帷子川流域に展開する杉山神社の謎
シリーズ3作に続いて…
いよいよ、帷子川流域に杉山神社が拡散した理由を勝手に考えてみました。
なぜ、帷子川流域にも杉山神社が拡がったのか?
杉山神社は鶴見川水系に多く存在する神社ですが、帷子川流域にも7社あります。

同じ湾内で鶴見川に一番近い川だから、帷子川に杉山神社があっても、特に不思議な感じはしない。でも鶴見川水系に比べると、上流域や周辺への広がり小さい。どことなく…追加されたというか、限定的な感じがする。
何のためにこの地に建てられ、何を祀っていたのだろう。
川辺や川沿いの高台にあるので、基本的には「暴れ川」帷子川の平穏を願って建立されたものだと考えられるけど。
謎を解くのは御祭神?
帷子川流域の杉山神社の御祭神は、日本武尊が4社と多く、次いで五十猛命が3社。戸部社は大己貴命なので系統が違う気もする。
川島社 日本武尊 五十猛命
上星川社 日本武尊
仏向社 五十猛命
和田社 日本武尊
星川社 日本武尊
戸部社 大己貴命
帷子町社 五十猛命
日本武尊が主流のようで五十猛命もいる。御祭神がマチマチなのは鶴見川でも同じだけど…こんなに狭い範囲でありながら、統一されなかった理由は何だろう?
それぞれの神様を見てみると…
五十猛命
素戔嗚の子。林業の神として知られている。
素戔嗚が高天原から追放された際、ともに新羅に降りたが、その後、埴土の船で出雲へ渡ったことから、造船、航海安全の神としての信仰もある。
各地に木の種を蒔いたと伝わり、最終的に紀伊国(木の国)に鎮座する。日本書紀には、素戔嗚が「杉と楠は船にせよ」と、木の用途について示したという記述がある。
下記引用からは、製鉄との関係もうかがえる。
出雲大社のある出雲市大社町には、大国主の子とともに素戔嗚や息子の五十猛(イタケルともいう)などを祀る阿須岐神社があり、ここには「同社神」として韓国伊太氐神社も祀られています。
韓国伊太氐という不思議な名称の神社は出雲にしかなく、927年完成の『延喜式』神名帳によれば、阿須岐神社を含めて6社(ほかに玉作湯神社、揖夜神社、佐久多神社、出雲神社、曾枳能夜神社)に祀られます。
伊太氐とは五十猛が変化したもので、「イタテ神は製鉄の神」との説があります。その五十猛を祭神とする五十猛神社が山陰本線五十猛駅近く(島根県大田市五十猛町)にあり、同町大浦には素戔嗚を祀る韓神新羅神社もあります。
神々のルーツ 出雲と新羅の縁結び 片岡伸行
日本武尊
景行天皇の皇子で仲哀天皇の父。九州熊襲征討・東国征討を行ったとされる軍神、開拓神。産鉄地を征服した経緯や鉄剣そのものから、製鉄にまつわる神のイメージもある。
日本武尊を祀る神社の一つに、かつて杉森宮と称していた杉守(すがもり)神社がある。他にも杉の巨木が植っている社が多く、真っ直ぐで高い杉が武神としての姿を表しているかも知れない。
全国的に祀られており、東征ルートでも数多く主祭神とする社がある。理由の一つとして、明治時代の神社合祀政策で「帝国の神祇に相応しい祭神」を祀ることが推奨され、主祭神に格上げされたり、新たに勧請されたことも考えられる。
大己貴命(オオナムジ・オオナムチ)
大国主神の別名。国造りの神。農耕の神。記紀に多くのエピソードがあり、それに因んで縁結びから商売繁盛など幅広いのご利益があるとされる。
出雲のほか奈良の三輪山にも信仰があり、別表記の大穴牟遅(オオナムチ)はタタラ製鉄の鉄穴(かんな)との関連を伺わせる。。
五十猛との縁もある。白うさぎを助けて八上比売(ヤガミヒメ)と結婚した大己貴命は、八十神から嫌がらせを受けて命の危険に晒される。母の助言に従い、木の国の大屋毘古神(おおやびこのかみ 五十猛命の別名とされる)に助けを求めると、木の股をくぐらせて(木のウロに隠して)もらい、追っ手から逃れることができた。
杉の神、鉄の神あり。三神とも関連がなさそうで…ありそう。
拡散経路や時期の謎
鶴見川や帷子川流域への杉山神社の広がりについても、謎が多い。
【杉山神社全体の拡散について】
・鶴見川水系で先に拡散したのか?
・同時拡散だったのか?
・それとも、帷子川が先だったのか?
【帷子川流域内の杉山神社の拡散】
・帷子川で一斉に広まったのか?
・どこかの地域が最初に勧請し、それが周囲に広がったのか?
そもそも、みんな最初から杉山神社だったのだろうか?
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ここから帷子川流域の杉山神社拡散ルートと創建の意図について、自説とその根拠(というか議論の材料)について、以下に述べたいと思います。
① 古街道が運んだ杉山神社信仰?
前記事にて紹介した通り、下流の現・天王町付近には鎌倉街道下道が通っていました。また、八王子道(横浜⇄町田⇄八王子)と相州道(横浜⇄厚木)は帷子川を挟んで並走しています。

