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杉山神社巡り 大岡川紀行(2)

前回からの続きです。

今回は、大岡川流域の杉山神社を訪ねます。


三殿台遺跡から出発です。

標高55mから標高3mまで、長~い坂道を一気に下ります。

途中、ランドマークタワーが見える景色の良い坂があった(のだけど…下校途中のお子たちが歩いていたので撮影を自粛)。所々、旧道っぽい狭い道があり、味わい深い散歩道でした。


蒔田杉山神社

県道21号(横浜鎌倉線)に出て、地下鉄ブルーラインの蒔田駅近くを歩いていると、突然社号碑が現れた。

すごい!社務所がある
御神木は松の木…(杉が御神木の杉山神社の方が珍しいかも)
コンクリート造の社殿。朱く塗られた柱が鮮やか

駅近の大通り沿いだからか、他の杉山神社に比べ栄えている感が強い!

ご由緒

承元3年(西暦1209年)源頼朝の三男 貞暁法印(俗に鎌倉法印という)が、鎌倉幕府の鬼門鎮護のため伊豆国土肥の杉山から勧請し市杵島姫命を鎮座創建した。創建された往時の当地は、山の根が海中に突出したその洲先であり、当時は風向うるわしい海浜であった。

主祭神

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
天照皇大神(あまてらしますすめおおかみ)
宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)

相殿神の木花開耶姫命(このはなさくやひめ)は、近年の合祀と見られる

なんだか…今までの杉山神社にないご祭神パターン。

市杵島姫命
アマテラスの子であり、宗像三女神の一柱。宗像大社や宇佐神社でお祀りされている。絶世の美女で、商売繁盛、芸能、金運、勝負、豊漁、交通安全、五穀豊穣、海の神として信仰されている何ともありがたい神様だ。

その神様が、なんで杉山神社の主祭神になったのだろう?
調べてみたら、どうやら西伊豆の土肥(とい)ではなく、相模国の土肥(どい)から勧請したとみるのが正しいようだ。

湯河原町の土肥は以前訪れたことがある。そう言えば、「しとどの窟」は「土肥椙山巌窟」が正式名称だった!

源頼朝や土肥実平ら縁の相模国土肥郷杉山に、市杵島姫命(弁財天)を祀る七杉山神社という社があり、鎌倉の鬼門鎮護を目的に7つの祠を建立したといわれています。関東には杉山神社が多くみられますが、そのルーツとして考える見方もあります。
治承4(1180)年8月17日、北條時政や土肥実平らの助力を得てついに挙兵した源頼朝は、伊豆国目代山木兼隆を破って初戦を勝利で飾ったものの、石橋山合戦で大庭景親軍に大敗を喫し、主従わずか7名で土肥郷杉山の山中に逃れ、領地とする土肥実平・土肥遠平父子の案内で洞窟や大木の洞に隠れ、敵の追手をかわしました(謡曲『七騎落』の伝説)。

ウェブサイト「いざ鎌倉」 より

鎌倉の鬼門にあたる杉山の地に、七騎(=頼朝本人+忠臣六騎)に見立てた7つの祠があったらしい。上記サイトでは『七杉山神社=杉山神社ルーツ』説を挙げているが、杉山神社は延喜式内社(平安時代)なので、その歴史は七杉山神社よりも古い。


近隣には市杵島姫をまつる社が多い?
かつて、近隣の岡村(三殿台遺跡を挟んで反対側)にも杉山神社があったが、明治時代に合祀。合祀先の岡村天満宮に、市杵島姫命と天照大御神が御祭神として含まれており、恐らく蒔田社と同じ流れで勧請されたものと考えられる。

「岡村の天神さま」として、土地の人々から親しまれてきました岡村天満宮の創立年代は不詳ですが、縁起によると鎌倉時代の建久年間(1190〜1198)に源頼朝の家臣が京都の北野天満宮の分霊をいただいて、この地に社を創建したといいます。明治43年、杉山神社と大神宮を合祀して、杉山天満宮と称するようになりましたが、昭和5年、永らく親しまれてきた町名をとって、岡村天満宮と改称しました。

散歩日記 岡村天満宮 

また、はまれぽさんによると、市杵島姫の本地仏・弁財天を祀る神社が大岡川河口域に複数あると言う。

(最近、はまれぽさんの記事が、ブラウザのセキュリティに引っかかって見れないことが多いのだけど…ウチだけなのか?)


宇賀御魂命
保食神(うけもちのかみ=食べ物の神)で、特に稲霊を表しているという。伏見稲荷大社の主祭神であり、お稲荷さんとして広く信仰されている。だから、神社も朱かったのかな?

