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二・二六事件の多重性──見るたびに異なる光を放つプリズム

二・二六事件は、そのたびに異なる形を見せ、異なる色彩を放ちながら、自分の前に何度も繰り返し立ち現れた。

想うに、それは私にとって、この事件が意識のみならず、無意識の領域とも呼ぶべき深い場所から誘われる特別な磁場のような意味合いを持っているからなのかも知れない。

1──三島由紀夫『憂国』

三島由紀夫『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)

さて、自分が最初にこの事件への接点を意識したのは、三島由紀夫の小説『憂国』であった。三島自身が後年、「もし私の小説を一編だけ読みたいといふ人があつたらば(中略)この「憂国」一編を読んでもらへば、私といふ作家のいいところも悪いところもひつくるめて、わかつてもらへるやうに考えてゐる」と述懐していたことを知り、そこに三島を読み解く手掛かりがあることを直観した。さらに、その耽美主義的な雰囲気に魅せられて、二十代前半の頃、実際の事件の背景をロクに知らずに読んだのが最初の出会いだったと思う。

当時は、その強い引力や妖気を放つ表現に触れてみたいとの思いから、若さの勢いに任せて、この小説に手を伸ばした面も多分にあったのだろう。さらに、読後、何年か経て、当時、自分が秋山駿と共に愛読していた文芸評論家・磯田光一が、その著書『殉教の美学』(1964年)において「鴎外以来、〈義〉のための殉教をこれだけの密度をもって描き出した作品はないだろう」と評していたのを、偶然手に入れた古書で読んだことも大きい。この磯田の評価に触れたことにより、自分の中でこの著作に対するイメージは、より肯定的な刻印が押されたものとなった。

磯田光一『殉教の美学』(冬樹社)

主人公の武山中尉は、叛乱を起こした陸軍将校たちと親友の間柄であったにもかかわらず、新婚の身であったことを理由に決起に誘われない。さらに、彼らが維新のための行動と信じたものが、軍によって叛乱とみなされ、部下を指揮してこれを討つ側に回らざるを得なくなったことで懊悩し、自決の覚悟を決める。そうした疎外感や、友情と忠誠との狭間で引き裂かれるような苦悩から自決の覚悟へ至る思考の道筋が、冷静に見ると、やや唐突で早計な感じがすることは、当時、余り気にならなかった。

ただ、それから40年近い歳月を経て改めて読み返してみると、この小説は、もっぱら〈死とエロス〉というモチーフを意識的に凝縮し、そこに〈美と快楽〉をスパイスとして加えたような内容であり、言葉のリズムや語感は極めて巧みでありながら、実は、天皇のための大義とか、軍に集う若者たちの思想の純粋性といったものは、彼方の風景や置物のように、遠い位相に後退しているよう見えてしまうことに気付かされる。

当時、自分が特に親近感を覚えていた秋山駿や磯田光一とは異なり、どこか違和の気配を纏った、距離を感じさせる評論家の一人に江藤淳がいた。ところが、面白いことに、この私の現在の読みは、その江藤が書いた以下の文章と、驚くほど近い。

「作者の目的は、中尉と夫人が「大義に殉ずる」という公的に「聖化」された喜びのために、「私」の枠を超えて一層高く燃え上がる性の歓楽をつくす――そしてその光芒の明るさは、正確に前提とされる「自害」という事実の暗さに比例する、という過程を出来得るかぎり細密にたどるところにあるからである。(中略)割腹した夫の返り血をあびて白無垢を紅に染めた中尉夫人が、血にすべる白足袋をふみしめて死化粧に立つ姿などは、三島流のエロティシズムの極致ともいえるに違いない。」(江藤淳「エロスと政治の作品」より)

少なくともその当時、私自身が二・二六事件そのものには、さほど関心が無かったこともあり、三島がこの事件をモチーフにしながらも、どちらかと言えば、もっぱら自身の美学や、ジョルジュ・バタイユへの共感、文章による造形的な試みのためにこれを書いていたことに対して、何の疑問も抱いていなかった。そして、実はこの事件が別の角度から見れば、全く異なる色彩を見せるものであったことなど、当時は想像すらできなかった。

2──向田邦子・寺内小春「麗子の足」

続いて、次に私が二・二六事件のことを意識させられたのは、飛行機事故による死後、そのエッセイ群に散在する複数の断片を拾い集め、これをもとに毎年のように制作され、正月特番として放映されていた向田邦子ドラマシリーズの一つである『麗子の足』(1987年放映)であった。このドラマの脚本を巡り、これを担当したソフト路線の寺内小春と、ハード路線で知られる演出家・久世光彦との間で意見の対立があったことが明かされているが、恐らく最終的には、久世の主張の方がより多く採用されたのだろう。

