【書評という名の感想文】「駅の名は夜明」(高田郁さん著)を読んで
今月の読書記録。目標月3冊と言いつつ、まだ読了したのは1冊だけれど(遅)
その1冊の感想をお届けします。
「駅の名は夜明 軌道春秋Ⅱ」/高田郁さん著
妻の介護に疲れ、行政の支援からも見放された夫は、長年連れ添った愛妻を連れ、死に場所を求めて旅に出る(表題作「駅の名は夜明」)。幼い娘を病で失った母親が、娘と一緒に行くと約束したウィーンの街に足を運ぶ。そこで起きた奇跡とは?(「トラムに乗って」)。病で余命いくばくもない父親に、実家を飛び出し音信不通だった息子が会いにいくと……(「背中を押す人」)。鉄道を舞台に困難や悲しみに直面する人たちの再生を描く九つの物語。
実は私は大のローカル線好きで、高田郁さんを知ったのも小説「ふるさと銀河線」がきっかけだった。
登場人物が、たとえ生きづらさを感じていても優しくて
ストーリーが切ないけれど温かくて
どんな人も受け入れて、静かに運んでいく鉄道にノスタルジーを感じられて
出てくる食べ物の描写が細やかで滋味あふれていて
まあとにもかくにも、「ふるさと銀河線」で私は高田郁さんの小説が大好きになった。その後、「みをつくし料理帖」シリーズや、「銀二貫」などの時代小説も楽しく読ませてもらっている。
そんな大好きな高田さんの小説。今回も、収められた9つの物語はいずれも鉄道を舞台にするものだ。
時に車窓の風景や車内の情景を思い浮かべながら、時に登場人物たちが乗車している図を想像しながら読み進める。
どれも、心にじんわりと染み入る物語だった。
中でも私が感想を記しておきたいのが、北海道の網走~釧路間を走る釧網線を舞台とした2つの物語「途中下車」と「子どもの世界 大人の事情」、そして、大分県の日田彦山線(現在はバス高速輸送システムBRT)の夜明駅を舞台とした「駅の名は夜明」である。
途中下車
クラスに馴染めず、生きづらさを抱える東京の女子高生が、北海道の高校に転校する、その初日の物語。
学校に行く途中で下車した駅で、女子高生は二人の中年男性(タロさん、ジロさん)に言葉をかけられる。
彼女は新しい環境でリスタートする強い意志を持ちながら、でも不安に押しつぶされそうにもなっていて、心の内がなかなか言葉に出てこない。
そんな彼女に対するタロさんとジロさんの言葉の温かさ、懐の深さに、なんだか救われたような気持ちになる。
私も彼女ほどではないにせよ、中学生の時は常にクラスに溶け込めず、浮いているのを感じていた。そして、当時の私は学校以外の世界を知らなかった。だから、クラスの群れでうまくやっていけない自分は、社会において不適合なのだ思っていた。
この物語を読んで、当時の自分に言葉をかけたくなった。全く知らない世界の、知らない人が救いの手を差し伸べてくれることもあるよ、と。自分の見ている世界はほんの一部で、目線を変えればどうにでもなるよ、と。
この物語の女子高生のこれからの人生を、心から応援したくなった。あなたがいる世界は広いよ。大丈夫、生きていけるよ。
子どもの世界 大人の事情
両親の事情で、父親と離ればなれに暮らすことになった少年。ひょんなきっかけから北海道を訪れ、かつて父と訪れる約束をした場所に辿り着く。そこは、「途中下車」の舞台と同じ駅で、まともやタロさんとジロさんが登場する。
少年という「子どもの世界」から見た家族の姿と親への思い。
それに対して彼の親やタロさんとジロさんが「大人の目線」で見た家族の姿。
その違いが切なくて、胸がきゅっと掴まれるような心地だった。
舞台となったオホーツク海に最も近い駅からは、冬になると流氷が見える。この物語では、大人と子ども、それぞれの目線で、家族のことが流氷になぞらえて表現される。同じ家族でも、その描写が意味するものが相反していて、読んでいて正直つらい。
少年に声をかけたタロさんが、こんな言葉を発するシーンがある。
「子どもは大人の事情を受け容れて生きていくしかない。大人がそれを償う方法なんてないんだ。ありったけの愛情を示す以外は」
多くの親は、子どもの幸せを願うはずで、でも時にはその家族の形について、親と子で思いが違うこともある。そういうとき、親はどうするのが正しいのだろう。
子どものため、と言って自分の本音にフタをしたり、我慢したりするのは違うと思う。
そうなると、子どもの望む家族と異なる形で人生を歩むことを、話して受け入れてもらうしかない。そして、それでもなお君の存在の尊さは変わらない、と伝えることだろうか。
それこそが、男性の言った「償う方法はない、ありったけの愛情を示す以外は」にあたるのだろうか。
何がベストなのだろうと、結論のない問いを考えながら読み進めた。
少年の心に、寄り添ってくれる大人達がたくさんいたらいいなと願った。
この「途中下車」「子どもの世界 大人の事情」2つの物語は、釧網線の「北浜駅」が舞台になっている。(あとがきより)
オホーツク海に最も近いこの駅。私も12年前に訪れている。


当時見ていた車窓の景色や海の色、駅に貼られていたおびただしい数の名刺やメッセージカードを思い出しながら読ませてもらった。

とても懐かしく感じると同時に、当時、大きな大きな海に対しての自分の存在の小ささを、実感した記憶が蘇った。
駅の名は夜明
つましい生活を続けながら、手を取り合って歩んできた、年老いた夫婦の物語。
病気の妻を介護する男性にも病の影がひたひたと迫り、行政からの支援も受けられず、その現実はあまりにも厳しい。
生活は行き詰まるばかりで、思うようにならなくて、それを誰のせいにもできなくて。
それでも消えない、男性から妻への無償の愛。
その慈しみの深さには、「なんでそこまで」と感じてしまうほど。
でも、愛だけでは乗り越えられないこともあるのかな、と思ってしまうくらいに二人を取り巻く状況は無慈悲だ。「必ず最後に愛は勝つ」なんて歌もあるはずなのに、お願い誰かこの二人を助けてあげてと、思わず言いたくなってしまう。
自らの手で人生を終わらせることを決意した男性は、妻を連れて旅に出る。いよいよ最後というとき、車椅子の妻が男性に発した言葉に、これまでの二人の生き様が見えた気がした。
ああ、夫婦って尊いんだな。
どうしようもない壁をなんとかやり過ごしたり、乗り越えたりするために人はパートナーを見つけるのかな。
そうだったらいいなと思った。
どうかこの二人には、人生最後のその日まで、精一杯生ききって欲しいと願わずにはいられない。
世の無常と儚さと優しさを感じるこの小説。
まだ行ったことのない、日田彦山線の夜明駅にも、ぜひ行ってみたくなった。
(ちなみに鉄道とは無関係だが、私は高田さんの小説によく登場する、安普請の古い木造アパートの描写がたまらなく好きである。今回紹介しなかった物語にも、件の木造アパートが登場し、私はひとりその時代にタイムスリップを楽しんでいた。)
そして、今回久々に思い出したことが一つ。
私はローカル線の鄙びた小さな駅が、大好きである。
今は小さな子がいてあまり一人旅に出られないけれど、かつては所謂「乗り鉄」で、田舎のローカル線に乗ってゆっくりと旅をするのが大好きだった。
外付けハードディスクに保存されている写真フォルダには、数え切れないくらいの旅の写真がおさめられている。
今回、小説を読んでいるうちに旅情をくすぐられ、とても久々に昔の旅の写真を見返した。
旅先で訪れた、数々の小さな駅たち。
降り立った当時の気持ちを思い出す。
中にはもう廃駅になり、二度と行けない場所も。
そんなわけで、この小説に触発され、そのテンションのままに、これから私がかつて訪れた駅についても書いていきたいと思い立った。
不定期で、いつまで続くかわからないシリーズだけれど、写真を見て旅情を一緒に感じてもらったり、ご自身の旅の思い出を、楽しく思い出すきっかけになったら嬉しい。
ちなみに私のローカルな駅への偏愛ぶりについては結構なレベルだと思うので(笑)、どうか笑ってください。
普段はいろいろと育児エッセイを書いています。
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誰かの夢やなりたい姿を伺うのも好きです。
個人的企画から、サービス化に向かってまいります…!
超細々、超不定期ですが。
読んでくださり、ありがとうございました!
