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小説『浸蝕』|第4章:鉄

あらすじ

鳴り響くスマホ、日常に溢れるノイズ、
心を削る怒号。


閉ざされた職場環境の中で、
世間に蔓延る搾取の数々。
徐々に自分を見失っていく恐怖を、
身体を侵食する「緑青錆」として
ビジュアル化した、
息もつかせぬサスペンス・ホラー。
人はいったい何を見ているのか。
社会からの「孤立」の先にある、
痛烈な気づきを描く全六章。


登場人物

葵(あおい):
デイサービスで働く介護職員。
職場での理不尽な怒号に耐え続ける中、
身体に「奇妙な異変」が起き始める。

阿久津(あくつ):
葵の上司。
執拗な圧迫と怒号で周囲を搾取する男。
彼の長く不潔な爪の隙間には、
澱んだ真緑色の汚れが見える。

カナタ(かなた):
葵の同僚。
阿久津の横暴に怯えながらも
淡々と業務をこなすが、
日に日に狂っていく葵の様子を気にかけている。


⚠️ ご覧いただくにあたっての注意

※本作はすべて無料でご覧いただけますが、
一部に身体の変容やグロテスクな描写、
強い精神的ストレスに関する表現が
含まれています。
苦手な方はご注意ください。


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第4章:鉄


窓の外から差し込む、
暗くどんよりとしたオレンジ色の光。

もう、こんな時間か……。

一日が何もないまま終わってしまいそうな、
この時間が大嫌いだ。

オレンジ色に射す光は、
少しずつ、少しずつ色彩を失い、
寂しく日常から消えてゆく。

目の前にはダイニングテーブル。

いつもの席に座っているのだろうか。

恐怖と同時に、どこか奇妙な懐かしさを感じる。

部屋が暗くなると同時に、
キンッ、キンッ……と、
鼓膜を突き刺すような金属音が響いた。

天井の照明が何度か激しく点滅し、
そのあまりの眩しさに目が焼けそうになる。

ふと見ると、
目の前に真っ黒な影が立っていた。

そのほっそりとした異様に長い影が、
じわりとこちらに近づいてくる。

まただ。身体が動かない。

すると目の前に、
得体の知れない真緑のスライム状の物質が、
皿いっぱいに差し出された。

必死で首を振って拒絶しようとするが、
声が上手く出せない。

細長い影は、
その真緑の物質を容赦なくすくい取ると、
口の中へと無理やり詰め込んできた。

抵抗しようともがいた瞬間、
髪を強く掴まれて床に押さえつけられ、
さらに奥へと押し込まれる。

涙で滲んだ視界はさらにぼやけ、
息が満足にできない。

喉の奥を、
それが通っていくのが生々しく分かる。

膿のような、
ドロドロとしたでんぷん質の液体。

それがゆっくりと、
ゆっくりと喉を灼きながら、
胃の中へと落ちていく。

生暖かい……。

思わず顔が歪んでしまうほどの嫌悪感。

これは、一体いつまで続くのだろう。

限界だ――。

――ヴー、ヴー、 ヴー、 ヴー。

いつ聴いても慣れない、不快な振動音。
スマホに手元を揺さぶられながら、
無理やり現実へと引き起こされる。

「……!」

ゆっくりと目を開ける。

気づくと、
浴室の冷たい床に倒れ込んでいた。

状況がすぐには掴めない。

どうやら昨晩、
本能的な恐怖に駆られて浴室へと逃げ込み、
鏡の中の自分を見て、
そのまま床で気絶するように
眠ってしまっていたらしい。

――ヴー、ヴー、 ヴー、 ヴー。

容赦なく鳴り続けるスマホ。
その表面に付着した緑青色の粉末と塊を、
そのまま手で乱暴に擦り払い落とした。

画面には、

「阿久津」

の文字が表示されていた。

途端に、身体がガタガタと震え出す。

――ヴー、ヴー、 ヴー、 ヴー。

これ以上無視する恐怖には耐えられず、
勇気を振り絞り、
クタクタの身体を起こした。

そして、
緑青に染まった右手で、
通話ボタンを押した。

「はい……」

「てめー、何やってんだ! なめてんのか!」

スピーカー越しに、
阿久津の怒号が鼓膜へと飛び交う。

「今どこだよ! まさか、
 まだ家とか寝ぼけたこと言わねーよな!」

「あ……あの……体調が悪く……」

「聞いてねーよそんなの!
 会社来ねーと殺すからな!」

プツっ……。




一方的に電話の切れた音と共に、
自分の中の細い糸が、
音を立てて切れた感覚がした。

どっと、涙があふれてきた。

「会社、行かなきゃ……」

力を振り絞り、立ち上がる。

「とりあえず、支度……」

洗面台の鏡を見て、息が止まった。

昨晩よりも、
あの緑青の錆のようなものが
明らかに広がっていた。

特に、手。

