戦時の4人の首相について[後編]──小磯国昭・鈴木貫太郎
4.担ぐ者と担がれる者──御輿という《可逆的構造》
ここで小磯國昭の章に入る前に、天皇と4人の戦時首相の双方を貫く構造として、戦前・戦中日本の政治的意思決定を特徴づけている御輿という《可逆的構造》について考察してみたい。
《可逆的構造》という表現を用いるのは、担ぐ者と担がれる者とが固定された関係ではなく、状況によってその立場を入れ替えうる仕組みが、日本の政治の中に歴史的に形成されて来たのではないかと考えるからである。
御輿は、それ自体では動かない。担ぎ手がいて初めて動く。しかし、担ぎ手だけでも祭りは成立しない。担がれる御輿が存在して初めて、担ぎ手もまた意味を持つ。両者は対立する関係ではなく、相互に補完し合う関係である。
政治においても、この構造は繰り返し現れる。
戦前・戦中の日本において、天皇は制度上、日本政治の中心に位置していた。しかし、その中心は常に政治を主導する主体であったわけではない。内閣、軍部、重臣、宮中側近など、多くの担ぎ手によって支えられ、時にはその意思決定を方向づけられる存在でもあった。
しかし一方で、開戦や終戦といった国家の重大局面では、自ら裁可や聖断を通じて政治の方向を決定づける主体ともなった。すなわち、天皇は担がれる存在であると同時に、局面によっては担ぎ手を動かす主体でもあった。
この《可逆的構造》は、首相にも反復される。
近衛文麿は、五摂家筆頭の近衛家に生まれた華族として、宮中・重臣・軍部、さらには世論の期待を受けて、首相に担ぎ上げられた人物であった。しかし、その御輿の上から時代を制御することは容易ではなかった。
東條英機は、自ら国家を動かす主体となることを志向し、戦時体制の一元化を推し進めた。その強い指導力は、担がれる存在であることを拒み、自ら担ぎ手となろうとする試みでもあった。だが、その試みは、やがて自らに責任を集中させる結果をもたらすことになる。
小磯國昭は、これら二人とは異なる位置に立つ人物である。その位置づけについては、本稿の中心的な論点の一つとして、次章で詳しく考察したい。
鈴木貫太郎は、終戦という国家的使命のために担ぎ出された首相であった。しかし、その役割は単に担がれることでは終わらず、4人の中でも、とりわけこの《可逆的構造》を体現した人物として、政治を終戦へ導く主体ともなった。
このように見てくると、戦時日本の政治は、誰か一人が一方的に権力を握る構造ではなく、担ぐ者と担がれる者とが局面によって役割を入れ替える《可逆的構造》として理解することができる。
その延長線上に、小磯國昭という人物も位置付けられる。では、その小磯國昭とは、いかなる人物であったのか。
5.小磯國昭(在職日数260日)
(1)首相になった経緯
1944年7月、サイパン島陥落の責任を取る形で東條英機内閣は総辞職した。開戦以来、一人の首相が陸軍大臣や内務大臣などを兼任し、戦時体制を一元的に指導してきた体制は、ここで大きな転換点を迎えることとなる。
では、その後継には、どのような人物が求められたのであろうか。
東條のように強い統率力を持つ人物を再び据えることには、軍部のみならず重臣や宮中にも慎重論があった。他方で、海軍出身者では陸軍の理解を得ることが難しく、近衛文麿の再登板も現実的ではなかった。
その結果として選ばれたのが、小磯國昭である。
小磯は陸軍大将として要職を歴任した軍人でありながら、東條ほど強固な政治的基盤を持つ人物ではなかった。
また、1931年の三月事件、すなわち宇垣一成を首班に担ぐ未遂のクーデター計画への関与を経て、陸軍中央の主流からやや距離を置く経歴を辿ったことも、この人選に作用したものと考えられる。
前章で述べた御輿という《可逆的構造》に照らして見るならば、小磯内閣の成立は、一人の強力な指導者の登場というよりも、東條体制の修正を模索する中で、複数の政治勢力の均衡の上に成立した政権であったと言えるだろう。
