不安という音楽
レナード・バーンスタイン(1918-1990)が、交響曲第2番『不安の時代』(The Age of Anxiety)を作曲したのは、1947年から1948年にかけてのこと。20世紀後半を代表する音楽家が、30歳前後の時期にあたる。
前回の記事で私は、東京をめぐるパーソナルな不安として、坂本龍一らによる2008年の音楽を取り上げてみたが、バーンスタインの語る「不安」は、音楽史上、最もスケールの大きなそれだ。しかし、いったんそう書いてみたものの、この曲は、どうとらえるとよいのか、難しいところがある。「いったい、何なんだ?」という、聴いたあとの虚無感とあわせて、謎の多い音楽なのだ。
「交響曲」というには、明確な主題があるわけでもなく、「現代音楽」というには、ポップすぎる。聴きようによっては、『ウェストサイド・ストーリー』につながる舞台音楽のようだが、また別の聴き方をすると、ショスタコーヴィチのような表情もしている。どう聴くべきかーーここから問題が始まる。
ウィスタン・H・オーデンの同名の詩に、作曲者が猛烈なインスピレーションを得たことは知られているが、音楽と詩の対応関係が、それほど明瞭なわけではない(ある程度はわかるが)。そもそもの詩が、心理学やら精神分析やら、様々な要素の影響を受けて、率直に言えば「意味不明」、お行儀よく言えば「難解」で、文学からアプローチしようとしても、容易ではない。
謎はまだある。作曲者は、「交響曲」とタイトルを付したこの曲を、実質的にはピアノ協奏曲として書いた。「シンフォニック・ダンス」のオブリガートのような役割でなく、舞台の中央に立つキャストとして、ピアノが存在する。この舞台の真ん中で踊るピアノ―それは後半、ジャズまで演じてしまうのだ―は、いったい何者なのか。
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原作、すなわちオーデンの『不安の時代-バロック牧歌』の言うところに忠実に描かれたとされるこの音楽は、都市に住まう4人の男女の、「神なき時代への不安」だと言われる。この長編詩は、1948年にピュリッツァー賞を受賞するのだが、正直に言って、わかりやすくはない。
詩の筋書きを手短に要約してみると、次のようになる。
ニューヨークのバーに、4人の見知らぬ男女がいる。積み荷係のクォント、カナダ空軍の医療情報将校マリン、百貨店のバイヤーであるロゼッタ、そして海軍新兵のエンブル。彼らは、あるニュース速報をラジオで聞いたことから、会話を始め、一緒にブースへと移動する。大量の酒を飲み、長く奇妙な議論を交わしたあと、ロゼッタは皆を自分のアパートへ招くのだが、彼女の願いは、エンブルだけが受け入れてくれること。しかし残念ながら、全員が彼女についていく。他の皆が、気づいて部屋を出て行ってくれるまで、エンブルとロゼッタは一緒に踊ろうとするけれど、エンブルが先に酔い潰れてしまう。やがて、夜明けとともに、皆はそれぞれの家へと帰っていく。
どこに魅力を感じればいいのかわからないストーリーだが、詩の大部分は、暗示的な詩句で占められていて、「七つの時代」だの、悲観的な世界観だの、潜在意識を巡る想像上の旅だのがちりばめられいる。実をいうと、ストーリーより一層、訳がわからない。オーデンの研究者でさえ、意味を完全には解読できていないと言われる。登場人物の4人は、ユング心理学における精神的能力(直観、思考、感情、感覚)の表象であるといわれると、わかったような気になりそうだが、結局のところ、よくわからない。
目線を変えると、「よくわからない」ということそのものが、「不安」の正体のような気もしてくる。心理学や精神分析などといった人間の分析が、果たして人間をよりよく理解するように仕向けているか。結局のところ、狂騒と快楽のなかで、何かを見失ったことすら気付かぬまま、茫漠と訪れる欠落に放心するーーそんなものが人間の正体ではないのか。そう考えると、いくらか、納得がいく。
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ただ、それは、バーンスタインの韜晦なのではなかろうか。
『不安の時代』というタイトルから連想しがちな、あるいは第二次世界大戦直後という作曲された時代から想起されるのは、政治的・国際関係的な不安である。ようやくナチスや帝国日本との戦争が終わったと思ったら、チャーチルによる「鉄のカーテン」演説(1946年)やウォルター・リップマンの『冷戦』(1947年)により、ソ連との対決は不可避であるとのムードが広がる。核戦争の恐怖は、現実のものとして認識され始めていた。マッカーシーによる「赤狩り」が始まるのも、1948年だ。
