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映画「QUEER」に向けてバロウズとビートを知ろう③:名もなき者が路上で吠える~ケルアック「On The Road」

*ネタバレも含んでいます。ご了承の上お読み下い。
*かなり長いです。休み休み、適当に飛ばしたりピックアップしながら、読むことをお薦めします。(自分でも読み直すの厳しい😅。誤字脱字、意味不明な箇所も適当に読み流してくださいね)


はじめに

映画「QUEER」の原作者ウィリアム・S・バロウズ関連からビート・ジェネレーションに興味を持ったシリーズの第三回。

前記事はコチラです。

今回はジャック・ケルアックと代表作の「On The Road」について。

「Kill Your Darlings」の前と後のケルアック

映画「Kill Your Darlings」の題材になったルシアン・カーの殺人事件(一番最初の記事参照)以前と事件後のケルアックの経歴も簡単に。

1922年マサチューセッツ州ロウエルで、フレンチ・カナディアン移民の両親の元に生まれる。
(ロウエルはボストン郊外。北北西に40kmほど。「Banana Fish」のアッシュの故郷ケープコッドは反対にボストンを南東に110kmほど。岬の先端の町プロビンスタウンはゲイの町として有名←吉田秋生先生は連載当時に知っていたのかなぁ?)

ちょっと脱線するけど、ケルアックはフランス系。おそらくブルターニュ地方にルーツがあるのでは?ブルターニュにはケルト文化が残っていて、地名や人名に○○ックってのが多いんですよね。昔ブルターニュを旅した時に、巨石が立ち並ぶカルナックという町を訪れたことがあります。

ケルトの巨石文化のひとつ。
イギリスのストーンヘンジとかと同じ流れ。

ケルアックの語源を調べたら、Soft+Village だそうで、”やわらかい土壌の村”という意味だそうです。
(追記:wikiによると、先祖のいたブルターニュの集落Lanmeurには ”rue Jack Kerouac” ジャック・ケルアック通りと名付けられた道もあるんだとか。のちにケルアックはルーツを探しにフランスを旅したりもしている。
またバリー・ギフォード著「ケルアック」によると、祖父がフランス、ブルターニュ地方出身。さらにその先祖はイギリス、コーンウォール地方のケルト人なんだとか)


ケルアックが4歳の時に兄ジェラルドがリウマチ熱で死亡。それ以来、兄が守護天使だと思うようになる。(のちにVisions of Gerardという本も書いている)兄の死は両親にもインパクトを与え、カトリックだった母親は宗教にのめり込み、父親は飲酒、ギャンブル、喫煙に溺れた。←私も3歳で兄を事故で亡くし、母は宗教に、父も家族をかえりみず飲酒、喫煙、女、夜遊びに溺れていた。死んだ兄が守護天使的にいつもそばにいると思って生きてきたというのも同じで、凄く親近感がわく生い立ち。

6歳で学校に入るまで英語を話せなかった。家族内ではフランス語だったから。それなのに、言葉選びのセンスが凄いと言われている。
バロウズやギンズバーグ作品のタイトルも彼が多く付けている。どこで読んだ情報か忘れたけど、彼がフランス語で書いたものをフレンチ・カナディアンの人が読むと、割と労働者階級寄りのもので、彼はその語感を英語に変換して表現したことで独特の文体ができあがった…とかなんとか。

(追記:先述のギフォード著「ケルアック」の訳者あとがきに、

「ケルアックの第一言語がフランス語ーーーカナダのケベック語ーーーで六、七歳まで英語を話さなかったという事実は彼の文体に非常に影響していると思う。言語に対して遊びのある面白い私的なアプローチをしているんだ」
ケルアックの独特の勢いのある言語感覚には、なるほど、そういう影響も考えられるのか、と思わせる興味深い指摘である」

とも書かれていた。これは英語ネイティブじゃないと分からない感覚なんでしょうね。邦訳してしまうと、そのワードチョイスのセンスとか、そういう単語の裏にある文化やニュアンスは少なからず失われる。または、例えるならなんだろう?山形弁を話すアメリカ人のダニエル・カールの日本語が、なぜか日本人が話す山形弁以上に愛嬌あるように感じてしまう…みたいな(違う?あれは本人のキャラの問題?😅)、独特の雰囲気を持ってしまう。そういう感覚でしょうか?)

話し戻して、
高校時代にフットボールレスリングの選手として活躍し、フットボールの奨学金でコロンビア大学に入学する(1940年)。しかし1年の時に脚を怪我し活躍できず、監督ともケンカし、2年で退学することに。

引用元のコロンビア大学ライブラリーによると、ケガの後、寮室に引きこもり、
友人たちが引っ張り出そうとするが無駄だったと書かれている。
イケメンだしカッコイイ。そして奨学金貰えるほどスポーツも出来た。
おそらく超高くなっていたプライドも、夢も、打ち砕かれたんでしょうねぇ。
動画で見ると身長は低そうかな…と思って調べたら、173cmと出た。
1940年代当時でもチーム内では低いほうだったのでは?
低い選手は俊足が売りのことが多いから、脚のケガは致命的だったのかな?

1942年頃、処女航海前の商船ドーチェスターで働く(出航後U-ボートに沈められ、一緒に働いた仲間多数死亡)。
1943年、海軍予備軍に従事するが、8日間の実務経験の後、名誉除隊
記録によると、頭痛で痛み止めを要求し、若年性痴呆と診断される。←痴呆症というよりも軍隊の集団生活に馴染めなかった模様。一人でいることを好むスキゾイドパーソナリティ障害とも書かれている。

スキゾイドパーソナリティ障害
社会的孤立・全般的な無関心・感情の幅の狭さ
などを特徴とするパーソナリティ障害。統合失調症スペクトラム障害の一種でもある。

(こんな障害があるの初めて知ったけど、私もこれに近いものがあるかも…🤔。幼少期の体験が影響してたりするのだろうか?幼少期に兄が死んだので、家庭内は沈んだ空気が満ちていたし、子供心に騒いじゃいけない、大人しくしてないといけない…と気を遣っていた部分があった←感情表現を抑え込んだことで感情の幅の狭さにつながった。そして父はほぼ不在、母も宗教の会合に出かけているか、家にいても拝んでいる。一人遊びが常だった。すると一人でいることが普通で、人と関わること、大勢の人の中にいることの方がストレスを感じるようになった気がする)

とはいえ、後にビート作家たちと毎日遊び惚けてたし、一人旅はしつつも友人たちと旅することも多く楽しんでいた。ジャズを聴きに行ってはビートに酔いしれてバカ騒ぎしてたりと、そんなに一人や静かな環境を好んでいたようにも思えないですけどね。ただただ兵役がきつかったので逃げたかったのではないか?という気がしないでもない😅。←しかしこのおかげで?「On The Road」でも描かれていたけど、退役軍人手当のようなものが支給され続けて、旅の費用として役立つ。
復員軍人援護法・・・1944年、第二次世界大戦後に帰還した退役軍人を支援するために制定。1956年に失効。←「On The Road」は1947~1951年辺りの話なので、ケルアックはこの制度を上手く利用したんだなとわかる。

この1942~44年頃がルシアン・カーを通してビート・ジェネレーションの仲間たちと出会い、「そしてカバたちはタンクで茹で死に」で描かれたような自堕落な暮らしをしていた時期。

そして1944年8月13日深夜に映画「Kill Your Darlings」で描かれたルシアン・カーの殺人事件が起こる。ケルアックも武器のナイフの隠蔽に関与&事件の通報義務を果たさなかったことで逮捕&留置される。
(カーが殺人した後、一緒に映画を観たりバーに行ったり、自首するまで一日中付き合っていた。←ヤバイ男をほっておけない伏線が既にあるw)

恋人のイーディ―・パーカーが、結婚するなら保釈金を払うということで出所。警察官に伴われて市庁舎で結婚。8月22日

9月にパーカーの実家があるミシガンに行って暮らすが、2ヶ月で妻と不仲になり、10月にはNYに戻ってくる。結局2年後にパーカーから結婚無効の申請がなされ、1952年に成立(←しかし1950年に二番目の妻ジョーン・ハバティと結婚し、1951年に離婚している。アメリカの結婚制度はどうなってるのか???(;^_^A 無効申請中だったら可能なのか? あと、「On The Road」付随の年表には別れた後もNYのパーカーのアパートで彼女やバロウズ、ギンズバーグたちと暮らしたと書かれている。しかしこれは疑問。パーカーのwikiには、そのままミシガンに残ったという記述あり。おそらくパーカーのルームメイトで、のちにバロウズの妻になるジョーン・ヴォルマーの部屋が彼らの溜まり場になったのだと推測。ここでギンズバーグとケルアックが、バロウズとヴォルマーをお似合いだと引っ付けたという話がある)

NYに戻った1945~1946年頃はビートの仲間と交流しつつ、バロウズにルシアン・カー殺人事件を題材にした「そしてカバたちは…」の共同執筆を持ち掛け(バロウズは生返事ばかりでやる気なし←どんどんジャンキー度合いが高まっていった時期。ケルアックの方が意欲的だった)作家として進み始めている。←結局この作品は(駄作過ぎて封印されてたので(;^_^A)2008年まで出版はされなかった。

そして1946年に運命の相手であるニール・キャサディとNYで出会う。
1947年、彼に会うためにコロラドのデンバーに向かう旅に出る。
そこから1951年までの4~5年余りのキャサディとの交流と、大陸を西に東に南にと、旅した記録が小説「On The Road」になっていく。

一応1950年(「On The Road」の物語期間中)に「The Town and the Cityという本を出版している。しかし殆ど売れなかった。「On The Road」第4部冒頭の「書いた本が売れていくらか金になった」というのは、おそらくこの本のこと。
The Town and the City」の内容は、コチラもケルアックのここまでの実人生をモチーフにしている。The Townのパートが、故郷ロウエルを元にした町ギャロウェイが舞台で、高校生の主人公ピーターがフットボール選手として苦悩する。そしてThe Cityのパートは、NYに出てきてビート仲間たちと交流していくというもの。物語終盤に、そのうちの一人ウォルドがケネスの家の窓から投身自殺をする←ウォルドがカメレア、ケネスがルシアン・カーに相当。「そしてカバたち…」の最後と似ている。

ということで、漸く次項から「On The Road」について入っていきます。


小説「On The Road(路上)」(1957)

私は↓コチラのバージョンで読みました。なので巻末の解説などについてはコチラに掲載のものが前提で書いてます。

文庫版も出てる。

日本では1959年に福田実氏訳で「路上」として出版され(1957年の原書出版からわずか2年で翻訳本とはかなり早い!)、
2007年「オン・ザ・ロード」として青山南氏による再翻訳本が出ている(刊行50周年なのでリニューアルということっぽい)。
なので、私が読んだ再翻訳本はかなり今風の語り口調で書かれている(+ページ脇に細かい解説付き)ので、非常に読みやすかったです。

伝説にもなっている”3週間で書き上げた”というのは半分本当、半分盛ってるらしい。最初の原稿は1947年最初の旅の後1948年には書き始めている。そこから何度も推敲(スタイルの変更など)を経て、さらにいくつかの旅をし、1951年、流れを止めるのがイヤだからと、カーボン紙37mをテープで繋いだものにタイプライターで打ち続けて完成させた(←原作には勿論ないが、映画「On The Road」ではこの場面も描かれている)。この部分を強調して言っただけらしい。(←当時カポーティが、”書いたんじゃなくて打ったんだろ”と皮肉を言ったそう。2歳年下のカポーティはビート作家ではなく、正統な文壇の流れにある新進気鋭の作家だった。なので言葉を選び抜いた伝統的で流麗な文章を書くことを重視していたから、そんな即興的で推敲もしてなさそうな文章を見下していた…という感じでしょうか)

