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「そっか」のあとで

姉に「落ちてた」と言われたとき、僕は本当に信じていた。

美術大学から届くはずだった封筒を、僕は見ていない。

合格発表も、自分では確認しなかった。

結果は郵送されると聞いていたし、もし受かっていたとしても、入学金を用意できる見込みはなかった。

だから僕は、姉に聞いた。

「来てた?」

姉は流し台の前に立っていた。

蛇口から水を出し、同じ湯飲みを何度も洗っていた。

「来てたよ」

姉は僕を見なかった。

「どうだった?」

蛇口の水が止まった。

「落ちてた」

胸の奥にあったものが、静かに沈んだ。

悔しいとは思わなかった。

ほっとしたとも思わなかった。

「そっか」

それだけ言って、二階へ上がった。

机には、描きかけの絵があった。

ソファで眠る母。

毛布から出た、動かない右手。

そこへ差し込む窓の光。

鉛筆を持ったが、その日は続きを描けなかった。



入学手続きの期限の前日、担任に呼ばれた。

放課後の職員室には、石油ストーブの匂いが残っていた。

担任は進路指導の一覧を机へ置いた。

「大学の手続きが確認できていない。明日が期限だぞ」

何の話か分からなかった。

「手続き?」

「合格していただろう」

担任は書類を探り、受験番号の一覧を僕の前へ置いた。

僕の番号があった。

何度見ても、僕の番号だった。

「でも、落ちたって」

そこまで言って、口を閉じた。

誰に言われたのか、担任は聞かなかった。

「家の事情か」

僕は答えなかった。

「今から大学へ連絡する。事情を説明すれば、入学金の延納も相談できるかもしれない」

担任が受話器へ手を伸ばした。

「どうする」

最初に浮かんだのは、大学ではなかった。

母の身体を起こす姉の背中だった。

食品工場から帰った姉の手は、いつも白くひび割れていた。

夜中に母が呼ぶと、姉は眠ったまま返事をした。

僕が県外へ出れば、その手が一人で母を支えることになる。

大学へは行きたかった。

同じくらい、家を出るのが怖かった。

膝の上で握った手の爪が、掌に食い込んだ。

担任の指が受話器に触れる前に、僕は首を振った。

「もう、いいです」

「本当にいいのか」

僕は頭を下げた。

担任は、受話器から手を離した。



家へ帰ると、姉は台所の椅子で眠っていた。

工場の作業着を着たまま、腕を組んでいた。

テーブルには、冷めた味噌汁と母の薬が置かれていた。

隣の部屋から、母が姉を呼んだ。

姉はすぐに目を開けた。

「今、行く」

立ち上がった姉のポケットから、鍵の束が落ちた。

僕は拾って渡した。

その中に、見覚えのない小さな鍵があった。

「ありがとう」

姉は鍵を受け取り、母の部屋へ向かった。

僕は何も聞かなかった。

聞けば、姉は何と答えただろう。

どうして嘘をついたのか。

封筒をどこへ隠したのか。

僕に残ってほしかったのか。

姉を責める言葉を、いくつも考えた。

けれど、姉が戻ってくる前に、自分の部屋へ上がった。

描きかけだった母の絵を机から外した。

新しい紙を置いた。

何を描くかは、決められなかった。



春から、僕は地元の印刷会社で働き始めた。

最初に任されたのは、商店街の春祭りのチラシだった。

赤と黄色のインクが、ほんの少しずれた。

花びらの輪郭が二重になった。

先輩は顔をしかめた。

「版がずれてる。刷り直しだな」

僕は失敗したチラシを一枚もらった。

完全に重ならなかった二つの色が、なぜかきれいに見えた。

その紙を、長い間、机の引き出しに入れていた。

姉には、大学の話をしなかった。

姉も、何も言わなかった。

僕たちは同じ家で暮らしながら、あの日より先へ進めないままだった。

数年後、僕は結婚した。

娘が生まれた。

年賀状には毎年、家族三人の絵を描いた。

姉にも送った。

家を建てた年には、新しい家の前で笑う妻と娘を描いた。

絵の中の僕も笑っていた。

この人生でよかったのだと思った。

姉も、そう思ってくれればいいと思った。



母が亡くなったあと、姉と二人で実家を片づけた。

母の服。

古い診察券。

欠けた湯飲み。

僕たちは必要なことだけを話した。

姉の部屋には、古い学習机が残っていた。

「これも捨てるぞ」

姉はすぐに返事をしなかった。

「うん」と言えば、それで終わったはずだった。

姉はポケットへ手を入れた。

鍵の束を取り出した。

その中に、二十三年前、床で拾った小さな鍵があった。

「待って」

姉は鍵を差し込み、引き出しを開けた。

中には、黄色く変色した白い封筒だけが残っていた。

赤い文字で「親展」と書かれていた。

端が破られていた。

姉が開けたのだと、すぐに分かった。

分かっていたことだった。

それでも、破れた跡を見た瞬間、指が震えた。

封筒から紙を取り出した。

二十三年前、職員室で見たのは受験番号だった。

今、手の中にある紙には、僕の名前が印字されていた。

これは僕のために届き、僕には渡されなかった合格通知だった。

「俺、受かってたんだ」

姉が僕を見た。

「ごめん」

「いつから知ってた?」

「届いた日から」

あの日からだと思っていた。

それでも、姉の口から聞くと、身体の奥が冷えた。

「なんで」

姉は、母のことを話した。

お金のことを話した。

一人では支えられなかったことを話した。

二十三年前に聞きたかった言葉だった。

「それ、俺に言ってほしかった」

「言っても、行けなかったと思う」

僕は合格通知を折ろうとした。

古い折り目から少し外れた。

やり直さなかった。

「……たぶん、行かなかった」

姉は何も言わなかった。

「でも、俺が決めたかった」

あの職員室で首を振ったことと、姉に何も渡されないまま残ったことは、同じではなかった。

僕は合格通知を持って、実家を出た。

姉には、担任から本当の結果を聞いていたことを言わなかった。



家へ帰ると、妻と娘は眠っていた。

机の上に合格通知を広げた。

二十三年前と同じ大学名。

自分の名前。

合格。

僕は棚の奥から、古い紙を一枚取り出した。

印刷会社へ入った年に刷った、春祭りのチラシだった。

赤と黄色の花びらが、わずかにずれていた。

その裏へ、流し台の前に立つ姉を描いた。

少し曲がった背中。

同じ湯飲みを洗う手。

白くひび割れた指。

蛇口から落ちる水。

姉の顔を描く場所だけが、最後まで白く残った。



この物語には、姉の側から描いた第1作があります。

『弟に「落ちた」と嘘をついた日』



※本作はフィクションです。

#ちび創作大賞
#こころの在処

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