っていたシーンですが、読み解いていけば答えはちゃんと提示されている。
このギリシャ時代から伝えられるオルフェウスの神話。何かしらの教訓が含まれているのでは?と考えました。そうじゃないとこれほど脈々と繰り返し語られてこないはずだと。
調べてみると、このオルフェウスを祖とした「オルフェウス教」(オルペウス教とも)というのがあるのです。
その教義は
”魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱、などを基本的な教義とする。”
とある。さらにはこんなことも書かれている。
*人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず、輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている、という教義。
*「悲しみの輪」からの最終的な解脱、そして神々との交感を目的として、秘儀的な通過儀礼(入信儀式)および禁欲的道徳律を定めていた点。
輪廻転生だけでなく、最終的には”悲しみの輪”からの解脱を目指している。
Leeやバロウズが抱える”悲しみの輪”、そこからの解脱、それには何度も輪廻転生を繰り返していくしかない…というメッセージがここに込められているということでしょうか?
そう考えると、この章の最初に「2001年宇宙の旅」の引用らしき描写があり、ラストはLeeの死から、次の生まれ変わりを示唆しているのでは?という考察もシックリくる気がします。
いや~深い!!冥界に行くほどの深さ!!😲
こんなの、みんな映画観てすぐ理解できるもんなんですかね?ネットでいろんな記事見ましたが、ここまで解説してるのは見かけなかったです。でもここまで読む込んでやっとこの映画の凄さがわかりました。グァダニーノ監督、凄い!!
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ラストシーン
年老いたLeeが再びあのホテルにいる。
ここまでは夜のネオンのせいで赤っぽく映っていた部屋が、実は緑っぽい色の家具が置かれているのだとわかる。「2001年宇宙の旅」にやはり似せているのだろうか?
個人的には、ここまで赤かった部屋は地獄のイメージで、この緑の部屋は天国のイメージなのかな?という気がしてました。もうすぐ長年の苦しみから解放されて、天界に召される…という感じ。
だからこのシーンへの切り替え時に「Lee」と呼ぶアラートンの声が挿入されている。おそらく前のシーンでLeeがアラートンを殺しているから、アラートンの魂が先に大きな全体の魂の場(天国)に帰っていて、もうすぐ死のうとしているLeeをその場所に誘ってるという感じかなと。それで魂となっているアラートンがLeeを後ろから抱きしめてくれるのではないだろうか?
そしてLeeの服が真っ黒なのは、喪服、死衣装のイメージ。
ココこそ白い衣装のほうが良かった気がしますが、死装束が白いのは日本だけ?西洋は黒なのかな?色にはさほどこだわらず、スーツを着せるイメージはある。
そして、ベッドに横たわったLeeにある感覚が…
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最後のムカデ⑥
あのエクアドルのキトのホテルとは逆の位置。Leeの後ろからアラートンが抱きしめてくれ、足をLeeの足に重ねてくる…死の間際、彼の存在を感じるLee。
死ぬ間際に甘美な夢を見ているんだろうなぁ…としか最初は思わなかったのですが、ここまでず~っと考察をやってきて、アレッ?コレって…そういう意味!?😲 ということがわかりました。←私が勝手に思ってることですけどね😅。
それは、このシーンがムカデだということです!!
このシーンのバージョンのポスター。
足元にムカデがいるでしょう?これが強調してくれている。

そう、Leeの足とアラートンの足、4本しかないから中々気付けませんが、この4本の足でムカデの足を表現しているんですよ。
確かに原作でもアラートンが寝ぼけて足を乗せてくる描写はあるのですが、こんなにロマンチックではない。それにこのラストシーン自体映画オリジナルなので、こんな風に二度目もない。グァダニーノ監督のこだわりが凄くあるシーンなわけです。
ムカデはLee自身の象徴とも既に言いました。これでアラートンもムカデの一部になることで、二人がひとつになったことも表現している。
それにキトのホテルで、「寒い?」と訊かれたアラートンが「No」と答え、薄着で足元がよく見えるように改変がなされた理由も、これを強調したかったからだとすると腑に落ちます。
いやぁ~、ムカデをこんなロマンチックな絵面で表現したことがかつてあっただろうか?
最初のムカデの項目で、この映画を象徴するモノが”ムカデ”といった理由はこれでした。納得していただけたのではないでしょうか?
そうなると、SHIP AHOYでジョーが窓辺に寝転んで話をする時、何か意味深に足を上げる時があるんですね。てっきり足を延ばしてストレッチでもしてるのかと思いましたが、「”足”、”足”に注目しなさいよ!」というメッセージだったような気がしてならないですw。

もしかしたら毛布で体部分が繋がって、
そこから足がいくつも出てるムカデを表現してる?
さらに気になったので調べてみたことがあります。
夢の中の冥界でLeeがアラートンを殺してしまってましたが、実際にアラートンのモデルになったルイス・マーカーはいつ死んだのだろうか?と。
バロウズよりも前なのか、後なのか?
コチラの記事が詳しく書いているのですが、
バロウズが亡くなったのが1997年の8月2日。
その死の4カ月ほど前の4月15日に、バロウズは日記にルイス・マーカーとS〇Xした夢を見たと書いているのだそう。映画の中同様に、ほぼ死ぬ前まで彼のことを想っていたということです。
ルイス・マーカーと別れてからも、ギンズバーグや、タンジールではキキというスペイン人の若者、パリ、ロンドンでもイアン・ソマーヴィルなどの恋人がいて、アメリカに帰って来てからもマネージャー兼遺産管理人になるジェームズ・グラワーホルツと関係を持ったりもする。多くの男遍歴を重ねたけども、やはりルイス・マーカーは特別だったのでしょうか?
そしてそのバロウズの死から一年経たない(S〇Xの夢から一年ほど)の1998年4月25日にルイス・マーカーも死亡している。
つまりバロウズの後を追うように亡くなっているわけです。16歳も下なのに。(晩年のインタビューでは酔って記憶も曖昧だったらしいので、結局彼も抑圧を抱えてアル中になって生きたのだろうか?そこまでは不明)
そうなると、上のポスターの場面で、アラートンがLeeの後ろにピッタリ付いているのも、バロウズの後にルイス・マーカーが亡くなったことを表しているように見えてきます。
Leeという人物を描きつつ、実在のバロウズの人生も描いてきた映画の最後を飾るに相応しいシーンだと思います。逆にこれ以外の描写はないのでは?と思うほど。←ただそうなると、先に魂になってLeeを呼んだという説が成立しないんですよね…悩ましい😖。
Opening Sequence
ここで映画の一番最初のオープニング・シークエンスに戻ります。
ここを注意深く見直してみると、ただ映画の中に出てくるアイテムを並べてオシャレに撮ってる映像だけではないことがわかってきます。
このオープニング・シークエンスで、「この映画は、小説「QUEER」の映画化と共に、ウィリアム・バロウズのライフ・ヒストリーである」という表明でもあったということがわかります。
なぜそう思うのか?それは銃と本でした。
まずピストルが並んだカットが出てくる。
勿論映画の話の中でも銃は登場するので重要なアイテムではある。
しかしズラっと何個も出てくる。これは何だろうと?🤔一丁でもいいのにと。そして2カットある。
そこでバロウズの伝記を読んでいると、彼は妻ジョーンを殺したにも拘わらず、その後も銃をずっと愛していたガン・マニアだったことがわかる。
(ナイフも好きだった。そういうのが好きな自分の中の”男性性””マッチョイズム”に縋りつきたかったのかも?)
