”Queer”と”お〇ま””の言語学① &「ミステリアス・スキン」レビュー
今回は、映画「QUEER」についていろいろ調べたり考えたりしている中で、タイトルの”Queer”という単語からいろいろ調べたりしたことを書いた記事です。
映画の内容とは特別関係ないことを先にお知らせしておきますm(__)m。
”QUEER”というタイトルについて
ルカ・グァダニーノ監督が17歳のときにバロウズの「QUEER」という本に出会った時、そのタイトルは「Diverso」だったそう。
英語で言ったらDiversityでしょうか?”多様性”的な感じ。この言葉に英語の原題である”Queer”や、日本語版初版時のタイトルのような”おかま”という侮蔑的な意味、さらには同性愛者という意味さえ含まれているのか?興味が湧きました。
日本では1988年の初版時の邦題が「おかま」で、現在は「クィア」と改題して出版されてます。
それでイタリア語の”Diverso”にQueer的な意味があるのかと調べてみると、とりあえずは無さそう。←その時代にイタリアで生きてないのでよくわからないというのが本当のところです。あったらスイマセン。
一応”Diverso”の基本的な意味は英語で言う”Different”=”異なる”、”違う”、”様々な”、そこからDiversityと同じ”多様的な”という意味などが含まれる。
あと”Several”の意味で”いくつかの”という数を示す意味もあったりする。
なので英語や日本訳のような差別的ニュアンスも同性愛者的意味も含まれて無さそうなんですよね。
これは原作タイトルのエッセンスを反映できていないからダメと思う人もいるでしょうけど、私は「優しいな…」と思ってしまった。
やっぱり”おかま”は差別語として使われてきた歴史があるわけで…少なくとも私はそう認識していました。だから「おかま」というタイトルを見た時にびっくりしたんですね。障がい者への差別語ほど厳密には扱われていないし、一部の当事者たちが支持して、アイデンティティとして使用しているのも知っています。それでも「QUEER」をわざわざ「おかま」と訳さなくてもいいのになと。
”Queer”と”おかま”は限りなく近い意味の言葉であるけど、「Dog」と「犬」みたいな単純な話ではなく、作者のバロウズはある意味自虐的に、ある意味刺激的に、ある意味挑発的に、”Queer”という単語の持つ文化的背景を巧妙に利用してタイトルを付けてるわけです。なのでいくら意味的に日本語の”おかま”が近いと言っても、やはり”おかま”が日本で使われてきた文化的背景があり、そこは微妙に違うわけで、そこに表現し難いモヤモヤとした感覚を覚えるんですよね。
日本語にはカタカナ表記で、「クィア」とするだけで、ほぼ自動的に単語の現地での意味合い、その単語にまつわる文化ごとそっくり輸入してくる方法がある。由来や文化的背景の違う単語、それも差別的ニュアンスを含む危うい単語をわざわざ当て嵌めなくても、その手法でいいのになと。それに特別発音するのに難しい単語でもないし、超短い言葉ですし。
まあ88年に「クィア」というタイトルで本が売れたかどうか?「おかま」の方が直接的な訴求力とインパクトがあるのは確かですけども…( ̄▽ ̄;)。でも現実問題として、88年頃、ヘテロの男性が「おかま」なんていうタイトルの本、レジに持っていって買いやすいか?と言われれば微妙だったと思うし、当事者に近いゲイや、実際当事者のおかまだと自認している人でも世間に堂々と公表している人以外はやはりなかなか買うのにハードルは高かったのではないだろうか?(とはいえ初版時の「おかま」を持っている、読んだという人もXやなんやかや見てると結構いて、ヘエ~案外多いのね…とも思ったり。皆さん勇気あったんですねw まあ当時「薔薇族」とか買うこと思ったら全然余裕だったでしょうけどね😆)
とにかく「クィア」というタイトルの方が全然買いやすいと思うんですよね。英語だからちょっとオシャレ感ありつつ、当時はそこまで馴染みのある単語ではなかったから内容も推測しにくいし(ただ内容が推測しにくいとそもそも手に取って貰えないというジレンマもある)。
女性の場合は多少買いやすいと思うけど、それでも「おかま」に興味ある女性…所謂”おこげ”?という風にちょっと変な目でレジの人に見られたかもしれない。(ちなみに映画「おこげ」は1992年公開)
とまあ、こんな感じで”Queer”という単語と”おかま”と言う単語、それなりに歴史や意味合いは知っていたけど、もうちょっと深掘りしてちゃんとした認識を持ちたい!と思ったので、今記事はそれらについて私が色々調べて行った軌跡を書いて、何かしら読んでくれる方とシェア出来たらなと思う次第です。
単語”Queer”や類義語にまつわるエトセトラ
まずは”Queer”という単語の歴史から。
”Queer”という単語が使いはじめられたのは16世紀ごろのイギリスから。
意味としては、strange, odd, peculiar,(この辺は”奇妙な、風変わりな、変な”という意味合い)or ”eccentric”(これも似ているけど”奇抜””奇矯””風変わりな”というまさにエキセントリックという感じ)。そして"not quite right"(なにかちょっとおかしい)。全体に共通する”違和感”という意味合いが単語のコアになっている感じですね。
あとイギリス北部の古い言い回しに
”there's nowt so queer as folk”と言うのがあるらしく、意味は "there is nothing as strange as people"(人間ほど奇妙なものはない)。
