【つながる旅行記#440】自由なドイツ兵捕虜とお遍路文化の関わりについて【板東俘虜収容所】
前回は鳴ちゅるうどんに舌鼓を打ち、『バルトの楽園』という映画を知った。

ではさっそく向かうとしよう、ドイツ館へ……!!
さあ一体どんな展示内容が……!?

いや〜〜!
まさか日本どころかアジアで初めて『第九』が演奏されたのが、この板東だったなんて!
というか、ベートーヴェンがドイツ人だったということを始めて知った自分がいる。(無知)




えっ、ドイツ館の展示の写真ですか?
いやその……
どうも写真撮ってなかったみたいで……。
(たまに雰囲気に気圧されて、こういうことがあるのだ)
でも大丈夫!
Youtubeにいけば、誰かが上げてくれた動画があるから!!
【中の様子が分かる動画はこちら】↓
(そうそう、このなんともいえない動きをする人形たちを見つつ、第九を聴いたんだったわ……!)
さて、ドイツ兵捕虜を異例の待遇で扱ったのは、松江豊寿(まつえ とよひさ)所長の影響であることは前回述べた。
彼のはからいで捕虜たちはかなりの自由を与えられることになり、
『運動施設』、
『農園(+酪農場)』、
『ウイスキー蒸留工場』、
『パン焼き窯』、
『印刷所』
などなどを各自の能力を発揮して作り出し、地域住民と経済的にも交流することができたわけだ。
なお、民間人がドイツ兵捕虜を抵抗なく受け入れて交流できたのには、『お遍路文化』による影響もあるのではと一部で言われている。
お遍路には『お接待』という概念があり、見知らぬ人を助ける文化が四国には根付いているのだ。(助ける側もそれで功徳を積める)
敵国兵士とはいえ、唐突に連れてこられた外国人捕虜に対する接し方に、その文化が反映されていても違和感はない。
なにせ板東俘虜収容所は、一番札所の霊仙寺と二番札所の極楽寺の間に位置するわけだし。

実はお遍路関係の本を読んでみると、昔は四国全体がお接待に熱心だったというわけでもないことがわかったりもする。
なかでも土佐藩(高知)は、過去には『遍路中の寄り道をせずさっさと通りぬけるように』という決まりを作ったり、お接待の禁止を強制したりと、なかなかに厳しめだったそうだ。
理由としては、かつてのお遍路は今と違って貧困者や病人が多く、地域の負担になっていたことが挙げられる。
そしてお遍路に見せかけた盗賊なんかも混ざっている場合があったようで、禁止に動きたくなるのもわかる気が……?
なお、板東俘虜収容所があった当時、外国人によるお遍路の例も僅かではあるが存在したらしい。
1917年には、アメリカ人のフレデリック・スタールが西洋人として初めて四国遍路に挑戦しており、徳島に来た時は板東俘虜収容所の話を聞いていたそうだ。
彼の一度目のお遍路は10日ほどの短いものだったが、二度目に訪れたときには全ての寺を回るお遍路に果敢にも挑戦しており、その後「めっちゃ辛かった」と書き残している。
とはいえ、『仏教の信者でもない外国人』に対しても変わらず行われる数多くの親切な行為に、彼は深い感謝を述べているのだ。
「(私は)唯の一人の巡礼者であり、また言語や人種においては外国人で、仏教の信者でもございません。
それにもかかわらずこの上なく親切にもてなされ、取り交わした言葉や処遇の記憶は私にとって大きな喜びとして永久に忘れる事が出来ないものでございます」
そして収容所には『印刷所』があったと先程述べたが、捕虜たちはニューズレターの『ディ・バラッケ』を発行しており、巡礼者をよく見かけていたことや、『お接待』の文化についても記載がある。
ちなみに、捕虜の一人であるヘルマン・ボーナーは戦後も日本に残り続け、のちに呼び寄せた彼の弟は、松山高等学校で教師になった。
その弟は四国遍路に興味が湧いたようで、外国人として初めて四国遍路の学術書を出版することになるのだ。
うーむ、お遍路文化に外国人が関わっているなんて全然考えていなかったが、100年前からこの文化は知られていたんだな……!

なお、板東捕虜収容所が異例の自由さを誇っていたのは事実だが、他の収容所でも似たような例は見られたという。
なにせ日本はハーグ陸戦条約の締約国であり、列強の一員として、捕虜の扱いは人道的に保証しなければならない状況にあった。
(ここで雑に扱おうものなら、江戸時代の野蛮な国に逆戻りしてしまう)
例えば久留米(福岡)の収容所でもドイツ兵捕虜と民間の様々な交流があったようで、捕虜がカメラで撮影した当時の写真が残っていたりする。
そして久留米はドイツ兵捕虜の技術や知識で、近代ゴム産業を拡大させることができた。(ブリヂストンの創業にもドイツ兵捕虜が関わっている)
ちょっと前の日露戦争の頃にはわらじとゲートルだった日本だが、どんどん近代化していくのがわかりますね……!
なお、名古屋市(愛知)にもドイツ兵俘虜収容所が存在したのだが、そこにいた捕虜の一人であるハインリッヒ・フロインドリーブ氏が技師長を務めたのが、敷島製パンだ。
そう、『Pasco』のことである。
こうしてみると、この頃の日本人はドイツ兵捕虜から技術や知識を学びまくりだったんだなと思わされる。
捕虜であろうと相手の技術を認めて、しっかり吸収しちゃうこの姿勢。
こういう姿勢って、今でも大事な気がするな……。

それではお土産も買ったことだし、帰るとしようか。
しかしまさか軽めなお遍路を体験しようと思ったら、ドイツとの関わりについて学ぶ展開になるとは思わなかった。
やはり歴史を学ぶのは楽しいし、旅行は良いぞ……!

いやしかし、このまま板東駅に向かって次の土地へと移動するのもありだが、せっかくなのでもうちょっと散策してもいい気がする。
なにせここから600mほど歩けば、二番札所の極楽寺があるのだ。
今後この土地に来れるかは未知数だし、この機会に行っておくべきなんじゃないか……?

そんなわけで、自分は極楽寺を目指すことにしたのだった。
昨日は大塚国際美術館で歩きすぎて疲労困憊だったのだが、まだまだ歩けそうでなによりだ。
やはり大事なのは健全な肉体だなと思いつつ、次回へ続く……!
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