スプレー缶を銃で撃って、それが飛び散ったものを絵にする…なんて創作活動を晩年にまでやっていたほど。そして割と個展で売れていた。
この銃が並んだカットのあとから原稿やタイプライターのカットが出てくる。
これでピン💡!!と来ました。
バロウズは妻ジョーンを銃で殺した後、それが契機になって執筆活動を本格化させていくからです。この流れと映像の流れが符合しているのでは?と。
さらにもうひとつ、このシークエンスに映画とは関係ない本が映ってる。
それはシートン動物記のErnest Thompson Setonシートンによる「the biography of a grizzly(灰色グマの一生)」。
調べてみると、バロウズは子供の頃にこの本を読み、自分でも「The Autobiography of a Wolf」という本を書いたらしい。これが彼の執筆活動の原点なわけです。
これをこのオープニング・シークエンスに入れているということは、「QUEER」という作品内容に限定してるのではなく、”バロウズの一生”も含めてこの映画を作っていますよ…というグァダニーノ監督の表明だった気がします。そしてそれだと、最後にLeeの死ぬところまで描き、輪廻転生を思わせるような文脈も盛り込んでいることに一本筋が通ってくる。
ザッとそれぞれのカットの解読を試みてみます。
基本画面の左がLeeの所有物で、右側がアラートンの所有物です。
➀最初の揺れ動き輝く光:これはおそらくバロウズの誕生した瞬間
②ムカデが登場:この映画は”ムカデの映画”ですよ~、しっかりムカデに注目してくださいね~という宣言でしょうか?
且つムカデがバロウズの化身だとして、ムカデ登場=バロウズ(Lee)が登場してくるという表現。
③二つのメガネ:Leeとアラートンの出会いの瞬間。目があったあの場面の再現。
④二冊の本:おそらくLeeを象徴する本とアラートンを象徴する本。
左側の本は、「Under the Volcano 火山の下」 Malcolm Lowryマルカム・ラウリー著。カウチで二人が本を読んでるシーンでLeeが読んでいます。
この本の内容はこんな感じ。
ポポカテペトルとイスタクシワトル。二つの火山を臨むメキシコ、クワウナワクの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。一九三八年十一月の「死者の日」の朝、イヴォンヌが突然彼のもとに舞い戻ってくる。ぎこちなく再会した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけることに。しかし領事は心の底で妻を許すことができず、ますます酒に溺れていき、ドン・キホーテさながらに、破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく。
死者の日に妻が戻ってくる…と言う部分が少しオルフェウスを彷彿とさせるでしょうか?
アラートン側の本は、「a season in hell(地獄の季節)」 アルチュール・ランボー著。この本が作中どこかで出てきたのかはわかりませんでした。
言わずと知れたゲイの詩人だったランボー。かなり年上の詩人ヴェルレーヌとの関係は有名。ヴェルレーヌが銃でランボーを撃つ事件も起こしている。そこかしこにLeeとアラートンを思わせるものがある印象。アラートンがこれを読んでいるということは、彼にランボーを重ねているのでしょうね。
⑤二人の所持品:グチャグチャのハンカチと雑多な所持品のLeeと、キレイにたたまれたハンカチと財布のアラートン。二人の性格の対比を象徴してる印象。
⑥二人が吸ってるタバコ:デート中や食事中に並んで吸っていた場面を表現。性行為の後にも吸っていました。
⑦Leeのシャツとアラートンのパンツ:右の青いパンツの方に精液が付いている。まさに最初のセックスがあった場面を表現。
⑧パスポートとチケット:その後二人で旅に出るので、ここまでストーリーの流れ通りに進んでる。
⑨カメラとフィルム、スライド:観光中の二人を表現している。
⑩並んだ銃 & ⑪並んだ銃パート2:ここの銃が何を表しているのかが分からない…。
この後、ジャングルに入るまでにあった出来事は、Leeの禁断症状?その苦しみを銃で表現しているのか? では2枚目のカットは?アラートンがLeeを拒否する場面でしょうか?
しかしあの銃の並べ方にも意味がありそう…。
超下世話な深読みを書くと、ちょうど二人のS〇Xが描かれた辺りでもあるので、ピストルはペ〇スの象徴だといわれることを考えると…一枚目は直線に並んでますので、ズバリ、ペ〇ス。
オマー・アポロ演じたワンナイトの相手との性行為、アラートンとの二度の性行為、そしてアヤワスカのトリップ(あれも一種の性行為とみなすなら)、それらの前にも”銃”が出て来てるんですよね。ジョーのEl Puto Gringoの話でも”銃”はペニスの隠語っぽく話していたし。
二枚目のカットは銃が円形に並んでる。ペ〇スが入る対になるところでア〇ル…。二人のS〇Xシーンがあったから、それを表現したのかな?と…。流石に頭腐り過ぎかとも思う一方😅、先述したようにバロウズは「裸のランチ」など、続く作品群で”喋るア〇ル”というものを何度も登場させるんですね。映画「裸のランチ」でも延々と話している肛門を見せられて、なんじゃこりゃ…となるくらい。なので可能性はあると思ってますw。
⑫パックパックと山刀:これはそのままジャングル探検。
⑬重なったメガネと重なったサングラス:これは二重露光、アヤワスカでの幻覚シーンを表現している気がします。ビジョンが重なっているわけですから。そして左側がLee、右側がアラートンという構図、線引きが崩れてもいます。
⑭地図と辞書:おそらくLeeとアラートン別々の道に進んだことを表現。
ひとつは南米のガイドマップと辞書→大佐と南米に再び行ったというアラートン。
もう一つはエクアドル辺りの地図っぽい。大きく「Annexia」と書かれている。これはバロウズ作品で登場するロシアをモデルにした、人々をコントロールするディストピア国家のことらしい。なのでLee(バロウズ)がアラートンと別れてから、そういう国家で暮らした(そういう抑圧された心情で生きた)、もしくはそういう作品を書いたという表現かと。
(ヘルナンデス博士に会う前の建物の壁にも「Annexia」は書かれている)
⑮シートンの本と園芸バサミ?とチェス:ここもかなり謎。一応小説「QUEER」で描かれた部分は終わったので、バロウズの作家活動を幼少期から表現しているのかと思ったら、チェスがある。これはアラートンのシンボル。
画面左側がバロウズ関連なので、シートンの本はわかるのだけれど、この園芸バサミのようなものは何だろう?伝記には父親が造園業をやっていた時期があると書かれていた。よってシートンの本を読んだ時期と父親が造園業をしていた時期が重なるのだろうか?しかしそんな些細な情報をわざわざ表現するだろうか?
バロウズの少年期を表しているとするならば、右側のアラートンの方にチェスがあるのは、彼が子供の頃からチェス好き少年だったということなのか?