主人公・紀田礼子(田中裕子)は女学校の数学教師であり、軍医の従兄・日高聡一郎(永島敏行)と仄かに意識し合うような関係にあった。ある正月、岸田劉生の「麗子像」を巡る会話から、2人は互いに足袋を脱いで足を見せ合う。そこで、聡一郎は礼子を押さえつけるものの、その拒絶反応を見て、我に返って逃げ去ってしまう。この出来事により、礼子は近親者であるため、禁忌の間柄にある聡一郎への想いを自覚することになる。

岸田劉生のモデルとなった娘・麗子(9歳)

二・二六事件の前日、聡一郎に呼び出された礼子は覚悟を決めて出向き、彼の胸をつかみながら足袋を脱ぎ捨てて全てを捧げようとする。ところが、その想いが遂げられないまま出発の時が訪れ、聡一郎は出て行く。そして、事件によって聡一郎がこの世を去ったのだと悟り、礼子は近所でかねてから自分のことを執拗に目で追っていた奇妙な男(塩見三省)と、間違ったピースを嵌めるかのように関係を持ってしまう。それは、言わば代償行為と呼ぶほかないものであった。

この余りに悲しい結末と、田中裕子の〈虚無〉を現前させた表情の凄みは、この時、深く自分の中に刻み込まれることになった。

3──高橋是清邸

それから十数年を経て、小金井の江戸東京たてもの園を訪れる機会があった。その時の主な目的は、宮崎駿のアニメ映画『千と千尋の神隠し』の湯屋のモデルになったとされる建物や景色(武居三省堂、子宝湯、下町中通り)を観ることにあった。逆に言えば、それ以外のことは何も考えずに、童心に返るような気持ちで、この東京都歴史文化財団が運営する施設へ向かったのである。

江戸東京たてもの園 園内マップ

ところが、現地の案内図に目をやった時、園内に赤坂の地から移築された高橋是清邸があることに気付いた。

二・二六事件で青年将校たちに襲撃され、当時、蔵相であった高橋是清が命を落とした現場が、すぐ目の前に復元されている。さらに建物内に入り、二階の襲撃現場となった寝室にも上がれることが分かり、多少、怖いもの見たさのような面持ちで階段を上がっていった。

畳などはさすがに替えられているとしても、木造建具は恐らく1936年当時のものなのだろう。ここで青年将校たちによって拳銃が放たれ、軍刀が振り下ろされた時空へと、意識は遡行していく。この時、どのような言葉が交わされ、どのような沈黙がこの部屋を包み込んだのか。そんなことを考えながら、その場にあった調度品、天井や床や壁の隅々まで見渡した。

不意に白銀の刀身が足元を這うような感覚に襲われた。思わず、その幻影を振り払うようにして、階段を降りたことを覚えている。

4──高橋是清翁記念公園

その後、さらに数年の歳月が流れた。

30年余り勤務した税理士法人を離れ、5年程前に港区南青山2丁目の地に個人事務所を開業した当初、自分はよく赤坂見附駅の周辺で昼食を摂っていた。その帰り道、敢えて電車を使わずに、いくつかのルートを気まぐれに選びながら、事務所まで歩いて戻ることを日課としていた。

赤坂見附から青山通りを歩く時には、何故か決まって頭の中に流れてくる曲があった。伊勢正三の『アビーロードの街』である。ビートルズのアルバム『Abbey Road』へのオマージュとして作られたこの曲の、

「あの日の君は傘さして 青山通り歩いてた」

という旋律を耳の奥に響かせながら、虎屋の赤坂本店を過ぎ、さらに草月会館を過ぎたところで、そこに見慣れぬ公園があることに気づいた。人気はほとんどなく、赤坂の喧騒から切り離されたかのような穏やかな空間が広がっていた。都心の幹線道路沿いに、こんな静かな場所が残されているのか? それが最初の印象であった。

5320平方メートルの緑地には「高橋是清翁記念公園」という看板が掲げられていた。港区が設置した説明板を読み、この地こそ高橋是清が襲撃され、命を落とした事件の現場であったことを知り、思わず足を止めた。