この後もポルノ的表現でドギツイ部分を削除したり、文学的な表現を追加したり、のちに別の作品となるパートを抜き取ったり、登場人物の名称も実在のものから架空のものに変更したり(これは出版社の意向っぽい)、いろいろと手を加えている。よって、出版最終稿ができるまでは計10年弱はかかっていることになる。

「On The Road」の表紙

面白いなと思ったこと、それは表紙
処女作「The Town and The City」の表紙が気に入らなかったケルアック。表紙絵も自分の写真もDull(つまらない、ダサいという感じ?)だったと。
なので1952年(書き上げた直後)、「On The Road」の表紙はこんなのがイイと自ら絵を描いて出版社にプレゼンしてる。

引用元サイト

さらにはWilbur Pippinが撮った私の写真が「On The Road」(の著者近影)にピッタリだという提案までしている(←どの写真かは不明)。
まだペーペーの作家で出版社にいいようにされるなか、しっかり主張し、自己プロデュースしようとしてる。
この時の編集人がAaron.A.Wyn(上の絵にもDear Mr.Wynと書かれている)。前記事で、ギンズバーグが精神病院で知り合ったカール・ソロモンの叔父にあたる人物。バロウズも彼から処女作「ジャンキー」を出版している。

で、結局A.A.WynのAce Booksからは出版されず、1957年にViking Pressから出版された初版本の表紙がwikiにも載ってるコチラ。

「On The Road」wikiより

イヤ~酷すぎない!?(苦笑)。まったく本の内容が伝わらない。作者の意向って本当に無視されるんだな…。真ん中にある絵も摩天楼をイメージした抽象絵画?そりゃ物語にNYは出てくるけど、本のメインはそこじゃない。

とはいえ、日本の初版本もこんな感じw😅。

引用サイト

これまたわけがわからん😵。ヤシの実的な何かの果物?路上でヤシの実売ってるの?フーテンの寅さんみたいな叩き売り!?w ジャズのギターって感じでもないし…右下のは葉っぱっぽいけど…。この表紙絵のタイトルが知りたい。

一応人気が出たからか?翌年1958年のバージョンはこんなになってる。

引用サイト

うん、まあこれなら作品内容はイメージできるかな。ただケルアックが描いた絵の疾走感みたいなものはない。躍動感と疾走感、これがこの作品の肝であり、ケルアックが伝えたかった、表現したかった部分。さらに言えば物語の主役は「道」。そういう意味ではやはりケルアックの絵が一番わかりやすく表現できていた気がする。

その他、世界中の「On The Road」の表紙を集めてくれてるページがあるので、興味ある方は覗いてみてください。物凄い数があって世界中で読まれていることがわかります。全ての出版されたバージョンの表紙集
2011年のスロバキア・バージョンがケルアックの手描きデザインをそのまま採用してる(タイトルはスロバキア語、著者名もジョンからジャックに訂正して)。

あらすじ

一応あらすじというか、簡単にどんな作品かというと、

NYに住む作家志望のサルは、友人からディーンという西部からやってきた破天荒な男を紹介される。ディーンの強烈な個性に刺激を受け、彼の生き方に魅了され、彼を追いかけ広大なアメリカを横断する旅に出たり、彼と一緒に旅をしたりする。
その中で色々な人に出会い、色々な経験をし、戦後変わりゆくアメリカ、新しい世代、新しい思想が台頭していく時代を旅の中で見つめながら、時に詩的に、時にジャズのようなビートに乗って、時に広野を走る車のように疾走感のある筆致で描かれる物語。

***

決してハッキリ起承転結があるような感じの物語ではない。どこかに辿り着くとか、何かを成し遂げるとか、事件を解決するとか、わかりやすい命題があるわけではないので、次どうなるんだろう?と先が気になるというほどでもない。序盤、主人公がなぜそこまでディーンに惹かれるのか?なぜ旅に出たがるのか?彼の行動原理もわかりづらい。なので私的には読んでいてもすぐ寝落ちしてなかなか先に進まなかった😅。

ただ旅がサルやディーンにとって、単なる移動手段ではなく、旅自体が彼らの生きる目的On the Road=道の上、旅の途中こそいろんな人と出会い、いろんな経験をし、インスピレーションを与えてくれる心躍らせる場所なんだと伝えたい、それがこの物語のコンセプトだと理解できると一気に読みやすくなってきた。

定住し、安定した生活を送ることが正義の世界から、それを覆し旅に出て、生きている意味、生きている実感を見いだすことが正義の世界へ…それこそ既存の概念を破壊するというビートの精神であり、「On The Road」がビート文学の代表作品と言われる理由なんだろうなと。

個人的には第3部以降、それまでただただイケイケの男でしかなかったディーンの、生い立ちや苦悩、弱さ、悲哀のようなものが表現されだすと、物語に深みが加わり、さらにはキャラへの愛着も湧いてきて、どんどん楽しんで読めるようになっていきました(寝落ちもせずにw)。

海外掲示板Redditでは
「“On The Road” is basically Jack Kerouac’s novel-length justification of his crush on Neal Cassidy」(「On The Road」は基本的に、小説の長さで表現したケルアックのニール・キャサディへの恋情を正当化したもの)なんてスレッドがあったりする。それも間違っていないと思う😁。

もう少し詳しいあらすじ(ルートマップ付き)

原作では4回旅に出ます。
(映画では3回。2回目と3回目が途中省略されて合体している)

しかし全体では5部構成。第5部は旅に出ない。
(ひとつの部に大体10章前後)

第1部が一番長い。2部と3部がその3/4ぐらいのボリューム。4部がもう少し減って、5部は数ページ、エピローグ的な感じ。

自分の備忘録も兼ねて、
各部の大まかなあらすじルートマップを作ってみました。
ひとつの地図上に全てのルートを載せてくれてるマップはネット上でもあるのですが、ちょっと見づらいんですよね😅。
なのでセパレートにして見やすく、一旅ごとに一地図で。

あと個人的には、ルート・マップを作ることで物凄く旅のイメージがしやすくなって、グンと理解度が上がった気がします。

第1部:The Fisrt Trip

NYで主人公サル・パラダイスディーン・モリアーティと出会い、彼が住むコロラド州デンバーに向かうところから始まる。(現実では1946年にケルアックはNYでニール・キャサディに会い、1947年に旅に出る)
(登場人物の名前が覚えられない、顔がイメージ出来たらな…と思われた方は、「キャストと関係図」の項目に写真付きの関係図も作ってますので、そちらでキャラを憶えてから、以下のあらすじを読むと頭に入りやすいかも?)

最初の旅は、ルートを間違ってNYの北ニューバーグNewburghに向かい、すぐ引き返す。

NYに戻って、シカゴまでバス。そこからヒッチハイクで色々な車を乗り継ぎ、デンバーにいるディーンに会いに行く。そこでしばし友人たちと過ごす(しかし金持ちグループと貧乏不良グループの分断があり、サルは金持ちグループと一緒にいたのでディーンとはあまり絡めずじまい)。ディーンは新しい恋人カミールの元で生活しながらも妻メリールーのところにも通っている。

その後、サルは一人でサンフランシスコに向かう。サンフランシスコでは友人レミ・ボンクールとその彼女リー・アンの家に居候。レミと共に警備員の仕事をするが、徐々に居づらくなりLAに向かう。
(レミはボヘミアンな生活をしているが実はイイとこのボンボン。医師である彼の父親との会食にサルも参加した際、酔っぱらったサルの友人が闖入し不興を買う。これが最終第5部のちょっとした伏線になっている)

LAへのバスの中で出会ったメキシコ系女性テリーといい仲になる。彼女の息子とも合流し、再び北上したサビナルでテント生活&綿花収穫しながらしばし暮らす。その生活に限界を感じ、テリーと別れ、ひとりNYに帰る。

The First Trip ルートマップ (クリックで拡大できます🔎)

テリーと綿花摘みしたサビナルは架空の地名。現実ではSelmaが該当する町だそうです。
作中ほぼ実在の地名ですが、いくつか架空の地名も出てきます。
大体親指マークの数だけヒッチハイクしてます。

こう見ると案外バス移動が多い。そうそうヒッチハイクできるわけではないってことですね。実際この最初の旅以降はヒッチハイクをしていない。代わりに旅行案内所で、車の乗り合い募集(カーシェア)を探して車を見つけるパターンが多くなる←効率いいもんね。

第1部は長いので、大体4パートに別れる。

➀デンバーに着くまでのヒッチハイク旅行
②デンバーでの友人たちと遊ぶ日々
③レミ・ボンクールカップルと過ごすサンフランシスコでの日々
④テリーと過ごすカルフォルニア農場暮らしの日々

第2部:The Second Trip

次は1948年の冬。前の旅から1年くらい過ぎている。
サルがヴァージニア州テスタメントの兄の家でホリデーシーズンを過ごしている時に、ディーンがSFから車(49年型ハドソン。おそらく新車?)でやってくる。
SFからはエド・ダンケルとその妻ギャラテアを乗せて(彼女がガス代払う金づる)。途中ギャラテアをツーソンに置き去りにし、代わりにデンバーで元妻メリールーを拾ってやってくる。

兄の家からNYの叔母の家に家具を運ぶことを請け負い、この間を車で2往復する。New YearはNYで仲間たちと過ごし、その後4人でニューオリンズのオールド・ビル・リー(バロウズがモデル)を訪ねる(ギャラテアはバスで来てリー家に滞在中)。ニューオリンズを満喫し、ダンケル夫妻はここに残り、3人でお金に困りながらもヒッチハイカーを拾いつつSFまで辿りつく。

SFでディーンは妻カミールの元に帰り、サルはメリールーとしばし関係を持つ。しかし彼女はディーンがいるからサルと付き合っていただけだと分かり別れる。貧困にあえぎながらSFでしばし過ごすが、結局お金を送金してもらい、一人NYにバスで帰る。

The Second Trip ルートマップ

サルの兄が住むテスタメントも架空の地名。
ノースキャロライナのRocky Mountがそこに該当するそうです。

ずっとディーンの車で移動。最後だけバスでNYに帰る。ヒッチハイクは乗せてあげる側。しかし「着いたらおばさんの家でお金貰えるから!」と言うハイカーを信じて2回乗せたが、毎回貰えずじまい…😅。

第3部:The Third Trip

お金が少し貯まったので再び旅に出るサル。デンバーに辿り着くと(移動手段不明)もう昔の友人たちは殆どいなかった。しばらく働いたのち、知り合いの金持ち女から100ドル貰う(←今の20万円ぐらい。気前良すぎw)。

乗合いでサンフランシスコに行き、ディーンと再会。
サルの登場がディーンの家庭生活を壊すきっかけになる。カミールから家を追い出されたディーンとサル。ニューオリンズから戻っていたギャラテア・ダンケルを頼ると、仲間の女性達からディーンは容赦なく責められる。
SFのナイトライフをジャズクラブ巡りで楽しんだ後(結局SF滞在は60時間弱)、ゲイの男の車で乗り合いをしデンバーへ。
デンバー到着直後、ディーンと初めてのケンカをする。

デンバーではオーキー(オクラホマ出身出稼ぎ労働者への蔑称)のフランキー宅にしばし滞在。ディーンの父親捜し。ディーンのいとこのサム・ブラディから縁切りされる。酔ったディーンが車を盗難しまくり、デンバーにいられなくなったので次に向かう。運よく旅行案内所でキャデラックをシカゴまで運ぶ話があったので請け負って出発。(イエズス会の坊や二人も相乗り)

途中、雨の中スリップして溝にハマる。農家に助けてもらう。
次に、ディーンが昔働いていたエド・ウォールの農場に寄る(元兄貴分的存在)。食事を振舞ってくれたが、彼ももうディーンのことを信用していなかった。1時間ほどで退散。