さらに、そこに接続する形で北西へ向かう、俗に言う「鎌倉古道の支線」も通っていました。(鎌倉時代の道と言うよりも、近世から見て古くからある道との解釈の方が正しいかも知れません)

鎌倉下道を進むと早渕川河口の綱島へ、鎌倉古道を進むと鶴見川中流の鴨居に到達します。つまり、杉山神社のメッカ鶴見川へと続いているのです。
不思議なことに、帷子川流域の杉山神社は、この2本の街道の隣接部分にしか存在しません。それより上流には広がっていないのです。(2025/6/13追記 帷子川最上流付近、旭区の上川井に杉山社がありました。新編武蔵風土記稿の上川井村に掲載。明治時代、上川井村総鎮守の神明社に合祀されたとも伝わります。さらに上流の若葉台に、杉山大明神と称する小さな祠(創建年、ご祭神不明)が存在するそうですが、これが旧跡なのかどうかも不明。また、上白根村の稲荷神社にも杉山神社が合祀されているそうで、こちらも風土記稿に記載あり)
と言うことは、街道が杉山神社を運んで来たのでは…?
② 帷子川の舟運=杉山神社の分布?
もう一つ、帷子川について色々調べているうちに、気がついたことがあります。
江戸時代には帷子川河口には舟着場があり、潮の干満を利用した舟運の拠点として、商人が薪や炭を江戸方面に送るなどにぎわいを見せていました。
明治になると絹のスカーフの輸出が急増し、港に近くて水陸の交通の便が良く、清流で豊富な水量があったことなどから、帷子川周辺に染色工場が集まりました。捺染なっせんの最後の工程で、布の余分な染料やのりを落とすため、川の流れを利用して水洗いする作業があり、流れ出した染料で川も七色に変わったと言います。
上記によると、帷子川は、多摩川や鶴見川と同じく、古くから交通に利用されていたようです。

鶴見川上流の黒川炭、八王子や青梅の多摩炭は、いずれも多摩川の舟運を通じて江戸の町に供給されていました。帷子川も中流までは舟が入ることが可能で、近隣で産出された炭や薪を運んでいたと思われます。
どこまで遡上できたのか?

