物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 13
-カリン-
未だ意識の戻らない患者に三度目の投薬を終えたところで扉を叩く音がした。
「薬師室のユウガオです」
続けて扉の向こうからそう声が聞こえ、一緒に居たアオイと顔を見合わせた。アオイが入室を許可する返事をする。
「患者の様子はどうですか?」
入って来るなりユウガオが尋ねた。アオイが居るのでユウガオの口調は丁寧だ。
「昨日から変わりない。ああ、血圧は期待通り下がっている。もう暫く様子を見る価値はある。……それで、何の要件だ?」
ユウガオはカリンの方をちらりと見てから、珍しく遠慮がちに口を開いた。
「マカニ族の使者が、至急カリンに会いたいと……」
おそらくレンに関することだ。
ユウガオはカリンがアオイにレンの話をしているかどうか判らないので気を遣ってくれているのだろう。
カリンはその場でアオイにレンの身に起こったことと、これまでの経緯を簡単に話した。アオイはやや驚いた顔をしたが、すぐに会いに行くようにと言った。
「誰が来ているのか分かりませんが、とりあえずその使者に会って来ます」
「いや、お前は一度マカニへ戻った方がいい。そのままレン殿に会ってこい」
「え? でも……まだ状況が分かりません」
「レン殿が元気でもそうでなくとも、会って状況を確かめたいだろう?」
「それは……そうですが……」
「言ったはずだ。アグィーラ医局にはその用意がある。ユウガオ殿さえ良ければこの場で引継ぎをするといい。一度マカニへ戻り、その後アグィーラへ戻って来るかどうかはその時に決めればいいだろう」
「アオイ様……」
カリンがアオイの顔とユウガオの顔を交互に見ると、ユウガオもにやりと笑って付け加えた。
「ふん。俺が何のために今朝の時点で状況を事細かに確認していたか分かったか。お前、まさか俺が単なる興味で聞いていたなんて思ってないだろうな。……まあともかく、引継ぎは今日の午前中に起こったことだけでいい」
「ええと……今日の午前中のことならば……」
「それなら私が話しておこう。カリンはもう行っていい」
「え……あの……」
「アオイ様がいいとおっしゃっているんだ。つべこべ言わないで早く行く! あ、お前、戻ってこないにせよ連絡は寄越せよ」
「それは勿論……あの……では……」
「室長には俺からうまく言っておく」
アオイとユウガオに深々と頭を下げて病室を出る。
自分が目の前の患者を置いていくことにまだ躊躇いがあったが、いざ病室を出ると気が逸った。レンは無事なのだろうか。
城の正門には居心地悪そうに立っているコリウスの姿が見えた。カリンの姿を見つけるとほっとしたような表情をする。
門番に会釈をしてコリウスと二人で城を出る。
「どういう状況でも一度マカニへ戻って良いという許可を貰って来た。ヨシュアさんの家へ寄りたいの。歩きながら話そう」
カリンが言うとコリウスは頷き、横に並んで早足で歩きながら状況を話してくれた。
「先に言うと、レンは見つかった。生きている。だが見つかった時点では意識が無くて、どのくらい深刻な状況なのかは分からない。俺はその場からすぐにアグィーラへ飛んだんだ。レンは診療所に運ばれることになると思う。状況が分かったら追って誰かが飛んでくる筈だ」
今朝、訓練場でそれぞれの持ち場を確認していると、一羽の隼がやってきた。口にはレンの翼の羽根を咥えていた。シヴァは、ひと目でそれがレンが気にしている隼だと分かった。
隼の方もシヴァがその場のリーダーだと見抜いたのだろう。真っ直ぐシヴァの前に着地した。
シヴァは、スグリに族長を呼びに行かせた。族長ならば隼の意図を確認できるのではと考えたが、隼を族長の家へ連れて行くのは難しそうに思えたからだ。その後、シヴァは自分でも指笛らしきものを使った。
すると、隼は再び空へ舞った。最初は逃げてしまうかと思われたが、その飛び方が、どうやらついて来いと言っているように見えた。
シヴァと、シヴァの指名した数名は、スグリが族長を呼んで戻って来るよりも前に、隼の後を追った。コリウスも一緒だった。
隼は向かいの双子の峰の間を抜けたところで下降を始めた。
何度か探した場所であったのと、まさかこんな近くにという思いもあって半信半疑で隼について着陸すると、其処にレンが横たわっていた。
隼は役目は終えたとばかりにあっという間に飛び去ってしまった。
シヴァは、その場に居た中で一番早く飛べるコリウスをアグィーラへの使者として指名した。とりあえずレンが生きていることをカリンに伝えたかったからだ。
カリンは相槌も打てずにその話を聞いた。
聞いている間、息が詰まって胸が苦しかった。漸くレンが危険な状態にあるという事実に認識が追いついたのかもしれない。何と鈍い感性なのだろう。
ちょうど話を聞き終えた辺りでヨシュアの家へ到着した。ヨシュアが居るであろう工房側から入り、簡単に事情を説明してからカリンが荷物を纏めている間に、ヨシュアがコリウスにお茶を淹れてくれていた。
カリンもそれにひと口だけ口をつけ、慌ただしくヨシュアの家を後にした。
