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テッ|キン|コン|クリート

到頭とうとう或る日、私はたまりかねて友人の所へ出かけて行つた。部屋に入ると同時に、私はいきなり質問した。
 「鉄筋コンクリートつて、君、何のことだ。」
 友は呆気(あつけ)にとられながら、私の顔をぼんやり見詰めた。私の顔は岩礁(がんしよう)のやうに緊張して居た。
 「何だい君。」
 と、半ば笑ひながら友が答へた。
 「そりや君。中の骨組を鉄筋にして、コンクリート建てにした家のことぢやないか。それが何うしたつてんだ。一体。」
 「ちがふ。僕はそれを聞いてるのぢやないんだ。」
 と、不平を色に現はして私が言つた。
 「それの意味なんだ。僕の聞くはね。つまり、その……。その言葉の意味……表象……イメーヂ……。つまりその、言語のメタフイヂツクな暗号。寓意(ぐうい)。その秘密。……解るね。つまりその、隠されたパズル。本当の意味なのだ。本当の意味なのだ。」
 この本当の意味と言ふ語に、私は特に力を入れて、幾度も幾度も繰返した。

萩原朔太郎『虫』より抜粋

人はときおり一つの言葉が頭から離れなくなることがある。
この詩人の場合、「鉄筋コンクリート」という言葉がそうだ。

詩人は、ふと耳にした「鉄筋コンクリート」という言葉が、さながら毛虫のように頭の中で蠢き、ついにはそれが離れなくなった。
本人曰くその様は強迫観念をもった「精神衰弱病」のごとくであった。

事実、ここで友人に詰め寄る前にも、偶々電車で隣に乗り合わせた2人の建築技師とおぼしき紳士に対して、やむにやまれずに「鉄筋コンクリート」の意味を問うている。二人の会話に「鉄筋コンクリート」という名辞が含まれていたのを耳にしたからだ。

「その……ちよいと……失礼ですが……。」

詩人にしては相当に思い切った挙動に出たのだろう。

「その……鉄筋コンクリート……ですな。エエ……それはですな。それはつまり、どういふわけですかな。エエそのつまり言葉の意味……といふのはその、つまり形而上(けいじじよう)の意味……僕はその、哲学のことを言つてるのですが……。」

建築技師の立場になってみれば、いや、そうでなくてもこの質問者をヤバい人間、近づかない方がよい人間と思うのは当然だろう。

さて、哀れ詩人先生は次第に追い込められて行き、しまいには、その「鉄筋コンクリートの何たるか」の解を本当のところは友人も、さらには車中の二人組も知っていて、空とぼけているのではないか、という被害妄想的な猜疑心にまで高じる始末。

虫?

突然に、あまりにも落差がある声をかけられると、人はおかしな返答、または挙動に出る。
この建築技師の場合、やにわに見ず知らずの男から、いくら専門の「鉄筋コンクリート」という建築用語であろうが、その意味というよりも、もっと抽象概念である「形而上」の、かつ「哲学的」な意味を知りたいと言われたところで、答える術はないだろう。
ドン引きするのは至極当然な挙動である。

そういえば、私の周りにもこんなことがあった。
5.6年も昔のこと、まだ横浜の山下町界隈に起居していたころの話だが、私は連れと二人で中華街のはずれにある安い中華料理店で昼食を取った。
そこは、地元商店の連中が閉店後に食事に立ち寄る店で、帰りしな、馬來糕マーラーカオを買って一緒にぶらぶらと帰途に着いていた昼下がりのことである。
横浜公園を抜けていたところ、私がトイレに行っている隙に、連れがある中年のご婦人に捕まった。

「それは食するものですか?」

身なりからしてお金持ちの寡婦とおぼしきその方は、普段口には入れないであろう庶民のお菓子に興味を示したのだろう。

「これですか?」と、連れは、チープなポリエチレンの袋に無造作に入った大きなカステラ様のシルエットを指し示して、

「はい、食するものです」

と答えた。
いや、多少の同情も入るが、この場合そう答えざるを得なかったろう。

人は悪意をのぞかせる不意打ちには身構えるものだが、
邪気のないそれには不思議に素直にならざるを得ないものだ。

どうやらくだんのご婦人は、その界隈にかれこれ半世紀近くも住まわれている地元横浜の”主”で、港町の変遷をしばし語られたそうである。


そんな流れでついでに思い出すのが、こんなエピソードである。

話は漫画に飛ぶが──というのも、つい長く私が贔屓にしてきたつげ義春さん(本年3月3日逝去)のある作品を思い出してしまうからだ。

主人公は、釣りで訪れた旅先(房総半島)で、地元の精神病院から患者が脱走したという騒ぎに巻き込まれる。
詮索好きの村人から「(そうした患者は)一見おとなしく見えても、いきなり狂暴になって何をするやらわからない」などという流言を事前に耳にしていたとはいえ、やおら主人公は、お目当ての渓流釣りへと出かける。
そこで案の定、明らかにその病院の入院患者とおぼしき青年と遭遇することになるのだ(画像下)。

着物姿の痩せた青年に、なんだか小津安二郎の映画に出てくるような丁寧な話し言葉でもって、不意に背後から「もう秋ですね」と挨拶されたときには、主人公は内心生きた心地がしなかっただろう(笑)