カーレース、警察沙汰、シカゴに着いた頃には車ボロボロ。
シカゴのジャズ・シーンを堪能してから車返却。
バスでデトロイトに。デトロイトからは再び乗合でNYへ。

NYで友人たちと再会する。ディーンは紹介されたイネズと付き合う。
SFに残したカミールが第2子出産。イネズも数か月後に出産。ディーンはその前の婚外子を含めて4児の父となり、サルとイタリアに行く計画はおじゃんに。

The Third Trip ルートマップ

運び屋をしたキャデラックのパートは凄い疾走感があった。
実際猛スピードで走ってる😅。

第4部:The Forth Trip

本が少し売れ、お金が入り、また旅に出たくなるサル。
ディーンはNYでイネズと落ち着いているので、一人でメキシコを目指す旅に出る。

まずはバスでデンバーを目指す。
途中乗ってきた出所したての青年ヘンリー・グラスと知り合う。若い時のディーンもこんなだったろうなと想像する。

デンバーでは昔の友人たちが戻ってきており、その中のティム・グレイ(金持ちグループ)の家で世話になる。彼から友人のスタン・シェパードを紹介され、メキシコ行きを希望する彼と一緒に行くことに。

もうすぐメキシコへ立つという時、ディーンが車(オンボロの37年型フォード)でデンバーに向かっているという情報が入る。
ディーンが颯爽と到着し、友人たちとバカ騒ぎした後、3人でメキシコに向かう。

出発早々スタンが虫に刺され腕が腫れあがるアクシデントがあるが(←不吉)、とにかくグングン南下し、ニューメキシコ、テキサス州へと入っていく。
サンアントニオでスタンは病院、サルとディーンは町の探索などをする。
そして国境の町ラレードへ。無事国境を越え、またひたすら南下。

グレゴリアの町(架空の町。実在の町はビクトリア)でメキシコ人青年ビクトールが日除けを売りに来たことをきっかけに、彼の案内でマリファナを買いハイになり、売春宿に行き羽目を外す。

野宿をしつつさらに南下。ついにメキシコ・シティに到着。町を散策。
(一晩明けて?)サルが赤痢で発熱。数日間寝込むことになる。

サルが苦しんでいる最中にディーンが別れを告げ、一人でNYに帰ってしまう。

ここで第4部は終了。

ディーンがメキシコにやってきた表向きの理由は離婚手続きの為。安上がりで速いから(←アメリカ市民がなぜメキシコでなのか?どういう仕組みかはよく分からない🤔)。イネズと結婚するために、カミールと離婚する必要があった。手続きが済んだのでさっさとイネズの元に帰りたかった。さすがのサルもRat(嫌な奴)と思っている😅。

しかし!!イネズと結婚したにもかかわらず、5部ではまたサンフランシスコのカミールの元に帰ったと語られる。どういうこっちゃ😲!!それもイネズと結婚した晩に屁理屈並べて説得し、バスに乗ってSFに向かったと。そしてSFで落ち着いた。エッ?何のために離婚&結婚をしたのか?意味不明過ぎる┐(´Д`)┌オテアゲ。

The Forth Trip ルートマップ

デンバーからメキシコシティまで、多くの地名が出るが、ほぼ通り過ぎるだけ。
第4部はディーンがメキシコシティにサルを残して去るところで終わる。
帰路については第5部。

ここで”メキシコに行く”という意味を考えると、この後バロウズもメキシコに行き、そこで映画「QUEER」で描かれたような薬とゲイ・セックス三昧の日々を送る。解説動画とかを観ていると、どうも当時のゲイ男性がアメリカキリスト教的白人社会の規範から逃れて、自分の欲望を叶える場としてメキシコに訪れる…という流れがあった、もしくはこの頃から出来始めたということことかも?この後の時代、60年代~80年代が舞台の「ブロークバック・マウンテン」でも、イニスと会えないジャックがメキシコに男を買いに行く描写があった。

第5部:The Forth Trip のつづきとエピローグ

第4部でメキシコシティに残されたサル、サルを残して去ったディーンのその後を簡潔に記した後、二人が再度NYで出会う場面が描かれる。

第5部のルートマップ(第4部の旅の帰路と第5部のディーンの移動)

サルは帰路途中にディリーに寄った記述のみ。
ルート&手段は不明。おそらくバス?

ディーンはレイクチャールズで車が壊れ、そこから飛行機でNYへ。
後にバスでSF。
しばらくしてまた列車でNYに来る。

サルは新しい恋人ローラ(モデルはケルアックの2番目の妻ジョーン・ハバティ)とSFに移住する計画を立てている。ディーンに手紙を書くと引越しの手伝いをしてやると言ってくる。引っ越し費用を稼ぐため6カ月ほど先だと予定していたのに、冬のNYにディーンはいきなりやってくる。あいかわらず無茶苦茶で計画性もないディーン。昔のように彼のノリに付き合うことができず悲しい別れをする二人。そしてサルは、永遠に路上に生きる男・ディーン・モリアーティを想う…。

*****

コチラのサイトでは実際の地図に、作中で登場する文章を添えて地名をピン付けしてくれています。私はこのサイトと本文を読みながらルートマップを作成しました。


次項は映画化された「On The Road」も観たので、そちらについて。

映画「On The Road」(2012)

2012年に映画になっています。(日本公開は2013年)
製作総指揮はフランシス・F・コッポラ
(2010年代前半にこの映画、前記事の「Kill Your Darlings」(2013)と「Howl」(2010)、ビート・ジェネレーション関連の映画が立て続けに制作されたのは偶然なのかな?バロウズの生誕100年と合わせた?)

映画の製作背景

wikiを見るとDevelopment hellと書かれている(;^_^A。ずっと制作に難航していた状態のこと。最初ケルアック自身がマーロン・ブランドディーン・モリアーティ役をやってくれないかと手紙を出し、自分が主人公のサル・パラダイスをやるという計画もあった模様。←ここでマーロン・ブランドが繋がるとは!!(前記事参照)そしてケルアックは俳優をやりたかったのか!?
しかしブランドが返事することは無く、実現しなかった。

そしてワーナーやパラマウントがオファーを出すも、ケルアックの代理人が納得せず、結局まとまらなかった。値段を吊り上げ過ぎだと後にケルアックは怒ったそう。

そして彼の死後、1979年にコッポラが映画化権を獲得。しかしそこから30年以上の紆余曲折がある。脚本家も決まらない。自分で書くこともしたが難しい。ビート作家仲間で、当時まだ生きていたギンズバーグと一緒にオーディションもした。主人公サルにイーサン・ホーク、ディーン・モリアーティにブラッド・ピットという話もあった。またはサルにビリー・クラダップ、ディーンにコリン・ファレルというのも。
ガス・ヴァン・サントが興味を持ったこともあった。

「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004)を観たコッポラは、その監督のWalter Sallesウォルター・サレスと脚本家のJosé Riveraホセ・リベラを起用することに。監督のサレスはケルアックが辿ったルートを実際に旅したり、ケルアックを知るビート作家と話したり、ジャズの要素を取り入れた文章を理解するために、脚本家のリベラと多くの時間を費やした。そして脚本は20稿にまで及ぶことに。

しかし制作開始の青信号が出る直前、2008年のリーマンショックで予算の大幅削減などの問題を抱える。

なんとか再び予算を確保し、2010年にキャストを再招集して準備を開始。
キャスト達も撮影開始前に3週間のブートキャンプに参加。そこでビート文学を学んだり、ケルアックの伝記作家やメリールーのモデルになったルー・アン・ヘンダーソンの話を聞いたりしている。

で、$25 millionの予算を費やして出来上がった映画の興行成績は…$8.8 million。う~ん、まあ、惨敗なんでしょうねぇ…。これだけ温め続けた作品なのに😢。

コッポラで温め続けたと言えば、今年のラジー賞を受賞した「Megalopolisメガロポリス」も、1977年から温めてきたアイデアを映画化して大コケしてました(;^_^A。

こっちは「On The Road」がカワイイくらいの予算$120–136 millionで興行収入$14.3 millionという大損失。アチャ~。コッポラは温めすぎると失敗するというジンクスでもあるのかな?🙄

オスカー獲ってる「ゴッド・ファーザー」は監督だけ。原作自体も映画の数年前に書かれたもの。なので彼による長い構想期間はない。もうひとつマーロン・ブランド主演「地獄の黙示録」も、原作は1969年で映画が1979年なので10年ほど。マーロン・ブランド主演だと成功する法則のほうがある感じ?じゃあ最初のケルアック案をコッポラが監督していたら、大ヒットしていたかもね~😆。


キャストと関係図

自分の理解の為に関係図を作ってみました。
実在の人物の写真と俳優陣の写真を見比べたかったのと、当時の年齢も把握したかったので。(クリックで拡大🔎)

皆さん、似せようと努力してるのは感じますw。

図にはケルアックの二人の妻も入れてますが、出てくるのは2番目の妻ハバティをモデルとしたローラだけ(それも最後に少し映るのみ)。

原作では、ルシアン・カー事件で保釈金払ってくれた一人目の妻、イーディー・パーカーと別れたところから「On The Road」の物語は始まる。妻との別れでゴタゴタして病気になり、それから立ち直ってきた時にディーンに出会い、Roadの人生が始まった…というような文章で始まる。一方映画では改変されて、父親が死んで沈んでいる時(実際葬式の場面がある)にディーンと出会う展開になっている。
実際、ケルアックの父親の死も1946年(キャサディに初めて会った年)で、時期的には間違っていない。しかしなぜこの改変をしたのか?意味があると思うけども…それは後ほど。

あと図には3Pって書いてるけど、3人一緒にベッドで…というそのままの意味と、男二人が一人の女性をシェアしてる三角関係(寝るのは別々)という意味の両方あります。
メリールー&ディーン&サル・・・ここは原作なり映画を観て頂いたら描かれてます。
メリールー&ディーン&カルロ・・・ここは物語では描かれないけど、実際にはキャロリン・キャサディがベッドにいる3人を見かけたそう。
カミール&ディーン&サル・・・ここも物語では描かれない。ただキャロリン・キャサディが後に、この3人の関係を描いた本を書いている。ニールはケルアックと妻が寝ることを希望して、奇妙な三角関係が続いたんだそう。

ここからは、キャストの感想をダラダラと書いてます。適当に読み飛ばしてくださいm(__)m

主人公 Sal Paradise サル・パラダイス(モデルはケルアック)にSam Rileyサム・ライリー

”サル”ってモンキー🐵みたいな名前だなって思っていたら、イタリア系だからサルバトーレの略なんですね。

サム・ライリーは、見たことあるかなぁ…どうだろう?…程度の俳優さん(スミマセン😅)。
別の作品で好感持ってたりしたら違ったのかもしれないけど、ぶっちゃっけ今ひとつパッとしなかった。あまり何考えてるか分かりづらいというか、伝わってこなかったので、共感したり親近感を持てたりができなかった。シンクロ率が低かったというか…そんな感じ。

映画自体が「次どうなる?」という関心で観客をグイグイ引っ張るものでもないわけで、主人公があまりパッとしなかったら…そりゃまあヒットはしにくいですよねぇ…。別に顔だけで2時間引っ張れるイケメンじゃなくてもいい(+αでイケメンならなおいいけども)。ただこの映画の中だけでも目が離せないような魅力を作り出して欲しかった。伝説的小説の主人公を演じるのには地味すぎたかなぁ…。演技が特別悪いとは思わない。頑張っていたと思う。ただそれじゃカバーできない”何か”、スター性?華?演出のせい?なんだろう?何かが足りなかった気がする。

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サルが崇拝し、ズ~っと気になる存在である「On The Road」のもう一人の主人公、ディーン・モリアーティニール・キャサディがモデル)にはGarrett Hedlundギャレット・ヘドランド

「トロン: レガシー」の主人公を演じていたので顔は知ってた。でもそれ以外知らない😅。「トロイ」なんかにも出てたのか…。ジュリア・ロバーツの姪のエマ・ロバーツと交際して子供がいると…なるほど。