イギリスのゲイドラマに「Queer as Folks」というのがありました。このドラマで”Queer”という単語を私はガッツリ覚えたと言っても過言でない。この古い言い回しから転じて、「人間なんてみんな変だよ。みんな(多かれ少なかれ)クィア(性的マイノリティの意味を込めて)だよ!」ということを言いたかったというわけですね。
主要キャラのネイサンを演じたチャーリー・ハナムがまだ18か19歳ぐらいで可愛かった(役柄ではもっと若い15歳の設定)。で、その歳で年上ゲイのスチュアートにRimming(アナル舐め)されて、「ハゥッ!」みたいな演技するんだけど😅、当時の私的には超ビックリでした😲。日本でその歳でこんな演技できる俳優いるかな?いや、いないだろうなぁ~とつくづく思ったものです。これが1999年。
これよりは大分前だけど1993年の袴田吉彦が出てた映画「二十歳の微熱」でもキスが精いっぱいだったんじゃないかなぁ(売り専の役なのでおっさんに色々触られたりはするけど。そこまで際どいものはない)。
1999年で調べたら、松田龍平のデビュー作、大島渚の「御法度」があった。
当時松田君が16歳頃。濡れ場シーンあったっけ?布団で同衾くらいはあったような?Rimmingがなかったことだけは確かw。
話し戻して😅、”Queer”は16世紀からず~っとこういう風な使われ方をしてきて、同性愛者に向けて使われるようになったのが19世紀後半から20世紀初頭。
かの有名なオスカー・ワイルドのスキャンダル&裁判の頃には使われていて、それがキッカケでかなり定着した模様。それが1895年。
一方、1913~14年に書かれたE・M・フォースターの「モーリス」でも本文の中に”Queer”とか”Queerly”とかの単語が出てくるのですが、ここでは主に”奇妙な、変な”の意味(そもそも名詞ではなく形容詞や副詞)で使われていて、私の記憶では男性同性愛者のことを差しているパターンはなかったような気がする。ほぼStrangeと同じような使い方。
なので、まだかなりの俗語で、その界隈の仲間内で隠語的に使われるか、センセーショナルなタブロイド紙の見出しとかで使われる程度で、文学作品内で使われるほどには浸透していなかったか、抵抗があったのだと思う。作者のフォースターが”Queer”という単語のその使い方に嫌悪感を持っていた可能性もある。彼自身もQueerという烙印を押されるのを怖がった側の人物だから。(ゲイだと一応自認しつつも、30代半ばまで性経験をできなかったほどなかなか受け入れられなかったほどですし)
そしてバロウズが「QUEER」を書いた1950年代のアメリカでは、もうすでに男性同性愛者としての意味は勿論、そこに侮蔑的意味合いがかなり含まれるようになっている。その半世紀ほどで差別語として多用されてきた結果なんでしょうね。(とはいえ、イギリスとアメリカでは発展の仕方も違う可能性もありますけども)
この小説は1953年に書かれ、出版されたのが1985年なので、その間に修正等が多少入っているかもしれないけども、作中での”Queer”の使い方は変わってないはず。
同時代のクィア作家だったパトリシア・ハイスミスの「リプリー」(「太陽がいっぱい」の原作)は1955年に出版された本。その中でも”Queer”という単語が出てくる。
主人公のトムがディッキーの服を着て、鏡の前で彼のモノマネに耽っているのをディッキーが見つけ、彼に釘をさすようにこう言う。
「俺はクィアじゃないぞ」と、「俺に好意があるのかもしれないけど、無理だよ」と。
そしてトムも「僕もクィアじゃないよ」と答える。←クィアなんだけどね。クィアの前にサイコパスなんだけど😅。
ただ、ここではこの単語にどれほど侮蔑駅な意味や、”女っぽい奴”という意味が含まれているのかは判断しにくい。なぜならこの後に別の単語が出てきて、そちらの方が明らかに侮蔑的且つ女っぽい奴という意味で使われていたから。それは”Fairy”フェアリー(”Pansy”パンジーなんかもこの類)。これは主にSissy(女の子のような、なよなよした)な相手に使う単語。←でもこれは”妖精”なんだから割と優しい言い回しですよね。往年のオネエタレントがギャグで、妖怪とか化け物、モンスターとかって言われてた…みたいなのより気遣いを感じる😅。
しかしフェアリーと言っても、「リプリー」でも別にナヨナヨしてる相手に使っているわけでもない。トムとディッキーがカンヌのビーチにいるときに、海パン姿の男の集団がアクロバット(曲芸)をしている。それを見て「ブラボー!」と喜んだトムに、ディッキーが「あいつらはフェアリーなんだぞ(あんなのを喜ぶなんて恥ずかしい奴め)」的に言い捨てる。←こういうネチネチした嫌味が後の殺害に繋がるという流れ。
ネトフリドラマ「リプリー」でこの場面が再現されていたけども、彼らは特別ナヨナヨなんかしていなく、皆で組体操的なものをやっているスポーツマンな男たちという描写だった。
ただ、リゾート地で、女性を同伴しない男だけの集団で、曲芸(それだけでちょっとゲイ的空気があるんでしょう。日本でも若衆歌舞伎のように芸事=ゲイという歴史があったわけで)しているので、ディッキーは鋭く察知した。今でいうファイヤー・アイランドで騒いでるゲイ達みたいなキャピキャピした賑やかさもあったのかもしれない。
なので、日本で言う”おかま”=女っぽい奴というイメージよりも、”Queer”は男性同性愛者という意味合い(女っぽさとかはあまり関係ない)のほうが強かったような印象を受ける。今でいう”Gay”の使い方とほぼ同じ。
とはいえ、バロウズの「QUEER」ではこんな文章がある。
”It did not occur to him that Lee was queer, as he associated queerness with at least some degree of overt effeminacy.”
