「月」を待つ。
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エレファントカシマシの「今宵の月のように」を聴いている。
一夏くらい、結構聴いた。最初の出会いからだとかれこれ三十年近くになる。
ロックなのに落ち込んでたり疲れてたりしている時にも沁み入る、私の腹に火を入れてくれるあったかいお粥のような一曲。
しばらく聴き込んで、疑問に思ったことがある。
この歌で空に浮かぶのは、なぜ月なのか。
エレカシには「孤独な太陽」という歌もあるが、この歌は太陽ではなく月。
作詞家本人や、公式的な見解は全く見ず、ここ数年の自分の動きを振り返りつつ解釈をしてみる。
月は自ら光を放つのではなく、他者からの光を受けて輝く存在。
私はここまで、できるだけ人に頼らないように、迷惑かけないように、借りを作らないように、
頑張って耐えてきた。
それでもどこか報われないような気がずっとしていて、いらいら、やきもきすることも多かった。
おそらく、歌を世に出した頃の宮本さんも、そうした殺気のようなギラギラした雰囲気を堪えながら、この歌に込めて歌ったんではないかと勝手に想像している。
しかし、この歌に登場する月も、
その月を見上げている「俺」もまた、
自ら光を放つのではなく、他者からの光を受けて、輝くことができる存在。
「いつの日か輝くだろう」と空を見上げている「俺」も、気づいてはいないけれど今宵の月に照らされて、今この瞬間も輝いている。
また、「月」は、今日はツイてる、などの言い回しのある「ツキ」にも通じている。駄洒落である。
月の光は、人との巡り合わせとか運のような、自分以外の人や関係からもたらされるもののことで、「くだらねえとつぶやいて 醒めた顔して」まで自分の力を出し切ったら、空を見上げて呼吸を落ち着けて、もらっているものにしっかり目を向け、大事にしてみようか、光の当たる方に歩いて行こうか、という意味が込められているように感じる。
こうしたことが最初から織り込まれて作られたのかどうかはわからない。
しかし最近の宮本さんの歌は、元々のパワフルな声に深みが増して、優しく語りかけるような、聴く人、失意の人みんなを照らす月のような雰囲気を持っている。
「くよくよすんなよ、月でも見ようぜ」と言われている気がして、帰り道、真夏の夜空をひとり見上げた。
…何を今更かもしれない小っ恥ずかしいことをつらつら書いてみたが、
曲を聴いてこんなことをぼんやり考え始めた頃、九月に入りマクドナルドのテレビCMでセルフカバーの方の「今宵の月のように」が流れた。
途中こういうフレーズが挟まれる。
誰かに頼るってこと、忘れてた気がする。
今日という日に、エールが必要だと思う。
マクドナルドはもうしばらく行っていないが、相変わらず綺麗な宮崎あおいに癒されつつ、この歌が最近いろんなところで推されるようになったことに納得しつつ、その時考えていたこととシンクロする人がいたことにちょっと驚きと感動があった。
いま、ここで自分が受けている光に気づけた時、本当に輝ける、光を返せるものになるのかもしれない。
次回↓