(2)天皇との関係性
小磯國昭と昭和天皇との関係を考える上で、最も象徴的なエピソードは1945年の3月から4月にかけて行われた繆斌(みょうひん)工作である。
繆斌は、重慶国民政府との和平を仲介すると称した中国人政治家であった。戦局が悪化する中、小磯はこの和平工作に期待をかけた。しかし、外務大臣の重光葵は繆斌の交渉権限に強い疑念を示し、杉山元陸相、米内光政海相もこれに同調して、工作は政府・軍首脳の支持を得るには至らなかった。
関係閣僚の理解を得られず、政権運営に行き詰まった小磯は、打開策として最終的に昭和天皇に上奏した。だが、天皇は工作の継続を認めず、繆斌を帰国させるよう指示した。こうして繆斌工作は事実上、終結することになった。
この出来事は、小磯内閣の限界を象徴している。終戦への道を模索する意思はあった。しかし、小磯には政府・軍部を統率し得るだけの政治的基盤が十分ではなかったため、その構想を政府・軍部・宮中の合意へとまとめ上げることができなかった。
(3)開戦立場
小磯は開戦時には首相ではなかった。1941年12月の開戦時、小磯は予備役に編入されており、翌1942年に朝鮮総督として現役復帰した後は、東條内閣期を通じて京城(現・ソウル)に在って中央政治から離れていた。
しかし、陸軍出身の軍人として、戦争指導体制の一翼を担っていたことは否定できない。もっとも、東條英機のように開戦を主導した人物として語られることは少なく、その立場は、むしろ戦争を遂行する組織の一員という性格が強かった。この点にも、小磯という人物の特徴が表れている。
彼は自ら組織を率いて歴史の表舞台に立つよりも、その背後で組織に従属していた時間の方が長かったのである。
(4)終戦立場
首相就任後、小磯は戦局の悪化という現実に直面することになる。レイテ沖海戦の敗北は、日本海軍に決定的な打撃を与えた。また、中国との和平工作も期待された成果を上げることはできなかった。小磯に戦争を終結へ導こうとする意思がなかったわけではない。しかし、それを具体的な成果として実現するだけの政治的基盤も、軍部を統率するだけの求心力も、小磯には備わっていなかった。
前章で述べた論旨に照らして見ると、小磯は担がれた首相であって、担ぎ手を統率する首相ではなかったのである。
1945年4月、小磯は陸相への現役復帰を求めたが陸軍に拒否され、総辞職する。しかしこの退場は、鈴木貫太郎への政権継承という形で、終戦への道を実質的に開くことになった。自らの手で終戦を実現することはできなかった小磯が、退くことによって終戦への構造を用意した──担がれた御輿が退場することで、次の担ぎ手たちが新たな御輿を選び直す余地を生んだ、と読むこともできる。
(5)裁判処分と戦後の身の処し方
敗戦後、小磯はA級戦犯として起訴され、終身刑の判決を受ける。近衛文麿が服毒自決し、東條英機が死刑となり、鈴木貫太郎が訴追を免れたことと比較すると、その戦後の姿は4人の中でも独特の位置を占めている。
政治的には大きな成功を収めた首相とは言い難い。しかし、そのことは必ずしも小磯一人の資質だけに帰することはできない。東條という強い指導者の後に、誰もが受け入れ得る首相として選ばれたこと。それ自体が、すでに戦時日本の政治構造の限界を映し出していたからである。その意味で、小磯國昭とは、敗戦へ向かう国家がその過程で選び得た妥協の御輿であったと言えるのかもしれない。
6.鈴木貫太郎(在職日数133日)

ネルソン・アトキンス美術館
(1)首相になった経緯
鈴木貫太郎は明治海軍の系譜を代表する武人であった。日露戦争では駆逐隊司令として活躍し、後に連合艦隊司令長官、海軍軍令部長、そして侍従長を歴任している。首相就任時は既に海軍を退いて久しく、枢密院議長の職にあった。
重臣会議において鈴木を後継に推したのは、元首相・岡田啓介を中心とする海軍系の重臣たちであった。戦局の破局的な悪化の中で、もはや戦争の遂行ではなく、その終結こそが国家の課題であった。だが「終戦」を口にすることは、なお本土決戦を主張する陸軍の反発を招く危険を孕んでいた。