彼が、ある意味主人公のサル以上にカリスマ性があって、観客を一心に引き付けるぐらいの力が無いといけなかった気がする。それがこの映画の成功を左右する要素であったといっても過言じゃない。候補にあったブラピだとまあ納得だったかなぁ(「テルマ&ルイーズ」での実績あり)、コリン・ファレルはどうだろ?(若い時にSEXテープが流出してたくらいだから、ディーンと似たような乱れた性生活も送っていた気はする 苦笑)。「リプリー」のジュード・ロウぐらいの強烈さ(若い時のアラン・ドロンとかも)が欲しかった。残念ながらそこまでの魅力はなかったんですよねぇ…。時期が合ってたらヒース・レジャーなんかでも嵌ったかも?それこそ最初のケルアック案のマーロン・ブランドがディーンで、サルをちょっと頼りない感じのジェームズ・ディーンがやっていたら割と嵌ったかもしれない。現実でもブランドに心酔していたみたいだし。

2010年頃ならクリス・エヴァンスとかでも良かったかも?筋肉質で胸毛とかもあってワイルドさもあったし。wiki見たらちょうどキャプテン・アメリカ、アベンジャーズをやりだした頃か…。う~ん、それは時期的に厳しかったか。

個人的にはディーンは金髪キャラじゃなくて、黒髪ダーク系にして、サルを薄い系にしてもよかったのに…とは思う。サルはメキシコ系のテリーと付き合ったりしていたわけで、エキゾチック系に憧れがありそう。だからディーンも少しネイティブ・アメリカンの血が入ってそうとか、メキシコ、ラテン系の血が入ってそうとかにすれば、彼に強い魅力を感じるという部分で整合性が取れる。

確かにこの役のキャスティングは難しいと思う。ディーンのモデルのニール・キャサディも、あ~酒ばっかり飲んでそうな酔っ払い顔だな~って、決して美形って感じではない(でもケルアックや歴代彼女たちによると、ギリシャ彫刻のようにキレイだったとも)。ギャレット・ヘドランドでも十分盛ってるw。変に美形すぎても原作ファンからは違う!って言われそうだし。かといってストリート育ちを強調して、ヘタに下品な俳優連れてきても駄目だし。
映画でも原作通りにしていたけど、ディーンは何かといえば”腹を搔く”っていうクセがある。これ結構重要だと思う。本当にカッコイイ男って、腹を掻いてる姿も絵になる。一方それほどでもない男は単にだらしなく見える。ギャレッド・ヘドランドは…申し訳ないけど…あまりカッコイイ腹掻きではなかったかなぁ…(;^_^A。

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ギンズバーグに相当するカルロ・マークス役にTom Sturridgeトム・スターリッジ

全然知らん(/ω\)スミマセン。ロバート・パティンソンと友人で、シエナ・ミラーとの間に子供がいる。シエナ・ミラーはジュード・ロウの元婚約者(とはいえここも略奪愛だっけ?)。ベビーシッターに浮気されたところで記憶が止まってたんだけど、そのあとにリス・エバンス、バルサザール・ゲティ(大富豪ゲティ家の出身。「Brothers & Sisters」の長男役)と経て、スターリッジと(既に破局)。←タイプに統一感が無い😅

男性陣で一番有名なのはオールド・ブル・リー役(モデルはウィリアム・バロウズ)ヴィゴ・モーテンセン

一番の見どころは、オルゴン集積器という汚いサウナみたいな小屋に入る時にズボンを脱いでお尻が見えるところかな?w🙈。
オルゴン集積器とは大気中にあるオルゴンというエネルギーを体内に取り込む装置なんだそう。wikiによると「自然界に遍在・充満するエネルギー。オルガスムス(性的絶頂)からオルゴンと名づけられた。オルゴンは性エネルギー、生命エネルギー」)
薬ばかりやって、銃で空き缶撃つ練習しているし、怪しいものにも傾倒して、かなりヤバイ変人としてオールド・ブル・リーは描かれてます。「Kill Your Darlings」でも変人描写だったからそれが共通認識!!w

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*クリステン・スチュワートディーン・モリアーティの最初の妻メリールー役(モデルはルー・アン・ヘンダーソン)。

まだ10代の幼な妻で、ディーンと行動を共にしてヤリまくってる。身も蓋もない言い方するとアバズレ枠(原作でもディーンやサルから淫売扱い)。

「トワイライト」シリーズが終盤の頃のクリステン・スチュワート。おそらく当時のキャストの中では一番勢いがあった人物なのでは?映画的には女優陣の知名度で推したかったのかなぁ?🙄 しかし、この物語における女性キャラの重要性はそれほど高くないのに、女優陣の方が知名度が高いという不思議な現象が起きている。←そのことについては後ほど。

クリステン・スチュワートは濡れ場でも体張って頑張っていた。ただ目も座ってるし、ちょっと何考えてるか分からない、ダンケル夫妻のセックスを真顔で観察しに行こうとしたり、ちょっと不気味でヤバイ女、不思議ちゃん系。一応ヒロイン枠なんだからイカれてるけどカッコイイとかになっていたら良かったんだけど、残念ながらそうはなってなかった。

終盤、原作にはない涙をポロっと流す場面がある。それによって破天荒なディーンに振り回される健気な女の子の切なさ、もうすぐ捨てられる悲しさを表現したかったのかもしれないんだけど…う~ん、あまり響かなかったんですよねぇ(;^ω^)。そもそも原作が彼女の境遇に同情を誘うように作られていないので、そういう流れの中にいきなりお涙頂戴シーンをブッこまれても…とってつけた感。

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*キルステン・ダンストはディーンの2番目の妻カミール役(モデルはキャロリン・キャサディ)。

コチラはメリールーとは対照的に現実的な女性として描かれる。というか子供が生まれるから現実的にならざるを得ない。モデルとなったキャロリンはキャサディとの間に3人の子供を成す。娘二人と、最後に男子が生まれ、John Allenと名付ける。ジョンはケルアックの本名から、アレンはギンズバーグから。

映画のカミールはディーンにギャーギャー文句言ってるイメージしかない😅。原作でも怖い嫁さんという印象。これといって心温まるエピソードなんかはない。映画ではサルと一緒にダンスとかしてたけど。

このニール・キャサディの2番目の妻キャロリン
この人も一応ビート作家にカウントされたりすることがある。なぜかというと、のちに夫ニールと、ケルアックとの三角関係を描いた本を書いているから。

1976年に「Heart Beat: My Life with Jack and Neal」という回想録を出版していて、それを元にした映画「Heart Beat」1980年に作られている。
(ケルアック存命中は手紙等の使用を禁じられたため、彼の死後に出版)

キャサディ役にニック・ノルティ。ケルアック役にジョン・ハード。キャロリン役にシシー・スペイセク。ただこのサムネはスペイセクではないのでルー・アン役の女優さんかな?
ただ日本公開はしてないっぽい?Wikiページもないし予告編もない。
この動画も何語?トルコ語?で吹き替えした映画の一場面で予告編でもない。

キャロリンのwikiによると、1952年から数か月ケルアックが彼らの家に居候して作品を書いていたのだと。そしてキャサディがケルアックと妻キャロリンに関係を持つように勧めたんだとか。その関係は1960年ぐらいまで続いたということなので、決して一回だけの関係というわけでは無さそう。これが関係図に書いた3Pの意味です。そういう三人の関係を、この「Heart Beat」は描いている模様。(一応図書館で本を見つけたので読んでみようと思ってます)

キャロリンはさらに1990年にOff the Road: Twenty Years with Cassady, Kerouac and Ginsberg」という本も出している。←苦労させられたから元夫と友人のケルアックの名声をこれでもかと利用している逞しさよ😆!!

あとギンズバーグとキャサディとルーアンの三角関係も…キャロリンのwikiに記述がある。3人が裸でベッドにいるのを見て、ショックでニールと一時別れたと。映画の中ではルーアンとは違うリタという女性と3Pするところをサルが見ている描写になっていた。結局キャサディとの関係に限界を感じてカルロ・マルクス(ギンズバーグ)はアフリカに行く(ニールは自分だけのものにならないし、学のないキャサディに書き方を教えて欲しいと頼まれ、なんとなく利用されてる感じもあったのかな?)。

この時の会話で「Carlo in wonderland」と言ってる。映画「Kill your darlings」では「Allen in wonderland」と言っていた。アレンとアリス(Alice)はAlまで被ってるからわかるけど、カルロは無理ある。これはギンズバーグの口癖か何かなのかなぁ?

キャサディとギンズバーグの性的関係もなんだかんだと20年くらいは続いていたんだそう(ギンズバーグがインタビューで言及)。

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*エイミー・アダムスオールド・ブル・リーの妻ジェーン役(モデルはバロウズの妻ジョーン・ヴォルマー

髪も梳かさず、ボサボサ頭で庭の蜥蜴追っ払ったり、薬やったり、セックスのアドバイスしたり、これまた結構イッチャッテル感じの役😅。まあ現実のヴォルマーもヤク中で子供出産しているので結構イッチャッテル感じですが、原作の中ではそこまでヤバイ感じはなかったかな?蜥蜴追いかけたり、セックスのアドバイスとかはしてなかった。

現実の時系列的には、ケルアックたちがニューオリンズを訪れた後、バロウズ一家はメキシコシティに引っ越し(というか逃亡。薬物と銃器の違法所持(?)で収監される可能性があったから)。で、結局そこでヴォルマーはバロウズに射殺されることになる…。

原作ではリボルバーやサブ・マシンガンを見せびらかす描写はあったが、映画のように銃の練習をしたりはしない。ただその時にジェーンが「あなたが試し撃ちをする時、そばにいたくはないわね」と言う。これはのちに銃殺されることを暗示させたかったのかな?ケルアックがこの小説を書いたのが1951年の4月、ヴォルマーの死亡が9月。しかし出版までは6年あるので、その間に起こった悲劇を盛り込もうとしていてもおかしくない。ルシアン・カー事件についても複数回題材にしてますし。

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*エリザベス・モスはディーンの友人エド・ダンケルの妻ギャラテア役(モデルはアル・ヒンクルの妻ヘレン)。

コチラも新妻である自分を置き去りにした夫に、ギャーギャーと文句言って怒ってる妻という印象しかない(;^_^A。ガス代出した上に置き去りにされたんだから、まあ至極まっとうな反応だと思いますw。

映画ではそれだけのチョイ役なのですが、原作ではこのギャラテアにもう一回活躍する場面が出てくる。SFでカミールに家から追い出されたディーンを、グゥの音も出ないほど女仲間と辛辣に批判する(アホな男子に詰め寄る女子たちの図)。

個人的にはこの場面、あった方がよかったけどな…と思ってる。
ここでディーンが徹底的に社会不適合者の烙印を押されるんですよね。それでもサルはまだディーンの肩を持ちたい。物語の後半はディーンのネガティブな面も色々出てきて、サルは冷静にそれを見つつもまだ好意的。しかし最終的にはメキシコで病気になって置き去りにされる。

映画だとその辺りが凄い駆け足。原作はこのディーンの壊れっぷり(女だけでなく友人にも不誠実)がカッコイイだけじゃすまされない、残念な感じも漂い出す。すると「なぜこの男はこんなに壊れているんだろうか?」と読者は考え始めるようになると思うんです。それはおそらく生い立ちが影響を与えているんですけど、映画だとそこまでなかなか思い至りにくい。

で、サルもいい加減ディーンを見限ったかと思いきや、物語は「ディーン・モリアーティのことを想う。見つからなかった彼の父オールド・ディーン・モリアーティのことも想う。そしてまたディーン・モリアーティのことを想う」という感じで終わる。←どんだけ想い続けるねん!!www

