大原隧道から帷子町杉山神社へ 大岡川紀行(3)
前回からの続き
次の目的地へ向かうにあたり、敢えて太田杉山神社の裏山を登ろうと思った。

南太田二丁目フレンド公園


ここは首都高狩場線の高架下の空間を活かした公園。そう言えば、帷子川の川島町にも、高架下に素敵な公園があった。

獅子頭共用栓
公園とは反対側のアーチの下に、クラッシックな構造物が…


こちらは獅子頭共用栓という水道施設らしい。
大原隧道
さらに坂を登っていくと、正面に突然、異世界へと誘いそうなトンネルが!


あっ、土木遺産だ!でも「横浜水道に関わる」って何だろう?


しかも結構長い!



この大原隧道は、昭和3年(1928)関東大震災の復興事業の一環として水道本管を敷設するためのトンネルとして完成しました。
延長は254メートル、高さ3.62メートル、幅2.44メートルの馬蹄型トンネルで200分の1の勾配、改修工事により高さと幅に若干の変化があるものの現在もトンネル内部には蒔田・磯子方面への水道本管(口径610mm)が埋設されています。
このトンネルの大きな特色は、坑門に紫褐色の焼過煉瓦を一段に長手面と小口面とを交互にみせるフランス積とし、これと対照的に力強いアクセントとして花崗岩を門柱風に配置するなどデザインに工夫がなされ、独特な風格を持つトンネル坑門となっていることです。
大原隧道と同様にフランス積の焼過煉瓦と花崗岩で装飾されている保土ヶ谷区岩井町の東隧道も、同じ用途で同じ頃に作られた兄弟トンネルです。共に横浜の代表的な土木遺産の一つとして評価されているトンネル構造物となっています。
なるほど、さっきの獅子頭共同栓も水道絡みだった。
wikipedia によると、1927年6月に着工、翌年7月に完成。総工費は当時の金額で72,564円40銭とのこと。現在だといくらなのだろう?
企業物価指数(2024年は1927年の約820倍)から換算すると6千万円弱となるが、これでは安すぎる。そこで「昭和元年の1円は今の4000円」という説から換算すると、2億9千万円ぐらいとなった(が、これでも安いかも知れない)。
フランス積みとはレンガの小口と長手が交互に並ぶ、外観が美しい積み方。紫褐色の焼過(やきすぎ)煉瓦が重厚感を演出。昔の焼過煉瓦は炉内の熱源近くの高温になる所で焼成され、赤煉瓦よりも硬く焼き締まり、吸水性が低いため耐久性も高いとのこと。
【ご参考】
第四十章 普通煉瓦 土木学会
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/pdf/03260/03260_06.pdf

清水ヶ丘公園はゆずファンの聖地らしく、見晴の良い展望台もあったらしい。
東隧道
公園を出て真っ直ぐ歩いていくと、再びトンネルが!



東隧道は、大原隧道から約600m北の保土ケ谷区岩井町にあるトンネル。大原隧道と同様水道管敷設のために作られ、似たデザインが採られている。1930年に完成し、現在では保土ケ谷駅と岩井町南部・清水ヶ丘の住宅街や聖隷横浜病院とを結ぶ生活道路となっている。延長168.7m、高さ6.3m、幅5.7mで自動車の通行が可能だが、狭隘で歩道もないため、走行・歩行には注意を要する。鉄道のトンネルの様に所々に待避所が設けられている。特に、本数は少ないが路線バス経路でもあるため、この隧道を大型路線バスが走行している。大原隧道と同時に横浜市認定歴史的建造物・土木学会選奨土木遺産に選定された
ヨコハマの近代水道
外国人居留地のコレラ防止など観点から、駐日英国公使らが神奈川県令に上水道整備を要望し、日本最初の近代水道が横浜に敷設される。神奈川県津久井郡三井村(現・津久井湖)で取水した水を、48km先の野毛山浄水場(標高50.6m)に送り居留地に上水を給水。野毛山浄水場は関東大震災で被災し、代わりに旧野毛山配水池(現存)が完成した(昭和5年)。
大原隧道は水道施設の震災復興事業の一環として、市街地が拡大した横浜南部方面への送水のために築かれる。管理用通路として人が通れるようになっており、後に生活道路に転用。その北側には、同じく水道管用の東隧道(昭和5年完成)があり、デザインも似ているので兄弟トンネルと呼ばれている。
脅威の断崖
東隧道を抜けて坂道をまっすぐ下っていくと、そこは保土ヶ谷駅でした。
東海道線に並走する国道1号を横浜方面へと進みます。(ここからは帷子川支流の今井川紀行と言うべきか…)
その途中、安楽寺から見えた景色が脅威!