そこで求められたのは、陸軍を刺激せずに、しかし終戦への道を模索できる人物であった。海軍の重鎮でありながら政党色を持たず、天皇からの深い信任を得ており、その人格が陸海軍双方から敬意を受けている──これらの条件をすべて満たす人物は、鈴木以外にはいなかった。
第4章で述べた御輿論の枠組みで見るならば、鈴木の首相就任は、終戦という単一の使命のために担ぎ上げられた御輿であった。だが、この御輿は、他の3人の首相の場合とは異なる性格を持っていた。担ぎ手たちが担ぎ上げた後、その御輿は自らの意志で動き始めるのである。
(2)天皇との関係性
鈴木貫太郎と昭和天皇との関係を考える上で、まず二人の年齢差に触れておきたい。前編の「はじめに」で述べたように、開戦時、天皇40歳、鈴木73歳であり、親子ほどの年齢差があった。
そして、この年齢差の意味を理解するには、昭和天皇の個人史における一つの与件に触れておく必要がある。父・大正天皇は1926年12月、47歳で崩御した。しかも晩年は病により政務執行が困難であり、1921年11月から皇太子であった昭和天皇が既に摂政を務めていた。父の病と衰弱を側で見続け、25歳で正式に即位した昭和天皇にとって、父から子への通常の意味での継承という経験は与えられなかった。
鈴木貫太郎が侍従長に就任したのは1929年、昭和天皇が28歳、鈴木が61歳のときであった。即位から間もない若き天皇の日常の側に、明治海軍の系譜を持つ老武人が配された。以後、鈴木は1936年の二・二六事件で襲撃を受けて辞任するまで、7年間にわたり天皇の起居に付き従うことになる。
侍従長という職務は、天皇の日常の起居、御学問、御執務のすべての場面に付き従うものである。この7年間、天皇は日常的に鈴木の姿を見、その声を聞き、その助言を受けていた。年齢差、職務の性質、そして父性の不在という与件が重なり合って、鈴木は天皇にとって単なる侍従長を超えた位置を占めることになった。
1936年2月26日、二・二六事件で鈴木は襲撃を受け、瀕死の重傷を負う。夫人タカの機転──「とどめを撃たないでください」の懇願で銃剣を止めた逸話──によって、鈴木は辛うじて生還する。この事件で昭和天皇は、自ら近衛師団を率いてでも反乱を鎮圧すると宣言するほどの激しい感情を示した。天皇の激怒の背景には、制度上の憤りだけではない、若き日々に日常を共にした老侍従長を襲われた個人的な衝撃があったのではないだろうか。
そして9年の空白を経て、1945年4月、鈴木は首相として再び天皇の前に立つ。この再会は、単なる政治的な人事ではなく、国家の破局の瞬間に、若き日々の日常が戻ってきたという意味を持っていた。後に述べる聖断が、この背景の上に可能になったことは、記憶されてよい。
(3)開戦立場
鈴木は1940年に枢密院の副議長に就任し、1944年には同院議長となった。したがって、対米開戦時には副議長として、終戦直前には議長として、いずれも枢密院の中枢にあって国政に関与していた。
対米開戦の御前会議に、鈴木は天皇の最高諮問機関の副議長として列席し、意見を述べる立場にあった。しかし鈴木自身は、対米戦への勝算に強い懐疑を抱いていた。連合艦隊司令長官・山本五十六が近衛文麿に「開戦となれば半年や一年は暴れてみせるが、その先は全く自信がない」と語ったとされる海軍首脳の認識を、鈴木もまた共有していたと考えられる。
しかし枢密院の副議長という立場は、政府の決定に対して形式的な諮問を行う役職であり、開戦の意思決定を主導するものではなかった。この時、鈴木の懐疑は表立って表明されることなく、開戦は決定された。
海軍出身者の中に、対米戦への冷静な認識が広く共有されていたことは、後の終戦工作を理解する上で重要な伏線となる。開戦を主導した陸軍と、その帰結を早くから見通していた海軍──この二つの組織の対照的な立場が、鈴木内閣における終戦工作の陣容として、後に具体的な形をとることになる。
