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「風立ちぬ」をイチから語ろう① 全体構造編

今回は私の一番好きなジブリ映画、「風立ちぬ」について話してみようと思います。

といってもこの映画、語りだすとまちがいなく膨大な量になります。
本意ではないですがシリーズになってしまうかも…。

今回の話は「とりあえずの全体構成編」です。
改めて「風立ちぬ」って結局どういう物語だったっけ?
的な話になるのではないかと思います。

もちろん「風立ちぬ」は多義的な解釈に耐えられるだけの作品だと思うので、「これが決定版」などと言うつもりはないし、そもそも一元的に解釈することはできません。

私の稿も途中でつい筆が滑って断言的な表現になってしまっているところもありますが、そういう部分は「とりあえず私はこういう解釈していますよ」ということだと受け取ってもらえたら嬉しいです。

あ、いつものごとくネタバレはフルスロットルです!

七試と九試の物語


では「100分で名著」的なアプローチでこの映画の大枠を見ていきましょう。

まず、皆さんご存じ、この映画の主人公は堀越二郎です。
実在の堀越二郎氏と区別するために、映画の方の堀越二郎は「二郎君」と呼びましょう。

よく映画紹介などでは「零戦の開発者」と紹介されています。
だから「風立ちぬ」があたかも零戦開発までを描いた映画であるかのように書かれていたりすることがありますが、これはちょっと罪なミスリードだと思います。

本作は堀越二郎が零戦より前に開発した、とある飛行機を完成させるまでのお話になっています。

この映画には大きく2つの試作機が登場します。
飛行機にあんまり興味がないよ、という人もその2つだけ押さえておけば作品は理解できます。
その2つとは、

物語の中で二郎君が設計し、テスト飛行で墜落した「七試艦上戦闘機」通称、「七試」。

七試

そして菜穂子と出会った後に完成させる「九試単座戦闘機」、通称、「九試」です。

九試

この九試というのが実在の堀越二郎氏が後に「会心の出来」と回顧したほどの神チューニングの機体だったのですね。

旋回、運動の能力が高い軽量機体でありながら、速度も出せました。
当時の最新鋭の英機・米機が最速400km程度、日本の場合はさしあたっての海軍要求が時速350kmのところ、じつに450kmも出してしまいます。

その上、特徴的な逆ガルウイングを備えた凛々しいフォルムで、作中でも本庄技師が「こりゃあアバンギャルドだ!」と感嘆するシーンがあります。

しかもこれは単なる装飾ではなく、プロペラサイズや車輪脚重量など、設計上の数々の問題を解決するひとつの適解として神から与えられたようなデザインであり、まさに「美しい飛行機」と呼ぶにふさわしい機体でした。

この九試の誕生までを描いているのが「風立ちぬ」がとらえている時間軸の範囲になります。

ここで七試についても触れておきましょう。

七試と九試の写真を並べて貰えば一目瞭然ですが、七試というのは全体にぽってりとした機体なのです。
その上、首をぎゅっとちぢこめたような、窮屈そうなフォルムをしています。

その鈍重さが見ようによっては可愛く見えなくもないですが、精悍さや流麗さからは遠いです。
少なくとも二郎君が作りたいような「美しい飛行機」がこれとは、あまり思われません。
史実でも呼ばれていたようですが、作品内では「アヒル」と表現されていますね。

どうしてこうなってしまったかというのは「ワンモア」さんという方のnote記事で紹介されているのでぜひ読んでみてほしいのですが、→

小口径で出力の出る国産エンジンがなかったため大口径のエンジンを積み、胴体が太くなり、ジュラルミンを薄く工作する技術がなかったために翼も分厚くなり、脚の問題も技術的な問題があってスマートな処理ができなかったというような顛末のようです。

なお、もしこの認識が間違っているとすればワンモアさんの記事ではなく、私の理解違いですのであしからず。

要するに当時の日本の技術力の限界ということになると思うのですが、映画の中ではさらに追い打ちをかけるように鋲の凸凹をしっかり描き込んで、「これは美しくない機体である」ということが強調されています。

よって、物語全体の流れとしてはこうなると思われます。

「美しい飛行機を作りたい」という夢を抱いてエンジニアになった二郎君が、自ら設計した七試の醜さにすっかり意気消沈して当初の情熱を失いかけるものの、軽井沢で再会した菜穂子との出会いによって再び情熱を取り戻して九試の設計に挑む」

そんな流れがストーリーラインの1つとしてあります。
こう書くと「何を描いている作品なのか分かりにくい」と言われることも多い「風立ちぬ」に、ものすごく鮮明な起承転結が立ち上がってくるのがわかります。

冒頭で「風立ちぬ」は「零戦誕生秘話ではない」と述べました。

本作では零戦開発に関しては触れていませんが、九試誕生に至るまでの、特に菜穂子に関する部分は宮崎監督の大胆な創作が入っていて、いわば「風立ちぬは九試誕生秘話を新解釈した映画である」という言い方もできるでしょう。

「風立ちぬ」の世界線


ではこの映画の中で、二郎君は今どこにいて、何をしているのでしょうか?

