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【書評】見ること、見られること、見せること〜『よりみちじんせい』について

いつも道に迷っているとりです。
道に迷うことは嫌いではなくって、
わりと楽しげ生きています。

そんなぼくにとって、
人生は最初から
「よりみち」の煮凝り
みたいなものです。
味わい深いですよ?

今回はずっと前からご紹介したかった
noteで公開されている
『よりみちじんせい』という作品の
書評をしたいと思います。

第0話(無料版のみ)

有料全体版(まとめて読みたい方向け)

作者は、「よりみちじんせい」さんです。
タイトルと同じですね。
ぼくは私小説として読みました。

この作品は、特に、

  • 他のひとの目が気になるひと

  • 他のひとの目を気にすることに疲れてしまったひと

  • 傍観者であることに言いようのない不安を覚えているひと

に読んでほしい、と思っています。

あと、田園都市線沿線に住んでるひと、住んでたことのあるひとや、「なんとなく」ということばが気になって仕方ないひとにもおすすめです。

1.見る-見られる関係

ぼくたちは、
見る-見られるという関係が、
これまでにないほどに
強くなってしまった
世の中を生きています。

ICTの発展や
SNSの普及が原因、
というわけではない
とも思います。
見る-見られる関係が
強いという下地があるから、
これらが普及した、
という側面もありそうです。
お互いに補い合っている、
とも思えます。

例えば、テレビや雑誌の、
無遠慮な一次情報らしきものの
垂れ流しをぼくたちは
簡単に楽しめます。

一方で、SNSを通じて、
見られる側にもなれます。

でも、見られる側になるにも、
上手下手はありますし、
見られたくないという気持ち
も同時に持っています。
見る側が安逸なのかと言われれば、
見る側のみに回ろうとすることは、
何かを問われる瞬間もあります。

ぼくたちは、見ること、
見られることを巡って、
色々なことを
問われる暮らしをしている、
と考えることもできそうです。

『よりみちじんせい』は、
見る-見られる関係が
強く編み込まれた世の中で、
日々をやり過ごしていくことが、
できなくなったひとたちの物語です。

2.見られている(と感じる)暮らし

誰もが見られる世の中では、
それまで以上に、
どう暮らしているかを、
他のひとたちと比べやすく
なってしまいます。

本作の中では、主人公によって、
きらきらした東京の生活
地方での丁寧なくらし
そして、
どちらでもない、みじめな自分
という対比が行われます。

本作は、
田舎のねずみと都会のねずみ
といったお話ではありません。
また、他人の目を気にする
同調圧力の強さを問題にする、
というお話でもありません。

それぞれのひとに合った
それぞれの暮らしの問題や、
どう振舞うことが正しいか、
という問題ではないのです。

みじめな自分という評価は、
適不適や善悪ではなく、
羨ましがられるような良さを持っているか、
という強弱の問題なのです。

自分自身のみじめさとは、
大抵の場合、傍目にみれば、
ただの自意識過剰です。
なぜなら、
他人は自分に興味がなく、
敢えて言うなら、
最初から取るに足らない存在が、
よほどの変化をしようとも
大して評価は変わらない、
というお話でしかありません。
それまでと何か態度が変わることは
まずありません。

ですが、自分ごととして考えるならば、
それはとても深刻な問題です。
ぼく自身、身に覚えがいくらでもあります。
仕事の価値を友人に盛って話すこと、
プライベートの充実をアピールすること、
いくらでもやっています。
わずかな評価の違いに、
戦々恐々としてしまうからです。

