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シロクマ文芸部|記憶はいつでも誰かのふりをして彷徨っている

                           〈1653字〉

春の風が吹き始めると臓腑が鳴る。正確には腸の奥、ねじれた管のどこかから音が漏れる。
ブエノスアイレスの裏通りは、雨に濡れた内臓の匂いと溶けかけた猫の死骸がねばついた街の皮膚にこびりつき、誰かが蹴り倒したゴミ箱から色のない果物が這いてしている。

ミラドール通りの角、レンガが崩れかけたバー「オスキュロ」では、Luck Raの《Qué Sed》がスピーカーの奥で鳴っていた。逆回転したように唸るパーカッションは、この国の断ち切れない感傷を背負っていて「なぜここにいる?」と訊ねているようだった。

ボクはバーの常連のひとりだった。
客はいつも決まっていた。顎に傷のある詩人崩れのパブロ、性別を変え続けるソラン、そして話すことを忘れた斜視の男、マヌエル。
カウンターは血のように赤黒い塗装で、なにかの爪痕が残っていた。

彼らは夜ごと、世界の話をした。
労働と納税と仮想通貨。洪水で沈んだ北の村のこと、疫病で閉鎖された島のこと。かつてバーのメンバーだった失踪中の教授のこと。

世界は常に死にかけていて、でも誰も死なない、それが恐ろしい、とソランが言った。その横でパブロが泣いていた。その涙がなぜ流れたのか誰も尋ねなかった。

ボクが日本を出たのは、咳をすることが罪だった時代の名残がある頃だった。それは都市の中にしつこく残っていて、集団はまだ呼吸を恐れている。以来ボクはずっと息が苦しい。何のためかもう思い出せないのに、写真を撮って世界中を巡ってきた。

「オスキュロ」にはじめて来た夜、ビールを奢ってくれたのが同性愛者の教授だった。半分もわからなかったけれど《記憶と写真の講義》をしてくれたのも彼だった。教授のジャケットは肘の革パッチがついていて、煙草の匂いとライムの香りが混じっていた。こっちのゲイは首の形でわかるんだとボクを触ろうとして、マヌエルが止めてくれた。

教授はある日突然いなくなった。
彼のアトリエには半分読みかけのロラン・バルトの『明るい部屋』と、ロバート・メイプルソープの写真集、そしてボク宛の手紙が残されていた。そこにはこう書かれていた。

《記憶は誰のものでもなく、血の色をして、いつでも誰かのふりをして彷徨っている》

ボクは写真家のソール・ライターの影響を受け、赤と光の断片を撮ることにこだわっていた。けれど、最近のボクの眼は色が死んでいるように思えて仕方がなかった。ファインダーからのぞいた景色から赤が消え、赤が赤じゃなくなり、それを撮った瞬間自分まで消える気がする。そう教授に伝えた翌日、彼はいなくなったのだった。

女が一人、倒れそうな足取りでカウンターに来て汚れたポラロイド写真を差し出した。

「教授、ヴィジャ・ルガノの川の向こうで死んじまってた」

そこは鉄と血のにおいが流れてくるスラム街だった。家族のいない教授は葬儀もなかったらしい。男たちは写真を覗き込み、黙り込んだ。

ボクはその場所に行ってみることにした。
巨大な公団アパートの裏、泥に埋まるような空き地に、女から聞いた小さな廃墟があった。壊れたドアを開けると、コンクリの箱の中にポラロイドが大量に散らばっていた。
一枚一枚拾い上げた。その一枚に、ボクの背後に立つ野良犬のように痩せた教授の影があった。裏の走り書きには、

《写真とは生の中に封じた死だ。だが、封じた記憶は腐らない。
君はまだ、生きているか?》

めずらしく春の風が吹いた。窓のない廃墟に写真が舞い上がった。
ポラロイドが陽を浴びて焼けていくのをボクは日が暮れるまで見ていた。

夜、バーに戻ると、ソランが新品のフィルムをボクに差し出した。

「撮りな、生きた色を」

教授から1ダース預かっていたのを忘れてたと、ソランは付け足した。
ボクは教授の言葉を信じてみようと思った。赤が残せなくなったのは、自分を忘れけかけていたせいだ。

ポケットからカメラを取り出してフィルムを装填し、湿気で濡れた窓に向けてシャッターを切った。その音が世界を赦すように店内に響いた。

照明が写り込んだガラス窓の光がやけに赤く見える。
臓腑がまた静かに鳴る。その感覚だけがボクのほんとうだった。
店の奥で誰かがギターを弾いていた。
コードは出鱈目だったけれど、奇跡のように美しかった。

                                 了             



#シロクマ文芸部

# 春の風   からはじまるお遊び企画に参加させていただきました。


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