(4)終戦立場
首相就任と同時に、鈴木は終戦工作に着手する。閣僚人事において、海軍大臣に米内光政を留任させたことは決定的であった。米内は戦前に首相を務めた海軍の重鎮であり、小磯内閣以来、海相として終戦を模索し続けてきた人物であった。海軍次官には井上成美が留任し、陰から岡田啓介ら海軍系の重臣たちが鈴木内閣を支えることになる。
そして陸軍大臣には阿南惟幾が就任した。阿南は本土決戦派の急先鋒であり、しかも一方で、侍従武官時代から、元侍従長であった鈴木を「親父」と呼んで慕う人物であった。この人選もまた、鈴木の人柄なくしては成立しえないものであった。
1945年8月、ポツダム宣言を巡って御前会議は紛糾した。米内・東郷茂徳外相らは受諾を主張し、阿南陸相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令部総長は本土決戦を主張して譲らない。閣議も御前会議も、三対三の膠着状態に陥った。
このとき鈴木は、前例のない選択に踏み切った。天皇に自ら聖断を仰いだのである。1945年8月10日未明、そして8月14日、二度にわたる御前会議で、天皇は自らの言葉で終戦の意思を表明した。
第4章で述べたように、天皇は担がれる存在であると同時に、局面によっては担ぎ手を動かす主体でもあった。この聖断の場面は、まさに天皇が担ぎ手を動かした瞬間であった。そしてそれを可能にしたのは、聖断を仰ぐという前例のない選択に踏み切った鈴木の判断であり、その判断を天皇が受け入れ得たのは、若き日々の日常を共にした老侍従長への信頼があったからである。
聖断の後、阿南惟幾は鈴木首相のもとを訪れた。深夜に近い時刻であった。二人は言葉少なに向き合い、そして阿南は辞去する。鈴木は阿南の覚悟を察していた。だが咎めることも、肯定することもなかった。ただ黙って送り出したのである。
8月15日未明、阿南は割腹自決を遂げた。介錯は拒み、自ら死に至ったと伝えられる。同日未明、宮城事件が起こる。玉音放送を阻止しようとした一部の陸軍将校が近衛師団を動かし、鈴木の官邸にも襲撃部隊が向かった。鈴木は間一髪で難を逃れる。二・二六事件から9年後、鈴木は再び軍の暴力の標的となり、再び生き延びた。
そして正午、玉音放送によって終戦は国民に告げられた。鈴木内閣が発足してから、133日が経っていた。
(5)裁判処分と戦後の身の処し方
終戦の翌日、鈴木内閣は総辞職する。任務を果たしたのである。
戦後、鈴木はA級戦犯としての訴追を免れた。同じく訴追を免れた岡田啓介、米内光政、井上成美──終戦工作を担った海軍系の人物たちは、いずれも法廷に立つことなく戦後を過ごすことになる。連合国側もまた、終戦を実現した者たちに戦争責任を問うことはできなかった。
鈴木は郷里の千葉県関宿に戻り、静かな戦後を過ごした。1948年4月、80歳で病没する。近衛文麿の服毒自決から2年半後、東條英機の絞首刑執行の8ヶ月前のことであった。

ネルソン・アトキンス美術館
7.おわりに──担がれた者たちの肖像
戦時の4人の首相の生涯を辿り終えて、改めて浮かび上がってくるものがある。
4人の戦後の姿は、それぞれ異なる。近衛は自ら生を絶ち、東條は法によって生を絶たれ、小磯は獄中で生を終え、鈴木は自然な生を全うした。この4つの在り方は、戦時日本の政治構造の縮図として、それぞれの在任期の意味を戦後の姿によって照らし返している。
ここで、第4章で述べた御輿という《可逆的構造》の枠組みで、4人の首相を改めて位置づけ直してみよう。
近衛文麿は華族という属性によって担がれ、その属性の重さから自由になれず、時代を制御できなかった。宮中・元老・軍部・世論という多方向からの期待を一身に集めながら、その期待の重層性そのものが近衛を身動きできなくした。
