シロクマ文芸部|夜のパレード
本文1675字
バス停で立っているのはボクだけだった。
また残業を断れなかった。最終バスは5分前に出たらしく、夜の路地にひとり取り残されている。家まで歩くには遠すぎるし、タクシーを拾う余裕もない。もう、消えたかった。
夜の底でうなだれていると、耳鳴りのような小さな音がした。一台のバスが街灯の下に音もなく滑りこんできた。《夜明け行き》と書かれたプレートが点灯している。
ドアが開き、運転手が顔を向けた。真っ白な仮面をつけている。
「参加しますか?」
躊躇いながらボクはうなずいた。
明らかにおかしい状況だ。でも怖くはなかった。むしろ、ワクワクした。
毎日ヘトヘトになるまで働かされ、もうどうなってもいい気がした。
ステップを踏んで乗りこむと、バスの中も仮面をつけた人たちでいっぱいだった。嘴の尖ったミドリ色の鳥の仮面、なみだを流すピエロ、うさぎの笑い顔、黄色いペリカンの親子──それぞれが、解放的に動いていた。
ある人は詩を朗読し、ある人は無重力のように宙を舞い、ある人はギターを弾きながらクラゲのように車内を浮遊している。誰も他人を気にしない。
パレードのような車内をすり抜け、ボクは最後尾の席に腰を下ろした。隣に座っていた小さな狐の仮面の女の子がまっすぐボクを見た。
「はじめて?」
「うん、そんなとこ」
「じゃあ、仮面を選ばなきゃ」
女の子は膝の上に抱えたブリキの箱を開いて見せた。中には色とりどりの仮面がぎゅうぎゅうに詰まっている。
「どれでも好きなのをどうぞ。夜の間だけなりたい自分になれるの」
ボクは迷った末に、月の模様が描かれた銀色の仮面を選んだ。
バスはゆっくりと走り出した。
窓の外にひび割れた夜空と、逆さに生えた森が見えた。星でできた街、空に浮かぶ海。その海で水色の人魚がカンガルーのポケットに入って一緒にジャンプしている。過ぎゆく風景は夢の断片みたいだった。もう、どこへ向かうのかは問題ではなかった。
車内では誰もが思うがままに生きていた。誰も邪魔せず、誰とも競わず。それはいかにも爽快で、どことなく孤高に見えた。
バスは音もなく進む。夜が静かにほどけていく。
「ほら、好きにしていいのよ」
狐の女の子が肩越しに言った。スカートから義足がのぞいていた。
「夜が終わったら仮面は返してね」
彼女は剥き出しの義足のままバレエを踊り出した。くるみ割り人形の楽団が輪になって桃色の楽器を演奏している。
リボンのほどけたバレエシューズからまっすぐに伸びる義足が夜を蹴り上げ、指先が空中をつかみ、背骨がしなって 優美な軌跡を描くたびに、暗闇の向こうに隠れていたスポットライトが浮かび上がってきた。 このまま踊っていたら、夜の境界線を踏み越えてしまうのではないかとボクは心配になった。でも大丈夫だった。彼女は世界の一番縁をつま先でなぞりながら、向こう側へ墜落することはなかった。最後に、ゆっくりとお辞儀をした。
ボクはそっと立ち上がると車窓に手をのばした。すると窓ガラスが水のように波を打ってたわみ、向こう側へ沈みこんだ。そこには、たしかにもうひとりのボクがいた。
書きたかった言葉をためらいなく書き、即興の、けれどかつて誰も目にしたことのない特別な物語りを描いているボクだった。
そのボクが地図も持たずに旅に出て、ジャック・ケルアック並みのロードムービーを撮影していた。
それらは記憶に残す暇もないまま、気がついた時にはすでに遠くへ流れ去っていた。
しばらくすると知らないバス停についた。空がわずかに白んで朝がはじまろうとしていく中で、夜の余韻が引っかかっていた。
ボクは月の仮面を外し、女の子にありがとうと言ってバスを降りた。
乗客はだれひとりとして降りなかった。色とりどりの仮面がバスの窓にはりついて、こちらを見下ろしている。
路地に立つ。早朝の澄んだ空気が全身に刺すように感じた。それが仮面を外したせいなのか、現実に戻らなくてはならない痛みなのかわからなかった。ボクは、世界のはしっこに置き去りにされたみたいに不安を感じた。
気配に振り返ると、耳鳴りのような小さな音とともに次のバスがこちらに向かってくるところだった。
#シロクマ文芸部 に参加させていただきました。
いいなと思ったら応援しよう!
応援ありがとうございます✨ ZINE制作や創作活動に使わせていただきます✨