杉山神社めぐり 帷子川流域紀行(3)
流れとしては、川島杉山神社からの続きです。
今回は帷子川流域の杉山神社を、地形や古街道の情報を交えながら巡りたいと思います。
帷子川と地形
遅ればせながら…帷子川について調べました。
帷子川は、横浜市旭区若葉台に源を発し、旭区、保土ヶ谷区、西区の市街地を西から東へと貫流し、横浜港へ注ぐ都市河川のひとつです。
上流部では、二俣川、中堀川、新井川等の支流を合流し、下流部では今井川、石崎川、新田間川等の派川を分合流する流路延長約17km、流域面積約58k平方メートルの二級河川です。
名前の由来
帷子川という名前の由来についてはいくつかの説があるようですが、(保土ヶ谷区歴史資料地図)によると、現在の天王町一帯は昔、一方が山で他方が田野で平らな地形をしていたため、片平「かたひら」と呼ばれ、その中を流れていた川を「かたびらかわ」と呼んでいたそうです。
また漢字の「帷子川」」ついては、文明12年(1480年)の太田道灌の平安紀行に「帷子」という地名(現在の天王町付近)があり、現在の帷子川はここからきたものとされています。
他にも海が入江となっていたことから「潟(かた)ひら」と呼ばれ、これが転化したという説、または、地形が衣料の帷子に似ているからという説などがあります。(出典:川とみずの文化研究会編「水辺からのレポート」より)
まずは、地理院地図で地形を見てみよう。
天王町付近は、東北方向が開けているから「片平」?

中下流域でも平地がすごく狭い。
稲作では年貢が厳しそうなので、他に何か産業があったのかな?

横浜市環境科学研究所
地形を見てみると、帷子川流域は上流は多摩丘陵、中下流は下末吉台地。ともに樹枝状の開析が進む、高低差の大きい地域です。

帷子川の河床勾配は、下流部で1/2,000、中流部で1/150~1/1,000、上流部で1/250。僅か17kmの間に、標高差65mを一気に下っている。
特に相鉄線鶴ヶ峰駅から和田駅付近は、人口の多い都市河川の中流区間でありながら上流区間なみの河床勾配。合わせて川幅も狭いので、帷子川が暴れ川の異名を持つ所以でもあります。
【ご参考】
保土ケ谷区のまちの成り立ち 横浜市
上星川杉山神社
川島杉山神社に近い神社なのですが…存在に気が付かず痛恨のスルー。初っ端から手痛い失点です。参拝の機会があれば追記します。
御祭神は日本武尊の一柱。創建年代は不詳、江戸期は上星川村の総鎮守として祀られていました。
帷子川の治水


増水時に流れてきた思われるビニール類が、木の枝に所々絡まっています。大雨の際には、かなり高い所まで水位が上がるのだなと思いました。
【ご参考】帷子川の浸水被害状況(横浜市)
1997年に帷子川分水路が完成後は、天王町や横浜駅周辺などの中下流域の浸水被害が軽減したとのことです。白根取水口側の流量510㎥/sのうち、350㎥/sを河口近くまでトンネルでショートカットさせます。
【ご参考】帷子川分水路(神奈川県県土整備局 横浜市下水局)

普段はとても穏やかな川です。
仏向杉山社
まずは「ブッコウチョウ」の名前が気になるので…
町名「仏向」の由来について、『新編武蔵風土記稿』には、昔、正福寺の住職が北条家に謁見した際、「願ひあれば申すべし」と言われ、「出家の身は他に志願なし。常に佛に向かふこそ桑門の本意とするところなれば、寺の山號及び其村里にも佛向の二字をもて名づけ賜はるべし」と願い出、そのとおりに名付けられたというエピソードや、古くは「佛餉」(ぶっしょう:仏様へのお供え物)と書き表されていたことなどが記載されています。
信心深そうな町の急な坂道の途中に…

鳥居だ!(来た道の反対方向に一の鳥居があったらしい。またもやスルー)





社殿の写真に映っていた赤い灯篭に「奉納 杉山社移築記念」と記してありました。かつて正福院入口交差点付近に鎮座していたのを、宮崎跨線橋建設のため、平成5年に現在の場所に移設したそうです。

こちらも創建年代は不詳。江戸期には仏向村の鎮守社でした。祭神は五十猛命。
明治期の地図では川沿いの低地に建っているので、下流の和田杉山社と同じような時期に勧請されたと考えます。
和田杉山神社
帷子川近く、横浜新道の高架脇にひっそりと鎮座していました。

御祭神は日本武尊。創建年代等は不詳ながら、江戸期には和田村の鎮守社として祀られていました。

和田町の由来
真偽の程は定かではありませんが、和田義盛に関連していると伝わります。
旧街道の交差点
和田村は八王子道(横浜⇄町田⇄八王子)と相州道(横浜⇄厚木)に面していて、和田杉山社は両街道の接続地点に座しています。

中世の保土ヶ谷は榛谷御厨(はんがやみくりや)と呼び、有力武士(小山田氏)が支配する荘園でした(当時、武士は大きな荘園を持つことができなかったため、伊勢神宮に領地を寄進し、その管理者になることで占有権を得た)。
「畠山忠重の乱」に乗じて、北条氏が小山田氏から奪取したほどの要衝でした。
帷子川に沿うように八王子道と相州道が並行し、河口付近で鎌倉下道が直交しています。きっと当時から人の往来も多かったのでしょう。このような背景から、中世から近世にかけて、地域の安全を願って杉山社がお祀りされた可能性を考えています。
星川杉山神社
延喜式内社の候補(論社)とも言われる星川社ついては、単独記事にしましたので、こちら↓をご覧ください。
さて、星川駅から、再び帷子川沿いの道を進みます。