「アラートンはLeeがクィアだと思い浮かばなかった。もしクィアならもう少しハッキリした女性っぽさがあるものだと思っていたから」
この文章からは、”Queer”という単語に多少の女性っぽさが含まれているのだと考えられていたことがわかる。そうなると”おかま”という訳はこの文脈においては妥当だと言える。
当時の英語圏においても、日本語においても、男性同性愛者=おかまという言葉ぐらいしかバリエーションがなかったので、使う人によって意味合いが微妙に異なったり、文脈によって変化したりしてる印象です。
いまでは男性同性愛者といっても、男臭さを極めた熊みたいな女っぽさの欠片もないタイプから、限りなく女性に近い見た目、振る舞いをするタイプまで幅広く存在することが認識されている。よって男性同性愛者だからと言って”おかま”の一言で片付けるのは無理があるというのは大体の人がわかってきている。でも当時は結構”Queer”や”おかま”の一言で十把一絡げにされていたんですよね。
ここでもうひとつ、男性同性愛者を主に指す”Gay”はどんな感じだったのか調べてみると、
”Gay”という単語は12世紀あたりのフランス語から来ていて、本来はHappy Cheerful ”陽気な”、”明るく派手な”、”屈託のない”というような意味合いだった。今でもそういう意味で使ってるのをたまに聞く。
その”Gay”が14世紀、17世紀と時代を経るにつれ性的な意味合いが加味されるようになっていく。Gay Houseは売春宿のことで、男女両方に使われる言葉だったと。”楽しいお宿”って意味ですもんね。
そこから発展して、Gay Boyは男娼のことを差し、そこから男性同性愛者の意味合いが主流になっていった。(とはいえレズビアンも含む意味合いもあったけど)
興味深いなと思ったのは、”Gay Cat”という表現があり、それはHoboホーボーに弟子入りして色々教えて貰ったり守ってもらう代わりに、体で支払うような関係だった若い男性のことだったそう。
Hoboというのは、アメリカの貧しい移民たちで、電車に忍び込んでタダ乗りして移動しながら、季節労働の農園などを転々とする人達のこと。ケルアックの「On the Road」にもヒッチハイクする場面で出て来てました。なので1950年代ぐらいまでは普通にいた模様。
そしてこれで漸く気付いたのですが、「On the Road」に出てくるホーボーの男、弟子のような若い男(結構年齢差のある)を連れて旅しているという描写だったんですよね。いや~、そういうことかぁ~。チラッと脳裏に変な関係だな。もしかして…?とはよぎったけど、まさしくGay Catを登場させていたんだ。こういうの、現地の歴史や文化を知らないと絶対翻訳では伝わらない部分ですよね。だって説明ないんだから。主人公のサルとディーンが途中で乗せるモルモンの宣教師の少年二人とかも、そういうクィア文脈があったのかもしれない。
モルモン宣教師のゲイ・ムービーと言えば「Latter Days」を思い出す。若い頃のジョセフ・ゴードン・レヴィットが出てますね~(チョイ役だけど)。でもそれ以上に主役の二人がイケメンw。
「ミステリアス・スキン」レビュー
ジョセフ・ゴードン・レヴィットといえば、こちらは現在公開中だけど20年前2004年の映画「ミステリアス・スキン」。ここではガッツリ売り専役をしております。ということでちょっとこの映画のレビューも。
(本題とは逸れるので興味ない方は飛ばしてね)
サムネの左のメガネの子が今年のアカデミー賞でも話題になった「ブルータリスト」の監督Brady Corbet ブラディ・コーベット。今や熊みたいになってる(Wiki参照)から、20年という時の流れを感じずにはいられない( ̄▽ ̄;)。
そして先日亡くなった「ゴシップ・ガール」のジョージーナ役で有名なミシェル・トラクテンバーグが、ゴードン・レヴィット演じるニールの女友達役で出ている。(監督のグレッグ・アラキは日系アメリカ人だけど、この主要3キャストのゴードン・レヴィット、コーベット、トラクテンバーグの三人は見事にユダヤ系で固めてる)
この二人の少年が、リトルリーグのコーチに性的虐待に遭う。そこで片や宇宙人にさらわれたと記憶を書き換え成長し(←メガネの子ブライアン)、もう一人はそれを愛だと信じて、消えたコーチの代わりに愛を与えてくれる、自分を満たしてくれる相手を求めるように売り専を続ける(それがゴードン・レヴィット演じるニール)。
性的虐待から10年が経ち、二人が再会して記憶を埋めあった時、そこには何があるか…というお話。
コーベット演じるブライアンの結末は分かりやすくツラい。迫真の演技なので役者を辞めて監督に転向したのは勿体ないなと思うほど(役者は辞めてないかもだけど2013年以降は活動してない模様)。
一方ゴードン・レヴィット演じるニールの方はなんだか宙ぶらりんなまま映画が終わった感じ。というか二人が受けた性的虐待の内容が「エッ?そういう虐待!?😲」と、想像の斜め上過ぎて呆気に取られているうちに終わっちゃった。←気になる方は是非映画を観てください。直接的描写はないので怖がらなくて大丈夫( ̄▽ ̄;)。でもなかなか複雑な心境になるとは思う。まあ大人の○○入れるよりは初心者向けだけども…😅。
私的にはブライアンのキャラよりも、ニールのキャラ、キャラクター・スタディとしてはそちらの方が興味深かった。
母子家庭で(割と自由奔放な)母親(エリザベス・シュー)が男を連れ込む。その様子を覗き見してその男の方に欲情しているという、ある意味おませなゲイの少年(当時で8歳ぐらい)。なのでコーチと性的関係を持つことをそこまで悪いことだとも思っていない。その前からコーチに気に入られたくて野球も頑張りまくるほど。つまりティーチャーズ・ペット(先生のお気に入り)ポジションを狙っている子供。よって関係を持てたのは希望が叶ったと言っていいくらい。しかし、彼の行動、つまり成長しても愛を求めて売り専までしてしまう、自分を大事に出来ない自尊心の欠如した人間になってしまっているんですよね。ここがポイントだと思うんです。
本人がそれなりに納得した状況であろうと、やはり児童性虐待は彼らの自尊心(自分を大切に思える心)を何らかの形で棄損する…というメッセージがあるんだなと。未成熟な心に、まだ固まっていないコンクリートのような心に、過剰すぎる性はトラウマレベルで跡を残す。子供の心で納得してようがそんなことは関係なく。
ニールが結果的に性加害者になったり、あのコーチのような嗜好の人間を欲してやまない、または自身もあの嗜好になる…みたいになってないのがまだ救い。だけども、愛情を得るために、自尊心を取り戻すために、”性”を使う。性を使うことしか方法がないという間違った認識を形成してしまっている。セックスは諸刃の剣で、それによってより深いつながりを持てることはある。しかしそれをしたからと言って必ずしも深く繋がれるわけでもないし、ましてや自尊心を取り戻せたり、根本的な寂しさを無くならせたりはできない。この辺りをはき違えたままセックスを、それも不特定多数と無節操にやっていても、結局余計なトラブルに巻き込まれたり、これだけやっても癒されない渇き、焦燥感が募ったりという負のスパイラルに陥りがち。
私が思うに、そもそもコーチの性虐待を受け入れてしまったのはニールの家庭環境が影響したのだと思う。ニールの家は母子家庭で父性の不在、父性への憧れがニールをゲイにしたかのようなニュアンスを感じなくもない。そう、ゲイの映画で主人公がシングルマザーという設定は割と多かった記憶がある。特にこの90年代~2000年代くらいまでは。ただ父性への憧れでゲイになるかというと、それも違う気がする。やはり元々そういう素質があってこそ。ニールの場合ややこしいのが、父性への憧れは勿論ある。そして男性への性的興味も8歳にして持ってしまった。それでその二つがごっちゃになってる。8歳で母親のセックスを見てなかったら、変に男を性的に見ることもなかったかもしれない。ある意味母親がうっかりセックスを見せたこと自体が性的虐待というか、繊細な子供の心に強烈なイメージを焼き付け、歪な影響を与えてしまったと言っていいかもしれない。それによってコーチによる性虐待を受け入れる土壌を作ってしまった。母親もセックスで男の愛情を得てるんだから自分もそうして当たり前…的な。
とはいえ母親が悪いと責めるのも難しい。そこにハッキリとした因果関係があると証明することは難しいし。母親のセックスを見ていなかったら、そんな早くから大人の男性に興味を持たなかったかどうかは分からない。
ただ、性教育は思春期に入る頃にするのでは遅い気がする。物心ついた辺りから、その年代にあった性教育を徐々にしていく必要はある。プライベートゾーンのことを教えて、他人のそういう場所を勝手に触るようなことはダメなことだと認識させていく。
少し前に話題になった、小学生高学年男子による低学年女子への性加害事件。
コチラの記事では幼稚園児同士の性暴力問題について語られている。
“5歳児が4歳児のパンツの中に手を・・・” 深刻な園児どうしの性暴力
高学年男子は明らかに性的好奇心だろうけど、幼稚園児のは性的という部分の認識は低く、おそらく普通に体への(自分と違う体への)好奇心なんだと思う。でも子供だからといって流していい問題ではない。された方はニールのように潜在意識に決定的な変化を与えられてしまう可能性が高い。そしてそれは取り戻せない。なので保護者や教師は口を酸っぱくして、小さい時から適切な防御のための性教育をする必要がある。
また社会としてもそういう意識の醸成をしなければいけない。「エッ?ちゃんと性教育してないの?それは親として恥ずかしいよ!」…というぐらい性教育が社会の常識にならないと変わらない。
この間ニュースになっていたコチラの記事。
小学生男子がわざわざ性的なことを言ったり、過剰に性的なことと結び付けて反応したり、それによって女性教師がどう反応するかを伺っているという。こんなのはハッキリと言ってやったらいい、「裸でコート着て、夜の道で女の子に中を見せて喜んでる変態オヤジと一緒。あんたたちそんな気持ち悪い大人になりたいの?相手が嫌がっている性的なことを示して反応を見て喜んでる。一緒でしょ?そこに加害性、嗜虐性というのがあるのよ。これがエスカレートした人たちが痴漢になったり、もっとひどい場合は猟奇殺人につながったりするの。そういう人間になりたいの?」という感じに。
こういう男子たちはおそらく家庭、特に父親のトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)とそれを容認している母親、または家族で見ている有害なテレビ番組やメディア、または全く規制が緩すぎるネットの世界などからそれらを取り入れてしまう。さらには男子は特に思春期に入り始めるとホモソーシャルの世界に入ることを強要される流れが大抵ある。友人たちからトキシック・マスキュリニティを共有することを迫られ、それを共有してるかしてないかで仲間かどうかを決めたり、共有することで絆を深めたりする。だからいくら家庭でトキシック・マスキュリニティから距離を取らせていても、社会に参加している限りは中々逃れられないところがホモソーシャルな日本社会の怖いところ。
不思議なことにホモソーシャルの世界では女、子供、マイノリティを助けることが彼らの絆を強めることはあまりなく、そういう弱者を虐めたり、搾取することで絆を強める傾向がある。
結果、そういうトキシック・マスキュリニティを伝授された子供たちに嗜虐性や加害性が醸成されて行く。
これを親や教育者は理解しておくこと、そして思春期に入るギリギリ前ぐらいには子供に話して、理解と自衛出来るように誘導しないと、あっという間にあっち側、有毒な闇の世界に取り込まれてしまう。そうなるとなかなか戻ってこれない。
まあいくら頑張ってもサイコパスとか、親や教育者の努力も虚しくソシオパスになってしまう子供もいるので、難しい問題だけど、やはり性教育はちゃんとやるべきだし、親もその手段をもっと勉強する時間は必要だし、それを子供に施す時間も持たないといけない。それには家にいて、子供たちと一緒に過ごす時間も必要なわけで、そうなると働き方改革で余裕のある働き方が必要になるし…いろんなことが結局繋がってくるんですよね、社会って。どこかに歪みがあると、結局他のところにバタフライエフェクトのように連鎖して影響が出てくる。
と、子供への性虐待だけでなく、子供の性について、性教育の大切さなんかにも考えが巡るかもしれませんので、「ミステリアス・スキン」、興味出た人は見てみてください。
ただ個人的にはラストはちょっと残念だったかな。その幼い頃に傷ついた心は元に戻せない…という絶望的な感じで終わってしまった。二人が協力して傷と向き合い、癒し合い、完全に治せなくても前に歩きだせるところまで描いてくれたらもうちょっと救いがあるし、同じような被害者たちへもポジティブなメッセージを送ることができたのにな…とは思いました。ただそこまで描くとくどいし、説教臭くなる。なので余韻を残すこのラスト、つまり観客が主人公の二人が支え合う未来を想像力で埋める…は理にかなってはいる。でもなんだろう?何か中途半端というか唐突な終わり方という印象が強かった。
かなり脱線しましたが😅、話戻して、"Queer" という単語、そして"Gay"という単語の歴史的流れの話でした。
1950年代くらいケルアックの「On the Road」で”Gay Cat”らしき人物が描かれていたところからの続きです。
"Gay"という単語は”Queer”と同様に、徐々に男性同性愛者を意味するようになりつつも、それは半分隠語的に使われていて、1950~60年代ぐらいに生きた人の証言では、それでもメインは”陽気な、楽しい”的な本来の形容詞として使われることが多かったと。これは昔の映画とか小説とか見ていると、確かにその通りなんですよね。
それが1960年代頃から変化し始める。
1969年、NYでストーンウォールの事件があり、そこからアメリカではゲイの権利獲得運動が盛んになっていく。
翌年の1970年のNYで、ストーンウォ―ル一周年を記念して最初のプライド・パレードが開催される。これが決定打になっただけで60年代頃から徐々にゲイの権利を主張する流れが形成され始めていたようです。
ここで50年代ぐらいには割と”Queer”同様差別的ニュアンスがあった”Gay”という単語が、この60年代から70年代辺りから(男性)同性愛者のアイデンティティを表す言葉として使われるようになっていったわけですね。
もちろんホモフォビアな人たちからは差別的に使われることも継続したけど、差別語という意味合いよりも男性同性愛者を指す正確な(半ばオフィシャルな)言葉の意味合いが強くなった感じでしょうか?積極的に使用することでオフィシャル感を醸成し、差別語という意味合いを少しずつ払拭するようになっていく。それと同時に、本来の”陽気な”という形容詞としての使用を皆が控えていくようになっていく。”Gay"=男性同性愛者という意味の世間の認知が上回った結果でしょうね。
「Gay Rights」とか、80年代とかはとにかくGayという言葉をよく聞いた気がする。AIDS禍の時もほぼGayって言ってた気がするし。
”Gay”は、今ではLGBTQという分類上、男性同性愛者に割り当てられた単語のような感じですが、LGBTQ+という分類が浸透するまではゲイもレズビアンも含めて包括的に”Gay”と言うことも多かった。今でもレズビアンの人が”Gay”と名乗ることも普通にあるし、”Gay”を男女問わず”同性愛者”という意味で使用しているケースも普通にある。
ではなぜこういう流れになったのか?
最初私はなんとなく時代の流れで変わっただけなんだろうと思っていました。もちろんそれもある。60年代ぐらいからヒッピーなどのリベラルな考え方が浸透していって意識が変わり始めたのが根底にはある。それに加えて、同性愛者達が堂々と自身のアイデンティティを表す言葉が必要になった背景があることに気が付きました。
それは、ソドミー法の廃止です。
Sodomy lawの影響
アメリカもイギリス同様ソドミー法があった。同性愛者を禁止、罰則を与える法律です。イギリスは以前「モーリス」の記事でも触れたけど
1967年にジェレミー・ソープの働きかけ等により、ソドミー法が廃止される流れになる。
アメリカでもこの辺りからソドミー法が廃止され始める。ただ、州によってバラバラで、まず最初に廃止したのは1963年にイリノイ州で。その後17州が続いて、さらに7州。最終的に1986年に最高裁判決により全ての州でソドミー法が違法になる。
(ちなみに日本にも明治政府が1872~73年にソドミー法を設けて同性愛を禁止にした(←欧米と並ぶ国にするために)。しかし1880年にはこの法律が変えられて、それ以降は犯罪にはならなくなった。案外日本の方がこの部分では進んでいたのか?はたまたあまりにも同性愛行為が多すぎて(士族出身の薩摩の学生とかにも多かったとか言いますしね)犯罪にするには無理がある…ってことだったのかもしれないけど😅←追記:「オカマの日本史」という本によると、当時の政府のお抱え法学者であるフランス人のギュスターヴ・エミール・ボアソナードという人物が、当人たちの同意の元であるなら罪ではないと提言したのだそう。イギリスとドイツは同性愛嫌悪が強かったらしいけど、フランスはソドミー法の撤廃も早かったし(フランス革命の時)、イギリスのゲイ達もよくフランスに逃げてましたもんね。この人物がイギリス人とかだったなら、おそらく本国と同じ昭和の中頃まで日本もソドミー法が続いていたかもしれない)
この所謂法廷闘争の場や権利を主張する場において、同性愛者たちは自分たちを卑下することなく自認できるアイデンティティを表す言葉が必要になった。そこで”Gay”と言う言葉が積極的に使われ、単に揶揄されるような言葉からプライドをもった言葉へと生まれ変わっていったのだと思います。元々の意味である”陽気な”という部分でもポジティブな言葉ですし。(”Queer”は”ちょっと変な”という意味だから、あまり積極的には採用しにくかったのかも?)
そもそもソドミー法があった時代、彼らは自分たちがゲイであることを積極的に発信できないわけで、「私はゲイです」「私はクィアです」なんてことも滅多に言わなかったはずです。それがアイデンティティであろうと、それを表明すれば捕まるわけですから。”ソドミー”という単語さえ使うのが憚れて”サイコロジー”とオスカー・ワイルドは言っていたほどなんだそう。
このwikiによれば、捕まったら懲役10~30年とかもある。
では「わたしはゲイです」と言えなった時代、彼らはどうしていたのか?
そこで今回私が初めて知ったのが”Polari ポラリ”の存在です。
Polari
ポラリとは、同性愛者たちの間で脈々と話されてきた隠語のこと。
特にイギリスで使われてきたものを指すようです。(アメリカの同性愛者間の隠語にも多少は共通してたり、輸入されてる部分もあるとは思う)
古くは16世紀からとか、シェイクスピアの「ヘンリー四世」の中でもポラリらしきものが使われているそうで、「マイ・プライベート・アイダホ」のベースが「ヘンリー四世」だった理由も、もしかしたら「ヘンリー四世」は欧米ではかなり知られたクィア文学だったからなのかもしれない。
ポラリは主にラテン語、イタリア語由来の言葉だったり、ジプシーのロマ語、ドイツ系ユダヤ人のイディッシュ語だったり、様々な言語を取り入れて発展してきた。
最初この動画を観て、そもそもイギリス訛りが強いけど、それにしても何を言っているのか分からなかった。彼らはゲイ同士でポラリを話しているという寸劇動画なんです、コレ。
左の男がポラリを話して、右の男の反応を見ながら会話をしていく。そして右の男もゲイだと分かると積極的にお仲間ゲイの話題を展開する。
最終的に右の男が左の男に唾を吐きかけるのは、左の男がハッテン場だかゲイのスポットか何かで、自分はヤることやって帰る時、警察がやってきたので、あそこにゲイ達がいますよと仲間を売って自分は無事逃げた話をしたからなんだと。それで右の男が軽蔑の意味で唾を吐きかける。
ポラリのwikiに代表的な単語のリストも載っているので、これを参考にしながらだと多少は上の動画の会話の意味も理解できます。
あとこちらのBBCの動画では、いにしえのゲイの皆さんがポラリについて話してくださっています。
サムネにもあるように Bona Dish が Nice Arse 。
「いいケツしてんな~」みたいに言いたい時に「ボナ・ディッシュ」って言ってたんですね。「皿がどうした?」って部外者はなりますよね。
日本にも勿論ゲイの隠語はあっただろうけど、ここまでガッツリ一つの言語体系的に発展したというのは、やはりそれだけ法律で禁止され、地下に地下に潜っていかざるを得ない環境があったからなんでしょうね。
しかし、そんなポラリ。60年代以降のゲイ解放、権利獲得運動の流れで衰退していく。もう隠れて使う必要がなくなったのだから自然な流れです。
だから上の動画でもいにしえのゲイ達しか使える人がいないので、彼らに取材しているわけですね。彼らがギリギリ実際に使っていた世代だから。
それで完全に失われるのは勿体ないと、最近ではリバイバルを意図した動きがあったり、なんだか色々あるようですけど、それでも実際に使われなくなってしまうと、やはりもう生きた言語ではなくなるので、歴史上の研究される言語としてしか残らないんじゃないのかな~?と思うけど、どうでしょう…。
映画では「キャロル」の監督トッド・ヘインズの「ベルベット・ゴールドマイン」の中で、ユアン・マクレガーとジョナサン・リース・マイヤーズが会話の中でポラリを使って話しているらしい。
いや~、久々に「ベルベット・ゴールドマイン」の名前聞いた。1998年の映画だからニュー・クィア・シネマの流れになるのかな?当時を代表するクィア・ムービーのひとつですよね(ゲイというよりはバイ)。ジョナサン・リース・マイヤーズがデビッド・ボウイ(その他)をモデルにしたキャラで、ユアン・マクレガーのほうはイギー・ポップ(その他)をモデルにしたキャラ。もう詳しい内容全然覚えてないからまた見直したいな。クリスチャン・ベールやトニ・コレットも出てるし。
ジョナサン・リース・マイヤーズはこの後にドラマ「THE TUDORS〜背徳の王冠〜」でヘンリー8世を演じて、ウッディ・アレンの「Match Point」でテニス選手の役を演じたぐらいまでは憶えているけど、その後ぐらいからはあんまり見なくなったなぁ…。Wikiにはアル中でいろいろ問題起こしたりしてたみたいですね。ちょっと不安定な感じのイケメンで好きだったんですけどね~。
*****
とまあ、こんな感じで”Gay”が同性愛者を表す単語の主流になって、”Queer”がちょっと下火になってきた感じの頃に、”Queer”という単語にも転機がやってくる。
Queer Nation
1990年3月に「Queer Nation」というLGBTQ活動組織が設立される。そこが積極的に”LGBTQ+”を包括した意味合いでの”Queer”という単語の使い方を打ち出していく。Queer Nationの出す冊子などにこの意味での”Queer”をガンガン使っていくことで、それまでの差別語としての意味合いを払拭すると共にポジティブなイメージに塗り替えていった。
今も活動している組織です。
NYのAct Upのメンバーによって設立されたんだそう。
アクト・アップというのは当時エイズ禍において、それを終わらせようと立ち上がった市民グループ。1987年頃に形成された。
パリのアクト・アップのメンバーである主人公を描いた映画「120BPM (BPM ビート・パー・ミニット)」がありました。2017年の作品。
NYアクト・アップの共同設立者の一人が作家であるLarry Kramer ラリー・クラマー。
彼自身をモデルにしたエイズ禍を描いた作品が映画「The Normal Heart」。ライアン・マーフィーが監督。
マーク・ラファロがクラマーをモデルにした主人公を演じてます。
そんなクラマーの著作の中に「Faggots」というのがある。バロウズの「Queer」も同性愛者の自分を卑下した感じで付けられたタイトルだけど、この「Faggots」も同様に、というかこちらはかなりゲイへの差別語の印象が強い(詳しくは後ほど)。NYでのゲイライフ、クスリをやったりハッテン場、オージー(乱交)とか、かなり際どい内容っぽい。
そんなアクト・アップがエイズ撲滅メインの団体だったのに対し、Queer Nationは同性愛差別撲滅をメインに据えた団体として誕生する。
「BPM」の映画の中でも結構過激な運動したりしていたけど、Queer Nationの活動も過激というか挑発的。ゲイバーでなくストレートのバーに集団で行って、わざとゲイ同士でキスしたりする。ゲイはゲイバーに隠れていないといけない日陰の身でなく、どこでだってストレートと同じように愛情表現をしたっておかしくない存在なんだと主張していく。そういう"Queer Nights Out."と銘打った活動から始めていったそう。一人、二人でやってるとゲイバッシングに遭う可能性が高いけど、集団で押し寄せて抗議活動の一環としてやっていく。"Dykes and Fags Bash Back,(レズやオカマもやり返すぞ!)"なんていうバナーも用意して。
そして彼らが掲げて有名なスローガンがコレ。
"We're here! We're Queer! Get used to it!"