ここでディーンの父親が出てくることがポイントだと思うんです。この父親が育児放棄したからディーンはぶっ壊れていて、少年院、刑務所に入ってきた。まともな家庭を知らない。そんな人間がまともな人間関係を築けない、築き方を知らないとしても不思議ではない。そのぶっ壊れ具合は、ある意味、破天荒で魅力的でありつつ、片や悲しい側面もあることにサルは気付いたのだと思う。それで結局憎み切れずに彼のこと(+彼の父親も)を想ってしまう…ということなのではないかと。

小説と映画の違い

ココまで書いた中にも細かい違いは沢山ありました。

メリールーがミュージシャンの歌で涙を流すシーンは原作にはないし、カミールがディーンを追い出し、出勤の為の身支度で、決意をした顔で鏡に映る自分の顔を見つめるシーンもない。
おそらくこれらは、女性キャラをより尊重して人間味を加えた結果なのでしょう。ウーマンリブを経由して、原作のあまりにもホモソーシャルな世界観から抜けだし、女性視聴者からの共感を得ようとするのは当然というか仕方ない。

旅の省略

小説と映画の一番大きい違いは、小説は4回の旅ですが、映画の方は3回に省略されている点。
2回目の旅の最後、小説ではNYに戻るところを戻らず、SFの近くで少し働きながら暮らしたのち、3回目の旅でSFのディーンの家を訪ねるところに引っ付けている。こんな感じで↓


そして4回目の旅。メキシコへ行く旅は、デンバーでディーンがサルに追いつく展開ですが、映画では最初から二人でNYから出発する。スタン・シェパードは登場せずに二人旅になってる。だから最後、メキシコに残されるサルは一人ぼっちになり、よりディーンが冷酷な奴になっている。

病気のサルの面倒をみるスタンがいるのといないのとでは随分印象が違ってくるんですよね。私なら絶対許さん!!(笑)異国で死にかけてる時に放置なんて絶交一択。思いだしたくないし、万が一思いだしたらムカムカするわ😡。ラストのセリフ「ディーン・モリアーティを想う…」なんて未練たらしいこと言ってるなんて、アホちゃうか!?って思っちゃうw。
そういう意味でも映画は失敗な気がするんですよね。ディーンに同情の余地が生まれなかった。しかし、原作は彼の生い立ちをもっと説明しているし、先述したように、彼の壊れ具合の原因に想いを巡らす”プロセス”や”間”がある。そして最後も、一応スタンを残しているからそこまで残酷ではない。なので、あの終わり方にも納得感があるし、読んでる私も一緒になって、ディーン・モリアーティに想いを馳せたくもなったんですよね。

妻との別れVS父の死

もうひとつ気になる原作と違う映画の改変があります。
それは、原作の始まりは妻との別れから始まるのに対し、映画は父の死で始まる点です。

どちらも1946年頃なので歴史的には間違っていない。しかし映画では”妻との別れ”を一切なくし、雨の中の父の葬式のシーンをわざわざ撮っている。これは結構な意図がある気がします。

ネットでは、この”妻との別れ”の後にディーンが現れ、彼にゾッコンになるわけで、ディーンが妻の代替だと考える意見がありました。ケルアックのセクシュアリテイについてはこのあとで書きますが、現在ではバイセクシュアル説が強いですし、ホモフォビア的でありながら抑圧された同性愛的欲望を持っていたであろうという意見もある。なので私もこの説には納得できます。

では、映画はなぜ”父の死”にしたのか?
それは、映画は”父性”や”父親像を求めること”をメインテーマに持って来たかったから…ではないかと。

サルは父が死、代わりに現れたディーンに”父親像”、いなくなった父の代わりに自分を引っ張っていってくれる人物を求めた。だからまるで思春期で親に幻滅する前の、親が言うこと全て正しいと信じてる子供のようにディーンを信奉する。

それと兄貴的存在の代替の可能性もある。ケルアックの亡くなった兄ジェラルド。彼は病弱ながらも凄く弟に優しくて、ケルアックも凄く慕っていた。ファザコン&ブラコン。そしてその両方がいなくなった。男にとって、最初にホモソーシャルのメンバーとして認めてくれる人を求めているという意味合いもある。

一方、ディーンの方も、いなくなった父の幻影を追い求めている。
彼は学がなく、カルロやサルに近づいたのも、教養のある彼らから”物の書き方を教えてもらう為”。頭はイイが教養のないディーンもまた、色々と教えてくれる父親や兄貴のような存在をずっと求めている部分があるわけです。
あの無茶なことをして、それでも付き合ってくれる友人を求めてる感じ…、ここまで許してくれるかな?ここまで甘やかしてくれるかな?ここまで付いてきてくれるかな?幼少時にこれらの親の愛を試すという過程を踏めなかったので、その永遠のループから抜け出せないようになっている感じがある。

そういうわけで、二人はここで共依存関係に陥り、妙に固い絆で結ばれるわけです。

製作総指揮のコッポラはイタリア系だから、やはりカトリック?
監督&脚本コンビはブラジル人なので、ここもカトリック?
そうなると同性愛は禁忌なので、そのニュアンスは排除し、代わりに父性を求める方に変更した…ということも有り得る。

もしくはこのラストの文言。

I think of Dean Moriarty, I even think of Old Dean Moriarty the father we never found, I think of Dean Moriarty.
そんな時、ぼくはディーン・モリアーティのことを考える、ついに見つからなかった父親のオールド・ディーン・モリアーティのことも考えながら、ディーン・モリアーティのことを考える。

ケルアック「On The Road」より

この父親のオールド・ディーン・モリアーティがわざわざ出てくる意味を考えた時に、”父性”を前面に出すべきだという考えになるのもわかる。まあその方が統一感は出るんですよね。サルとディーンの関係に同性愛的要素を盛り込むよりも。

恍惚のブシェミ

しかしながら同性愛描写はあるんです、この映画。原作にはないのに。

それはサルとディーンがデンバーに行く為に、ゲイの男の車で相乗りするところ。途中、宿に泊まったところで、そのゲイの男がお酒をもってやってきてモーションをかける。

ここで原作の方は、そのゲイが、自分は男に興味がある…風のことを匂わして、ディーンをやんわりと誘う。ディーンも過去に路上で男の相手もしていた的なことを言う=俺が相手するなら金を払えと暗に言っている。
しかし、結局ゲイの男は渋ってそれに乗らず、ディーンも駆け引きに耐えきれず「相手が内心欲しがってるもの(=金)をサッサとくれてやればいい。そうすれば相手の方が慌てるんだから」と男に言う。こんな感じで結局セックスはしてなさそう。

一方の映画の方は、そんな駆け引きもなく、怪しい空気を察してトイレに行っていたサルが戻ってくると、隣室でディーンがガンガンおっさんを後ろから突いてる。そして翌日、ゲイの男と別れた後、ディーンはサルに向かって「相手が欲しがってるもの(←この場合はゲイセックス)をやれば相手が慌てる」と言う。そしてお金もふんだくった風に描かれる。ディーンがまさに原作の言葉を実践してる風に変更されてるんですよね。つまり、相手の虚を突いて自分が主導権を握るとここまで出来るんだぞと。

で、このゲイのおっさんを演じていたのがスティーブ・ブシェミ。ハリウッドの個性派名脇役。

実は彼、グァダニーノ監督が「QUEER」を撮るずっと前に、バロウズの「QUEER」を映画化しようと試みたことがあるらしい。意外なところで繋がってビックリ。

そして、彼の”お気に入り映画10選”という2008年のコチラの記事を見てみると、6位に「My Own Private Idaho」があるんです。

「My Own Private Idaho」でも、主人公のマイクとスコットは旅の途中にウド・キア演じるゲイの男ハンスと出会い、3Pに持ち込み(彼らはハスラー)、そしてハンスの車を自分たちのものにすることに成功する。まさしく相手が欲しがってるものを与えて、主導権握って有利にことを運んだ。

ブシェミが「On The Road」でこの役をし、内容を「My Own Private Idaho」的に変更したのは、もしかしたら「My Own Private Idaho」へのオマージュな気がするのですが…どうでしょう?

役の中ではディーンとのセックスを実現させ、ブシェミとしても好きな映画の美味しい役どころを再現でき、二重に恍惚となるような体験だったのでは?ということでした😆

ただ、この展開で映画はやはり少しホモフォビックなニュアンスを出してくるんです。

サルはディーンとおっさんのゲイセックスを覗き見し、その後ポンポンと場面が移り、次にダイナーでの食事場面になる。その時にディーンが話しかけても無視する。つまりゲイセックスするディーンを軽蔑してるっぽい描写になってるんですね。ゲイどうこうは関係なく、単に売春したことへの軽蔑の可能性もないとは言えませんが、わざわざ原作にないゲイセックスを取り入れた流れでこの場面なので、普通はホモフォビックな文脈だと考えてしまいます。

一方原作の方は、結局ゲイセックスはしてないのでそういう流れではない。ダイナーのトイレで、サルが小便を途中で止めれるという技をディーンに見せ「スゴイだろ?」と言うと、「腎臓に悪い。歳とったら腎臓病になるぞ」と言われたことで激昂し、ケンカ(というかサルが一方的に怒る)になるという流れ。確かにそこで「あんなホモじじいと一緒にするな!」とは言うけど、それはゲイだと言われて怒ってるんじゃなくて、年寄り扱いされたことに怒ってるので意味が違う。

ココでサルがなぜそこまで激昂したのか?そもそもサルはディーンのバカなノリを信奉してるし、自分のバカなノリにも付き合ってくれるディーンが好きなんですよね。

原作でも映画でも全編に散りばめられているジャズ。これこそディーンのメタファーと言っていい。即興で、ノリのいい客、ノリのいい相手とのセッションでドンドン加速度的に盛り上がっていき、サルもディーンも興奮と恍惚の境地に酔いしれる。サルとディーンの関係はジャズの楽器のセッションのようなもの。二人を結び付けているのはこのノリ。

第1部と第2部ではその楽しいノリのディーンしか出てこなかった。しかし、この第3部ではディーンの負の面も垣間見えるようになり、ノレない場面も出てくる。その理想と現実のズレへの不満が蓄積してきたところで、なんとかディーンとバカなノリのセッションをしたいと試みたら、超有名ジャズ・ミュージシャン兼教祖だと信奉していたディーンから、退屈な説教みたいな答えが返ってきた。そのノリの悪さ、その裏切りが許せなくて怒りに転換されてしまった…そういう感じかなと。

そして原作では泣いたディーンに一応サルが謝る。しかし自分が悪いと分かりつつも「俺が悪いんじゃないぞ」とも最後に言う。普通にゴメンで終わらせるのはイイ子ちゃんでつまらないからなのか?、こんな最低の世界で俺が悪いなんてありえないと。おそらくまだ世間への反逆児を演じて強がりたかったのかな?気まずい二人の空気も、また一緒にREBEL(反逆者)としてカッコよく振舞おうぜ!だからディーンも小さく収まらないでくれよ…というサルの切なる想いの表れ…ということでしょうか?

一方の映画は、ダイナーを飛び出したディーンはそのままデンバーの町で父親捜し。その不憫な姿を見たサルは、なし崩し的に肩に手を回し仲直り…という展開。だからホモフォビックな描写が、とってつけたように際立ってしまっているんですよね。

セクシュアリティについて

セクシュアリティに関しては、ケルアックとニール・キャサディ、そして彼らのアルター・エゴ、別人格として登場する「On The Road」内のサルとディーン。この4人格で考えたい。

➀まずはサルとディーン。
彼らはあくまでも基本ストレート男性として描かれている。

映画のディーンはゲイとセックスしたり、サルに3Pしようと持ち掛けたり、下半身丸出しで玄関に出て来たり…言葉にはしないけど(隠れ)ゲイ男性(のサル)を挑発してるかのような描写はある。ただこれはのちにケルアックやキャサディの関係にゲイ的要素やバイセクシュアルだった等の情報があるので、それに引っ張られて2012年の映画では取り入れられた結果かなという気がする。原作読んでる限りは映画ほどホモエロティックな空気は感じなかった。

何かをバカにしたり蔑んだりするときの表現として”ホモ野郎”等の文言が多用されていて、むしろホモフォビックな印象があるなと感じたほど。とは言え、そこに真の憎悪的空気は感じない。とりあえず世間への体裁的にそういうポーズをしておこうという程度かな?ゲイをバカにしてる自分はゲイじゃないんですよ~という牽制的手法といいますか…。

とにかく、「On The Road」におけるサルのディーンへの感情は、友情を越えた信仰に近いもので、そこに恋情も含まれるように見ようと思えば見えるけど、決してその領域には触れないように、そこは細心の注意をもって書かれていたように思う。なので二人ともセクシュアリティはストレート。

②一方、現実のケルアックとキャサディはどうだったのか?

ケルアックのセクシュアリティ

一応ケルアックは生前ゲイであることは認めていない。他のビート作家であるギンズバーグやバロウズとは違う。

しかし、ギンズバーグが彼との性的関係を後に証言していたり、一時交際していたという作家ゴア・ヴィダルも関係があったことを話している。
なので一般的にはバイセクシュアルということになっている。

ただ、私は限りなくゲイに近いバイというか、ゲイと名乗るには抵抗があったのでバイということで誤魔化していた人物…という気がします。

ケルアックは3度結婚している。
一度目は先述したイーディー・パーカー。彼に保釈金払って助けたのに、それから2カ月ほどで別れた最初の妻。

次、2番目の妻はジョーン・ハーバティ。1950~1951年、結婚生活は8ヶ月ほど。彼女と同棲中に「On The Road」を書き上げ、彼女が妊娠中に別れ、その後、自分の娘を9歳(血液鑑定を受ける)まで認めなかったという薄情な対応をしている。(一応ケルアックと交際する前に別の男性とも交際していたようだけど)
(その娘もなかなか厳しい人生を送ってる。娘ジャン=Janetは貧困の中、売春に手を出さないといけないほどだった。12、13歳頃にウィペッツと言うグループでレコードデビューもするが、売れずに解散。後にいくつかの自伝的作品も書いている。90年代にケルアックの遺産に関する裁判で、祖母の遺言が偽造だと認められたにもかかわらず何も得られなかった。44歳で脾臓摘出の術後の経過が悪く死亡←父親より短命)

そして時代が下り、彼が死ぬ3年ほど前の1966年、ステラ・サンパスという女性と結婚している。ステラはケルアックの幼友達の姉で、ケルアックとも顔見知りだった人物。そんな彼女となぜ結婚したのか?初恋の人と結ばれたのか?と最初思いましたが、この年にケルアックの母親が脳卒中で半身不随になり、その世話をする人が必要だったからだと言われている。(←結局母親はケルアックより4年ほど長生きする。それで最後まで面倒を見たステラが遺言書を偽造したというので裁判沙汰になった)

つまり、彼の結婚生活からはあまり女性への愛情を感じられないということ。唯一愛していた女性は母親…的なことを本人も言っていたようで、確かにマザコン臭はする。「On The Road」に出てくる叔母も、実際はケルアックの母親がモデルであり、何かと寛大に旅に送り出したり、お金を送金したり、甘やかしてる様子が伝わってくる。

バリー・ギフォード&ローレンス・リー著のケルアックの伝記「ケルアック」も読んでいるのですが(まだ途中)、この本、ケルアックの知人や関係者に証言して貰った内容を挿入しながら書かれているので興味深い。

先述したゴア・ヴィダルが、二人がセックスしたであろうチェルシーホテルのことを話している。詳細は乗っていないのでググってみると、こちらのサイトにより詳しい話が載っていた。

ヴィダルによると、バロウズと三人でバーで会った後、バロウズがいなくなったので二人でチェルシーホテルに行ったこと。そしてセックスに至る様子、ケルアックがウケ側だったことなんかを語ってる。そして数年後に再会した時に、実体験をなんでも作品にしてるのに、私との体験は書かないのか?と訊いたら、「忘れた」と言われたと。

またヴィダルはギンズバーグから聞いた話として、ケルアックの家を訪れた時に、彼の母親から「あなたはゲイなの?」と訊かれたそう。「そうだと思います」と答えたら、「私の夫もそうじゃないかと思うの」と言ってきたとか。(←これに関してはギンズバーグはそんなことはなかったと言ってる)

で、ケルアックの家庭環境が気になったので、「ケルアック」の中で幼少期のことが書かれている部分を読んだのですが、セクシュアリティに関する部分はない模様。それでネットで調べてみたら、もっと詳しく書かれているものがありました。それがコチラ。

Ellis Amburn's 1998 biography 「Subterranean Kerouac: The Hidden Life of Jack Kerouac」

その一部がニューヨークタイムスの記事で読めました。更に詳細で複雑な家庭環境や、彼のセクシュアリティの形成に影響したであろうことも深掘りしていて、これまた興味深かったです。彼の幼少期をモデルにした他の作品、キャサディとの手紙、関係者からの証言等を参考にしてより深い考察がなされている。

父親の家系は代々アル中。そして母親もアル中傾向にあった。
父親はさらにギャンブルや女遊びもやってて(←家にあまりいなかったのなら、男遊びをしていた可能性もあるなぁ…)、ケルアックがディーンに憧れているのは、このヤクザな父親像を重ねていそうだなと思わせる。

そして一番興味深かったのは、兄のジェラルドについての記述。彼はとても優秀で優しく、ある意味、母親や病院のシスターたちから聖人のように扱われていた。実際、マリアと昇天するビジョンも見たとかで、より聖人視される傾向があった。

しかし一方で別の一面もあった。父親が不在の家庭で、長男の彼は母親にとっては夫、妹&弟にとっては父親役を担わされていた。病弱なのに母親の頭痛の為に薬を買いに行かされたり。そしてそれを義務として誇りに思っていたという。

そんな彼は、同級生の男の子とトイレで性器をいじり合うようなことをしていたらしい。それが単に性に関しての興味本位だけなのか?それともその同級生に同性愛的感情があったのか…?いうても9歳で亡くなってますから真実は不明。そんな彼、夜寝るときはケルアックを抱きしめて寝たりもしていたし、ケルアックの方もそれが心地よかった。そしてわざと寝る前に怖い話を聞かせて、自分への依存が強まるようにもっていっていた節もある。怖い話だけでなく、両親は絶えず大声でケンカしていて、強度のストレスがかかる状況下。ケルアックが兄に依存するのもわかるし、ジェラルドの方も病弱で普通なら自信も持てないところ、母や妹弟に頼られることで自尊心が満たされる。機能不全家族によくあるWin-Winな共依存関係。

それで小さいケルアックは兄ジェラルドを慕う一方、嫌われることも異常に恐れていた。

しかしながら、こんなこともキャサディへの手紙に書いていた。

Even at three years old, Ti Jean had erotic feelings for Gerard, and that was the "agonized cock of the matter," Jack wrote in a 1950 letter to Cassady.
1950年のキャサディへの手紙でケルアックはこう書いている「三歳の頃でさえ、Ti Jean(幼いケルアックの愛称)はジェラルドにエロティックな感情を抱いており、そしてそれこそが”問題の苦悩するペニス”(のはじまり)だった」と。

つまり三歳の頃から兄に対して性的な”何か”を感じていたと。
これは本当に人間の複雑な一面だと思う。生まれ持った自然発生的な同性愛感情もあるんだろうけど、こういうのを聞くと、幼少期の強烈なストレス下で受けた影響がなにかしら関係していそうとも思う。この場合だと、恐怖と被庇護欲が刺激となって、未成熟な性的感情が掘り起こされる…みたいな感じ?またはジェラルド側からもなにかしら性的なタッチが日常的にあったので、ケルアックの性的目覚めの呼び水になったのかもしれない。

この後、ジェラルドが亡くなり、五歳になったケルアックはその頃からマスターベーションのようなことをやり始めたらしい。それと近所の双子の兄弟と仲良くなり、彼らと触り合いっこもしていたと。これはジェラルドから日常的に触られていたから、そういう風に発展したのでは?という気がしないでもない。

時代も文化も違うので、今の感覚と違うのは当たり前。それでも母親に肛門を触られることを許していたとかも書かれているし(←どういう状況?(;'∀'))、母親が裁縫仲間たちと集まった時、ケルアックを膝に乗せ、肛門から寄生虫を引っ張り出すのを見せたりもしていたと。フレンチカナディアンの母親たちはそれを楽しでいたとケルアックは言っていたそう…(←う~ん、ちょっとついていけない😅)。でもそういう感覚なら、性器に触れるの日常的で、おかしいという感覚はおそらくほぼない。ただ、そういう経験が、幼く未熟な脳裏に強烈に焼き付くことは容易に想像できる。そしてそれが後々の性癖やObsession執着に変化する可能性も十分あり得る気がする。


ケルアックのキャサディへの羨望と執着の仕方を見ると、不在だった父性への憧れと、亡くなった兄がもたらしてくれていた安心できる共依存関係の代替、性的感覚を呼び起こしてくれた興奮、そういうのを求めていた結果なのかな?という気がしてきます。

これはもう”三つ子の魂百まで”で、いくら女性と関係持って上書きを試みても、ベースがそれで形作られてしまっているのでどうしようもない。苦悩するペニス…言い得て妙。なので私的にはケルアックは本質的にはゲイだったという気が強くするんですね。

ではなぜそれを否定し続けたのか?仲間であったバロウズもギンズバーグも認めたのに、一緒になって肯定しても良かったのに…。

それは信心深いカトリックの母親の影響が強かったからでしょうね。母親のお気に入りだったジェラルドが亡くなった後、ケルアックをその代わりにしようとするだろうし、実際それでマザコンっぽくなっている。その母親を裏切ることがどうしても出来なかったんだろうと。

この母親の描写も興味深い。彼女もアル中の傾向がありつつ、気まぐれで、不安定で、疑い深く、病的に頑固だったと。ケルアックが6歳まで英語を話せなかったのは、この母親が頑固過ぎて家の中で絶対英語を話さなかったからなんだとか。
うわぁ~、この話、これまた私の母親と似てるぅ~😱。うちの母親も本当に頑固だった。一度機嫌を損ねたら、どんなに非効率なことや非常識なことでも頑として変えなかった。そしてその頑固な部分、私も受けついでるんですよねぇ…あぁ~嫌になる。おそらくケルアックも、この頑固なまでにゲイだと認めなかった、意固地なほどに拗らせたのは母親譲りだったのかもしれない。

結局、彼は両親同様、アル中になっていく。成功を収めたとはいえ、晩年はそれほど売れていなかったとも言われているので、何が彼をアルコールに走らせたのかは定かではないけど、この自分のセクシュアリティを認められないストレスが大きな要因の一つだった気はする。

ギフォード&リー著「ケルアック」の青山南氏によるあとがきに、亡くなる前年のケルアックの様子が書かれている。

作家ラッセル・バンクスが若い時、彼の住む学生町にケルアックが3人の連れのインディアンと共にやって来て、学生たちと飲み屋で交流をしたんだと。酷い飲み方で、酔っぱらってグデングデン。明晰に話してるかと思えば何言ってるかわからなくなる。体調も悪そうで、物凄い太鼓腹。ハンサムなフットボール選手だった面影はなく、その変わりように気が滅入ったほど。そしてもう先は長くはないだろうなとわかった…と。

そして1969年、食道静脈瘤破裂による吐血、手術を試みるが状態の悪い肝臓のせいで失血を抑えられず死亡。47歳。バロウズが83歳、ギンズバーグが70歳で亡くなっことを思うと、やはり早逝。
(もちろん絶対ではないけど、カミングアウトしたゲイ有名人は割と長生きし、クローゼットから抜け出せず、抑圧状態に苦しんだ人物は早死にする傾向…あるんですよね。アルコールとかドラッグとか、Slow Deathを選びがち)