天王町
天王町ってスゴい名前。でも町名の歴史は新しく、昭和2年に帷子町から改名したそうです。祇園社から勧請した牛頭天王が由来らしい。
橋を渡ろうとしたら、突然目の前に


映えスポットに行かなくても、街中にいくらでも素敵な風景があるものです。



西区役所脇を通ると、繁華街に入りました。
工場、オフィスビル、商店街と住宅が渾然一体となった街中に、いくつかの公園があります。たくさんのハマッ子たちが元気よく遊んでいました。いかにもヨコハマらしい景色です。
戸部杉山神社
そんな公園の隣に、静かに立っています。


この状態で葉っぱにまだ勢いがある…凄い生命力です。
御祭神



と言うことは…御祭神は大己貴神(大国主神)。
大己貴命が、スサノオから与えられた試練をねずみの助けで乗り越えて、スセリビメと結ばれた神話に由来している。(スサノオの六世の孫なのに、スサノオの娘と結婚するのって…どんな時間軸?)
大国主は別名が多く、大物主(オオモノヌシ:古事記では別神)、大穴牟遅(オオアナムジ)、大己貴命(オオナムチ)など名前が変わっている。

港北区の北新羽杉山神社と同系統。アクセスも良いため、狛ねずみを回して願掛けする人が多く訪れます。社務所もある立派な神社です。
由緒
当神社は、白鳳3年弥生20日の創建と言う。武相の地杉山社多きも、延喜式内の杉山神社は当社なりと言伝う。当神社の効顕の著しきを以て近隣に杉山社の名称多くなれりとも言う。古くより武蔵国戸部村の鎮守にして当地開拓の祖神なり。歴代の国守、地頭、代官等の尊信甚だ厚く、幕府よりは、御朱印を附与しありと言う。御祭神は天孫降臨以前に己に国土開拓経営に威霊を発揮せられ給う。即ち日本最初の神社祭神なり。貧賊病弱を救癒して産業を授けて富益を増し、医薬の道を興して氏族の繁栄の基を計り、剣爭を用いずして温和の中に諸事泰平の国本を培養せられ、国政家斎の法を授け給う。知謀悟道の祖を開き、国利民福を念とし給う。自ら苦反して以て他を憐み給ひ、即ち当地開拓の先哲達人先ず此の大神を奉祀し、鎮護の祈願せんため、勧請せしなり。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/shrine/1203001-000/
戸部は久良岐郡なので、延喜式内社とされる都筑郡の杉山神社とは明らかに場所が違いますが、なかなか強硬な主張をしています。
昔はどのような立地だったのでしょうか?

青丸は塩田の印。
明治迅速測図を見ると田んぼの真ん中にあります。
現在の横浜駅周辺は干拓以前(江戸初期以前)帷子湾(洲)だったので、戸部社は川辺というよりも海辺といった感じ。
「白雉3年(652年)、当地を開拓した杉山の一族が出雲大社の大己貴命の分霊を「塩田の浜」に祀ったと伝えられる」とwikiには記載されています。確かに明治初期に塩田があったようです。
杉山神社
白鳳三年(六七五)三月当戸部地方開拓の祖神として出雲大社の御分霊を勧請したもので、歴代の国府地頭代官の尊信厚く、幕府からは御朱印を与えられ、祭りも盛んで幟の如きは幅一間丈一〇問に及ぶもので世人これを「戸部の馬鹿幟」といった。社頭にはもと一基の古墳があり、往昔大祭の日神輿の渡御中この古墳の前で動かなくなったので、神慮を畏み墳丘中に埋納し、神輿塚と称し神社と共に崇敬した。爾来当社は宮神輿を有しない。
河口近くの杉山社は、他に鶴見神社(鶴見川流域・旧杉山大明神)があり、ともに微高地(標高5m)に鎮座。同社も創建が古いと伝わり、古代に海洋系氏族が杉山神社を創建したという説を後押ししています。境内に古墳があったと言うのも、鶴見神社と同じで興味深いです。
出雲系海洋民が入植して大己貴命を祀ったのなら筋が通った話ですが、その一方で、同じ出雲系の五十猛命が祀られなかった理由はなんなのだろう?(もちろん、杉山神社は五十猛命を祀らなきゃいけないということは無いけれど…)
あと、平安〜中世までの海進時の汀線を考慮すると、かなり海に近いので満潮時に大雨降ったら水際ギリギリかも。本当に白鳳年間からずっとここに神社が建っていたのかな。
ただ、新編武蔵風土記稿によると、当時から近くに6社ほど(境内社なのか単に隣接していたのかは不明)存在していたようなので、村の象徴的場所であったことは疑いありません。
個人的には、何かしらの古社が建っていた場所に、近世以降(東海道や舟運で周辺が栄えた頃)に杉山神社が勧請され、五穀豊穣、商売繁盛の神様として大己貴命信仰が強調されるようになったのではと推測します。次回、それについての根拠もお話しします。
【ご参考】
人影が消えた?鎌倉時代 北陸農政局信濃川水系土地改良調査管理事務所
帷子川(横浜駅周辺の新田開発と河川の歴史)横浜市道路局河川企画課
次回「杉山神社、帷子川流域拡散の謎」に迫る!?
歩き疲れたので、赤い電車に乗って帰ろう。もう5000字近いので、自説は次回披露いたします。

「あれ?帷子川近くには、確かもう一社杉山神社あったよね」…はい、あります!
西久保町にある帷子町杉山神社は、(思うところがあり)別の機会に。

こちらの御祭神は五十猛命です。