それでいて、どうして
そういう自分になってしまったのか
ということについて、
「なんとなく」としか言いようがない。

主人公はぼくたちが持つ
そういう弱さ、醜さを象徴する存在です。

本作は、どうすれば、
「なんとなく」生きてきたひとが、
みじめさから離れて生きられるか、
というお話です。

3.見られること自体の苦痛、見るだけでは薄れてしまう自分

本作では主人公「私」とは別に、
2人の人物が出てきます。

主人公にとってよく分からない存在、
援助者でもある「彼」。
きらきらした東京の生活を象徴する
唯一の名前を持つ登場人物、理恵です。

物語が進むとともに、
彼らもまた、
見る-見られる関係性の中に、
うまく生きられなさを
感じて生きていることが
明らかになっていきます。

(1)見ることの終わりのない責任、薄れていく自分

主人公は、
「見られること」に、
うまく適応できず
東京の生活から離脱し、
離脱した先の弘前でも、
なかなかうまくいきません。
対して、
「彼」は「見られる」ことの
暴力性から逃れるために、
「見る」側である写真家になります。
しかし、彼は「見る」だけでは、
「自分が薄くなる」とも表白します。
作中、主人公は、
撮影し、残すことは、
何かを意味付けするもの、
といったような理解をします。

ここには2つの意味があります。
主人公は、そこには責任が生じる、
しかし、その責任は背負いきれないもの、
と「彼」の苦しさを評します。
暴力の責任を取りきれないのは、
償いなく、赦しもない日々であり、
確かに苦しいでしょう。

そして、主人公の理解とは別に、
「彼」のことばから察するに、
意味づけをするものを続けることは、
いつまでも意味付けされない、
存在しないものになってしまう
と感じているのでしょう。

「彼」は作中、幾度も、
嘘と本当ということばを
繰り返します。
そして、嘘も本当も、
どちらも肯定する時と
否定する時があります。
彼にとって、
それは何かが嘘である、または、
本当であるということ自体が
大事なのではないのでしょう。
「隠しきれない本音」
「隠しているつもりでも、
透けてしまうもの」
と言ったように、
見られることによって、
暴かれることを
意識している発言が見られます。

意味付けされる苦しみから、
見る/撮る側に回った「彼」は、
しかし、そこにい続けることで、
自分自身が何者でもなくなってしまう、
という実感の中にいると想像されるのです。

(2)見られること自体の苦痛

一方で、理恵は、
東京できらきらした生活をする
「見られる」ことに適応した女性です。
無邪気で、悪意なく適応できます。
そうした彼女に主人公は、
引け目を感じ続けています。
主人公にしてみれば、
悪意なく自分のみじめさを想起させる
悩ましい存在です。

一方で、何度も、
弘前の主人公のもとに遊びにいく、
という不思議な行動をとります。

彼女の悩みは、
見られることの
純粋な苦痛です。

主人公が、見られることにまつわる、
さまざまな自意識の問題に悩むとするなら、
見られることが自分に引き起こす変化に
苦しんでいたのが理恵です。

だから、作中の短い期間に、
「私」への訪問を反復するのでしょう。

ここには少しのすれ違いがあるのです。
理恵にしてみれば、
「私」のいる弘前は、
なじみの存在のところに戻ること。
「私」にしてみれば、
東京のくらしが戻ってくる
不気味なものです。

4.よりみちしながら生きていくこと、弱さとともに生きること

主人公は自分とは異なる、
それでいて形を変えた同じもの、
つまり、見る-見られる関係性から
生きづらさを覚えている
2人との交流の中で、
徐々に自分自身の生き方を
見つけていきます。

それは東京から弘前へと移住したこと、
その人生のよりみち自体を、
じぶんの生きてきた道として、
受け止めることです。

それはよりみちではなかった、
と意味を転換するよりも、
誠実なあり方です。
なぜなら、主人公は、
そしてぼくたちは、
見る-見られる関係性から、
降りることはできないからです。
それは世の中のあり方の問題で、
一足飛びに変えられません。
ですから、他人から見たら、
よりみちに見えるだろう生き方は、
やはり、「よりみち」
と呼ぶしかないのです。
その上で、よりみちという人生を、
肯定することの方へ向かっていきます。

それは自分の中の見栄や醜さを、
ひとまずのところ受け入れて、
単純に否定することなく
生きていくことです。
それは弱さとともに生きる
ということでしょう。

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