高橋是清翁記念公園 案内図と沿革解説

その日は2021年2月2日であった。26日ではなかったものの、暦が2月であったことに、不思議な縁を感じた。約85年前、この場所は雪景色に覆われていた。

3日前に降った雪が残る曇り空の寒い朝、首相経験者であり蔵相であった1人の老人が、凶弾と軍刀によって命を奪われた。

その事実を認識しながら、この国道を走っている車や歩行者は、果たして一体どれだけいるのだろうか。実は、自分だけなのではないか。『アビーロードの街』を書いた伊勢正三は、この静かな公園の奥に眠る歴史を知っていたのだろうか、などと考えたりしていた。

5──国民救済のための積極財政を体現した政治家

さて、文学や街の中の風景から離れて、国家財政の問題に視点を移す。

財務省(旧大蔵省)は、古くから財政規律を重視し、プライマリーバランスの改善を政策上の重要課題としてきた。そのため、景気対策や減税政策が実施されることはあっても、基本的には歳出抑制や増税によって、財政の均衡を維持しようとする姿勢が強い。

これに対して、積極財政を唱える政治家や政党も存在する。しかし、その内容は一様ではない。現在の高市政権が掲げる《責任ある積極財政》も、安倍晋三政権下の経済政策を引き継ぎつつ、国家主導の成長戦略や国防・安全保障の観点を加えたものと言えるだろう。

ここで、再び90年前の二・二六事件の時代に目を向けてみたい。

昭和初期の日本では、1927年の昭和金融恐慌、1930年から31年にかけての昭和恐慌により、多くの金融機関が破綻した。さらに米価の暴落によって農村の困窮が深刻化し、「娘を売りに出さなければ生活できなかった」という記録が残されるほど、人々の生活は追い詰められていた。

そうした中、首相経験者でもあった蔵相・高橋是清は、疲弊した国民生活を立て直すため、積極的な財政政策を推進する。その出発点や目的は、近年の積極財政論とは大きく異なるものであった。一方、陸軍内部では軍備拡張を求める声が強まっていく。無制限な財政の膨張を警戒した是清は軍事費の増加に慎重な姿勢を示す。これが青年将校たちの不満を招き、結果的には二・二六事件の遠因の一つとなった。

高橋是清像 高橋是清翁記念公園内

こうして高橋是清は凶刃に倒れる。

しかし、是清を襲撃した青年将校たち自身もまた、農村の困窮を目の当たりにしながら育った世代であった。彼らもまた、是清の積極財政によって間接的に救われていた側面があったのである。そのことに気付くことなく、自ら銃口と刃を向けてしまったところに、歴史の深いアイロニーがある。

6──九死に一生を得た指導者たち

二・二六事件では、蔵相の高橋是清を始めとして、多くの人々が命を落とした。しかし、その銃口を辛うじて潜り抜けた者たちもいた。

事件の際、侍従長として天皇の直近に仕えていた鈴木貫太郎は、青年将校らによって銃撃され、瀕死の重傷を負う。奇跡的に一命を取り留めたものの、あと一歩で命を落としていても不思議ではなかった。また、当時、内閣総理大臣であった岡田啓介も襲撃の対象となったが、義弟の松尾伝蔵が岡田と間違われて殺害されたことで、難を逃れている。

この二人が、いずれも事件を起こした陸軍ではなく、海軍の出身であったことも、私には偶然とは思えない。さらに言えば、仮にこの時、鈴木と岡田が命を落としていたならば、その後の日本の歴史は違ったものになっていたかもしれない。

青年将校たちの凶行によって、高橋是清という一つの光は闇に葬られた。一方で、闇に呑み込まれかけながらも辛うじて生き延びた鈴木と岡田は、約10年後、ポツダム宣言の受諾を巡る攻防において、再び日本の歴史の表舞台に立つことになる。失われた光があれば、後世のために残された光もあった。

若い頃の私は、二・二六事件を、三島由紀夫の『憂国』に描かれたエロスや死の美学、そして向田邦子のドラマに描かれた人間の情念や悲劇を通して見ていた。しかし、歳月を重ねた今、私の関心は、高橋是清が推進した積極財政や、軍備増強のための国債発行を拒んだ姿勢、さらには九死に一生を得た鈴木貫太郎や岡田啓介へと移っている。

事件そのものは、90年前から何一つ変わっていない。変わったのは、それを見つめる側にいる私自身である。

だからこそ、二・二六事件というプリズムは、これからも自分に向けて新たな光芒を放ち続けるように思えるのである。

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