意図をもって画面を作っているはず(じゃないとシートンの本なんか出してこない)。ただここは難しすぎる…。
⑯薬、ヘロインの注射器など:薬物中毒者になり、処女作「ジャンキー」を書いたということを表現でしょうか。
この薬の一つが「hemorroides」。調べたら”痔”の薬だったw 執筆活動で座り過ぎて痔になったのか?ア〇ルセックスで痔になったのか?自分用なのか?相手用なのか?😅
この薬にも実は麻薬成分があったとかいうのもどこかで読みました。
⑰手書き原稿:これはバロウズの執筆活動を意味していると思われる。
おそらく数ページで完結する”ルーティン”を表しているのかも?こういうのを書き溜めて、ストーリーの中に挿入していく。
⑱タイプライター:映画「裸のランチ」ではタイプライターが話し出したり、化け物みたいに変化したりする。バロウズにとっては仕事道具でありつつ幻覚が見えてくるほど身近な存在。作家活動の象徴。
⑲紙の家:これこそバロウズの創作活動を具現化したものではないか?
バロウズの代表的な手法が”Cut-Ups カット・アップ(ス)”といい、文章や記事をカットして別の文章と組み合わせ、偶然できたものを活かして新しいものを展開していく。つまり文章や物語の再構築。
このシークエンスでの画像は、文章の書かれた紙を”カット”し、別のもの(ここでは紙の家)に再構築している。家=構築ということでも意味が通る。
もうひとつ”Fold-In”という手法もある。原稿などを折りたたんで、引っ付いた文章で新しいものを再構築する。紙の家は折って作っているので、その辺りにも掛けているかも?
⑳紙の家パート2:今度は違う角度からの紙の家。
これは何だろうか?私の考察は、バロウズは創作活動を始めてからもメキシコシティ→NY→タンジール→パリ→ロンドン→NY→カンザスと転々と引っ越している。
この各地で住んだ家を表現しているのかも?
そして最後に落ち着いたカンザスでは、漸く自分の持ち家を持つようになる。シークエンスの最後に家が出てくるのもそういう意味があるのかも?
そして最後に小説「QUEER」の原稿が映る。
さあ、これから「QUEER」の世界に入っていきますよ!と言う感じで…。
全てはなかなか理解できなかったけど、いろいろ調べたり考察してみるともっと面白いことがわかりそうです。
*****
ニルヴァーナ③「All Apporosies」
そしてそのオープニング・シークエンスで流れているのが、
ニルヴァーナの「All Apporosies」をSinead O’Connorシネイド・オコナーがカバーしたバージョン。
こちらが本家。↓
歌詞を見て貰えたらわかりますが、人生を振り返って、色々なことに謝っている。でもどうしようもなかったんだよ、そうするしかなかったんだ…という感じも受け取れる。
悔恨、そこへの怒りや悲しみ、そういうものはあまり感じられず、もうそういう全てを受け入れ、受け止め、包み込んで進んでいくようなポジティブささえ感じる曲。悪く考えれば自殺直前に言ってる風にも聴こえる。
なんといっても
”Everyone is gay"
と言ってるわけで、ゲイばかり出てくるこの映画のオープニングを飾るにはある意味相応しすぎる😅。
そして
”In the sun, in the sun, I feel as one”
や
”All in all is all we are”
という歌詞の部分からも、バロウズの思想や作中でLeeが主張するイメージ、大きな全体のひとつの魂が、死んだ後にまたその大きな全体に帰る…と重なる気がする。
コバーンは、歌のムードとしては、ピースフルで、幸せで、心地よいーーただ幸せな幸福(Happy Happiness)なんだ…と総括している。
まさにあの世で全ての苦しみから解放された状態を言っているかのよう。
コバーンは妻のコートニー・ラブと娘のフランシスに向けて書いたが、歌詞自体は彼らとの関係にピッタリ当て嵌まらないとも言っている。
そう、妻と娘に対してよりも、”生まれてきてゴメンナサイ”という、自分の存在に対しての謝罪に聴こえる。
「Come As Your Are」と共通して、歌詞の根底に自己嫌悪、自己否定、自責の念、申し訳なさ、罪悪感、そういうのが流れている。それらはどこから来るのか?(コバーンのクィアネスもひとつの要因だと、おそらくグァダニーノ監督も解釈してるのでしょうね)
カバーしたシネイド・オコナーの方の人生も凄まじい。
両親の離別、育ったカトリックに対する反発と愛憎、過激な行動、キリスト系新興宗教の司祭になり、最後にはイスラム教徒に改宗までする。
2023年7月26日、長年に亘るメンタルヘルスとの闘いの末、死去。ただし自殺ではなく、喘息や慢性的気管支炎などによる自然死らしい。
ただ双極性障害を抱えていたり、子宮摘出手術によるホルモン問題を抱えたり、セクシュアリティもレズビアンと言った後に撤回し、1/4はゲイだと言ったり、交際歴もほぼ落ち着くことなく子供4人の父親が全部違っていたり、子供の養育権を巡って争ったり、そしてその子供のひとりが17歳で自殺したり、その悲しみで自分も希死念慮と戦うことになったり…よく56歳まで生きれたなと思うほど。
そんな彼女にとっても「All Apporosies」は共感できたであろうし、彼女が歌うことで歌に説得力も出ている。さらにこの映画の中で使うことによって、コバーンの人生とオコナ―の人生も歌から浮かび上がりつつ、バロウズ(Lee)の人生も重なって、これまた重層的に響いてくる。
シネイド・オコナ―が1966年生まれ、カート・コバーンが1967年。
グァダニーノ監督は1971年生まれなので、彼らより年下。おそらく彼らの音楽を十代後半~20代の頃に聴いていたのだと思う。
監督がバロウズの「QUEER」を読んだのが17歳の時だというので、まさにニルヴァーナが活動しだした頃。
バロウズ、コバーン、オコナ―など、グァダニーノ監督が影響を受けた人たちへのトリビュートをここでも感じます。
最後の最後
以上のオープニング・シークエンスに「All Apporosies」という、まるで死ぬ前に人生を振り返って歌っているような曲を持ってきている。映画の始まりにしては少し変。
そしてもうひとつ。映画の最初と最後に映される点滅する光の意味は何だろうか?最初のものは白っぽい一色。最後のものは色とりどりのもの。
これは、ここまでズ~っと観てきたLee(バロウズ)の人生が、生涯を通じて数々の経験から色彩豊かになったことを表現しているのではないだろうか?喜びも悲しみも、全て含めて。
「君の名前で僕を呼んで」でもラスト間近、エリオの父が言う。
「悲しみ、痛みを葬るな」と。
自分の心を削り、痛みを感じない人間になるのではなく、葬らないでいることは喜びをより価値のある物に変えるし、より自分を心豊かな人物にしてくれる。他者へ与える想いも多彩で豊かになる。
この色とりどりの表現には、そういう意味合いも込められているように感じる。
もしくは、この色彩が虹色に見えることから、クィア(LBGTQ)の象徴であるレインボーカラーを意味し、クィアとして生き切ったという意味も込めたのだろうか?
またはバロウズが愛してきた、バロウズを愛してきた、色とりどりの個性を持つ人たちだろうか?
そして、バロウズの伝記を読んでいて、ひとつ非常に興味深いことを発見しました。
それはバロウズが”カット・アップ”技法を一緒に編み出した画家のブライオン・ガイシンが作ったという装置 ”Dreamachine” です。
(ガイシンもバロウズに多大な影響を与えた人物のひとり)
この光が出る筒を回転させて、人々は瞼を閉じて対峙する。
すると、瞼の裏で光が揺れ動いて(これがおそらく映画の最初の光のような感じ?)、次第に様々な色の形のない光が揺れ動くように見えてくるんだとか(まさに映画の最後の光のような感じ?)。
そして動画内の人々が言うように、落ち着いた気持ちになったり、気持ち悪くなったり(テレビの激しい点滅で癲癇が起こりそうになるのと同じ)、ハイになったりと、人によってさまざまな反応がある。薬物をやった時の反応にも似ている。
これは「QUEER」という作品に対する人々の反応とも重なるだろうし、ウィリアム・バロウズという人物に対する反応にも重なるでしょう。
そして何より、もしグァダニーノ監督がソレを意図していたのなら凄すぎる…と思ったことがあって、
このドリームマシン、何かに似てませんか?