こういう時は、地理院地図の断面図機能を使って確認。

高さ40mの下末吉台地の海食崖。こんな崖下に鉄道を敷設したんだ…。
(斜面崩壊は、高さの2倍の範囲まで崩土が到達すると言う)
東海道線に乗っていても、国道1号を走行していても、全然気が付かなかった。擁壁で覆われているけど、これまでよく崩れなかったなぁ。
帷子町杉山神社
そのすぐ先に、真っ白な鳥居が目に入ってきた。



これはもう、崖を祀っているといっても過言ではない(太田杉山神社と同じく)






御由緒など
杉山社
宿の東の方下岩間町の内にあり。海道よりは二丁ばかり巽の方にあたれり。古社なれば當社もかの神社*を勸請せしなるべし。本地は不動の坐像にして長1尺ばかりなりと云。本社八尺四方にして一間半に三間の上屋あり、前に鳥居をたつ、其前に石階あり、例祭は年々九月二十八日なり、当所圓福寺持。
末社小机稲荷社、本社の左の方あり。
* 延喜式内社の杉山神社のこと
江戸時代は帷子町(町域が広かった)だったので帷子町杉山神社と称されるが、現在は西久保町にあるので西久保杉山神社とも呼ばれている。
風土記稿によると、小田原衆所領役帳に小机領の小帷(呼び方不明)と記載があり、太田道灌の子孫である太田新六郎(康資)が知行していたとある。この地域も小机と縁が深そう。
また、神奈川県神社誌に「古は美須神社と称へしを後、地頭の名字杉山を冠して社号を改めたり、と伝える」との記述があるそうだ。
美須神社を調べてみたが情報が無い。美しい髭を表す「びしゅ」と呼ぶのだろうか?「美須豪眉」は、美しい髭と太い眉をもつたくましい男性を言い表す言葉。「スサノオの髭=杉」から「杉山」に繋がったのか?
さらに、自分の名字を社号にする地頭って、いつの時代の地頭だろう?(江戸時代、街道沿いは幕府直轄地だし、地頭=旗本にそんな権力は無いと思うのだけど)
御祭神が五十猛命なので、鶴見川水系の同じ系統の杉山神社を勧請したんだと思いますが…
神社の立地
明治時代の地図を見ると、昔の東海道は帷子川支流の今井川を渡った反対側にあった。と言うことは、人家のない右岸に鉄道を通したのか。でも川沿いは地盤が軟弱だから、仕方なく山沿いのルートを通したのかも知れない。

杉山社は宿場町はずれの田んぼの中、断崖を背にして立っていた。でも、保土ヶ谷宿に繋がる保土ヶ谷道が前を通っていたので、交通上の重要なポイントだったかも知れない。
前回の太田杉山神社も、川近くの崖下に位置していた。崖下にある杉山神社の例もいくつかあるので、崖崩れ封じを期待されて勧請されたのかもしれない…と勝手に妄想している。
今回は、山ありトンネルあり断崖ありと、ユニークな地形と史跡を楽しみました。大岡川と今井川流域の杉山神社展開の謎については、後日まとめたいと思います。