ということでもう一人のニール・キャサディのセクシュアリティも考えてみます。

キャサディのセクシュアリティ

キャサディもバイセクシュアルとして知られているし、実際本人も自分のことをバイセクシュアルだと認めている。

ギンズバーグと付き合っていた期間もあり、映画「On The Road」では3Pしている描写があったけど、実際には何度も手紙を送り合って、気持ちを述べあうような精神的に親密なこともしていた。そのなかでキャサディはこう書いている。

”I know I'm bisexual, but prefer women.”
バイなのはわかってるけど、女の方が好きなんだ

こちらに二人の手紙の内容が載っているのですが、

やはりギンズバーグの方が切実に思い詰めていて、自分の側にいて欲しいと懇願してる。キャサディもそれなりに相手になろうとはしているみたいだけど、肉体的欲望はなさそうだし、恋焦がれてる感じはない。単に分かり合える同志をキープしておきたいというニュアンスを感じる。

男性とのセックスもするにするけど、そこには何かしらの見返りがある場合に限定されてる感じ。いわばGay for Pay的な。

ギンズバーグとの関係では、インテリ層である彼から知識を得ること、そして彼のインテリ仲間への繋がりを求めて、何かしらベネフィットを計算してるのが滲む。それでギンズバーグも我慢できずに距離を取ってアフリカに行くことに。

なので本質的にはストレート。”ゲイ寄りのバイ”であったケルアックとは反対方向にベクトル向いてる”ストレート寄りのバイ”

ではなぜ彼がそうなったのか?
これまた彼の生い立ちが関係してそうです。

キャサディのWikiには、10歳で母親が亡くなり、アル中の父親とスラムの路上生活をし、少年院を入ったり出たりを繰り返していた…という風に書かれている。

「On The Road」で語られるディーンの生い立ちの方がよりニュアンスが伝わるかも?

ディーンはアル中の息子、ラリマー通りをよろよろ歩く浮浪者の子で、じっさいラリマー通りの界隈で育った。六歳のときから父親を引き取りに裁判所に通ったりもした。ラリマー近辺の路地で物乞いをして得た金を、割れた酒瓶の山のなかで相棒と待つ父親のところにこっそり届けたりもした。そして大きくなると、グレナム通りあたりの玉突き場に出入りした。車泥棒のデンヴァー新記録をうちたて、少年院に入った。十一歳から十七歳までは少年院でおもに過ごした。特技は車を盗むこと、午後に下校してくる女子高生をひっかけて車で山に連れだして一発やること、町に戻ってくるとそこいらのホテルのバスタブに浸かって眠りこけることだった。父親は、昔は信望の厚い働き者のブリキ職人だったが、ワインのアル中になってからというものーウイスキーのアル中より質が悪いーすっかり身を持ち崩し、冬は貨物列車でテキサスに行って夏はデンヴァーに戻ってくるという生活を続けていた。

「On The Road」P.55~56

完全に家庭が崩壊している。10歳で母親が亡くなるまではまだまともな生活していたのかと思ったら、6歳で父親の面倒を見てる。ということは物心ついたころには既に碌なケアを受けていなかった可能性が高い。

物乞いもしているし、窃盗も生きるためには手段を選べなかった。
こうなると、ギンズバーグやケルアックに近づき、彼らから知識を吸収しようとするのは当然というか、友人だろうと利用するのは何の問題もない、彼らから金目のものを奪い取ってやろうという発想になってないだけまだマシな気さえしてくる。それほど生い立ちに差があるし、常識というものも、おそらくベースからして異なっている。

正直、映画見ていただけではディーンのキャラは全然好きじゃなかった。しかし原作では彼の悲哀も感じたし、こうしてモデルのキャサディの生い立ちを知ると、この生い立ちであの程度で済んでいたのなら、案外心は善良な方だったのでは?とさえ思ってしまった。確かに自分勝手で周りを振り回し続けるんだけど、ひとつ気付いた点は、彼には悪意がないってこと。誰かを憎んだり、誰かから奪おうとしたり、悪意を持って人を苦しめてやろうとするようなことはなかった。そういう意味では善良。ただ他人の気持ちを理解できない反社会性パーソナリティ障害の傾向はある。ただこの生い立ちを知るとさもありなん、仕方ない気がする。

そしてセクシュアリティに戻ると、彼はその少年院の出入りを繰り返していた時、ある人物と出会っている。それはJustin W. Brierlyという人物。「On The Road」でもDenver D. Dollとして登場する。サルがデンヴァーで友人たちとかつての鉱山町に小旅行に出かけ、オペラを見に行った時に出会う地元の名士的な人物。

このブライアリーは第二次大戦中にイギリスのチャーチルに呼ばれるほどの教育者でもあり、地元デンヴァーの不良少年達の更生にも尽力していた。そういう関係でキャサディとも15歳のときに出会い、彼の減刑を求めたり、学校教育、仕事のあっせん等親身になって支えた模様。キャサディとはこれまた熱心な手紙のやり取りをし、それを通じて彼が非常に賢い(IQが132あると言われる)ことに気づき、なんとか手助けをしようとする。

ここだけ聞けば凄くいい人のように聞こえる。実際イイ人だったのかもしれない。しかし彼はクローゼットなゲイだったんです。キャサディが初めてゲイ体験をしたのは彼だと言われている。そしてNYにいた時にタレント・エージェンシーをしていたこともあるらしい…(ジ〇ニー喜多川!?的な手法で手を出していたんじゃないの?と邪推してしまいます。実際キャサディに手を出してるわけで、立場を利用しててもおかしくない)。
「On The Road」で当初ケルアックは、ブライアリーのことをもっと辛辣に皮肉を込めて書こうとした。しかし権力者の彼に訴訟を起こされることを恐れて、大部分を削除し、何の面白味もない人物になってしまった…という経緯がある。これはキャサディからブライアリーについて何か聞かされていたからという気がする。(もしくは好きな相手の元カレに対する嫉妬の可能性もある?(;^ω^))

ここでブライアリーがグルーミング&立場を利用したのか?それともキャサディが隠れゲイの弱みに付け込んだのか?それはわからない(私は両方だと思う)。ただ、この経験が、底辺にいたキャサディに富裕知識階層との扉を開けたことは確か。そしてブライアリーもケルアックやギンズバーグと同じコロンビア大の卒業生であり、彼の弟子が「On The Road」で登場するチャド・キング(モデルはハル・チェイス)。チェイスがケルアックにキャサディを紹介するわけで、このインテリゲイ達と繋がるのに自分の魅力+ゲイ匂わせ(時には体も使って)を最大限使って成り上がろうとしてても不思議ではない。

ここで先述した一般的な常識を獲得せずに成長してきたことが、ある意味有利に働く。同性愛が禁忌という当時のキリスト教的常識も持っていないわけで、それに縛られているケルアックなんかよりもよっぽどハードルは低く、自由に、都合よくセクシュアリティを行き来できる。だからバイというよりもセクシュアル・フルイドのほうがピッタリくるかも?流動的ですから。

そしてキャサディはどうなったか?
彼は結局、自分はビート作家たちのネタに使われまくったけど(ケルアックの文体もキャサディとの手紙のやりとりで、彼の文体に影響を受けたもの)、自分では本を出すことはなかった。自分のなりの表現を見つけようとしていたけど、それが文章である必要もないと考えていたとも。

そして「On The Road」の出版の翌年、1958年に麻薬所持、売買で逮捕され2年間の服役。仮釈放が開けた1962年、妻キャロリンはこれ以上彼を家庭に縛るのは可哀想だと離婚する。しかしそれが間違いだったと後悔する。職も家庭生活もなく、それまでなんとか地に足をついていられたものから解き放っってしまった。

その後1964年ケン・キージー(映画「カッコーの巣の上で」の作者)率いるメリー・プランクスターズ(陽気なイタズラ野郎たちの意)という、大陸を西から東へ、バスに乗ってLSDなんかのサイケ・ドラッグをやりながら横断するヒッピー・コミューンのグループに入り、その運転手となる。

このブログで説明してくれてるので凡そどんなものかはわかるかと。

当時を同行取材した映像がネットにあります。
1999年にイギリス、チャンネル4が制作したドキュメンタリーでも見られるし、

2011年にはドキュメンタリー映画「Magic Trip」というのも作られている(←これも2010年代初めだな)。↓これは予告だけどフルも落ちてる。

生前のキャサディもいっぱい見れるし、ケルアックやギンズバーグもチラッと映ってますね。

「On The Road」でカリスマ的存在になったから、ヨシッ!それなら本当に路上こそが命、路上こそが俺が生きる場所、という感じになったのでしょうか?この旅のあと、1967年にこのプランクスターズの仲間たちとメキシコを訪れ、そこから一年ぐらいの間にメキシコとSF、デンヴァー、NY、オレゴンなどを行ったり来たりするほど旅にのめり込んでいく。

そして1968年の2月、メキシコでの友人の結婚式に参加した後、隣町まで線路に沿って歩いて行く途中に気を失い、Tシャツ&ジーンズ姿で寒い雨降る夜を過ごし、翌朝、意識不明のところを地元の人に助けられ、病院に搬入されるが、そこで死亡。
パーティーで大量のバルビツール系の薬を飲んでいたとの話もあり、薬物由来、もしくは元妻キャロリンは腎臓不全の可能性に言及など、はっきりした死因は分かっていない。(←低体温症もあるよね?)現地の医者もドラッグ関連だとは言いつつ、外国人だからと明確な返答をしなかった。

不謹慎にも「On The Road」ではなく「On The Railroad」で死んだんかいッ!!って思ってしまったけど(;^ω^)、まあ本当に路上に生き、路上で死んだ、イメージそのままの人生を全うしたんだなと。

映画「On The Road」では妻に切り捨てられていたけど、実際には妻キャロリンは何度も手を差し伸べてる感じだし、何度も地に足ついた人生を送ろうと思えば送れるチャンスはあった。それを無駄にし続けてきた。何が彼をRoadに駆り立てたのか?それについては次項で考察します。

いきてかえりし物語とネバーエンディング・ストーリー


この物語、最初のあらすじで起承転結もない物語と書きましたが、ここまでいろいろ見ていくと、あれ?そんなことないな…と変化してきました。

先ほども書きましたが、テーマに”父性””父親像”を追い求めてる…というのがある。特に映画では顕著になってる。

原作でも映画でも語られ、印象に残る最後の一文

I think of Dean Moriarty, I even think of Old Dean Moriarty the father we never found, I think of Dean Moriarty.


