失敗の中に芽生えた希望〜七試艦戦の物語【堀越二郎の挑戦その1】
新しいシリーズを連続投稿していきます。映画「風立ちぬ」や零戦の設計者で有名な堀越二郎氏(以降敬称略)の手がけた飛行機たちを紹介。2012年のアニメ映画「風立ちぬ」の内容も少し加えながら全7回を予定しています。お付き合いください。
1.若き天才、堀越二郎
1903年、群馬県藤岡市に生まれた堀越二郎は、幼い頃から空を飛ぶことに憧れを抱いて育ちました。旧制藤岡中学から第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部航空学科に進学します。
当時、飛行機はまだ新しい技術分野でしたが、彼は先端を切り拓くことに強い志を抱き、首席で卒業を果たします。同級には、のちに国産旅客機YS-11に携わる木村秀政や土井武夫らもおり、互いに切磋琢磨する仲間たちがいました。

彼は「船に代わる世界をつなぐもの、飛行機をつくりたい」という夢を抱いていたといいます。
卒業後、堀越は三菱内燃機製造(後の三菱航空機)に入社し、航空技術者としての第一歩を踏み出します。さらに欧米に派遣され、最新の航空工学を吸収する機会を得ました。のちに零戦設計者として知られる堀越の基盤は、この青春期に築かれていったのです。中島知久平といい、群馬県は飛行機技術者と縁がある地域なんでしょうか。
2.「七試艦戦」の開発。若き堀越二郎の試練
1932年(昭和7年)にもなると再びきな臭い世界情勢になっていきます。世界の潮流に遅れをとるわけにはいかない日本も、輸入やライセンス生産に頼っていた航空産業を悲願の「国産自立」へと進める決断を下します。
この年、海軍は艦上戦闘機、艦上攻撃機、双発艦攻、三座水偵、大型陸攻の5種を対象とし、艦上戦闘機については三菱と中島に競争試作を命じました。要求性能は、時速370km以上、高度3000mを4分以内で上昇すること・・・。当時としてはかなり厳しいものでした。海軍の無茶ぶりはこの頃から始まっていたのですね。
三菱はここ数年、主力機の採用(九〇式艦戦と九一式戦)で中島飛行機に連敗し、経営は苦しい状況でした。その中で起死回生を託されたのが、入社5年目の若き技師・堀越二郎。
まだ設計主務補佐すら経験していない28歳の青年が、いきなり七試艦戦の設計主務に抜擢されたのです。

(C) 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK
3.若き日の決断
堀越は迷いませんでした。従来の複葉機では海軍の要求に応えることはできない。ならば世界の趨勢となりつつある「低翼単葉、全金属製で勝負するしかない」と。
海軍の要求に応えるためには、現状の複葉機のスタイルではなく、確実にこれからの世界の流れになる低翼単葉、そして全金属製の航空機でいくことを堀越二郎は決意します。
ライバルの中島飛行機が、布張りの高翼単葉機の九一式戦闘機の強化型で出してきたことからも堀越技師の意気込みがうかがえますね。

ただし、設計はフランスから招聘したアンドレ・マリー技師で日本人による設計ではなかった。
一方でライバル中島は、陸軍九一式戦闘機を基にした布張り高翼機を提出。これに比べても堀越の挑戦がどれほど革新的であったかが分かります。
設計は、全金属製のセミモノコック構造。狭い空母に着艦するための安定性を考えて面積の大きい楕円翼を企画します。本当は脚も引き込み脚にしたかったのですが、技術的な困難さがあって断念。
さらには、翼の主桁が当時の工作技術では理想にはならず、薄いジュラルミンを何枚も重ねて鋲で留めることでしかできないため、翼厚比は最大20%と分厚い翼になってしまいました。予定のエンジンも液冷600hpが実用化困難なために最終的に大直径の空冷エンジンに変更されるなど困難の連続でした。
それでも設計開始からわずか11か月後、昭和8年2月に試作1号機が完成します。

4.「鈍重なアヒル」の悲劇
完成した機体を目にした堀越は落胆しました。分厚い翼、抵抗の大きい固定脚、猫背の胴体――理想からは大きくかけ離れ、堀越自身が「鈍重なアヒル」と呼ぶほどでした。

性能も最大速度320km/hと海軍要求を満たさず、操縦性や安定性にも問題を抱えました。さらに試験中、1号機は急降下で垂直尾翼が折れて墜落。2号機もフラットスピンに陥り、ついに失われてしまいます。幸いパイロットは脱出に成功しましたが、三菱は大きな痛手を負いました。

(C) 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK
一方の中島機も要求に届かず、こうして七試艦戦計画は不首尾に終わります。海軍はつなぎとして九五式艦戦を採用することになります。

https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln3/TH019.html
5.失敗の中に芽生えた希望
映画『風立ちぬ』では、この失意の堀越二郎が休暇を与えられ、そこで菜穂子と出会う場面として描かれています。史実では、この時期はすでに新婚さんなんですが・・・。
この挑戦は大きな挫折でありながら、堀越と三菱設計陣に数々の教訓をもたらしました。
冷静に分析し、数々の反省点も出て来ました。まずは発動機選定の不適切。現在の工作機械などによる機体設計、工作技術の未熟による空気抵抗の増大。重量軽減策の不徹底など。
新しいことにチャレンジしたことで、改善の可能性の芽も開けてきました。工作技術の向上や沈頭鋲(頭が出ない平たいリベット) の開発も行います。
そして活かされることになった技術は九試単戦へと受け継がれていくことになります。
七試艦戦は「失敗作」と呼ばれます。しかしそれは、青年堀越二郎が初めて設計主務として挑んだ、未来を切り拓くための必然の一歩であったことは事実です。
「鈍重なアヒル」は飛び立てなかったかもしれません。けれどその背には、零戦へと繋がる銀翼の萌芽が、確かに宿っていたのです。→続きます。

(C) 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK
