『変態病院』episode13 物語は、どこからでも。《創作大賞2025#お仕事小説部門》
episode13 物語は、どこからでも。
ーlast episodeー
「物語は、どこからでも、始められる。
——それが、人生でしょ?」
私が大好きな患者さんの言葉だ。
5時半。私は、廊下の隅にある小さなゴミ袋を持って、そっと重い扉を開けて外に出る。これは、看護師の仕事では、ない。
冷たい風が心地いい。前髪はふわりと揺れる。私は、夜が朝に変わる、曖昧な時間の空が大好きだ。
一晩中院内に籠るのは、正直辛い。時々、ゴミ捨て場でゴキブリと遭遇して「ぎょえー!!」と発狂することもあるが、それも目を覚ますスパイスだ。
朝焼けは、どこまでも美しい。
色味は単色で、実にシンプルだ。藍色が薄く滲んだと思ったら、すぐに朝がくる。驚くほどにあっけなく。
「いくか」
朝6時。
夏菜子さんが目覚める時間。
夏菜子さんが夏菜子さんでいられる時間。私は彼女の部屋に決まってこの時間に訪れる。
夏菜子さんは認知症だ。直近での出来事はすぐに忘れてしまうし、時々妄想や、幻覚も見えてしまう。手が出てしまうことすらある。排泄を床にして、手で絵を描くこともある。
朝6時。
彼女は、きっと彼女が一番好きだろう姿に戻ることが多い。
こんこんこん。
「おはようございます」
声をかけて検温をする。
「今日は、第何章からにしますか?」
彼女のベッドを整えながら、私は話しかける。夏菜子さんは、もともと大手出版社の編集者である。男性編集者しかいないような時代に、数々のヒット作を生み出した敏腕編集者だ。
夏菜子さんは、この時間、編集者であった、ご自身の記憶をたどりながら、彼女の自分史の続きを作る。
認知症には、失書という症状がある。文字が書けないのだ。何度も、何度も同じ漢字の部首を書いてしまい、単語はおろか、一文字も完成させることはできない。
夏菜子さんは、ゆったりと、美しい日本語を話す。同じ言葉を言ったりきたりしながら。
「人生は、私だけの物語。私がいま、起承転結のどこを辿っているか、それすらも、よくわからない。でも、楽しいの。わからないことが、楽しいのよ」
お話ししながらも会話は時折とんちんかんで、戻ったり、進んだりしながら、自らの人生を語る。
医学的にも、心と体が、日常に戻ろうとする時間である。ゆったりとした、朝を迎える。認知症は、落ち着いた環境、リラックスした環境下では、比較的穏やかに過ごせる時間帯もあるのだ。
ほんの数分間。
私が、夏菜子さんに割ける時間。
彼女が、彼女で、いられる時間。
「こちらの絵は?」
部屋に置かれる一枚のデッサン画が目を引く。
「フランスに行った時に、あるアーティストが描いてくれたの。『私のことを、ぜひ描かせてほしい』って頼まれて」
美しい横顔だった。
胸元には本を抱えて。
聡明な瞳は、今も瞬いている。
人の人生は、章立てられるものなのだろうか。
病とともにある日々は、いつも予定外のページを増やしてくる。私は、そんな一瞬に、静かに触れている。何も、語ることなく。
何行か、自分史をレポート用紙にまとめて、夏菜子さんに手渡す。次の患者様のところへ向かわねばならない。
「では、続きはまた、別の日に…」
私は夏菜子さんに背を向ける。
「ねぇ、待って」
心にまっすぐ届く、はっきりとした口調で、夏菜子さんの声が聞こえた。思わず振り向く。
「つらいことはね、プロローグに美しく数行にまとめれば良いの。あなたの自分史は、きっと、美しいと思うわ」
驚いた。目元がじんわりした。彼女は、きっと、私の何かを感じ取ったのだと思う。
私は看護師だ。
何か大きな義務感にとらわれていたのかもしれない。
この横顔の彼女に、私は、なりたい。どこまでも、自分の物語を信じている、その瞳に。
ゆっくりとお辞儀をして、私はその部屋をあとにした。
「空、今日はどうだった?」
声をかけてくれる人がいる。
きっといつも、軽くて持ちやすいゴミを置いてくれている介護士のサトウだ。見守ってくれている人は、いつだって、近くにいるのに。
「今日も、綺麗でしたよ。よし残り3時間、いきますか!」
私は大きく伸びをして話す。
「バッチコーイ!!!」
サトウは、大きめの声ですでに先を歩いている。私はその背中をカートを持って追いかける。
つらいことは、プロローグに、美しくまとめてしまおう。物語は、どこから始めてもいいのだ。それが、私だけの物語になるのだから。
あ。
私が、夏菜子さんの手がけた本のファンであることは、まだ彼女には秘密である。
——この静かな物語のつづきは、私が生きて書いていく。まだ誰にも知られていない、私の名前で。
ーend.
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