そして映画では、最初と最後にケルアック自身が作った歌「On The Road」が流れる(ケルアックが歌っている)。

この歌詞の主人公はサルでもありつつ、どちらかというとディーンの視点からという気がする。
Father, Father where have you been ? オヤジ、オヤジ、どこにいたんだよ?」という部分があったり、アメリカの各地の地名が次々に出てきて、子供の時に父親がいなくなり、それ以来、一人路上で生きてきたディーン。アメリカ中を旅しながら父親のことを探し回り、想い続けている感じは、まさに彼のことを歌っているかのよう。

そこで”父親”と”旅”で思い出したことがある。

以前↓この記事を書いた時に出てきた、神話の時代からある人類普遍の成長物語の原型のこと。

ジョーゼフ・キャンベルによる「千の顔をもつ英雄」(1949)
世界中の神話を調査・研究し、その中に、どの神話にも共通する構造があることを明らかにした神話学の名著。

その成長物語の原型を基にして、「スター・ウォーズ」や「ロード・オブ・ザ・リング」なんかが書かれていると。

その時の説明をもう一度載せると

キャンベルは、世界中の神話には、「出立→イニシエーション→帰還」という共通構造が見出されるといいます。主人公の英雄は、何者かの召命を受け、異世界への冒険の旅へと旅立ちます。異世界で、英雄はさまざまな試練に直面しながらも、それらを乗り越え、大いなる秘宝や自分にとってかけがえのないパートナーを得ます。最後に英雄は、自らが得たものを携え、さまざまな障害を振り払いながら現実世界に帰還。その世界に豊かな実りや変化をもたらすのです。こうした「行きて帰りし物語」は、神話に共通している構造というだけではありません。私たち人間が人生において精神的な成長を遂げるとき、ほぼ同じプロセスを経ます。いわば、その成長段階を確認したり、活性化したりするために、人類は「神話の知恵」を利用してきたというのです。

100分de名著のサイトより

まさに「On The Road」もこの形式に沿っていると言っていい。
まず妻との別れや父の死が召命となって旅が始まる。
そして今までの自分の常識とは異なる世界(アメリカ西部)、従来のインテリ仲間たちとは違う人種、まさにサルにとっては異世界冒険譚へ突入していく。そして、その旅を通して彼は成長していく。

様々な経験を得て、精神的な成長を遂げ(ディーンに対する見方も変化し)、最後に故郷に帰還し、その経験を糧に「On The Road」を書き上げる。まさに自身の宝となるべくものを手に入れることになる。

そして、その成長譚の基本構造には、親(とくに父親)を乗り越えるという試練があることが多い。スターウォーズしかり。

「On The Road」では、実父の死を乗り越え、次に父親の代替としたディーンを、崇拝→幻滅→現実を直視し、受け入れることで乗り越えていく様が描かれる。

またはアメリカという国自体を(母ではなく)父になぞらえているのかもしれない。NYでは見られなかった過酷な(母なる…ではなく父なる)大地を乗り越えていく。だから「On The Road」の歌には各地の地名が散りばめられていたのでは?

まさに「いきてかえりし物語」

しかし一方のディーンは少し違う。

彼は犯罪まみれの貧民スラムから、インテリ富裕層たちが集う異世界への扉を開き、彼らから多くを吸収して成長しようとする。その過程で、ずっと欠落していた父性を追い求め探し続けてもいた。

彼も彼で、年上で教養のあるサルに父性を見ていた部分がある。サルを冷酷にメキシコに残してきたのも、ある意味父性に甘えたい、勝手なことをしても許して貰いたい深層心理の裏返しだったのかもしれない。

しかし残酷にも、彼は成長が出来ないキャラとして描かれる。同じことを最後まで繰り返している。親からのUnconditional Love無条件の愛を求めて彷徨い続ける…賽の河原で永遠に石を積み続ける子供のように。完成間近で彼の中の鬼が出てきて、全て壊してしまう…。そしてまた初めからやり直し。

サルには父性を、メリールー、カミールやイネズ達には母性を求めてる。

機能不全家庭で育ったトラウマのせいで、(父性や母性を求める)終わりのない渇望のループに陥っている悲しい人物。

だからサルは最後に、そんな父性探しの路上にディーンを残してきて、いまだ彷徨い続ける友にこう言いたくなるわけです。
「I think of Dean Moriarty, I even think of Old Dean Moriarty the father we never found, I think of Dean Moriarty.」
悲しい呪いを抱えたディーン、そしてその悲しい呪いを与えた彼の父のこと。おそらくその父も悲しい呪いを背負っていた…負の連鎖の一部なのではないか…ディーンよ、君は大丈夫なのか?今どこを彷徨ってる?いつか救われるのか?…と。

そう思うと、「On The Road」というタイトルは、路上、道の上でいまだに彷徨い続けるディーンのことを想定したタイトルなのではないか?

原作の巻末に付いている青山南氏や池澤夏樹氏による解説には、「On The Road」は”路上”と訳されることが多いけど、意味的には”途上”として使われることも多いと書かれていた。

”路上”だと、道の上に立って静止しているイメージ。
しかし”途上”だと、移動している最中、動的イメージ。彷徨い続けるディーンにこそ、しっくり来る気がする。

ディーンやディーンの父、アメリカの路上を、報われない愛を求めて彷徨い続ける人々。その地獄に彼らは打ちひしがれ続ける。
まさに彼らこそビート(打ちひしがれた)な人々
「On The Road」がビート文学の代表作と言われる理由が、ここにきてようやく、表面的な字面からだけでなく、多少はその本質の1/10ぐらいは理解できた気がする。ビートな人々への哀愁彷徨い続ける魂へのレクイエム

タイトル候補には他にこんなのがあったそう。
"Road book""Gone on the Road""Souls on the Road"、"Visions of Neal"
この中の"Souls on the Road"(路上の魂たち)。これはまさに私が上で述べたことの答えな気がする。ディーンもその父も、路上を彷徨う魂たち。

もうひとつビートの精神とは、従来の型を破る、既存の概念を壊す…とも考えられている。そういう意味では、神話からある定番の「いきてかえりし物語」だけでなく、ディーンの「ネバーエンディング・ストーリー」を並列にして対比構造を見せているのは画期的で、まさにビートだったのかもしれない。

3つの”道”

この小説、ところどころでについてのカッコイイ表現がある。

we had longer ways to go. But no matter, the road is life.
まだまだ先は長い。しかし、気にしない、道(ロード)こそ命だから。

P.296

「ロードこそ命だから」…暴走族も言いそうなフレーズだけど(苦笑)、でも読みながら、「カッコイイこと言ってるなぁ~」と思うことが時々あった。なので”道”について語ってる文章は意識して読むようになった。

そのなかで、このパートが興味深いなと思ったところがある。
第4部、メキシコに行く前、NYでディーンがサルにいう言葉。

«Why not, man? Of course we will if we want to, and all that. There’s no harm ending that way. You spend a whole life of non-interference with the wishes of others, including politicians and the rich, and nobody bothers you and you cut along and make it your own way.» I agreed with him. He was reaching his Tao decisions in the simplest direct way. «What’s your road, man? - holyboy road, madman road, rainbow road, guppy road, any road. It’s an anywhere road for anybody anyhow. Where body how?»
「かもな。なりたきゃ、もちろんなれる。そういうことだ。そういう終わり方も悪くないよ。政治家とか金持ちといった他人どもがなにを望もうが、そんなのとは関わりなしで一生生きる。だれも邪魔しない、すいすいと自分の道(ウェイ)を進めるぞ」同感だった。やつはもっとも単純明快な形でタオに行き着こうとしていた。「おい、おまえの道(ロード)はなんだい?ー 聖人の道(ロード)か、狂人の道(ロード)か、虹の道(ロード)か、グッピーの道(ロード)か、どんな道(ロード)でもあるぞ。どんなことをしていようがだれにでもどこへでも行ける道(ロード)はある。さあ、どこでどうする?」

P.351

「On The Road」なのでズ~っと道=Roadのことばかり考えていた。
しかし、道=WAYと、道=TAOも出てきた。

そうなると”道とはなんぞや?”ということを考えるようになる。

まずWAYは”道”というよりも、原文読めば”やり方(方法・手段)”の意味合いで書かれていることがわかる。「自分流で生きれるぞ」という感じ。

一昔前のおじさんのカラオケ定番曲「My Way」も、なんだか自分が生きてきたについて歌ってるように錯覚しがちだけど、実は原文の意味的には「自分流のやり方(=My way)でここまで生きてきた…」という歌詞。

コチラの記事で詳しく説明してくれています。↓


そしてTAOは、「中国の道教の哲理で、もともとは「道(ウェイ)」の意味。万物の存在のしかたを説く」と本文脇の注釈にも書かれている。

wikiには

人や物が通るべきところ、宇宙自然の法則、道徳的な規範、美や真実の根元などを意味する言葉。

老子によれば、道とは名付けることのできないものであり(仮に道と名付けているに過ぎない)、などを超越した真理とされる。天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道(一貫道ともいう)といい、人間世界に関わる道を人道という。

道(哲学)wikiより

道と言えば道なんだけど、真理に続く道、真理を追い求める道。先には真理という目標がある。武士道とか茶道の”道”もこのTAOの精神。
(最近のニュースと、真理と、宗教で、あのカルトが浮かんじゃいそうだけど( ̄▽ ̄;))

そこへ続く道というより、TAOはその真理そのもののようにも聞こえる。至る”過程”じゃなくて”到達点”。

ではその真理とはなんぞや?
タオイズムについてはこう書かれてる。

道(タオ)の哲学であり、生き方である
道に添って無為自然に明るく楽しく豊かに生きてゆく生き方そのものがタオイズムである。
人間は天地自然に添った行動や、心の持ち方を身につけ、実践することにより、自分本来の生き方ができるという考え方

自分のやり方で、究極的には豊かで、楽しく、幸せな人生を生きること。
勿論、その過程で困難、苦悩もあるだろうけど、極めたいことがある時は、それさえも豊かになるための糧だし、自分を高める力に出来る。

ビートの精神は、既存概念の破壊だと少し錯覚してましたが、わざわざ破壊しようとするのではなくて、自分流の生き方を追求した結果、既存概念から逸脱する場合もある…という方が本来の精神ということですね。敢えてではなく偶々そうなると。
意識すべきポイントは、自分の幸福のために、自分流で、自分自身の道を見つけて進むこと。決して自己利益追求の為に人を傷つけたり、人から奪うことを良しと言ってるわけではなく、無意味に凝り固まった慣習、因習などは、壊すことを恐れずに、道を作っていこう…という感じでしょうか?

道(TAO)は向かうべき理想で、道(WAY)はそこへ行く手段、では道(ROAD)はというと、それはそこへ至る道程。歩いてきたルート。歩いていくルート。いままで歩いてきた道が、今のあなたを形作っている。これから歩いていく道が、これからのあなたを形作る。Roadは人生そのもの、あなたの血肉となっているもの。だからこそ最初の「道(ロード)こそ命だから」という言葉が腑に落ちる。

う~ん、最初は「On The Road」というタイトルにそこまで深い意味は考えてなかったけど、かなり哲学的で、深い意味のあるタイトルだったんだなと、ケルアックの命名センスに感心する。彼がバロウズやギンズバーグ作品のタイトルも付けてあげていたというのも納得です。

そういう意味では、「On The Road」は単なる旅日記ではなく、人生の指南書、哲学書的な作品でもあるということになる。自分流の生き方を求めて路上に出ろ!!それこそが生きる意味なんだと。

そして、自由を求めて、愛を求めて、路上に出ろ!外にある広大な世界を見に行け!というカッコいいメッセージを受け取った若者たちに支持され、ベストセラーになり、多くの若者たちは実際に路上に出た。

一部の若者たちはヒッピーになっていき、また別の者たちは新しい音楽を模索し、作り上げて行ったりする。
それで影響を受けて田舎から出てきた人物の一人が”あの人”だったということですね。(そのことについては次の記事で)

最後に

先ほどのキャサディの言葉
「どんなことをしていようがだれにでもどこへでも行ける道(ロード)はある

という部分から、安室ちゃんの「Don’t wanna cry」の歌詞が浮かんで、頭の中でグルグル回ってますw。

”ど~こへ~でも~♪ 続く~道~がある~♪
い~つの日にか~♪ I'll be there, I'll be there, I'll be there~♪”
小室哲哉も、直接的か間接的かは分からないけど、ビートの精神を受け継いでいたということかぁ~。なるほど~。凄いね、ケルアック!!w


ということで、「On The Road」の私的☆評価をすると、
映画は星…★6.5ぐらいかなぁ…。あれだけじゃ原作の哲学は伝わらなかったから。
原作は星…★8~8.5あげちゃう!!
読み込めば読み込むほど、味も深みも出てきたし、ビート文学を知るには一番取っつきやすかったから。
ギンズバーグの「Howl」も、バロウズの「裸のランチ」も(現在読書中)、難解すぎて今ひとつ理解しづらいんですよね。そういう意味でも評価高し。

***
何かしら役に立った、面白かった、共感した等ありましたら、スキ💓を押して頂けると書いた甲斐があります。最後まで意地で読んでやったぞ!という方も記念にどうぞ!(笑)。


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