戦争は破滅かもしれない、戦争は恐怖(fear)を呼び起こすかもしれない、しかし、自分自身の存在価値が揺るがされるという意味での「不安」(anxiety)ではないーー原作や作曲者の言葉を文字通り解釈すると、そういうことになるのだが、それは「切ってはいけないもの」まで切り離してしまう。現代世界を生きる私たちは、自分自身のマインドが、外的な脅威と無縁ではないことを知っている。
トランプの一挙手一投足に、恐怖とは異質な「不安」を感じる。少し昔の話をするなら、2001年の同時多発テロ事件をリアルタイムで見ながら、生きることについて、ざらざらとした思いを抱いた人もいるだろう。こうした、現代世界を生きることの心理について、バーンスタインが、無関心だったはずはあるまい。『不安の時代』から40年後(1989年)に、冷戦終結を祝う「第九」を指揮することになる音楽家が、30歳のときには、世界規模での恐怖をスコープにおさめず、個人の心理にのみ目線を送っていたとは、およそ考えにくい。
放心の歌は、それぞれに歌われる。それは確かだ。思い通りにいかなかった欲望、道に迷った祈り、各々が自らを失い、呆然と歌うがよい。だが、時代精神はその背後で、常に鳴っている。「確かなものは覚え込んだものにはない、強いられたものにある」といったのは小林秀雄だが(「新人Xへ」)、「強いられたもの」は強靭な現実と言い直してもいいだろう。個人の確信や信仰は、強靭な現実に対して、どれほど確かなものであり得るか、と。
『不安の時代』に聴きとれる二元性は、おそらくそういうことだ。つまり、ピアノとオーケストラ、交響曲と協奏曲、インティメットでポップなサウンドとショスタコーヴィチ的な分厚いオーケストレーション。交響曲的な「二つの主題」の対立ではなく、様々な要素に現れる二元性が、個人と時代精神という二つの「不安」とパラレルな関係になっているのだ。
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冷戦の終結から35年が経ち、「冷戦後」のユーフォリアはすっかり冷めた。国連によって国際の平和と安全を維持しようという「湾岸戦争型」の夢は遠い過去のものとなり(そんな夢もあったのだ)、アメリカは世界のリーダーを「降りる」と言い張る。「国際秩序」という言葉すら、空々しく響きかねない……このくらいにしておこう。
「不安の時代」からおよそ80年経ったいま、そのアクチュアリティは、かつてないほど高まっていると言っていいだろう。変動期に、人は常にそう思いたがるものだ、と達観してみせても、無駄である。現に生きている人間の抱く不安。それは、「歴史は繰り返す」などという寝言より、よほど確かな経験だから。
私たちが、バーンスタインの音楽に、もし真剣に向き合うことができるのなら、それは、こうした不安の抱きとめかた、経験の仕方にある。快楽があり、失望があり、酒があり、議論がある。通奏低音は、ニュース速報によってもたらされる、時代精神である。他人事ではない。いまいる我々と、いかほどの距離があろうか。
■ レコーディング
バーンスタインは、本人が作品の多くをレコーディングしているため、これを超えるというのは、至難の業。まずは自作自演を聴いて、世界観にどっぷり浸ってみるしかない。
現代的かつアメリカ的な演奏といえば、小曽根真とアラン・ギルバートによるこの演奏が、秀逸。インティメットでジャジーな、たぶん原作の意志に最も近い演奏だろう。
クリスティアン・ツィメルマンとサイモン・ラトルによるこの演奏は、小曽根/ギルバートのとは正反対。「あれ、ショスタコかけたっけ?」と思うくらい、重量級で「クラシカル」な演奏。東西冷戦の最前線だったベルリンでポーランド出身のピアニストがやろうとすると、こうなるのだ、というと、別の説得力がある。これはこれで、すごい演奏だと思う。
「ベルリンの壁」崩壊から6週間後、東西からメンバーを集めて「歓喜の歌」を歌った、バーンスタインの象徴的な録音。演奏自体は上手いと言いにくいのだけれど、時代の感動的な記録である。
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