2026年ドイツ🇩🇪の旅⑪~ベルリン東地区を歩く
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ドイツの首都ベルリンは、冷戦時代に「ベルリンの壁」によって東西に隔てられていた。東ベルリンは社会主義、西ベルリンは資本主義の勢力下となり、ベルリンの壁は東西分断の象徴となった。
ベルリンの観光名所の多くは東ベルリンにあり、東西ドイツの統一後に急速に開発された。激動の歴史を語るベルリン東地区を散歩してみよう。
ベルリンの象徴ブランデンブルク門
18世紀前半、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はベルリン市街地の周りに城壁を築き、14か所(のち18か所)の門を出入りする物資に関税をかけた。これらの門のうち、唯一現存するのがブランデンブルク門である。

現在の門は、建築家ラングハンスの設計により1791年に完成した。冷戦中は、ブランデンブルク門のすぐ前に壁が建設されたため、門としての用をなさなくなったが、現在は自由に通行できる。

門の上にあるのは、4頭立ての馬車に乗った勝利の女神ヴィクトリア像。ナポレオン戦争中にフランスに持ち去られたが、ナポレオン没落後に取り戻された。
王族が眠るベルリン大聖堂
ベルリン市内を流れるシュプレー川の中州は、多くの博物館が集まることから「博物館島」と呼ばれる。その島でひときわ目を引く建造物がベルリン大聖堂だ。

第二次世界大戦で損傷したが、美しい内装も含めて修復されている。

古風な印象だが、帝政時代の1905年、ヴィルヘルム2世の命で現在の姿になった。一階及び地下には、プロイセンの王家ホーエンツォレルン家の墓所がある。

なお、ホーエンツォレルン家は、ブランデンブルク選帝侯→プロイセン王→ドイツ皇帝の地位を受け継いだ王室(皇室)である。


地下墓所では、ホーエンツォレルン家の一族の棺が展示されている。時代によって棺の様式が大きく違うことが目を引く。時折小さな棺もあり、乳幼児死亡率の高い時代だったことをしのばせる。

ベルリン大聖堂の高さは114メートルもあり、天蓋部分に上ることも可能だ。約270段もの階段を上るのは大変だが、ベルリンの町を見渡せる。
ナチス時代の記憶
周知のとおり、ドイツはヒトラー率いるナチスに支配され、第二次世界大戦の惨禍を引き起こした。その記憶を継承するモニュメントはベルリン各地にある。
・ホロコースト記念碑
ブランデンブルク門の近くの広場には、無数のコンクリ製の直方体が整然と並んでいる。正式名称を「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」という。

直方体の数は2711あるが、その数は意味を持たない。あえてシンボル性のないモニュメントにしたのだという。
・ベーベル広場
ドイツの名門大学・フンボルト大学の向かいにある広場。1933年、ナチスの命令で非ドイツ的とされた約2万5000冊の本が焚書された。
焚書の対象となったケストナーは、わざわざベーベル広場に出向いて自著が焼かれる様子を見物していたという。

地面にはガラス張りの穴があり、内部は空っぽの本棚になっている。
・虐殺されたシンティ・ロマの記念碑
厳密にはベルリン西地区、国会議事堂の南にあるスポットだが、この項目にまとめる。

ナチスはユダヤ人だけでなく、ドイツに住んでいたシンティ・ロマ人という少数民族も迫害・虐殺した。その記憶を継承するため、2012年に小さな公園が建設された。公園の外には、ナチスの迫害を受けた人々のパネル展示もある。

ベルリンはプロイセンや帝政ドイツの首都として繁栄しただけでなく、第二次世界大戦や冷戦という負の歴史も持つ。ベルリンを歩くと、その重みを感じられる。
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