もう、指先のほとんどに緑青錆が広がり、
硬く変色している。

もう、声も出なかった。

取り憑かれたように浴室の扉を開け、
台所へと向かった。

シンクの脇にあった、
ステンレス製の金たわしを手に取る。

そして、
緑青錆が付着した自分の指を、
力任せに擦り始めた。

金たわしは、
みるみるうちに澱んだ緑色に変色していく。

いくら擦っても、
指の緑青錆は落ちる気配がない。
それどころか、
焦りとともに腕にどんどんと力が入っていく。


ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。

金属と肉が擦れ合う異常な音が、
静まり返った部屋中に響き渡る。

ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。
ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ、ガシガシ。

気づいた時には、
指の皮膚がボロボロにめくれ上がり、
不気味な緑青色と、
ドロリと淀んだ黒い赤が、
生々しく混ざり合っていた――。

押し寄せる不安からか、
それとも遅れてやってきた凄まじい激痛からか、
涙がボロボロと溢れて止まらない。

「あ゛ーーーーッ!!」

苛立ちと狂気のあまり、
すでに自分の血と錆で茶褐色に汚れ始めていた
ボロボロの金たわしを、
思い切り壁に向かって投げつけた。

カサッ、と虚しい音が床に転がる。



「会社に、行かなきゃ……」



半ばヤケクソになりながらも、
洗面台にあったマスクを顔に引っ付け、
逃げるように家を飛び出した。

マンションのエレベーターに乗り込み、
一階のボタンを押す。

その時、
ボタンの表面が、
まるで泥でもついたかのように
汚れていることに気がついた。

嫌な汚れ。

エレベーターの扉が閉まり、
静かに下降を始めた、
その瞬間だった。

ミシミシ……ミシミシ……。

不気味な軋み音と共に、
閉まった扉の隙間から、
あの緑青錆が生き物のように這い出てきた。

「ッ!……」

とっさに、
エレベーターの隅へと身体を後退させ、
背中を壁に強くぶつける。

すると、
触れたその壁の場所から、
みるみるうちに塗装が剥がれ落ち、
ジュクジュクと錆びついていくのが見えた。

あまりの異様な光景に、
壁から手を離したが、
壁の剥離は、もう止まらない。

箱全体が、淀んだ緑色の錆に包まれていく。

チン……。

一階に着き、
エレベーターの扉がわずかに開いた瞬間、
這うようにして外へと飛び出した。

冷たい汗を拭いながら
エントランスを通り抜けようとしたが、
視界はまた、ある場所で釘付けになった。

昨日、
ほんの少し錆が付着していたはずの
自宅のポストが、
今はもう、中から緑青錆が溢れかえって
原型を失いかけていた。

事態が、まったく分からない。

動揺が抑えきれず、
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。

周囲に人がいないか必死に警戒しながら、
傷つき、
緑青錆で完全に覆われてしまった両手を
両脇の間に強く挟み込んで隠した。

そのまま、無我夢中でバス停へと急いだ――。


▶ 次の話へ



あとがき

ご覧いただき本当にありがとうございました。

鳴り響くスマホの音、心を削る怒号――。
作中で描いた閉ざされた職場の空気感は、
僕自身の体験や、
現代社会の片隅でいまも起きている
「日常の搾取」をベースにしています。

誰にも頼れず「孤立」していく恐怖を、
緑青錆という形で表現した本作ですが、
読み終えた皆様のなかに、
何か「痛烈な気づき」のようなものが残れば
これ以上の喜びはありません。

【読者の皆様へお願い】
「おもしろかった」「ゾクッとした」など、
一言でも感想をコメントで教えていただけると
本当に嬉しいです。
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次回作への原動力になります!

田端うつ郎


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一気読みしたい方はこちらから!


小説「浸蝕」今後の展開

第1章:爪
第2章:悪臭
第3章:隙間
第4章:鉄(本記事)
第5章:胃酸(2026.8.15)


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最後まで、ご清覧いただき、
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