多摩川で舟運(物流)が行われていた区間は、河床勾配がだいたい1/500ぐらいでした。水深や流路、流量などが異なるので単純比較はできませんが、ちょうど河口から6kmまでが(上星川駅付近)1/500の範囲です。満潮時の潮位上昇が150㎝とすれば、横浜新道や宮崎橋までは比較的楽に舟で行けそう。
もう少し頑張って、川島杉山神社のある環状2号まで行けたら…ん?
これって、帷子川流域の杉山神社の分布に一致していない?
【ご参考】
江戸期における河川舟運の物流システムと都市の変遷に関する研究 小林 高英 東京商船大学学位論文 2003
https://core.ac.uk/download/70317337.pdf
③林業=杉山信仰?
大都市江戸への燃料供給地?
江戸は100万人の大都市。生活に必要なエネルギーは、近郷の里山から供給される炭や薪で賄われていました。
「享保通鑑」によると、1726年(享保11年)における薪炭の江戸入津高は、木炭80万俵、薪1800万束程度であった。これより得られるエネルギー量は、1人当たり50L(石油換算)程度となる。
また、「流通史」によると、1856年における薪炭の江戸入津量は、木炭が240万俵、薪が1800万束となっている。この木炭・薪より得られるエネルギー量は、1人当たり67L(石油換算)程度となる。木炭の入津量は1726 年の3 倍になっている。
「大江戸エネルギー事情」によれば、火鉢などで木炭を使用する場合1人当たり石油換算28L(28万kcal)、銭湯では1人当たり石油換算 7.3L(20mL/回)消費すると試算している。江戸時代における暖房、銭湯以外でのエネルギー使用用途としては炊事などが考えられる。使用年間1人当たり石油換算で50L程度の薪炭を使用したとすると、炊事およびその他に使用したエネルギーは1人当たり15L程度となる。
第 5 回日本 LCA 学会研究発表会講演要旨集(2010年 3月)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ilcaj/2009/0/2009_0_81/_pdf
煙が出ない木炭は高価なので裕福な家で使用され、多くの庶民は薪を使っていました。薪は重たく嵩張るので、高い運賃を払って遠くから運ばれてくることはなく、主に江戸近郊の里山が供給源と考えられます。逆に言えば、田畑が少ない丘陵地帯にとって大きな収入源となっていたと推測されます。
保土ヶ谷宿も東海道の立派な宿場町。宿場や街道の普請、燃料などで木材の需要は高かったに違いない。江戸初期から、帷子川を利用して木材を運搬し、江戸だけでなく近隣地域にも供給していたと考えます。
広葉樹の枯渇と杉の植林?
一方で、関東の炭産地では広葉樹(カシ、クヌギ、ナラ)の枯渇も深刻でした。炭の原木になるまでカシやナラは20年、クヌギは10年ほどかかるため、次の木が育つまでの間、伐採地がどんどん山奥へと移動し、山林は荒廃したようです。
涵養能力の落ちた上流の山林は、日照り時の渇水や大雨時の氾濫に直結します。
そのためか、森林資源枯渇を補うように杉の植樹が各地で推奨されました。また、江戸は火事が多かったため、建て替え用建材の需要も高かったようです。比較的短期間で真っ直ぐに成長し、柔らかく加工が容易な杉が建材にうってつけだったことも植林拡大の要因です。
いや〜ここに来て、杉山神社の建立目的に純粋な林業という視点を得た!
Viva!杉の山! Viva!杉山神社!
【ご参考】
江戸時代の森林と地域社会 Ⅳ大都市江戸の燃料と森林 徳川林政史研究所
https://rinseishi.tokugawa.or.jp/pdf_file/edojidainoshinrintochiikisyakai.pdf
特集◉歴史にみる森林の変化と保続的な林業の試み
Forestry & Forest Products Research Institute No.50 2020
https://www.ffpri.affrc.go.jp/pubs/kikan/documents/kikanffpri50-feature.pdf
杉と日本人のつながりについて 高桑 進 京都女子大
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1946/1/0160_025_008.pdf
まとめ
では、これまでのシリーズで調べたことから自説をまとめよう。
杉山神社勧請の意図
河川構造(急流・狭い川幅)のため、度々氾濫が起こる。
+
薪や炭の生産で広葉樹が伐採されて山林が荒廃し、治水が難しくなる。
↓
平地が狭くて耕作面積が少ない上に、氾濫で田畑が流され困窮する
↓
河川の安全を司る神と林業の神様を祀りたくなる。
実際に、帷子川では河川改修が行われた記録がある。
中流部で享保年間(1730年代)に河川拡幅と蛇行修正が行われた。当時の集落は高台に位置するので、主に田畑の冠水・流失被害への対応と推測される。
https://www.pref.kanagawa.jp/documents/10592/746521.pdf
また、川が暴れれば流路が変わり、土砂で川底が埋まれば、舟運にも影響が出る。舟運が行われていた流域で杉山神社が祀られたのは、林業の促進だけでなく、川の安泰と治水への期待も込められていたのでは?
杉山神社拡散のシナリオ
鶴見川流域の杉山神社の多くは、「暴れ川」の鎮護と地域の繁栄を願って建てられたと考えられます。その杉山神社が帷子川流域にも展開した流れについて、私は次のように考えます。
・中世(鎌倉期〜後北条氏期)
・土豪が地域武士団の結束を図るために
・古街道を経由して伝わった鶴見川水系の杉山神社信仰を
・中流域の象徴的な場所である星川に勧請した
(元々、伝承が途絶えた何かしらの古社が存在してた可能性あり)
・近世
・舟運が可能だった中流域で
・林業と地域の繁栄、河川の安全を願って
・星川の杉山神社が周辺に拡大(日本武尊主祭神)した
→ 川島、上星川、和田
・新たに鶴見川水系から林業神信仰(五十猛命主祭神)が伝播した
→川島、仏向町
・近世中ごろに東海道と帷子川舟運の繁栄に因み大己貴命を祀った
→戸部
(2025/6/13追記 帷子川最上流の上川井、上白根杉山社(合祀社)は未訪問で資料不足につきここでは論じませんが、下流で隆盛となった杉山神社信仰を林業の関係から勧請したと考えます)
まあ、これはあくまでも可能性の一つの例であって、もっと大きな視点でまとめると…
交通、産業、治水の3点が交錯した地点(帷子川中下流域)に、なんらかのきっかけで杉山神社が流入し、志を同じくする人々がこぞってお祀りし、周囲に広がった。
ということなのだと思います。
