【つながる旅行記#438】大麻比古神社を散策していたところ、『ドイツ橋』を知る【板東】
前回は一番札所の霊山寺を訪れて、流れで『大麻比古神社』へ向かった。
では今回は大麻比古神社の本殿を見に行くとしよう。
サル注意の警告がある朱塗りの橋を渡って……!



(でもさすがに奥宮には行けないな……)






境内に入ると、凄まじい大きさの御神木があった。
高さといい、枝の広がりといい、こりゃ相当なものだ……!

この御神木は、樹齢約1000年といわれる楠(くすのき)だそうだ。
1000年前といえば、平安時代中期だろうか?
人間の寿命では想像できないほど昔に芽吹いた木が、今はこんな大きさに育っているとは……。
(やっぱり木のスケール感ってすごい)
そういえば、霊山寺に像があった弘法大師(空海)は835年に亡くなったそうなので、この木が芽吹くよりも前に活躍した人ということになる。
そう考えると、空海が歴史に残したインパクトも凄まじいな……。
なお、真言宗においては空海は死んではおらず、深い瞑想に入ったということになっており、今でも高野山奥之院(和歌山)の御廟では食事や衣服が届けられているとか。
お遍路においても、『同行二人』という文字が白衣や杖などに書いてあるが、これは『巡礼者+空海』で二人ということだそうだ。
ソロ旅ばかりの自分としては、なんだか心強いね……!




さて、本殿も見れたので終わりかと思いきや、この辺りには色々見どころがあるらしい。
順路に従って進んでいこう。

さてさて、こちらの『口紅藤(くちべにふじ)』は、看板によると静岡県清水市が原産だそうだ。
(清水市は2003年の合併によって静岡市の清水区になったので、それよりもずっと昔に徳島にやってきた木ということなのだろう)
なお、今は12月なので名前の由来となった口紅の色はまったくわからないわけだが、淡いピンクの色合いが良い感じだとか。
今後見る機会があったらいいな……。

そしてお次の見どころは、この橋である。
実はこれ、『日独両国の友情の架け橋』だという。
いや個人的に徳島とドイツがまったく結びつかないわけだが、一体どういうことなんだ……?

実は現在いる鳴門市の板東には、かつて板東俘虜収容所というものが存在したのだ。
時は第一次世界大戦の頃。
日本軍は中国の青島を攻撃し、そこでドイツ兵捕虜4600人を獲得し、その中の約1000人が板東俘虜収容所に集められたのである。
そして捕虜たちは……
住民たちと、自由で温かい交流をしたらしい。
「いやなんでそうなるの?」という話なわけだが、とにかく捕虜たちはその温かな扱いへの感謝を込めて、このドイツ橋を含む10の橋を作ってみせたそうなのだ。
当時の日本はお雇い外国人からの技術提供によって近代化が進んではいたものの、それはあくまでも限られた層の話。
しかし当時土木先進国だったドイツでは、捕虜の兵士たちもそれぞれ優れた技術を習得しており、橋は作るわ、印刷所は作るわ、パンやチーズの製法を教えるわで、板東の人たちにドイツ文化を盛大に広めてくれたのだという。
捕虜に関する出来事とは思えない、なんとも爽やかな話……!




いやはや、この土地にそんな歴史があったとは……!
というかそもそもの話、『第一次世界大戦で日本が何をしていたか』についてはあんまり学校で習わなかった気がする。(自分が授業中寝てただけかもしれないが)
先程の話も、「なんで中国にドイツ人がいるんだ……?」というレベルから勉強しないとダメそうである。
ちなみに、中国にドイツ人がいた理由は『1898年に清に圧力をかけて、青島周辺を99年間借りるという「租借条約」を結ばせたから』だそうだ。
当時はこんな感じで、中国の土地をヨーロッパ諸国が『借りる』という形で分割しまくりだったのである。
そして清にやってきたドイツ人によって青島ビールが生まれるのだが、のちに戦勝国となった日本が租借権を引き継ぎ、大日本麦酒が青島ビールを買収する。
その後、工場ではサッポロビールやアサヒビールが作られたとか。
それゆえに日本のビールはドイツ由来のラガービールが主流なのだ。
(なお、そのあとは第二次世界大戦で日本が敗戦したことで、青島ビールは中国経営になる)


(サルは気に入らなかったものは、ひと口食べてポイ捨てする)
やっぱりこの辺りにはサルがいるんだなと思いつつ歩いていると、なんだか日本っぽくない建物が見えてきた。


『第九の里』……?
そして『鳴門市ドイツ館』。
これは鳴門市とドイツの関わりをしっかり深掘れそうな気がしてきたぞ!

興味が湧いたらすぐに情報に触れておくのは大事なことだ。
これはこの土地のドイツ知識を深めるためにも、寄らない選択肢はないな……!!
(単純にお腹も空いたし)
次回へ続く!!
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