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不在と欠落の果てに ──戦艦武蔵と宮城事件を繋ぐもの

子供の頃、「戦艦大和が沈む時」という替え歌を耳にした記憶がある。おそらく、軍艦マーチの替え歌だったのだろう。歌詞はほとんど覚えていないが、子供らしい下品な内容だったように思う。私にとって長い間、大和とはその程度の存在でしかなかった。

松本零士原作のテレビアニメの宇宙戦艦ヤマトですら、ほとんど観ていない。戦争映画には、自ら近づかないようにしていることもあり、特別な軍事的知識があるわけでもない。ただ、半藤一利の原作を映画化した岡本喜八版(1967年)、原田眞人版(2015年)の『日本のいちばん長い日』の映像の中で、玉音放送の前後に立て続けに起きる不穏な場面の緊迫感だけは、強く印象に残っている。

そんな私が、以前から気になっていた吉村昭の『戦艦武蔵』を手に取った。罪人の半生を扱った『仮釈放』『破獄』に続いて、この著作を選んだのは、あるいは国家の意思そのものに、決して裁かれることのない罪科が潜んでいることを、無意識に感じとっていたからなのかも知れない。

戦後の日本では、長く大和ばかりが語られ、武蔵とそれを造った人々は記憶の周縁へと追いやられてきた。そこには歴史の1ページというには余りに重い一種の〈欠落〉がある。読了後、自分が強く感じたのは、大和に関する物語だけが悲劇的に描かれ続ける戦後の日本社会や、表現者たちの歴史への眼差しに対する、著者の静かな反骨精神である。

吉村昭「戦艦武蔵」新潮文庫表紙カバーより

1 ── 4隻の同型戦艦の計画

大和型戦艦は、当時、4隻が計画されていた。

第1号艦・大和は官製の呉海軍工廠で、第2号艦・武蔵は民間の三菱重工長崎造船所で、第3号艦・信濃は官製の横須賀海軍工廠で起工された。第4号艦は呉で起工されたものの、戦局の悪化により1942年に建造中止となり、解体されている。

4隻それぞれの運命は、異なる敗れ方を示した。大和は片道燃料の沖縄特攻により、坊ノ岬沖で沈み、武蔵はレイテ沖シブヤン海海戦において米軍機の波状攻撃を浴びて沈み、信濃は空母へ改装され、就役後僅か10日で雷撃を受けて沈み、第4号艦は艦になる前に鉄塊に帰された。

1つの設計図から生まれた4つの船体が、戦艦として死に、空母として死に、生まれる前に資材に戻る。大艦巨砲主義の終焉が、艦の1隻ごとに段階的に刻まれていた。世界最大級の戦艦を4隻並べるという構想は、完成する前に時代によって否定されていたのである。航空機が戦艦を凌駕する時代が、すでに到来しつつあった。

吉村昭はこの4隻のうち、敢えて民間の造船所で造られた武蔵を選んだ。すでに名の知られていた大和ではなく、厳重にその記憶や記録に鍵が掛けられていた武蔵を主役に据えた──これは文学者として、明らかに意識的な選択だったのではないかと思う。

2 ── 秘匿された長崎の造船

長崎造船所が武蔵の建造を引き受けたとき、それは民間企業が国家最高機密のプロジェクトを担うということを意味した。前例のない巨大な船体、前例のない厚さの装甲、前例のない口径の主砲──技師たちは未踏の領域で試行錯誤を重ねた。

そして艦の存在は徹底的に秘匿された。長崎港は対岸から造船所が一望できる地形で、海軍は棕櫚のスダレを山のように調達し、船台と海面の間を覆った。進水後には、艤装岸壁の両側に目隠し塀が高く立てられた。さらに、イギリス・アメリカ領事館の前には、隠し倉庫が建てられて、それらの眼を遮断した。浪ノ平町などの対岸の住民に対しては、家屋の雨戸を閉めさせ、窓にはカーテンを引かせて、厳重に監視する措置も取られた。