そう、”走馬灯”ですよね?
ここまで「QUEER」という作品を通してバロウズの人生を描いてきて、一番最後、死ぬところで走馬灯に似た装置で生じる光の現象を映像化しているとしたら?これはバロウズのライフ・ストーリーなんですよ、とさらに強調。
それも映画を通してずっと夢の中のような不思議な画面作り。まさにドリームマシンで夢を見ていたかのような、2時間のライフ・ヒストリーを追体験する夢。
中国の故事”一炊の夢” または”邯鄲の夢”。
ご飯が炊きあがるまでの間に一生分の夢を見た話。
映画という2時間ほどの時間で、バロウズという人物の人生を見せてくれた。まさにそんな感じ。
それもその2時間で、何層にも意味を込めて、しっかり最初の伏線も回収して、映像表現だけでこれだけポエティックなもの、それもビジュアル的に美しいものを生み出す。
バロウズという作家が用いたカット・アップ技法のように、彼と関わりのあった作家、芸術家、音楽アーティスト、それらの作品も切り貼りし、混ぜ込んで、新しい作品に再構築して出来たのが映画「QUEER」という作品だというのがわかります。オマージュ、リスペクトに溢れてる。
ただこれだと、監督が「この映画はラブストーリー」といった真意がいまいち伝わらない。ラブストーリーよりバロウズのライフストーリーを意識して作ってますよね?と思ってしまう。
そこで、バロウズが最後に書いたという日記の内容が興味深い。
(この方のX投稿に全文が載ってます)
監督もそれは読んでいて、映画のインストの曲名にその日記からの言葉を付けている。(この日記は本としても出版されているらしい)
最後クレジット部分で流れる曲は
Trent Reznor & Atticus Ross, Caetano Veloso 「 Vaster Than Empires」
ナイン・インチ・ネイルズのTrent Reznor と Atticus Rossが作曲(他のインストも)で、歌うのがそのReznorとブラジルの作曲家で歌手Caetano Veloso(82歳)。
ナイン・インチ・ネイルズも1988年結成ということなので、ニルヴァーナと重なる年代のバンド。これも監督の青春、もしくは監督が「QUEER」を読んだ時代を反映した選択なのかも。とはいえ、彼らとは「Bones and All」「Challengers」と組んできてこれが三作目。
Reznorはオリバー・ストーンの「ナチュラル・ボーン・キラーズ」やデビッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」、デビッド・フィンチャーの「ソーシャルネットワーク」の音楽を手掛けたりもしていて、昔から映画音楽とも関わりがある。あとデビッド・ボウイのリミックスを手掛けたり(ボウイはバロウズと交流があった人物)やデイブ・グロール(元ニルヴァーナ)がアルバム制作に参加していたりと、バロウズの影響があった人達とも関わっている。
そして、祖母の死をきっかけに鬱になり、アルコール、コカイン、その他の薬物中毒に陥ったが、2001年にリハビリに成功したともwikiに書かれている。中毒を乗り越えたというあたりはバロウズとも重なりますね。(バロウズと直接会ったことがあるかググってみたけど、それは無かった様子。ただバロウズやJ. G. Ballardなどの作家は好きで影響を受けたらしい。
Vaster Than Empires
タイトルの「 Vaster Than Empires」はバロウズの最後の日記の中にある言葉。
最初ググったら「Vaster than Empires and More Slow」という小説のタイトルが出てきた。あの「ゲド戦記」の作者アーシュラ・クローバー・ル=グウィンの作品。こちらは別の惑星に行くとかまさにSF物。
しかしこれも別の作品からの引用だった。
大元は17世紀のイギリスの作家Andrew Marvellによる詩「To His Coy Mistress」の一文から。
”My vegetable Love should grow Vaster than Empires, and more slow."
最初読んでもちっとも意味が分からなかった😬。
解説を読むと…反応の鈍い女性に、男が積極的に言い寄る時に、植物がゆっくり国中に、いやそれ以上の広大な範囲に(←ここがVaster than Empiresの意味)広がっていくように何百年も時間をかけてでも、彼女の素晴らしいところを賞賛し続けることが私はできる…的な部分で使われている言葉らしい。それぐらい愛しているという表現。
そして詩は、いくらでも時間があって、永遠に生きられるならそんな風に称え続けられるが、残念ながら人生は短い。死んでしまったら抱き合うことも出来ない。だから、今この時を大事にして愛し合いましょう…という流れになる。
古代ローマの詩人ホラティウスの「Carpe diemカルペ・ディエム(その日を摘め)」の精神を継ぐ詩だと。
英語で言えば”Seize the day”。今この日(瞬間)を掴め。
バロウズはなぜこの言葉が浮かんだのだろう?
彼は”その瞬間”を掴めたのだろうか?
何百年も賞賛してもしきれないような相手は誰だったのだろうか?
私はやはり、死の数か月前まで夢に見ていたルイス・マーカーのことを想ったのではないかと考えてしまう。
ギンズバーグは当時、直接ルイス・マーカーに会いに行ったようで、彼の感想は「こんな病気のカカシみたいで小石みたいな口した男を好きになるなんて!」というくらい毒舌吐いてる😅。一方のバロウズにとっては(アラートンの描写だけど)「背が高くて痩せていて、頬骨が高く(白人でよく聞く誉め言葉)、明るい赤色の小さい口、琥珀色の瞳、酔うとそれが少しすみれ色を帯びる…」となってる。
別れた後も何度も手紙を書き、無視され続ける。結局疎遠にはなるが、自分の作品に何度も登場させる。殺してしまった妻ジョーンへの罪悪感も一生付きまとった一方、ルイス・マーカーへの愛、一瞬でも繋がれた、心に触れた喜びもバロウズは一生大事にしてきたように思う。
そして日記はこう終わる。
I did. Thinking is not enough.
Nothing is. There is no final enough of wisdom, experience---any fucking thing. No Holy Grail, No Final Satori, no final solution. Just conflict.
Only thing can resolve conflict is love. Like I felt Fletch, Ruski, Spooner and Calico. Pure Love.
What i feel for my cats present and past.
Love? What is it?
Most natural painkiller what there is.
LOVE.
いっぱい考えたけど十分じゃなかった。知識も得て、経験もし、バカなこともいっぱいした。それでも最終的な悟り、解決策、そういうものはなくて、あるのは対立、衝突(=苦悩)。
ただ、それを解決できるのは愛だけ。飼い猫たちに感じていたような純粋な愛だけ。
愛?それは何?
それは最も自然な痛み止め。
それが愛。
生きること、自己の存在、罪の意識、そういう様々な苦しみから逃れるためにドラッグをやりまくってきたバロウズ。その彼が死ぬ間際に最も自然で効果があったものは”愛”だと言う。83歳まで生き抜けたのはその愛があったからだろうか?