「私たちはここにいる(どこにもいかない)、私たちはクィアだ、(だから)それに慣れろ!」
これがゲイ・パレード、プライド・パレードで使われたり、様々なプロテスト、抗議の場面なんかで使われるようになっていく。
このスローガンは90年代以降のゲイ・ムービー、ドラマ、アニメなんかでもよく見かけました。
当時、ゲイの息子を持つ母親が、彼をサポートするために手を振り上げて私は彼の味方よ!と、このスローガンを唱える映画があったんだけど、何の映画だったっけ?思い出せない。。。_| ̄|○
アニメだとシンプソンズでも出てきているし、ファミリーガイでも。サウスパークは「We are here! We are not queer!」と逆手にとって使っているほど😅。
こういう流れで”Queer”という単語も、同性愛者への侮蔑的意味合いを含む単語から、LGBTQ+を包括するアイデンティティとしての単語へと生まれ変わっていった。
”Queer”と”Gay”の歴史はわかったけど、ラリー・クラマーの著作名にもあった”Faggot”や”Homosexual”なんてのもある。これらも侮蔑的に使われてるのを映画やドラマでも見てきたので、そちらも少し深掘りします。
Faggot と Homosexualも
まず”Homosexual”は精神医学の専門用語から来ている。
sodomite, Sapphic, Uranian, homophile, lesbian, gay, and queer.を指す言葉として使われてきたとWikiに書かれている。
古代ギリシャのプラトンが「饗宴」で使用したとも言われているようだけど、医学的専門用語として最初に使われたのがオーストリア(当時のプルシア)のKarl Maria Kertbenyによって。彼はジャーナリストや人権運動家で、Karl Heinrich Ulrichsという法律家への手紙の中で私的に使用したのが最初だそう。それが1868年。そして翌年の1869年に、匿名でソドミー法撤廃のパンフレットの中で公に使ったのだそう。
その後、性欲学の研究者リヒャルト・クラフト・エビングなども使用し始める。彼は「変態性慾心理」という本を出して、それが日本でも刊行され(1913年)、この本の影響で「同性愛」が変態という概念が日本でも強まったのだそう。
フロイトも同性愛について書いたりしていて、1905年に「Three Essays on the Theory of Sexuality」、1922年に「Certain Neurotic Mechanisms in Jealousy, Paranoia, and Homosexuality」という論文を書いている。なので20世紀初頭には精神医学の専門用語として定着していった。
Homosexual の意味の中の sodomite はソドミーする人。検索掛けたら「アナルセックスに魅了された人」なんて出てきて笑ってしまったw。ソドミーはイギリスの時代物とかではよく使われますよね。聖書に出てくる悪徳の町ソドムから来ている単語。「モーリス」とかでもこれが使われていた気がする。昔の小説や映画では同性愛=ソドミーという単語をよく見かけた印象。使い方は日本語の”衆道”的な感じかな?ただ使われる文脈が宗教的だとかなり嫌悪感をもって使われる。その辺は衆道とはちょと違う。
Sapphicサフィックはレズビアンのことで、Sapphoサッフォというギリシャ時代の女性詩人から来ている。彼女は女性同士の詩ばかりを読んでいたのだそう。なので割とプラトニック系の意味合いが強いっぽい。あとゲイ以外のバイや、パンセクシュアル、ノンバイナリーなどにも今では使われるらしい。
ヴァージニア・ウルフは飼い猫にサッフォとプルートと名付けていたらしい。映画「めぐりあう時間たち」でもお姉さんにキスしてましたし、最期は入水自殺するわけで、レズビアンの詩人と冥界の王という何とも言えないネーミングのネコさん達…😅。
Uranianウラニアンって聞いたことないな…と調べてみたら、美の女神アフロディ―テは別名Aphrodite Uraniaとも言って、これは彼女が父親ウラヌスの精子から誕生したからなんだそう。精子からだけで女性が介在しないので男性同性愛につながったのだとか。ヘェ~。その女性バージョンが”Dionian”と書かれているけど、これはレズビアンのことかと思ったらヘテロセクシュアルのことという記述もあったりしてよくわからない。
オスカー・ワイルドは恋人に"To have altered my life would have been to have admitted that uranian love is ignoble. I hold it to be noble—more noble than other forms."と手紙に書いていたそうで、当時はゲイやクィア、ホモセクシュアルでもなく、こういう単語が使われていた訳ですね。
Homophileの”Homo”は”同種の、ひとつ”のという意味なのはほぼ常識。
”-Phile”の部分は”~を好むもの”という意味。ペドフィリアpedophiliaの”ペド”が”子供、幼児”で、フィリアの部分がコレと同じですね。ただしフィリアはギリシャ語読み。これも最初に使われたのが博士論文ということなのでテクニカル用語的意味合いが強い。
で、”Homosexual”に戻って、この単語がクィアな人たちに自身のアイデンティティ的に使われなかった理由に(一番フラットに偏見なく使えそうなのに)、もちろん専門用語感が強すぎるという理由もあるけど、パトリシア・ハイスミスも通ったというコンバージョン・セラピー(同性愛矯正治療)で使われた単語だったからだと。無理矢理電気ショックとかで同性愛を矯正しようとした時代の人たちにとっては、かなり不快なイメージがある言葉だったのだそう。映画「蟻の王」でもエットレが(↓のサムネの若い子のほうね)ボロボロにされて悲惨だった。なのでこの意見もよくわかる。
この映画で、60年代のイタリアで使われていたゲイに対する差別語は”Culatōn”だったというのが分かりますね(この予告の中に「オカマの家」と落書きされてるのが映ってます)。意味は”男性同性愛者、Fag”と書かれている。culata (“buttock”), cul (“ass”) ということで”お尻”が由来の言葉。どちらかというと英語の”Asshole”に由来は近いのかな?アスホールは”最低な奴、ゲス野郎”的な意味になったのに対して、イタリア語ではゲイへの差別語の意味合いが強くなったという感じでしょうか?
