『変態病院』episode12 モスキートの夜。《創作大賞2025#お仕事小説部門》
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episode12 モスキートの夜
世界中の雨を凝縮したような台風の影響は、各地に広がっていた。
「今夜はひどい雨ですね」
雨粒の音をあえて引き込むように、カーテンを開き、個室で入院されている吉井さんに話しかける。ベッドの上で横になっている吉井さんからの、返事はない。吉井さんは、話せない訳ではないし、動けない訳でもない。
ただ、だんだんと病気も進行して、体力も衰え、一日中ほぼ、傾眠状態だ。
私は話しかけ続ける。
「録画の野球、つけておきますよ。それともNHKにします?」
私の声だけが、静かな部屋に響く。
「汗を、少し拭きましょう。除湿でも蒸し暑いですね、吉井さん、空調どうですか?」
テレビのリモコンを枕元に置き、吉井さんの布団を掛け直し、点滴の速度を確認する。
ぷぁーーーん。
ふと、私の目の前を小さな生き物が横切った。素早い。耳につく嫌な高音のキーは、まだまだ、現役であることを主張している。
蚊だ。
ぎゃっ!と私は言った。
「吉井さん!!蚊がいる!!」
私は、室内をぱんぱんと、クラップして回る。
チッ。逃げ足の速いやつめ。
視線を感じてベッドを見ると、吉井さんの鋭い眼光があった。久々に目が開いている。
「仕留めたか」
吉井さんの声は低く、小さく、渋い。
「申し訳ございません、取り逃しました」
吉井さんは、ため息をついて、また目を閉じた。
私は『蚊』を仕留めねばならない。
吉井さんの為に。強くそう思った。胸元のボタンを押す。
「エマージェンシー。401号室にやぶ蚊発見。蚊取り線香を誰か探してきて欲しい」
プツ。
私の働く職場では、インカムを採用している。マクドナルドのドライブスルーなんかでよく使っている、あれだ。スタッフは全員着用している。最初は抵抗があったものの、医療用スマホより、作業効率が格段にいい。
『2階、御意』プツ…
『佐久間、至急捜索する』プツ…
『3階フリー、ヨロコンデ、急行する』プツ…
瞬く間に応答が乱戦する。5分後には、インカムの応答を受けた3人が、吉井さんの部屋の前で集合していた。
「エリ。ごめん、これしかなかった」
2階の介護士は、ゴキジェットを持っている。壮大すぎる。却下だ。
残りの2人は、蚊取り線香は発見できず、丸腰で戦うと言っている。1人の男は両手を広げてオートヒールを放つと言っている。癒してどうすんだ…。
戦士は、4人集まった。
モスキートバスターズである。
こんこんこん。
ノックして、吉井さんの部屋にゾロゾロと入る。吉井さんはチラリとこちらを見た。大きく目が見開く。
「蚊を仕留めにまいりました」
我々は敬礼した。
吉井さんは満足そうに笑って、敬礼を返してくれた。ただ、やさしくて、楽しい夜だった。
吉井さんは時々ちらっとうす目を開けて、目尻を下げていた。
5日ほど経っただろうか。吉井さんは、あっけなく、亡くなった。
こんこんこん。
私は吉井さんの部屋に入る。
すっかり雨は止んでいて、台風は、どこかに消えて、普段の世界に戻っていた。
夏の終わりが、すぐそこまで近づいている。
風が、私の前髪を攫い、吉井さんの甘い香りが、私の鼻の奥をくすぐった。あの時の記憶と共に。
ベッドに手を置いてみる。
敬礼してくれた、細い肩と、腕。
まっすぐと光のある眼。
「ありがとうな」
ウィスパーな、私にだけ聞こえる声。
耳を澄ませる、ふたりだけの大切な時間。
今でもひっそりとやさしさが残るあの音。
私の看護は、正解でしたか?
誰もいない部屋に、私の声はポツンと床に落ちる。吉井さんの、目元の光が瞼を覆う。
時々、泣きたくなる夜がある。
モスキート級の小さな声で。
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