一体どういう経緯でこれらの神々が祀られたのかは不明だけど、「絶世の美女」と「天上の最高神」と「食べ物の女神様」が一緒になったら、ご利益最高の神社になることは間違いない。


大岡川

今更ですが、大岡川紀行なので大岡川に触れておきます。

ランドマークタワーが見える

大岡川は、神奈川県横浜市磯子区氷取沢町(氷取沢市民の森)に源を発し、横浜港に注ぐ二級河川。上流域の名称は笹下川。港南区港南中央通付近で日野川と合流し大岡川となる。流路延長:約12km(うち、二級河川指定部分約8.5km)。江戸時代、河口の吉田新田の干拓事業による埋め立てが行われるまでは、下流域の大半が大岡湾(蒔田湾)と呼ばれる入り江だった。

Wikipedia 大岡川

以前、氷取沢市民の森を散策したことがあります。高台のニュータウン住宅街の中、その一角だけが自然豊かな森林地帯で、横浜市内にありながらなかなかの源流感がありました。


大岡川流域の地形

大岡川水系河川整備計画 H27
https://www.pref.kanagawa.jp/documents/10592/768793.pdf

円海山(標高153m)の中腹から湧き出で、わずか12kmで海に到達する大岡川。断面図を見ると、人口の多い中流区間の上大岡でもかなりの河床勾配です。源流付近の標高を確認すべく、自分で断面図を作ってみました。

上流と下流だけで、中流がない感じ

上中流は急流で、下流域はひたすら真っ平。大岡川と中村川に挟まれた区域は、江戸時代初めまで「洲乾(しゅうかん)の湊」と呼ばれる遠浅の入江だったそうです。


大岡川と歴史

三殿台遺跡にみられるように、大岡川流域には先史時代の貝塚や集落址が存在しました。その後の大岡川流域の歴史はどのようなものだったのでしょう。

鎌倉街道下ノ道
大岡川の中流域は、鎌倉時代の街道「下ノ道」が並走しています。

舞岡→日限→最戸(上大岡)→弘明寺→井土ヶ谷→ 保土ヶ谷→帷子

(下ノ道のルートは諸説あります)

湾岸沿いの道は神奈川湊や小机城へのアクセスが良く、鎌倉時代以降も重要な街道だったと考えられます。

横浜市歴史博物館ニュース13 https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/files/6214/7485/3375/no.13.pdf


江戸時代から続く低地開拓
近世以降は下流と河口域の開発が盛んになりました。

大岡川と中村川に囲まれた地域は、北側に野毛山、南側に山手の標高40~50m程度の洪積台地に挟まれた谷戸状の地形。縄文海進によって溺れ谷となった入江となっていた。湾口に砂洲が伸びた場所に村落が形成され(横浜村や野毛村など)、少ない田畑を耕作したり、入江に塩田を開いて生活していた。
この入海が埋立てに適していることに目をつけた江戸の材木商吉田勘兵衛は、明暦2年(1656年)に江戸幕府から埋立て・新田開発の許可を得て開発を行った。
海水の流入を防ぐ潮除堤(しおよけつづみ)を現在の関内駅付近に築いたが、荒天により崩壊流出。波で崩壊しない丈夫な石の堤が必要だと考え、万治2年(1659年)に工事を再開。潮除堤の石垣は安房と伊豆から運ばれた。寛文7年(1667年)に完成し、新田を野毛新田と名付けた。
吉田勘兵衛はこの地に家を建て住み、その子孫11代まで住み続ける。徳川家綱は寛文9年(1669年)に功績を称え、新田名を吉田新田と改称し、吉田に苗字帯刀を許した。

Wikipedia吉田新田 より要約

はまっ子なら小学校で習う「吉田新田」です。


明治以降も運河が整備され、舟運で栄えました。これがヨコハマの原型となったといえます。

横浜市大岡川・中村川下流域における運河の発達と衰退 
田邉・古谷 ランドスケープ研究77(5)2014


まとめると…
三殿台遺跡が集落として栄えた先史時代、主要官道が通る中世、低地開発で賑わった近世、港町ヨコハマとして発展を遂げた近代以降と、大岡川は、常に時代の先端を行く河川だったのかもしれない。


水害と大岡川

その一方で、この地域もまた、水害に悩まされた地域でした。

日野川・笹下川が合流する大岡川は、当時「九十九曲り」と云われる程、蛇行し氾濫も多いため、過去幾度となく洪水を起こして災害をもたらしたといわれます。また江戸時代の富士山の宝永噴火の火山灰による堆積で、大岡川は各所でせき止められ、水が田畑へ流出して周囲の村々に甚大な被害がありました。

昭和40年代に入ってから洋光台、港南台などの大規模な宅地開発が急速に進み、著しく流出量が増大して浸水被害が多発。このため、治水対策により大岡川の水を直接根岸湾に放流する大岡川分水路が建設され、完成後は分水路より下流での大きな水害は発生しなくなりました。