あと日本でも公開されるかは分かりませんが、映画「Lilies Not For Me」でもコンバージョン・セラピーが描かれているそう。
「君の名前で僕を呼んで」のプロデューサーたちが手掛けている。
1920年代のイギリスが舞台。
セラピーなんていう生易しいものじゃなく、同性愛的欲望を絶つために睾丸を切り取る手術なんかをされる(切り取るだけじゃなくて代わりに異性愛者の睾丸を移植するんだとか😲)。天才数学者のアラン・チューリングもこの手術を受けさせられた。なんでもこの手術を推奨していた医師、ノーベル医学賞に何度もノミネートされていたEugen Steinachというオーストリアの医師らしい。それがまかり通っていた時代、怖いですね…。
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そして最後に”Faggot”です。先ほど書いた”Fag”もこれの短縮形で同じ意味。Fワードとも言われたりもする。かといって黒人への侮辱語のNワードほどは禁忌感は強くない気がする。
私的にはこれが一番日本の”おかま”に近い言葉だと思っていた。なにしろ差別的に使っていること以外見たことがないから。映画やドラマでいじめっ子やホモフォビアの男が吐き捨てるように言う時は大抵コレ。これが最初に出て、その後罵詈雑言を並べていった中に”Homo~”とか”Queer~”が取り巻きの小物キャラとかから出てくる…という印象がある。
これは30人のゲイの人たちが”Faggot”と聞いてどう思うかという動画。
程度の差はあれ、ほぼ全員が嫌悪感を示している。
同類ゲイが使うことさえ気分が悪いという人や、文脈で冗談として使っていると分かっていてもいい気分がしないという人も。
言ってくる相手を反対に軽蔑して自分の尊厳を保とうとする人、無視して気にしないことで乗り越えようとしてる人、悲しくなる人、フラッシュバックで苦しくなる人、さまざま。それでも皆が傷を抱えているのが伝わってくる。
一方そもそもの単語の由来は焚きつけ用の”小枝の束”というような意味から来てるそう。
このシンプソンズの動画の最後では、小枝をまとめて皆で束になって結束すれば大丈夫的に表現している。
これはいじめっ子の誕生日会に行きたくないいじめられっ子たち(=いじめにおいて普段Faggotと揶揄される側の子たち)が、まさにその言葉の由来のように束になって拒否しようということに掛けているジョーク。
先程の動画の中でも小枝の束という人もいたし、イギリスでは”Fag”で”煙草”の意味で使われたり、ウェールズの方では”ミートボール”の意味もあったりするそう。なので質が悪いのは、明らかに差別語として使いながら、「俺、煙草(or ミートボール)のこと言っただけなんだよね~」とか言ってごまかす奴もいる。
さらにドラゴンボールの吹き替えでも使われているようで(これ公式なのかな?違ったらスイマセン)、悟空が”Faggot”を言いまくっている。
相手を挑発する感じで使ってますね。別に相手がゲイだから貶めてやろうとか関係なく(相手は息子の悟飯だし。確かに性格は優しくて大人しめのキャラではあったけど)。なのでもうなんにでも”Fucking”を付ける並みに半分形骸化してる部分が実際あるのも事実なんでしょう。浸透し過ぎてすぐ手放すことができないと言ってるゲイの人も確かにいました。←このあたりも”おかま”と似ている。
それでこの動画のコメント欄を読むと、おそらくヘテロのホモフォビアな男たちが、「何年後かに悟空が謝罪する羽目になり、キャンセルされることになりそ~(=キャンセル・カルチャーの被害者になる)、あ~コワッ!」みたいにさらに揶揄ってるようなコメントで溢れている。
先程のFaggotに関する30人の動画でも、サポートするコメントは殆どなくて(←これが謎)、「これだけ皆が使ってるのに何が悪いんだ!」「お前らのことなんか知るか!俺は使い続ける」「地球上で一番素晴らしい言葉だ」「女々しいゲイどもがもっと泣けばいい」みたいなコメントで溢れていて、アメリカのホモフォビアの真髄を見たようで気分が悪くなりました🤢🤢🤢。
日本にも勿論こういう人たちはいるけど、それでもここまであからさまに人に悪意を向けて、トコトン踏み躙る、叩き潰してなんぼみたいな行為を嬉々としている人たちを見ると、まだ日本は可愛いもんなのかな…と。ヘイトクライムの暴力で人が死ぬ国だけのことはありますね(日本も直接的暴力はあまり聞かないけど誹謗中傷では同じ道辿ってる…)。自分に向けられたわけでなくても人の悪意に触れるというのは結構ダメージ受けてキツイです😫。
そして都市伝説ではあるらしいけど、”Faggot”が焚きつけの薪の束ということで、昔は魔女が火あぶりにされたように同性愛者達も火あぶりにされたから、その時に使った薪の束が単語の由来なんだというのも見てゾッとした。これは都市伝説で間違いらしいんだけど、実際は絞首刑だったと聞いてそれはそれでズッコケた( ̄▽ ̄;)。確かに火あぶりより人道的とは言うけど、結局殺されてるやん!と。
その薪の束がなぜゲイに使われるようになったのか?
そもそもは16世紀ぐらいには老いた女性に向けての差別語として使われるようになったのだそう。歳いった女性は薪を集めるくらいしか仕事がなかったから。そこから発展して、弱々しい女性っぽい男性に使われるようになったということらしい。
またはイギリスのパブリック・スクールで上級生の世話をする(性的なものも含めて)行為をFaggingと言っていたんだそう。そこからという説もある。「アナザーカントリ―」でも上級生の小間使いみたいな少年が確かにいてました。性行為はさすがに想い合った相手としかしてなかったけど。
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こういうわけで”Queer”と”Gay”は侮蔑的意味は昔はあったが、60年代以降の権利獲得運動の流れの中でポジティブな方向に転換出来た言葉になった。
一方”ホモセクシュアル”はそのまま医学的専門用語的意味合いを維持し続け、”Faggot”だけは相変わらず侮蔑的差別用語として使われているという感じでしょうか?
とりあえず今回はここまで。
次回は、日本語の”おかま”やその他の言葉についてに続きます。