結局、後追いの使者が来る前にエルビエントの双子の峰が見えてきた。双子の峰の間を抜ける手前で、コリウスがレンが倒れていた場所を教えてくれた。
アルカン湖の畔から少し離れた、双子の峰のうちイヌワシの岩がある側の峰の麓付近の雑木林の中だった。先日の長雨のせいで地滑りを起こしたのか、山の上の方から落ちてきたような倒木が目立った。
普段、人はあまり通らない所だ。川に流されてその辺りに倒れているのも不思議だった。マカニを目指して飛ぼうとして力尽き、その辺りで墜落したのだろうか。
マカニへ戻るとコリウスはまず訓練場へ寄ったが、其処には誰も居なかった。シヴァは診療所に居るのだろう。戦士たちは、連日のレンの捜索での疲労を考慮して、持ち場がある者以外はそれぞれの家に帰されたのかもしれない。
診療所の扉を開くと、こちらへ視線が集まった。
族長、シヴァ、スグリ、そして、レンが横たわっているらしきベッドの脇にカエデが居た。
「コリウス、ご苦労だった。早かったな。もう少ししたらスグリを遣ろうと思っていたところだ」
頷いてすぐに出て行こうとするコリウスを族長が呼び留める。
「お前も気になるだろう? 疲れていなければ此処に居ても構わぬ。……カリン、とりあえずレンの傍へ行ってやってくれ」
カリンは黙ったまま頷き、ゆっくりとベッドに向かって歩みを進めた。言葉を発することも、自分の浮かべている表情を意識することもできなかった。ベッドを挟んで、カエデが立っているのと反対側に立つ。
レンの頭には包帯が巻かれていたが、表情は穏やかだった。呼吸をしていないのではと思う程だ。しかし、顔を近づけると掠れた呼吸音が聞こえた。肺炎を起こしかけているのかもしれない。
顔は綺麗だ。カエデが診察をする際、身体を綺麗に拭ってくれたのだろう。
そっと頬に触れる。
少し熱っぽい。
でも、生きている。確かな熱が、其処に在る。
カリンの眼から涙が溢れた。
その雫が、レンの胸元辺りに落ちる。
「レンの容態は?」
カエデに尋ねる声が震える。
「今のところ命の危険はない。大きな怪我は頭部と右腕。右腕は尺骨が折れている。頭部は岩の直撃は免れていたようで大きな傷は無いが内出血がある。脳への衝撃はまだ判らない。その他打撲や裂傷多数。いずれもそれ程深刻なものではない。身体はだいぶ衰弱していて、肺炎を起こしかけている。これから高い熱が出るだろう。それを含めて予断を許さない状況ではある」
カリンは黙ったまま頷き、レンに視線を戻した。
アグィーラまで運ぶのは負担が大きいかもしれないが、マカニの診療所でできることには限界があった。
肺炎は何とかなるだろう。しかし頭の方は念のため早めに専門の医師に診せた方が良い。
カリンは族長たちの方を振り返った。族長の穏やかな視線がカリンの視線を真っ直ぐに受け止める。
「族長様、私、すぐにアグィーラへ戻ります。誰か、派遣してもらえるかもしれません。いえ、派遣してもらえるようお願いしてきます。レンの生命力は信じていますが、待つことしかできないよりは、できることをしたい」
「分かった。スグリ、アグィーラまで飛べるか?」
「勿論です。何処まででも飛びます」
「シヴァ、アグィーラの医師を誰か連れてくることになるかも知れぬ。あと数名つけてくれ」
「はい」
「私は此処で待とう」
カエデに、カリン自身はアグィーラに留まるかもしれない可能性を伝え、この場をお願いする。カエデはおかしな気負いも無く穏やかに頷いた。
シヴァは、カリンとカエデが簡単に今後のことを打ち合わせているほんの僅かの間にアグィーラへ送る隊列を整えていた。スグリを含めて五名。万全な体勢だった。
カリンは診療所を出る前に、族長と少し長めの抱擁を交わした。
じっと黙って待つことは、きっと何よりもつらい。
「スグリさん、大丈夫?」
マカニを飛び立って少ししてからカリンは尋ねた。
「何が?」
「レンが行方不明になったばかりの時、責任を感じているようだったから」
「は。何の話かと思ったら……無駄口は叩くな」
叱られてしまった。
カリンは仕方なく、アグィーラへ戻った後の算段を頭の中で練ることにした。何となくこの時点でカリンは、自分が他の医師と共にマカニへ戻らずアグィーラに留まるだろうことが予想できた。マカニに居るよりもアグィーラに居た方が、自分にできることが多いからだ。
マカニの仲間を城の何処かで待機させ、最初にアオイの元へ戻ってワイの患者の状況を確かめる。それからツツジの所へ行こう。いや、時間的には先にツツジを押さえた方が良いだろうか。通常なら薬師室長を通すのが正規の手順だが時間が惜しい。そして、ツツジに直接話をした方が、話が通る可能性が格段に高いと感じる。
ツツジは自らの保身にも余念がないが、基本的に合理的な人間だ。感情による無駄な偏見を持たない。そして恐ろしく頭の回転が速い。
レンも、それからワイからの患者も、両方を救いたかった。そのために自分にできる限りのことをしよう。
アグィーラに到着するのは夕方だ。ツツジがまだ医局に居ることを願いつつ、カリンはツツジに話す道筋を何度も頭の中で転がしていた。
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