つげ義春『西部田村事件』より


話を「鉄筋コンクリート」に戻そう。
私が、萩原朔太郎と出会った(心酔した)のは中学~高校時代だったと思う。
もう半世紀近くも昔のことになるが、当時私は朔太郎に夢中になっており、その後、凝った装丁の『青猫』や『氷島』などの初版復刻本なども揃えるほどだった。

私の萩原朔太郎は、よく言われるような複雑な現代人の心象を吐露した「近代詩の黎明」としてのそれではなく、むしろ古風なダンディズムというか、ノスタルジー世界への道案内人としての位置づけだったと思う。
尖がった言葉が刺さるキレッキレの詩人というよりは、ニヒルだが実際は優しく温厚な哲学者といった風な印象。
今でもそんな感じで、好きな作家のひとりである。

若かりし頃は、まったくお恥ずかしくも朔太郎のパクリともいえるような自作詩編を『寂寥地方』などと称して私家版で刷っていたものだ💦
それを詩人の故・山本太郎さんにみていただき、「僕は詩を書く新兵、君も詩を書く新兵・・」だったか、婉曲に「モノマネから脱皮しなさい」的な評をご丁寧にもハガキでいただいたのを今思い出した。

人はときおり一つの言葉が頭から離れなくなることがある。
萩原朔太郎のこの散文にあるように、それはまったく詩人らしく音楽的な感性の仕業なのかもしれない。

彼自ら書いているではないか。
「テッ・キン・コン・クリート」がいかにして幽玄な哲理を孕んでいる言葉なのか。
「テッ・キン・コン」との3シラブルを踏んで、「クリート」と引っ張る。
その見事なリズム、音楽。
そういわれりゃそんな気もしてくる。

同時に、それでは「テッコンキンクリート」ではまずいのか? という派生問題まで出てくる。
ちなみに、こちらの漫画は映画化にもなって、すでに実証済みである。

それにしても、なんだかそれはすでに中学生の時分にいたずらで口ずさんだような記憶がある。
言うまでもなく同映画よりはるかに昔のことである。
まさか少年は、「ジャイケルマクソン」的な語音転換をすでにやっていたのか💦
そーいや(どーいや)うちの下の孫も4歳にしてついこの間「ジェットコースター」を「ジェッコトースター」と悪びれもせずに語っていたから、私としてもついうっかり拝借したい気持ちにもなったものだ。

さて、ここで最後にどーしても解けない謎が一つ残っていることを白状しなくてはならない。
それは、この散文がなぜに『虫』というタイトルを冠しているのか、という謎である。

萩原朔太郎先生は、作品中、そのあたりをこう述べている。
あるいは、この作品をこう結んでいる。

(前略)
だがしかし、私が友の家を跳び出した時、ふいに全く思ひがけなく、その憑き物のやうな言葉の意味が、急に明るく、霊感のやうに閃(ひら)めいた。
 「虫だ!」
 私は思はず声に叫んだ。虫! 鉄筋コンクリートといふ言葉が、秘密に表象してゐる謎の意味は、実にその単純なイメーヂに過ぎなかつたのだ。それが何故に虫であるかは、此所(ここ)に説明する必要はない。或る人人にとつて、牡蠣(かき)の表象が女の肉体であると同じやうに、私自身にすつかり解りきつたことなのである。私は声をあげて明るく笑つた。それから両手を高く上げ、鳥の飛ぶやうな形をして、嬉(うれ)しさうに叫びながら、町の通りを一散に走り出した。

萩原朔太郎『虫』より抜粋

いかがだろうか。
私はここを何度読んでもわからないのである。
確かに虫が何らかのメタファーを表しているのではないか? という推測は可能だ。
しかも文脈からそれはなんだかプライベートな象徴のようにも取れるし、単なる思い過ごしのようにも取れる。

ある人は、「テッ・キン・コン・クリート」という音が、虫の音を表すからだというが、どーも合点がいかない。
第一そんな音で鳴く虫が果たしているだろうか?
あるいは、それほどまでにご都合主義的な聴覚の持ち主もいやしまい?

ここでは確かに「単純なイメージ」と言っている。
むき出しになった鉄筋の形状からして、それを虫に例えるならばどーも線虫ワーム蠕虫ぜんちゅう)あたりに落ち着くようであまり気分の良いものではない。
線虫とは、例えば昆虫に寄生するハリガネムシや、魚に寄生するアニサキス、ヒトに寄生する回虫やギョウチュウがそうなわけで、作者は果たして頑固に吹っ切れなかったモヤモヤが「そうだ! そいつは線虫だったんだ」とばかりに合点がいき、かくも欣喜雀躍することがあるだろうか? しかも作者はそれを「すっかり解りきったこと」と言い捨てる。

こうなってくると、「鉄筋コンクリートの何たるか」の解を本当のところは作者はもちろんのこと、さらにはあなたを含む読者全員が知っていて、実は空とぼけているのではないか、知らぬは私だけなのではないか? という被害妄想的な猜疑心が鎌首をもたげてくるのはどうしたものだろう。

こうなっては作中の主人公に代わって、「精神衰弱病」に悩まされるのは、今度は私の番ではないか?



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Monikodo 東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。