そう考えると、この映画「QUEER」がバロウズのライフストーリーであると同時に、やはり彼のラブストーリー、そのラブストーリーの相手はアラートン…この映画がラブストーリーだとグァダニーノ監督が言うのも納得できる。
ここで最初に足を重ねたムカデのシーンに戻る。
キトのホテルで禁断症状に苦しむLee。
一方で寝ぼけてなのか、ほぼ無意識にそっと足を絡めてくれるアラートン。
この無防備に示してくれた優しさ、Pure Love スッと溢れた彼の慈愛。
テレパシーのように Talking without speaking な瞬間。
数多く体を触れ合った中で(possibilityの中で)、唯一感じられた愛の瞬間(impossiblityだと思ったけど見つけた愛)。
その愛があれば、一瞬でもあれば、苦しい人生の痛みを和らげてくれる痛み止めになる。
Leeとアラートンのラブストーリーであると同時に、人生における愛の重要性について語った物語という意味でも”ラブストーリー”。
これがグァダニーノ監督が
「This was a love story, real real deep love story.」
と言った真意ではないだろうか?
ある記事で、死ぬ間際のLeeがアラートンの足を感じたのは、あの瞬間に漸く、キトでのアラートンの行動がwithout speaking なPure Loveな行動だったとLeeが(何十年経って)気付いた…と書いてあった。しかしそれなら、死ぬ直前に気付いてもう後悔する時間もなく、しかし後悔せずにいられない不満の残る状態で死んでいったことになる。流石にそんな残酷な結末にはしないのではないだろうか?現実のバロウズは少なくとも死の数日前にはPure Loveについて書いているのだから、もっと前からルイス・マーカーとの間にあったPure Loveな瞬間を噛みしめていた気がする。
グァダニーノ監督はこうも言っている。
「一人になった時、自分は誰なのか?という考えを観客に残したい」
「誰かとベッドで一緒にいた時、その誰かに対してどのように感じたか?その感情を持っているあなたは誰なのか?」
愛を持ったと感じたあなたは、最後死ぬとき、自分は愛を持てて豊かで素晴らしい人間だった。そう思えることが大事。だから恐れずに愛を感じれる生き方をしましょう…というメッセージを私は受け取りましたがどうでしょう?
個人的感想
「QUEER」は老いた男が若い男に恋焦がれる話と言う点で、グァダニーノ監督と同じイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」に近い印象も受ける。(シュールな部分はパゾリーニの「テオレマ」っぽい感じもしないでもないけど)
私はこの記事で、
老作曲家のアッシェンバッハは、死の間際に彼だけの”美”を見つけて幸せだったのでは?だから苦しみの中に恍惚の表情を浮かべて死んだのでは?と書きました。
でも彼は”美”を見つけたところで死んでいるんですね。その先がない。
今回グァダニーノ監督は、”美”を見つけた先までをじっくり追及してみた気がします。
そして彼が繰り返し描いてきたテーマである”愛”と”一体化”。
愛するがゆえにその相手と一心同体になりたい。ミッシング・ハーフとの融合。
「Call Me By Youre Name 君の名前で僕を呼んで」では、お互いに名前を交換して呼ぶことで自分が彼になり、彼が自分になる。
「サスペリア」は一体化の一種といえばそうなんだけど、魔女による”体の乗っ取り”がメインのテーマにあった。
(こちらのサイトを読んでて興味深かったのは、元祖「サスペリア」監督ダリオ・アルジェントがこの魔女たちの発想を得たのがトマス・ド・クインシーの「阿片常用者の告白」という本からだそう。クインシーが阿片の幻覚の中で見たイメージから想像されたのだとか。18~19世紀のイギリス人文芸評論家だったクインシーはある意味バロウズの先輩ジャンキーだったということですね。「QUEER」はグァダニーノ監督のこの系譜にあるとも言える)
「Bones and All」では、愛した相手を最後に食べてしまう。自分に取り込むことで一体になる。(ネタバレスミマセンm(__)m)
「Challengers チャレンジャーズ」でも、一人の女性を媒介にして、二人の男が対立しているようでお互いを激しく求めてる。彼氏や夫のポジションを巡る争いは、相手のポジションに成り代わりたい=相手になりたい気持ちの表れでもある。そして最後は二人が抱き合って終わる。
今回の「QUEER」でも、そのテーマは健在。愛することで、ヤーへを飲むことで一つになる瞬間を描く。
その一体化には人間が持つ根源的な悲しさと苦しみ、愛と欲望の関係がある。
しかし今回はその先に進んでみた。それも尊敬するモーリス・ピアラ監督のように、冷徹に見つめてみた。人の弱さ、愚かさ、醜さからも目を背けず。そうすることで美しさ、尊さがより際立った気がする。
そういう現実的な面を描きつつ、映画全体のトーンは夢の中にいるよう。
参考にしたひとつに黒澤明の「夢」があるのだそう。そのどこから来たのか?という非現実的な雰囲気をどう映像化するかという点で。
又はデビッド・リンチの「Blue Velvet」。これもダークでシュールレアリスム的な画面作りの参考にしている。(ぶっ飛んだ場面はあったけど、そこまでシュールだったかなぁ?空き地に耳が落ちてるところ?イザベラ・ロッセリーニは確かにぶっ飛んでたけど😅)
Leeの部屋などはこの映画に出てくる部屋のイメージで作られているらしい。デビッド・リンチも画家のフランシス・ベーコンに影響を受けたとも書かれているので、その辺りにも共通点はある。
*****
「Call Me By Your Name」と比較してみて
ゲイ、クィア・ムービーという括りで「QUEER」とも少し詳しく比較してみたいと思い、久々に「Call me by youre name 君の名前で僕を呼んで」を観てみました。
画面のトーン
まず両者の画面が生み出すトーンというか雰囲気の違い。凄く対比的でした。
「Call me by youre name」は光あふれる北イタリアの夏が舞台。
同性愛者に対する差別で苦しむようなものはなく(自己に内在するホモフォビアは多少ありますが。特にオリバー)、理解のある両親に囲まれ、あの空間、時間はまさに楽園。美しいものにとにかく溢れている。楽園を描いた作品と言っていいほど。
一方の「QUEER」は、まさに逆。コチラは苦悩に溢れていて、トーンはどちらかと言うと地獄や冥界。光あふれる描写よりも、夜のネオン煌めく淫靡で怪しい雰囲気の方が印象に残っている。(キレイなシーンもありますけどね)
絵画に例えるなら、「Call me by youre name」は印象派絵画。モネやルノワールのような光を描いた画家のような印象を受ける。
反対に「QUEER」は、まさに映画に出てくる表現同様シュールレアリスム絵画のよう。またはデ・キリコの形而上絵画のようでもある。奇妙で、異空間にいるような、どこか心がザワザワする、そういう印象を受ける。
物語のスタイルも「QUEER」はバロウズ自身のポストモダニズム文学っぽい描き方(時間軸の無秩序性、記号性、破壊、模倣などを特徴とする文学のスタイル)なのに対して、「君の名前で僕を呼んで」はもっと前のロマン主義っぽいスタイルなのかな?ググってみると、確かにCMBYNはロマン主義的部分があると出てきて、濃密な感情的経験、美と自然への祝福、個人的問題の探求などを表現している部分がロマン主義的なんだと。そういう意味で「QUEER」は、より芸術的にも文学的にも進化したというか、時代が進んだ表現の映画だったとも言えるのかもしれない。
思想
「Call me by youre name」は古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスから始まり、16世紀フランスの哲学者モンテーニュの言葉、さらにはナチスとも関わったドイツの哲学者ハイデガーのギリシャ思想への解釈など、脈々と続くヨーロッパの哲学思想を各所に引用している。それによって物語に深みを与えることは勿論、登場人物の心情や状況、場面の説明サポートを果たしていたし、”愛”(主に同性愛)を巡るグァダニーノ監督の思想、映画のサブテーマも伝えていた。
*ヘラクレイトスの「断片」に関するオリバーの考察。
万物流転で川は絶えず水が入れ替わっているので
「同じ川に二度足を踏み入れることはできない」。
しかし絶えず水が入れ替わっているからこそ”川”であり、その”定義”は変わらない。水が入れ替わらなかったら池か水たまりのような別の存在になる。
エリオはこの考察をちょっと読んですぐ本を置いてしまう。よって、絶えず変わってしまう、オリバーも夏の間だけですぐいなくなってしまう=一時的な存在、それは嫌だな…とすぐ本を置く、ということな気がします。
しかしグァダニーノ監督がこの考察を出して来た狙いはその”定義”の部分とおなじ、その変わるものの中の”変わらないもの”だと思うのです。
この記事序盤に記した「QUEER」のテーマの中にあった”The possiblity in the impossiblity 不可能性の中の可能性”と類似した概念。
人間も絶えず変化している。3歳の山田太郎と75歳の山田太郎だと全く別物。姿かたちも別物になっているし、三カ月で入れ替わると言われる細胞も何度も入れ替わっている。思考さえ一日、いや一時間前に考えていたものさえ刻々と変わっていたりする。それを止めることは不可能。
しかし、その中でも変わらないものがある。山田太郎という”存在”自体は同一視される。そしてそれだけ物質的には変化しても、その存在が持つ心の中に、記憶の中に、とどまるものがある。それが”愛”、”愛の記憶”ということを言いたいのではないだろうか?