要するにどういう世界線の話なのか?
ということですね。

あっさり結論を言ってしまうと彼は煉獄にいます。
煉獄は今だと「炎の呼吸の人」の方が有名だったりするので、辞書を引いてみます。

【煉獄】
カトリックの教理で、小罪を犯した死者の霊魂が天国に入る前に火によって罪の浄化を受けるとされる場所、およびその状態。天国と地獄の間にあるという。ダンテが「神曲」中で描写。

デジタル大辞泉

ちょうど二郎君が「地獄かと思った…」と述べている空間、あれが煉獄です。
映画の中で度々登場する夢のようなシーンは、時に現実と空想的な描写が入り混じったりして、ともすれば迷子になる人もいるかもしれないですが、あれは煉獄で見ている二郎の夢であるという風に解釈できます。

彼はそこに長い時間縛られていて、飛行機づくりの夢を追ったために病弱の妻を死なせ、作った飛行機で多くの人を帰らぬ人にしてしまい、国すら滅亡させてしまうバッドエンドの悪夢を繰り返し繰り返し見せられ続けているのです。

とこう書くと、ジブリ映画に詳しい読者の方はピンと来るかもしれません。
何かの作品に似ていると思いませんか?

そう、この作品、「火垂るの墓」ととても似たつくりの作品になっているんです。

「火垂るの墓」も煉獄に縛られた清太がバッドエンドの人生を繰り返し見ている構成の映画ですよね。

二郎君がいかにエゴイストな人生を生きたかは次のパートで語りますけど、「火垂るの墓」もまた清太のエゴイズムによって節子を死なせてしまう心中物のアウトラインを拝借している作品なわけで、いわば「風立ちぬ」は宮崎駿版「火垂るの墓」とも言える作品になっているのです。

これは深読みのしすぎでもなんでもなくて、こういうことはスタジオジブリにおいてはしばしばあるのですよ。

高畑・宮崎両監督はお互いの作品の中で相手を批判したり、反論したり、アウフヘーベンをしたりといったことを繰り返していました。

だからこの両作品がよく似ているというのは偶然ではなく、宮崎監督は「火垂るの墓」への反論や、ある種の上書きを意図してこの作品を作ったということが言えると思います。

話を戻しましょう。
要するに、

風立ちぬは二郎君が煉獄で繰り返し見ている夢を再生しているループ動画。
です。
そして映画の最後、九試のテスト飛行の最中にふっと夢から醒める。
するとそこらじゅうに零戦の残骸が転がっていて・・・という構成になっています。

夢の再生だから、多くのシーンにおいて、二郎君が生前に記憶していたことがそのまま映像化されています。

飛行機の「ブルブル」とか「シュコー」などという音に人間の声を使っているのが封切り当時話題になりましたが、これは二郎君の記憶を再生しているからに他なりません。
二郎君は乗り物、とりわけ飛行機の音は人間の声で記憶しています。

映画評論の町山智浩さんが「男の子がおもちゃ遊びの時にやる『ブーーン』というアレでしょう」みたいなことを言っていましたが、その通りかと思われます。

乗り物ついでに言えば、作品全般を通して、乗り物に関してはかなり鮮明な描写がある一方、1927年金融恐慌によって起きた民情不安などの社会的描写はいささかふわっとしていて、表層的です。

それから二郎君にとって、イジメをする少年や勇ましいことばかり言いたがる軍人たちは心底どうでもよいと思っているのか、声が音としては聞こえるが言葉として聞こえていない、という演出がなされています。

こういう、描かれているものよりは、敢えて描かれないもの、スルーされているものを通して主人公の二郎君という人物の人格を描こうとした作品だ、ということを押さえて欲しいです。

庵野さんを二郎君の声に起用した理由


さて、次は二郎君の性格です。
彼はどういう性格の男なのかを見ていきましょう。

これもあっさり結論を言ってしまうと、彼はひたすらメカと美少女が大好きで、それ以外のものへの興味がほとんどない人間なのです。

これは庵野秀明さんを声優に起用していることからも理解できます。

庵野さんは演技の素人だということで、公開当時から賛否両論あったキャスティングですが、ちょっとわかりにくいところがある「風立ちぬ」という映画を分かりやすく解題して
「要するに主人公は庵野さんみたいな人ですよ」
と説明してくれた点ではすぐれた判断だったと言えます。

庵野さんってまさにそういう人ですもんね。

ただ残念なことに、そういう説明になっているということ自体、あまり理解されていないようでもあります。

庵野氏を起用した理由に一番最初に気づいた観客は安野モヨコさんかもしれません。

さて、メカ好きというのは二郎君が飛行機のエンジニアになるという流れから比較的理解しやすいとして、では美少女好きという部分についてはどんな風に表現されているでしょうか。

