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ROPPARATANDAI【無意識下のもう一つの世界】

先の投稿『テッ|キン|コン|クリート』で、ある言葉に偏執狂的に取りつかれてしまった詩人・萩原朔太郎について書いた。

アレの続きっちゃーなんですが、こういうことは無かったろうか?
(反語:いや、あった・・に違いない)

例えば授業中など、ひと通り緊張しているものだから、その場で笑ったり訝しんだりするいとまがなく、とりあえず教わった言葉を耳から、頭脳へとインプットしなくてはならないようなシチュエーション。

当然あくびが出るような退屈な授業。
(なにせ、教える側も日がな同じようなことを繰り返し教鞭を垂れているものだから、エモーションがあがらない)

そうした教室内の酸素が薄くなって、ヘモグロビンが満足に脳内に回らなくなったような昼下がりの授業。
そう日本史だ。

そこで、例えば

六波羅探題

のような名辞が出た際に、あのどーしていいのかわからない感覚が襲うことがなかったろうか?

妙な違和感。
しかもそれは級友にも、当然先生にも絶対に顔に出して悟られてはいけないような・・それでいて不意に吹き出してしまいそうになるような・・。
そういう感覚、

「冗談も休み休みにしときぃ」というあの感覚が、、、

え?
ない💦

「ろくはらたんだい」

というのが正しい読みであるのだろうが、そうとは知りつつ、頭の中では

「ろっぱらたんだい」

と暗誦していた。

何と切れのいい音だろうか?

「ロッパラ」という音は、唾が飛びそうな切れ具合ではなかろうか?
そこにもってきて「探題」という、いかにも由緒正しげで、いわくありげな語句がそれに続く。

ついうっかり「そうだったんだい」と深く納得してしまうではないか?
いったい探題とは何だい?

このように、「六波羅探題」とは実に美しい語句ではあるまいか?

そこに、お受験的な教養としての「意味・解答」とはまた別種の景色が即座に脳裏にインプットされてしまう。

そのお役所(探題)の門が開くと、燦然たる光が差し込み、現代の京都・六波羅へ行き来できたりする、といった風な。

それを「そんな阿呆な」と思う者は可哀想な奴だ。
彼の「六波羅探題」は、字義通りの「鎌倉幕府が朝廷を監視する目的で京都・六波羅に設けた出先機関」以外のなにものでもないからだ。


実はこれは、後に、近世・江戸時代になって登場する「大塩平八郎」とも相通じていた。

こちらは、誰しもが感じるように、語句が美しいというよりは、しょっぱかった。
愉快な日本史の先生が、

「おおしおぺっぱちろー」

とパピプぺを強調しつつ、文字どーり「ぺっ」と口角泡に加えて唾を飛ばしていたのが印象深かった。
米騒動の火をつけるのは「平八郎」というおとなしい名の人物ではなく、そこはやっぱりペッパーランチに非ず、しょっぱい大将ペッパチローでなくてはいかん、自然にそう思い込むように無意識に誘導されていた。

────で、それが何?

大塩平八郎

うん、いかにもくだらなく見えるだろう?
しかし、君、僕は単なるくだらない話にわざわざ時間を割くつもりはない。

僕が強調したいのはね、

私たちは日中の様々な出来事を通じて、実は意識下、水面下でもう一つの世界を形成し、日常の現実世界と同時にそこにも生きているのではないか? ということだ。

────それっていわゆる並行世界パラレルワールドのことかい?

そう、そんな大仰な言葉を使わずとも、個人はその独自の感性でダブルイメージを構築してしまうんだ。
いや、みなそうした仕事を日夜やっているんだが、さきほどもチラッと触れたように、どーいうわけかそれを隠したがる。

やましいのではないが、まさか自分が物事をそのようにとらえているのは異常なことなんじゃなかろうか?)

他人に知られたくない。
恥ずかしい。
口外しない。

よって、このことは各人きわめて私的な事象として埋もれてしまう。
だから「もう一つの世界」などの存在は白日の下にさらされることはないのだが、ひょんなことからそれがどこかで漏れてしまった事例を「パラレルワールド」と称しているんではないか。

私はそう考えるんだよ、君。

世界は意外にもたやすく変わるんじゃないんだろうか?

たしか15,6歳のころだったと思う。
文学好きのませた友人が、彼自作の詩について不意にこんなことを言ったのを、あれから半世紀も経った今でも不思議に覚えている。

「『草原(そうげん)』と書いて、この場合『くさはら』と読んでもらいたい」

なるほど、「くさはら」と訓読みすれば、また表情が柔らかく変わるではないか。
おまけに風景、空気、光線までも違う。
その違う世界で生きる者は、おそらく元の世界と同じではないだろう。


付録1

無意識下で営まれるもう一つの世界。
六波羅探題界隈でのまた一味違った景色を以下に見てみよう。

付録2

あるいは、今ここでの世界と同時に並行して存在する世界への切符が、あなたをビビッとさせるその語句(護符)なのかもしれない。
それは人によって違うだろうし、また多様であるだろう。

その言葉の内容はあまり意味をなさない。
重要なのは「音」だが、単にその音が奇異であったり素敵だということが判断基準ではない。
また、例えば下にある
荻生徂徠|蘇民将来
のように、まったく無関係なようでも近似性があるものもある。

ここでは例としていくつかの言葉(名詞)を挙げたが、膨大な言葉が有機的に相互に結びついたりして、それぞれ独自の世界を形成していく。

今一度、あなたも自分の無意識下で作っている言葉によるもう一つの世界を覗いてみようではないか。

そよーちょー《租庸調》

さきもり《防人》

かんのわのなのこくおう《漢の倭の奴の国王》

ダントンマラーロベスピエール

ボッカッチオ『デカメロン』

ぬひ《奴婢》

わどうかいちん《和同開珎》

おぎゅーそらい《荻生徂徠》

そみんしょうらい《蘇民将来》

そがのうまこ《蘇我馬子》

がんじん《鑑真》

えみし《蝦夷》

けびいし《検非違使》

・・・

後記

おそらくなかにはこう思われる方もおるだろう。
「そういうことでは授業も上の空、赤点必至だろうな」
「だからあなたは、何話しても話半分で聴いてないのね」

ま、私もそう思います。


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Monikodo 東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。