だからエリオの父親が最後に、その愛の記憶を、痛みも含めた大きな喜びとして自分に刻み付けることの重要性を説いたのではないか?それを捨てることは人生を捨てること。歳を経て豊かになっているか、すり減った心で何も感じない人間になっているか、どちらがいい?と。
しかし「Call me by youre name」はそこで終わっていた。
一方「QUEER」は、アラートンとの関係で感じた”愛”を痛みと共に刻み付けた男、Leeの死の瞬間までを描いてみた。何十年も経ち、何もかも変化した中で、それでも彼はあのアラートンの足の感覚、重み、温かさ、触感を憶えていた。そしてそれが彼に死の瞬間の苦しみを和らげるペインキラーとして作用した様子を描いてみせた。その偉大な力の凄さ、人生が豊かだった証し。
*モンテーニュの「エセ―」の「友情について」からの言葉
”Parce que c'était lui, parce que c'était moi.”
それは彼だったからだし、わたしだったから
これも「Call me by youre name」の最後の方でエリオの父が言う言葉。
この言葉は抜粋部分ですが、その前後を知ると「QUEER」を始め、「Call me by your name」などにも通じる”一体化”の話になっている。
「わたしがお話ししている友情の場合、ふたつの魂は混じり合い、完全に渾然一体となって、もはや両者の縫い目もわからないほどなのである。もしだれかに、なぜ彼が好きだったのかと、しつこく聞かれても、〈それは彼だったからだし、わたしだったから〉と答える以外に、表現のしようがない気がしている」
ここにもグァダニーノ監督による、なぜ人は一体化を望むのか?一体化の先に何があるのか?それがもたらす功罪は?…などなどの問い続けているテーマがあって、今回もそこに大きく焦点を当てた作品になっている。その一つの形があのダンスシークエンスのシーンだった。
*オリバーのハイデガーに関するDrivel (:たわごと、価値のないメッセージ)
エリオの家の水辺での二人の会話で出てくる。
哲学的な話し過ぎてチンプンカンプンなのですが😅、ハイデガーが古代ギリシャ哲学における”存在”をどう捉えているか?ということをオリバーが考察してる文章を読む。
オリバー自身も、意味を為しているのか分からない…と言っているので、哲学素人の私が理解できるわけないのですが、他者(外的要因)との関係で成立する存在のことをなんとなく言っているのかな?
デカルトが「我思う、故に我在り」と言ったように、自意識による存在もあれば、自分を生んだ両親でもいいし、自分が触ってる物体でもいい。それら外的要因があるから自分が存在していることを確認していたりもする。
この”存在”を把握することの難しさ同様、絶えず変化し続ける周りとの関係から生まれる一時的な愛や欲望やさまざま感情、それらもまた把握、留めることは難しい。
ここでのオリバーは、単にエリオと話すきっかけが欲しい&知的会話をすることで彼の知性を測っている&エリオの対応の仕方で自分への興味の有無等を見ている…などの意図がある。
このオリバー同様に、「QUEER」でもLeeがBOBOルーチンを持ち出していたのはアラートンとの会話のきっかけが欲しい&同じレベルで会話ができるか知りたい&アラートンがどこまでつきあって聞いてくれるか、興味を持ってくれるか知りたい…というような意図があった気がします。
これらの点からでも二作品は類似部分が多く、作品は違えど、グァダニーノ監督が表現していることの本質はそんなに変わっていなかったりする。
「Call me by youre nam」でも「QUEER」でも思うのは、他者との関係を通して自己発見があるし、他者と関わることで自分も形成されていく。
これは”映画を観る”と言う行為も似ていて、観たことで出てきた感情で自分がどういう人間かわかるし、新たな自分に変化することもある。そこに学びがあれば成長もできますし。
ということで、「君の名前で僕を呼んで」の好きな方は、この二作品を見比べてみると、新たな発見があったり、新たな見方を出来るようになったりするかもしれませんので、是非この機会に観直してみてはいかがでしょうか?
Drew Starkey
映画「QUEER」の中でやはり一番目を引いたのはアラートン役Drew Starkeyでした。
ルカ・グァダニーノ監督はやはりゲイだけあって男を美しく撮るのが上手い!!🤩🤩🤩
なんなんでしょうね?女性の監督はまだ絶対数が少ないからあまり感じないのかもしれないけど、ゲイの監督は男を美しく、且つ絶妙なエロさも漂わせて、何とも説明できない所…脳の中の美と性を感じるセンサーに訴えてくるような絶妙な撮り方を知っている感じ。
彼はネトフリドラマ「Outer Banks」で有名になったというので、第1シーズンの数話を観てみました。
イヤァ~、主人公グループを虐める、とんだJerkなヴィランじゃないですか?😲 金持ちのダメダメなボンボン役。それもアラートンとは違って、こっちではLeeのようなジャンキーという( ̄▽ ̄;)。
「君の名前で僕を呼んで」のアーミー・ハマーも、その前に出ていた「ソーシャルネットワーク」では嫌な奴の役だったけど、グァダニーノ監督の手に掛かってあっという間にヴィランからイケメンナイスガイ枠へと変貌した。今回も似たようなパターンだったのか…。ヴィラン・ロンダリング監督と言っていいかもしれないw。
Drewは勿論顔はいいけど、グァダニーノ監督が言っていたみたいに、イタリアで撮影中にファンの子たちがスタジオの外で出待ちするほど人気が出ていたというのはビックリ。あんな役してたら嫌われてても不思議じゃないのに。獄中結婚する女性みたいなマインドなのだろうか?w「Outer Banks」のシーズンが進んで行くとイイ奴にキャラ変したりするのかな?