東條英機は自らの意志で担ぎ手たろうとし、責任の集中を招いて破綻した。首相・陸相・内相の兼任という前例のない体制は、担がれる者の位置を拒み、自ら担ぎ手となろうとする試みであった。その試みは《可逆的構造》そのものを一元的な指導へと置き換えようとする挑戦であったが、サイパン陥落によって挫折した。
小磯國昭は妥協の産物として担がれ、担ぎ手を統率する力を持たなかった。しかし彼の退場は、鈴木内閣への政権継承という形で、終戦への道を実質的に開いた。担がれた御輿の退場が、次の御輿を選び直す余地を生んだのである。
そして鈴木貫太郎は、属性でも意志でも妥協でもなく、人柄という個の資質によって首相となり、その位置を機能させた。天皇が父性の不在という与件を抱えて仰いだ老侍従長。阿南が「親父」と呼んで慕った先達。岡田・米内・井上といった海軍の同僚や後輩たちが敬意を寄せた重鎮。多方向的な信頼の網の目の中心に、鈴木という個の存在があった。
こうして4人を並べてみると、一つの発見が浮かび上がってくる。終戦を可能にした決定的条件の一つは、制度でも戦略でもなく、鈴木貫太郎という個人の人柄であった、ということである。
もちろん、これは単なる人格礼賛ではない。鈴木の人柄とは、海軍系の岡田啓介、米内光政、井上成美らからの信頼だけでなく、陸軍の阿南惟幾からの信頼、さらには昭和天皇からの深い信任をも結び合わせるだけの、きわめて実際的な政治的資質であった。
天皇の場合には、大正天皇の早逝と摂政就任という個人史が、鈴木への信頼に独特の陰影を与えていた。阿南の場合には、そこまで踏み込んで語ることはできないにしても、鈴木を「親父」と呼んだという事実に、単なる軍歴上の上下関係を超えた親密さを見ることはできる。
その意味で、鈴木の人柄は私的な美徳にとどまらなかった。それは、宮中・海軍・陸軍という、本来なら容易に交わらない三つの領域のあいだに、最低限の信頼を成立させるための政治的条件でもあった。この人的構造なしに、聖断も、阿南の自決によって辛うじて保たれた陸軍の統制も、玉音放送も、同じ形では実現しなかったのではないか。
御輿という《可逆的構造》は、制度としては戦前・戦中の日本に確かに存在していた。しかしその構造が、実際に国家の破局を回避する方向に機能するためには、その中心に立つ人物の人柄が決定的な役割を果たしたのである。
4人の首相のうち、この稀有な位置に立ち得たのは、鈴木貫太郎ただ一人であった。他の3人は、それぞれの資質と時代の制約の中で、担がれる者としての役割を果たしきれなかった。そのことを、彼らの失敗として断罪することは容易い。しかし本稿が第4章で述べたように、担ぐ者と担がれる者とは、対立する関係ではなく、相互に補完し合う関係である。4人の首相の生涯は、戦時日本という時代が生み出した担ぎ手たちと、その担ぎ手たちが選んだ御輿とが織り成した、戦時日本に特有の政治の軌跡として、読まれるべきものなのだろう。
なお、末尾には前編の冒頭に掲げた「戦時主要指導者一覧表」を再掲した。本稿では主として、天皇と4人の戦時首相、そして陸軍・海軍・華族・官僚・重臣との関係を中心に論じたため、表中にグレーで示した民間右翼の系統については十分に触れることができなかった。この問題については、戦前・戦中から戦後に至る連続性を考える上でも重要であり、別の機会に改めて考察することになるかもしれない。

(開戦立場・終戦立場・裁判処分・戦後動向)
冒頭画像=1945年6月11日 [簿冊]「八十七回帝国議会会期延長ノ件・御署名原本・昭和二十年・詔書六月一一日」(御28595100)、国立公文書館デジタルアーカイブより
https://www.digital.archives.go.jp/file/140051(参照 2026-07-06)(公開画像にモノクロ反転処理を行った)
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