【2】超えられても、残る味「カフェBranch tip」
第2話
オムライスの記憶
「その味は、もうレシピじゃなかった。」
——そう思った日のことを、
タケシは、ふっと思い出していた。
まだこの店、
「カフェBranch tip」を始める前の事だった。
今みたいに、
毎日カフェのキッチンに立つわけでもなく、
料理を“仕事”にするかどうかも、はっきり決めていなかった頃だ。
だから時間は、今より少しだけ曖昧で、
どこに向かっているのかも、なんとなくぼんやりしていた。
そんな時期に、タケシはある店に通っていた。
駅から少し離れた場所。
目立つ看板もなくて、気づかない人は通り過ぎるような店。
扉を開けると、小さなベルが鳴る。
カラン、と軽い音。
中に入ると、少しだけ古い木の匂いと、
油の落ち着いた香りが混ざっている。
席は多くない。
カウンターがいくつかと、小さなテーブルがひとつ。
広くはないけど、狭いとも感じない。
なぜか、ちょうどいい距離感の店だった。
そこにいたのが、谷口さんだった。
「また来たの?」
初めてでもないのに、毎回そう言われる。
「なんか、ここ落ち着くんですよね」
タケシは、いつも同じように答える。
「それ、褒めてるのタケシ君?」
「たぶん。そうです。」
「たぶんかよ」
軽く笑いながら、谷口さんはフライパンに火を入れる。
そのやり取りも、もう何度目か分からない。
特別な会話じゃない。
でも、それがちょうどよかった。
メニューは一応あるけど、
ほとんど見たことはない。
座れば、自然と頼むものが決まっていた。
「いつもの?」
「はい」
それだけで通じる。
オムライス。
見た目は、本当に普通だった。
ふわっとした卵に、ケチャップライス。
特別な飾りもないし、流行りの感じでもない。
どこにでもありそうな、あたりまえの一皿。
でも——
それを口に入れた瞬間、
毎回同じことを思う。
「……なんだこれ」
うまい、とかじゃない。
もちろん、うまいのは間違いない。
でも、それだけじゃ足りない。
言葉にしようとすると、少しだけズレ感覚になる。
懐かしいわけでもない。
思い出がある味でもない。
なのに、どこか“戻ってきた”感じがする味。
体のどこかが、勝手にほどけるような…。
そんな感覚。
そんな事を毎回考えながら食べるから、たまに、スプーンが止まる。
そして、少し考える。
でも、結局分からないまま、また食べる。
その繰り返しだった。
ある日、タケシは聞いた。
「これ、なんか特別なことしてます?」
少しだけ間をおいて、谷口さんは答える。
「してないよ」
「いや、絶対なんかあるでしょ」
タケシは笑いながら言う。
「こんなの、普通じゃ出ないですよ」
「うーん」
谷口さんは少しだけ考える。
フライパンに油をひきながら、
ぽつりと。
「これね、うちの奥さんの隠し味が入ったやつなんだな。」
「奥さんのですか?」
少し意外だった。
「昔、よく一緒に作ってくれてたオムライスだから」
その言い方は、特別でもなんでもない。
ただ事実を言っているだけのトーンだった。
「それを、今は一人でちょっと真似してるだけかな。」
「ちょっと、でこの味になるんですか」
タケシは素直に驚く。
谷口さんは、小さく笑いながら、
「ならないよ。」
「え?」
「ならないから、こうなってるんだよ、タケシ君」
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
タケシは黙り込んだ。
フライパンの中で、卵が広がる。
火加減は強すぎず、弱すぎず。
手の動きも、無理がない。
「同じように作っても、同じにはならないよね。」
「……はい。そうですよね。」
「でもね。」
谷口さんは、火を止める。
ゆっくりと、皿にのせる。
形を整えすぎない。
少しだけ崩れている部分も、そのまま出している。
「昔の味をそのまま出すのは、違う気がしたんだよ。」
「違うって何でですか?」
「そうだね。」
少しだけ間があいた。
「変わらずそのまま出したら、
あの時の奥さんと一緒に作っていた時の味になるでしょ。
おそらくだけどね。」
「……はい。多分そうなると思います。」
「でも、それは、なんか違う。」
静かな言い方だった。
でも、はっきりしていた。
「だから、自分の色を混ぜたんだよ。」
「自分の分ですか?」
「まぁ、時間とかさ、」
少し考えるように言葉を選びながら、
「生活とか、そういうの、かな。」
特別な話をしている感じじゃない。
むしろ、当たり前のことを言っているような口調だった。
「勝手に混ざるでしょ、そういうのって」
出来上がったオムライスを、タケシの前に置く。

「食べてみ」
湯気が、ゆっくり上がる。
さっきまでと同じはずの一皿。
でも、その日は、少しだけ違って見えた。
スプーンを入れる。
卵がやわらかく割れる。
ひと口、食べる。
——やっぱり、これだ。
でも、さっきまでとは少しだけ違う。
何が違うのかは、やっぱり分からない。
ただ、さっきの話が、どこかに残っている。
「……やっぱり、これだ」
タケシが言うと、谷口さんは小さくうなずく。
「でしょ」
「でもこれ、もう真似できないですよね」
タケシは正直に言う。
谷口さんは、あっさり答えた。
「うん、できない」
「ですよね」
少し笑っている。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
その質問は、半分冗談みたいなものだった。
でも、谷口さんは少しだけ真面目な顔になる。
「そのまま作るな。」
「え?」
「自分のやつ、入れろ。」
短い言葉だった。
でも...。
やけに心に残った。
「味じゃなくていい」
「……はい」
「なんでもいいから、お前の時間、混ぜろ」
その言い方は、押しつける感じでもなく、
教える感じでもなかった。
ただ、置いていくような言葉だった。
タケシは、すぐには答えられなかった。
分かったような気もするし、
全然分かっていない気もする。
でも、その言葉だけは、なぜか頭に残った。
帰り道でも、
家に帰ってからも。
ふとしたときに、思い出す。
「時間を混ぜる」
意味は曖昧なままなのに、
言葉だけが残る。
あの日から、少しだけ変わった。
料理の見方が。
うまく作ることよりも、
何を混ぜているかを考えるようになった。
レシピは覚えられる。
手順も、繰り返せば同じようにできる。
でも——
「同じにはならない」
そんな、
谷口さんの言葉が、ふっとよみがえった。
「店長?」
ユイの声で、現実に戻った。
気づけば、フライパンの前に立っていた。
「ぼーっとしてました?」
「……ちょっとな」
「珍しいですね」
「そうか?」
「はい。なんか今日、静かです」
タケシは少しだけ笑う。
「いつも静かだろ」
「いや、なんか違う静かさです」
その言葉が、少しだけ引っかかる。
カウンターの向こう。
コズエは相変わらず、
いつものようにスマホを見ている。
さっきのだし巻きの皿は、もう空になっていた。
でも、
何も残っていないはずなのに、
どこかにまだ“残っている”感じがした。
タケシは卵を手に取る。
軽く振る。
コン、と割る。
同じように混ぜて、流して、巻く。
手順は変わらない。
でも、どこかで思う。
(ちゃんと、入ってるか?)
あのとき言われたものが。
自分の時間が。
今のこのだし巻きに。
ジュウ…と音がする。
静かな朝の中で、
その音だけが、少しだけ深く響いた。
その日から、
料理は“作るもの”じゃなくなった。
★続きはこちらです。
★谷口さんとの出会いのオムライスの物語です。
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