そして「QUEER」の時より若干ふっくらしているというか、ちょっとゴツイから余計いじめっ子感はある。「QUEER」の為に体重を落としたと言っていた。この役作りは大切だったなと。アラートンの細いけど付くとこ付いてる筋肉の感じがとても良かったし、繊細でミステリアスな雰囲気を生み出すことに成功していた。←痩せている方がデブよりミステリアスに感じるこの概念はどこから来てるんだろう?(苦笑)
で、いくつかのインタビューを見ていて、↓これなんかが平均的な彼の素に近い感じなのかなと。
いやまあカッコイイんですけど、話し方がちょっとラリッてるみたいな…舌足らずっぽいのかな?(苦笑)。バロウズもずっとラリッてるみたいな話し方だから将来はLeeの役も出来そうw。(余談ですが、バロウズが話すのを聞いていると、なんだか催眠術にかかりそうな不思議なトーンがある。結構悪いことしてる割にどことなく憎めないキャラだし、人々から好かれたのがなんとなくわかりました)
ドリューも気取ってなくてLaid back、自由なSpirit とも言えるし、子供のような心を持ってるとも言えるんだけど…なんというか素で話すとちょっと軽~い感じになっちゃいますね。今のところはあまり話さないアラートンを演じている時の方が素敵に見えた(苦笑)。今後、またいろんな役で違う魅力を見せていって貰いたいです。
それとこの襟足だけちょっと長い髪型、最近のアメリカの男性でよく見かけるんですけど、またマレットが流行ってきているんでしょうか?あれだけダサい髪型として一旦認識されたのに?前に流行ったのストーンウォッシュの時代ですよね? 日本でもまた流行るのかなぁ…。あれを再びカッコイイと脳内変換できるか自信ないわ~w。
何でも”モダン・マレット”としてリバイバルしてる感じ。Drew Starkeyのはここまでじゃないけど、動画によったら割と横を刈り上げて襟足長いのもある。
なんだろう?モダンになっても知性のない輩感を感じるんですよね…😅。
2025年おススメのヘアスタイルという動画ではマレットは✖になっていて、
4番の”The Classic side part”(横分け)や6番の”The slick back”(オールバック系?)はまさしくアラートンの髪型。まあこれはこれで似合う人選ぶけど、Drew Starkeyはこっちの路線で行って欲しいかな~。でもマレットをしたがるパーソナリティというのはなんとなく感じる😅。
日本ではウルフカット=マレットだった気がするけど(違うのかな?)、アメリカでのウルフカットはまた違うんですね。ロン毛で髪が暴れた感じジョニデっぽいやつのことなんだ。
話逸れまくりでスイマセンm(__)m。
BEAU TRAVAIL
マンタでの海辺のシーン。私の中でなんとなくイメージが重なったのがクレール・ドゥ二監督の1999年の映画「Beau Travail 美しき仕事」です。
昨年「Aftersun アフターサン」のシャーロット・ウェルズ監督が影響を受けた作品として挙げていて、ポール・メスカル演じるカラムが遺跡の上で立つシーンはそこからインスパイアされているとも語っていました。
↓このサムネのシーンが影響を与えたと。
この半裸の男性、少し下から撮っているアングル、スレンダーなボディライン、頭の輪郭、南国の海辺…この辺りが「QUEER」のアラートンが水着姿で海辺で立つシーンと重なるんですよね。
そしてこの予告を見て貰うとわかるのですが、0:26辺りで水中のシーンがあります(本編ではもう少し長いです)。この坊主頭の兵士サンタンが画面の左から右へ移動していく様子もアラートンが水中で左から右へ移動するのと重なります。

この後二人の人物が交差するように泳ぐのも似てる。
「Beau Travail 」は直接的な同性愛表現はないのですが、クィア・ムービーの傑作と言われるほどの作品だったりします。なのでグァダニーノ監督が「Beau Travail 」の影響を受けている、もしくはトリビュートをしている可能性は非常に高い気がする。
ちょっとググった所では監督が「Beau Travail 」について語っている記事やインタビューは見かけなかったのですが、ドリュー・スターキーがインタビューで「Beau Travail 」を撮影前に観てインスピレーションを貰ったと語っていました。
これが彼の自発的なチョイスなのか、グァダニーノ監督が観るように薦めたのかは不明ですが、撮影前に観てることを考えると、薦められた可能性は高そう。
そしてドリューも言っている通り、この二作品、奇妙な類似点がある。
➀男の美にフォーカスしている
「Beau Travail 」は兵士たちの鍛えた体が躍動する様子を淡々と映している。それがホモエロティックだと言われている。女性監督、女性カメラマンが撮っているのに、妙にゲイの視点で眺めているような感覚が確かにある。
②主人公の執着
「QUEER」は分かりやすい愛の対象としての執着でしたが、「Beau Travail 」では上級曹長の主人公ガルーが美しく人気者の新入り兵士サンタンを嫉妬の対象として執着します。
そしてここが複雑なのですが、ガルーは上官のフォレスティエに憧れ以上の感情を抱いており、フォレスティエがサンタンを気に掛けるのが気に入らないというのが嫉妬の一因。また自分より若く美しい人気者のサンタンへの嫉妬もある。これらはある意味、ガルーがサンタンを憧れていることの裏返しでもあり、潜在的にサンタンを求めているようにも感じる。
このホモエロティックな欲望を持ちつつ、自分の中にホモフォビアを抱えている中年の主人公が、美しい若者に執着するという点も「QUEER」の主人公Leeと重なる点。
更にガルーにはジブチ人のガールフレンドもいる。しかしただ”いる”と言うだけで強いつながりがあるようには見えない。恋人と言われるまで関係がわからなかったほどで肉体的接触も殆どない。反対に兵士同士が訓練で体をぶつけ合う時間の方が長いくらい。
このとりあえずいる彼女感が、Leeの妻ジョーンの存在と重なる。
③ラストシーン
「Beau Travail 」のラストシーンはガルーが銃を抱えてベッドで横になる。
明確な描写はないけども、この後死が訪れること示唆している。
そして唐突なガルーのダンスシーンに変わる。
これは回想とも取れるし、死を目前にした夢想とも取れる。彼はずっと欲望を押し殺して生きてきたわけで、このダンスは彼の解放を表しているという意見があった。死を目前にして、もっと自由に、このダンスのように自己を開放して生きればよかった。もしくは死んでようやくこのダンスのように自由になれた…ということでしょう。
この辺りも少し「QUEER」のラストシーンと似ている気がします。ただ、「QUEER」の方は同じデス・ベッドの描写とはいえ、愛を思い出しての描写なのでよりポジティブな、肯定感のある結末になっている。
または「QUEER」のアヤワスカによるダンスシークエンス。ガルーが死んでようやく解放されたことをダンスシーンで表現しているとしたら、Leeとアラートンが死んではいないけど幽体離脱して、お互いを解放して融合する部分と重なる。
あと、ジャングルで突如消えたアラートンもその後の消息はよく分からない感じでしたが、「Beau Travail 」のサンタンも、ガルーに荒野に放置された後、(一応キャラバンかに助けられていたけど)軍に戻らず消息不明ということになっている。
④訓練とダンス
「Beau Travail 」で、兵士たちのトレーニングがダンスのような不思議なものが多い。
wikiによると演者の中に元兵士が実際にいて、彼から動きなどを教わったと書かれている。しかし別の記事では振付師Bernardo Montetが振り付けに関わっているとも書かれている。実際に彼にインタビューしている記事もあった。監督がオファーしているのでコチラが正しいのでしょう。
振付師ベルナルド・モンテは日本の”舞踏”に多く取り組んでいるのだとか。バレエのような決まった形でなく、感覚を大事に、それに導かれて、動きより感情を優先すると。この辺りも「QUEER」のダンスシークエンスに通ずるところがありますね。あれも振付師によるものでした。
⑤文化のコントラスト
「Beau Travail ではフランス外国人部隊と、貧しい元フランス植民地のジブチの人たち、このコントラストが異彩を放っている。
「QUEER」ではそこまで際立ってはいないが、やはりメキシコやエクアドルにいるアメリカ人二人は少し浮いた存在であるのは明らか。
「Beau Travail 」の意見の中に”Colonaization 植民地化”のトーンを含ませているというものがあった。「QUEER」に出てくるメキシコやエクアドルは一応アメリカの植民地ではないけども、スペインの植民地だったことを思えば、白人たちの搾取にあった側というのは共通している。
ではなぜ”植民地化”のトーンが必要なのか?
私が思うに、植民地の主従関係と家父長制の主従関係がオーバーラップし、そこからさらにホモソーシャル(軍隊なんてまさしくその典型)、その内在するホモセクシュアルな欲望を浮き彫りにしようとしているような気がします。
ホモソーシャルのホモエロティックな欲望についてはイヴ・セジウィックの有名な本で解説されている。
⑥原作
「QUEER」はバロウズの原作なのでわかりやすいですが、「Beau Travail 」も「白鯨」で有名なメルヴィルの未完の遺作「Billy Budd, Sailor ビリー・バッド」が下敷きになっているらしい。「ビリー・バッド」は水兵で、彼も陰謀に巻き込まれ、船長に死に追いやられる話なんだとか。
映画「The Whale」でもメルヴィルの「白鯨」が取り上げられていて、「白鯨」の中に出てくるイシュマエルとクイークェグがベッドを共にしたり、ゲイ的要素があることを知りました。
「ビリー・バッド」でも再び海の男の世界、つまり男だらけの世界を描いていて、これは作者のメルヴィルもクィアだったのでは?と思ったら、案の定、彼にもクィアと考えられる逸話があった。
メルヴィルには妻子もいたが、この時代はゲイであろうと妻子がいるパターンは珍しくない。そんなメルヴィル、「緋文字」で有名な作家Nathaniel Hawthorne ナサニエル・ホーソーンに出した手紙に「永遠に花の咲き乱れる場所で君と過ごしたい」と書いていたんだそう。勿論これだけでは断言できない。時代的にそういう表現を使うのが普通だったかもしれないし。ただ彼の書いた作品などから読み解くと、限りなくそういう傾向が強いだろうと考えられているということです。
この知識が下敷きにあると、「Beau Travail 」が直接的同性愛表現がなくても、クィア・ムービーと言われることにも納得です。
最後に作品評価
「QUEER」について色々調べるとこんなに多くの要素があることに驚かされますし、それら要素の糸をグァダニーノ監督が見事に織り上げて一つの作品に仕上げた、その手腕にも驚愕と尊敬の念を禁じ得ません。
私的にはイタリアン・マエストロによる見事なマスターピースのひとつだと思います。
思うのですが、現実問題、誰がここまで深掘りして理解してくれるのか?とも思う。歴史、文学、芸術、バロウズ、クィア文脈、様々なことを知っている知識が必要ですし、それを読み取り理解できる知性も必要とされる。
この点で「君の名前で僕を呼んで」の、難解さはあるけど知識も知性もそれほど無くても一応ストーリーラインは理解でき、登場人物の感情に共感できるというわかりやすさにはどうしても敵わない。
私も知識や知性が特別あるわけでもなく、頑張って調べてようやくその片鱗が見えたかな?と思える程度の凡人。そういう凡人が観客の大半だとすると、映画の成功のひとつの要因に”わかりやすさ”は必須だと思うのです。
いくらでもサブコンテクストとしていろんな文脈を潜ませるのはいいのですが、表面上の主になる文脈は分かりやすくないといけない。複雑だとしても、少しネタバレされればスゴ~イ!!とすぐわかる程度のものにしておかないと。その匙加減が難しいけど、「QUEER」は少し難解過ぎた気はする。
あと「君の名前で僕を呼んで」の方がわかりやすいという意味では、最後のエリオの父が言うメッセージ。あれがわかりやすいというかわかりやす過ぎる。ぶっちゃけ映像表現の映画においてあれだけの説明台詞は反則並み(;^_^A。「QUEER」ではキャラに話させずに映像で表現してみたけど、自由に解釈できる代わりに明確な答えを提示して貰えない観客は不満を覚える人も出てきてしまう。
そして最後のティモシー・シャラメの泣きの演技。あんなガッツリ感情に訴える演技をクライマックスに持ってこられたら(それも超長尺で)、グッとこないわけにいかない。一方「QUEER」ではあそこまで印象に残る感情に訴える演技があったかと言えば、申し訳ないが思い浮かばない。おそらく長尺のダンスシークエンスがそれに相当するのだろうけど。
グァダニーノ作品としては進化、深化していっているのは間違いない。それは評価したい。一方で作家性を追求すると大衆性が失われやすい。このバランスが大事だけど難しいのですよね。「サスペリア」でも詳細な解説を読むまではちっとも凄さに気づけなかったし。「チャレンジャーズ」は割とわかりやすい大衆性に寄せた感じはする。なのでヒットした。
個人的にはもう「君の名前で僕を呼んで」のヒットで有名監督の仲間入りを果たしたのだから、興収度外視して「QUEER」みたいに好きな作品を作っていてもいいとは思う。出資してくれる人がいる限りは。多少難解でもファンは一生懸命読み解こうと努力してくれるだろうし。ただそれで赤字ばかりだとやはり業界のサポート、つまり宣伝等がされないようになると、せっかく作っても埋もれかねない。となるとある程度の大衆性も加味した作品作りも続けていく、そのバランス感覚もある監督だとは思う。
で、そんな彼の次の作品はどんなものになるのか?
何でもコリン・ファレル主演のDCコミック原作の「Sgt. Rock サージ・ロック」になるとか!?😲 最初はダニエル・クレイグにオファーしたが断られたのでファレルに話が行ったのだとか。
サージはサージェント、つまり軍曹のこと。これは…「Beau Travail 」のガルー軍曹と似たような話になるのか?軍というホモソーシャルな世界を描くことは間違いないわけで、どれほどホモエロティックな要素をブッ込んで、原作DCファンからヤイノヤイノ言われるのか、興味あるwww。
ということで「QUEER」の私的★評価は、
難解さを差し引きつつも、バロウズやその周辺のことを知るいいきっかけを貰えたし、凄く勉強になった。あと個人的に映画は美しくあって欲しいので、その点も高評価。
ということで★9.0差し上げたいと思います。
(基本、勉強になる作品は高評価なんです(^^ゞ)
ここまで読み切ったアナタ、凄い!!
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