大岡川分水路
分水路は総延長3,637m、毎秒415㎥の分水量を有し、2本のトンネル(日野川トンネル:延長1,269m内径8.9m、大岡川トンネル:延長1,298m内径10.6m)と開水路並びに取水庭により構成されています。

大岡川分水路 快適で安全な街づくり 神奈川県https://www.pref.kanagawa.jp/documents/30446/856212.pdf

このイラストがとっても好き。大岡川の河川環境、水上都市横浜の利便性が一目で分かります。

【ご参考】
川のはなし 第九稿 大岡川(大岡川分水路と河川空間の利用)
横浜市道路局河川企画課
大岡川河川再生計画のあらまし 神奈川県


太田杉山神社

先に進みましょう。大岡川を渡って横浜商業高校の脇を進むと…

また高台だ。嫌な予感が…

大通りを渡ったその先に、鳥居があった!

あそこが社殿か。よかった…
安産祈願の幟が多数
こちらの社は断崖を背にしている(杉山神社あるある)
扁額をはっきり写したかったけど…お宮参りの方々が見えたので
左側の狛犬は玉を
右側の狛犬は仔犬に乳を与えている

この日も2組のご家族がお宮参りにいらしてた。そうか!ここは水天宮も合祀されているんだっけ。私も第一子身籠り中に、日本橋の水天宮様に腹帯を貰いに行ったことがある。


御由緒

「水天宮」は横浜が吉田新田開発の頃、度々水害に悩まされた為、貞享年間(1684年~1687年)に久留米より現在の長者町の辺りに水天宮の御分霊を勧請し、水害の守護神として祀られていました。
明治の初めに社殿を建立して再興すると、安産・子育ての守護神として人々の崇敬を集める。しかし、昭和20年横浜大空襲により全焼。境内地も進駐軍によって接収された。その後、杉山神社の氏子内の屋敷に仮社殿を造営し、杉山神社の神官により祭事を行う。平成10年杉山神社に相殿神として迎えられ、合祀。

「杉山神社」は旧太田村の総鎮守として祀られる。創始は不明だが、日本武尊の東征の功績を称え奉祀されたと思われる。永和2年(1376年)に社殿を再建した棟札等が遺されていたが、横浜大空襲により社殿(文化7年造)や社務所、境内の樹木に至るまで全てを焼失。まだバラックが建ち並ぶ昭和33年、氏子らの尽力により社殿の造営が行われ、戦災復興の希望として完成する。

下記HPより要約

なるほど、そのような理由で水天宮が合祀されていたのか。
昔の杉山神社はどんな感じだったのだろう?

杉山明神社
除地、五間に九間、往還の西山の麓にあり。村の鎮守なり。前に鳥居を建、本社五尺に四尺五寸、上屋四間に三間、巽向。神体は束帯の形にて長五寸許、本地は薬師なり。長一尺二寸、例祭九月十二日。按するに都筑郡吉田村杉山神社は「延喜式神名帳」に載る所なりと云。近郷同祭神の社多し。皆彼神を勧請せしなるべし。村内大光院持、本社の左右に天神稲荷の二社あり。又社殿の山に太神宮金毘羅の二宇あり。

新編武蔵風土記稿 太田村より

この風土記稿の記述では、筆者は『吉田村の杉山神社が延喜式内社』と認識しているようだ。当時、吉田村の杉山神社(新吉田社・港北区)が有力論社であることが、編纂者の間で共有されていたのだろうか?

しかし、新吉田社の御祭神は五十猛命で、太田社のご祭神は日本武尊
勧請元としては、同じ日本武尊を祀る星川社の方が説得力があるかも。


立地

昔の地形を見るために明示迅速測図で確認。

後ろが標高50mの急峻な崖であったことが分かった

今昔マップも見てみよう。

大岡川を挟んで立っている

太田社も蒔田社も、旧鎌倉街道にほど近い場所に立っていた。


今や水天宮の方が…

太田杉山神社のHPを見ると、表示順は水天宮の方が先で、URLも「suitengu」となっている。平成10年って割と近年の合祀だけど、現在では子授け・安産の神様である水天宮の方が有名になって、元々あった杉山神社の影が薄い。
(軒下を貸して母屋…かも)

水天宮の御祭神のことを全く知らなかったのだけど、安徳天皇、建礼門院、二位の尼(壇ノ浦の戦いで敗れて入水した方々)が含まれていたのですね。あの悲劇から、子どもを守護する神様になられたのか…(涙)

もう、ケチなことを言うのはやめよう。
水天宮が合祀されたから、杉山神社も一緒に栄えているのだもの。

子どもは世の宝。きっと杉山神社の神様だって、よく浮かぶ杉の舟にお子たちを乗せて、ずっとずっとお守りしてくれるはず!


次回は山を越えて反対側へ!