顕著に表現されているのは、三菱内燃機への初出社のシーンです。

初めての職場で、二郎君は若い女工さんたちばかりを見ています。
隣を歩く上司が小言を言っていますが、そういうオジサンの話は全く聞いていません。
そして最後に飛行機を見つけ、見とれているうちに隼チームのフロアを案内される。
そういう流れになっています。

美少女へ関心を向けるシーンはここだけではありません。
汽車で席を譲るときも、子守をする少女にシベリヤをあげるときも、震災でケガをした絹を助けてあげたときも、彼が誰かに親切にするときは決まって若くてきれいな女性です。

では、彼はなぜメカと美少女の2つが好きなのでしょうか。

それは「うつくしいから」「きれいだから」、です。
まるで幼児のような感性に思うかもしれませんが、それが我らの二郎君なのです。
映画では冷酷なまでにそういう彼を繰り返し描写して行きます。

二郎君のすぐ下の妹・加代は、のちに医者になるほど頭脳明晰な子です。
歳の近い二郎君を「にいにい」と呼んで慕ってくれています。
しかし容姿はあまり美人とは言えません。

この美人ではない妹に二郎君は冷淡です。
約束をしてもいつも忘れています。

そのつど「にいにいは薄情です!」と怒られるのですが、二郎君は妹のことを愛していないわけではないのです。
彼なりに可愛がってもいます。
ただ、申し訳ないけれど、美しくない妹にはそもそもの関心の量が少ない、これはそういう話なのです。

二郎君はサバが好きです。
サバの骨の曲線は美しいからです。

彼は「美しいものが好き」という根本的などうしようもない内面を、飛行機と女性に二重化しているような、そんなキャラクターと言えます。

周囲の人から二郎君はどう見えたか


今回は全体構成のお話ということなので、作品内容についてはここまでとします。

次稿で「二郎君の物語」を紐解けば「風立ちぬ」がおおよそ何を描こうとした映画なのかは分かるかな。
そんな風に思います。

最後に、書き洩らしたことに少し触れておきましょう。
まず、二郎君の運動音痴については結構丁寧な描き込みがあります。

震災のとき、菜穂子と二郎君が上野まで走るシーン。
13歳の菜穂子と20歳の体力全盛期の男性である二郎君が同じ距離だけ走って来たというのに、菜穂子は涼しい顔をしていて二郎君だけが息が上がっています。

菜穂子喀血の知らせを聞いて取り乱すシーンでは着替えながら盛大にすっ転びます。
少年期、いじめられている子を見つけて助けようと走り出しては転び、震災のときはお絹を背負って歩き出しては転び、要するに二郎君は焦ると足がもつれて転ぶ運動神経の人なんですよね。

近視と運動音痴というのは帝国主義時代の男性にとってはそれだけで格下感があります。

書き洩らしたことの2つめは、二郎君を周囲はどう見ていたのかということです。
特高が菜穂子からの私信を勝手に開くかもしれないと聞いて二郎君が憤慨するシーン。

「一度下宿に帰らせて下さい。手紙が来るんです」
『見られるとまずい手紙か』
「はい。極めて困ります」
『特高は平気で私信を開けるぞ』
「婚約者の手紙です。それは冒涜に当たります。近代国家にあるまじき事だ」
『ガハハハ。君、婚約したのか』
『二郎も人間だったか』

ここで客観的におかしいのは、恋人からの手紙を勝手に読まれることに対して遠大な近代国家論を持ち出す、二郎君のトンチさです。
けれども服部課長も黒川さんも笑っているのはそのことではありません。

二郎君に彼女ができたことに大ウケしているのです。
だからこの時点では運転手の方は笑っていません。
続いて、黒川さんが第二ポイントへのツッコミ。

『日本が近代国家だと思っていたのか』

ここで初めて運転手の方も笑いのきっかけを得て一緒に笑い出します。
服部課長も黒川さんも二郎君の仕事は認めていても、人間的には大人扱いしていなかったことが読み取れる感慨深い描写です。

これに似た場面がもう1つあります。
二郎君と菜穂子が黒川家で祝言をあげるときの一連のシーンです。

まず黒川さんの口上が面白いです。
黒川夫人が菜穂子を

「七珍万宝投げ捨てて、山を下りたる見目麗しき乙女」

と呼んだのに対し、黒川さんは二郎君を

『雨露しのぐ屋根もなく 鈍感愚物のオノコなり』

と言い放ちます。
鈍感愚物。
直属上司から発せられたパワーワードにしびれます。
さらに追い打ちをかけるように、盃をかわした二人に黒川夫人が言います。

「素敵な人が二郎さんを好いてくれて、私たち嬉しいの」

この表現が秀逸なのは「二郎さんが素敵な人を連れてきて」ではなく、
「素敵な人が二郎さんを好いてくれて」なんですよね。

黒川夫人から見た二郎というのが「男としてはちょっとダメな親戚の子」くらいのものだったことが分かるセリフになっています。

さて、こんなダメ男子属性の二郎君が、時代と、運命と、自分の夢とどのように向き合うのか。

次回は二郎君編をやりたいと思います。
来月になるか、半年後になるかはわかりませんが・・・。

それではまた。

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