1隻の船を秘密にするために、長崎という街全体が目と口を閉ざし、国家によって施錠されたのである。

その棕梠のスダレの奥で、技師たちは日夜、仕事をした。船体を建造する船台とガントリークレーンを強化拡充し、数えきれない程の資材を取り付け、夥しい数の鋲を甲鉄に打ち込んだ。進水の際、艦が対岸に乗り上げないようにするため、船体の両舷に重い鎖を同じ割合で取り付け、動きを制御するための工夫も凝らした。その重量に耐えかねて、進水を控えて船台が30メートルにわたって裂けるという前例のない事態にも遭遇した。

私は基本的に、反戦の立場に立つ。しかしそれと、彼らに対する敬意は別問題だと思う。彼らは戦争を始めた政治家ではない。国家からの発注に従って、より優れた船を造ろうとした技術者であり、職人たちだった。その姿は、現代の半導体技術者やAI研究者ともどこか重なる。技術そのものには罪も善もない。問題は、それを用いる人間と社会の側にある。

だからこそ私は、武蔵を造った人々の誇りと苦闘に、自然と頭を垂れるような感覚になった。

だが、その艦が完成を見る頃になって、彼らはアイロニカルな現実に直面することになる。武蔵が竣工した直後、海軍は第3号艦・信濃を空母へ改装する方向に舵を切っている。ミッドウェーで正規空母4隻を失った海軍にとって、もはや必要とされたのは巨砲を備えた戦艦ではなく、航空機を運用するための空母になっていた。

つまり、長崎の技師たちが心血を注いで竣工に漕ぎつけた武蔵は、その完成の瞬間に、時代から取り残され、その存在意義を問われ始めていた。

武蔵完成の祝賀の陰で、海軍は戦艦という兵器の限界を認識しつつあった。だが、その事実は、長崎で武蔵を造り上げた技師たちには、決して知らされることがなかった。

武蔵被害ならびに浸水範囲推定図

3 ─ 山本五十六が瞬時に返した挙手

武蔵は連合艦隊司令長官が乗船して指揮を執る旗艦となり、艦首には菊花紋章が据えられていた。当時の国家権力と軍事力を象徴する存在だったと言ってよい。

だが、『戦艦武蔵』を読んで印象に残るのは、そうした権威の存在ではない。海軍大将・山本五十六という人物の稀有な存在感である。

作中には、山本が無名の隊士の敬礼に対して、ほとんど同時に挙手を返したという場面がある。私はこの描写に強く惹かれた。

連合艦隊司令長官である。

何万人もの部下を抱える立場である。

それにもかかわらず、目の前の1人の隊士を見落とさない。いや、見落とさないどころか、敬礼される前からその存在を認識しているかのようである。

なるほど、こういう人物なら現場の人々が心酔するのも無理はない。

さらに、山本は開戦前から、長期戦になれば日本に勝機が乏しいことを認識していたとされる。

山本五十六(1884-1943)
海軍大将・連合艦隊司令長官

その山本が、1943年4月、米軍の通信傍受と暗号解読によりブーゲンビル島上空で待ち伏せを受け、撃墜される。海軍甲事件である。遺骨は同年5月、武蔵によって日本に運ばれ、国葬が執り行われた。自分が指揮した艦隊の旗艦が、自分の遺骨を運ぶ──このイメージは、武蔵という艦の存在意義と命運を象徴しているように思える。

後任の司令長官には同じ海軍大将の古賀峯一が就く。天皇も隊士の士気を上げようと、武蔵に来艦する。形式だけを見れば、これ以上ない権威が揃っている。旗艦、菊花紋章、天皇、連合艦隊司令長官。しかし吉村の描写からは、山本の〈不在〉を埋め切れない、その死を正面から受け止め切れない空気が伝わってくる。

私はそこに、制度としての権威と、人々が自発的に寄せる信頼や畏敬の気持ちとの違いを見る。人は肩書に従うことはできる。だが、心から人を動かすものは、人格に対する信頼であり、畏敬の念なのだろうと思う。

その古賀もまた、11ヶ月後に殉職する。海軍乙事件、1944年3月。連合艦隊司令長官が1年足らずの間に2人、航空事故で失われた。海軍はその精神的支柱を喪い、指揮系統の連続性を喪い、主力艦を1隻ずつ失っていく。組織として、人として、艦として──海軍は、そして日本という国家は、あらゆる位相で〈不在〉と〈欠落〉を抱え込んでいくのである。

4 ── 不在と欠落の果てに

そして1945年8月15日を迎える。

海軍と陸軍では、元々、組織文化も気風も大きく異なる。にもかかわらず、私が吉村昭の『戦艦武蔵』を読みながら、何度も想起したのは、『日本のいちばん長い日』で描かれた宮城事件だった。

それは、天皇の終戦決定に反発した一部の陸軍将校たちが、玉音放送を阻止しようとした事件である。彼らは近衛師団長・森赳中将を殺害し、偽の師団命令によって宮城(現在の皇居)を占拠し、玉音盤を探し回った。天皇のために戦っていたはずの者たちが、天皇の意思決定に反して戦争を続けようとした。ここに、この戦争の最終局面における倒錯がある。

もちろん、彼らの行動が誤っていたことは明らかである。しかし私は、それを単なる愚行として切り捨てることができない。海軍と陸軍の違いはあれど、その背後には、あまりにも多くの死と喪失が積み重なっていたように思えるからだ。

戦友たちの死。

失われた艦隊。

失われた故郷。

そして失われた未来。

彼らはその重みに耐えられなかったのではないか。

岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」より

そして、私はあれこれと考えを巡らせる中で、もう1つの大きな〈不在〉があったことに思い至る。終戦の日、2年前に戦死した山本五十六はもういない。

ここで、終戦の時期に関して、自分なりの考えを述べることをお許し願いたい。

8月の御前会議は終戦の劇的な瞬間として記憶されているが、私には8月の段階では、すでに遅過ぎたように思えてならない。終戦の意思決定は、その半年前、1945年の初頭にこそ下されなければならなかったのではないか。

事実、1945年2月、近衛文麿は天皇に上奏し、戦争終結の必要を訴えている。陸軍と海軍の双方が同じ卓につき、終戦の是非を論じる時期は、すでに到来していた。

しかし、その進言が容れられぬまま過ぎた半年のあいだに、東京は焼夷弾に焼かれ、沖縄は地上戦の戦場となり、広島と長崎に原爆が投下された。

歴史に「もしも」はない。それは分かっている。

だが、それでもなお考えてしまう。もし山本が1945年の初頭に生きていたなら。もし終戦への道筋をより早く模索できていたなら。沖縄戦も、広島も、長崎も、違う形になっていた可能性はなかったのだろうかと。

その答えは誰にも分からない。しかし、そう考えずにはいられないほど、吉村昭が描いた山本五十六は、大きな存在として映るのである。

そしてもう1つ、書き加えておかなければならないことがある。

国立公文書館のデジタルアーカイブを検索しても、武蔵に関する文書はほとんど見つからない。唯一目立つのは、「日本海軍の船艇(戦艦)武蔵、大和の起工の立証」と題された、極東国際軍事裁判の英文と和文による証拠書類である。

日本がワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約を破って秘密裏に武蔵と大和の建造を始めた事実は、戦後、東京裁判の検察側証拠としてのみ、国家のアーカイブに記録されている。

設計図と建造記録は、海軍自身の手で焼却されている。残ったのは、自国を裁いた勝戦国の側の記述だけだった。武蔵を生んだ国家が武蔵について保持する公的記録は、武蔵の建造を犯罪として告発する側の文書しか存在しない。

ここには、歴史を読み解くための重要なエスキスが〈欠落〉している。

武蔵は二度失われたのである。一度はレイテ沖で。そして二度目は、その設計図や建造記録と共に。

大和は神話になった。だが武蔵は神話にならなかった。だからこそ吉村昭は武蔵を描いたのかもしれない。歴史はしばしば英雄を記憶する。しかしその背後で失われた人々や、記憶の彼方に去った個々の尊い営みには、なかなか光が当たることがない。

武蔵を造った技術者たち。

山本の不在を抱えた乗組員たち。

そして終戦の日に混乱の中にあった人々。

私にはそれらが、1本の線で結ばれているように見える。

〈不在〉と〈欠落〉。

その果てにあったものが、あの日本のいちばん長い日だったのではないか。

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