「そっか」のあとで
姉に「落ちてた」と言われたとき、僕は本当に信じていた。
美術大学から届くはずだった封筒を、僕は見ていない。
合格発表も、自分では確認しなかった。
結果は郵送されると聞いていたし、もし受かっていたとしても、入学金を用意できる見込みはなかった。
だから僕は、姉に聞いた。
「来てた?」
姉は流し台の前に立っていた。
蛇口から水を出し、同じ湯飲みを何度も洗っていた。
「来てたよ」
姉は僕を見なかった。
「どうだった?」
蛇口の水が止まった。
「落ちてた」
胸の奥にあったものが、静かに沈んだ。
悔しいとは思わなかった。
ほっとしたとも思わなかった。
「そっか」
それだけ言って、二階へ上がった。
机には、描きかけの絵があった。
ソファで眠る母。
毛布から出た、動かない右手。
そこへ差し込む窓の光。
鉛筆を持ったが、その日は続きを描けなかった。
◇
入学手続きの期限の前日、担任に呼ばれた。
放課後の職員室には、石油ストーブの匂いが残っていた。
担任は進路指導の一覧を机へ置いた。
「大学の手続きが確認できていない。明日が期限だぞ」
何の話か分からなかった。
「手続き?」
「合格していただろう」
担任は書類を探り、受験番号の一覧を僕の前へ置いた。
僕の番号があった。
何度見ても、僕の番号だった。
「でも、落ちたって」
そこまで言って、口を閉じた。
誰に言われたのか、担任は聞かなかった。
「家の事情か」
僕は答えなかった。
「今から大学へ連絡する。事情を説明すれば、入学金の延納も相談できるかもしれない」
担任が受話器へ手を伸ばした。
「どうする」
最初に浮かんだのは、大学ではなかった。
母の身体を起こす姉の背中だった。
食品工場から帰った姉の手は、いつも白くひび割れていた。
夜中に母が呼ぶと、姉は眠ったまま返事をした。
僕が県外へ出れば、その手が一人で母を支えることになる。
大学へは行きたかった。
同じくらい、家を出るのが怖かった。
膝の上で握った手の爪が、掌に食い込んだ。
担任の指が受話器に触れる前に、僕は首を振った。
「もう、いいです」
「本当にいいのか」
僕は頭を下げた。
担任は、受話器から手を離した。
◇
家へ帰ると、姉は台所の椅子で眠っていた。
工場の作業着を着たまま、腕を組んでいた。
テーブルには、冷めた味噌汁と母の薬が置かれていた。
隣の部屋から、母が姉を呼んだ。
姉はすぐに目を開けた。
「今、行く」
立ち上がった姉のポケットから、鍵の束が落ちた。
僕は拾って渡した。
その中に、見覚えのない小さな鍵があった。
「ありがとう」
姉は鍵を受け取り、母の部屋へ向かった。
僕は何も聞かなかった。
聞けば、姉は何と答えただろう。
どうして嘘をついたのか。
封筒をどこへ隠したのか。
僕に残ってほしかったのか。
姉を責める言葉を、いくつも考えた。
けれど、姉が戻ってくる前に、自分の部屋へ上がった。
描きかけだった母の絵を机から外した。
新しい紙を置いた。
何を描くかは、決められなかった。
◇
春から、僕は地元の印刷会社で働き始めた。
最初に任されたのは、商店街の春祭りのチラシだった。
赤と黄色のインクが、ほんの少しずれた。
花びらの輪郭が二重になった。
先輩は顔をしかめた。
「版がずれてる。刷り直しだな」
僕は失敗したチラシを一枚もらった。
完全に重ならなかった二つの色が、なぜかきれいに見えた。
その紙を、長い間、机の引き出しに入れていた。
姉には、大学の話をしなかった。
姉も、何も言わなかった。
僕たちは同じ家で暮らしながら、あの日より先へ進めないままだった。
数年後、僕は結婚した。
娘が生まれた。
年賀状には毎年、家族三人の絵を描いた。
姉にも送った。
家を建てた年には、新しい家の前で笑う妻と娘を描いた。
絵の中の僕も笑っていた。
この人生でよかったのだと思った。
姉も、そう思ってくれればいいと思った。
◇
母が亡くなったあと、姉と二人で実家を片づけた。
母の服。
古い診察券。
欠けた湯飲み。
僕たちは必要なことだけを話した。
姉の部屋には、古い学習机が残っていた。
「これも捨てるぞ」
姉はすぐに返事をしなかった。
「うん」と言えば、それで終わったはずだった。
姉はポケットへ手を入れた。
鍵の束を取り出した。
その中に、二十三年前、床で拾った小さな鍵があった。
「待って」
姉は鍵を差し込み、引き出しを開けた。
中には、黄色く変色した白い封筒だけが残っていた。
赤い文字で「親展」と書かれていた。
端が破られていた。
姉が開けたのだと、すぐに分かった。
分かっていたことだった。
それでも、破れた跡を見た瞬間、指が震えた。
封筒から紙を取り出した。
二十三年前、職員室で見たのは受験番号だった。
今、手の中にある紙には、僕の名前が印字されていた。
これは僕のために届き、僕には渡されなかった合格通知だった。
「俺、受かってたんだ」
姉が僕を見た。
「ごめん」
「いつから知ってた?」
「届いた日から」
あの日からだと思っていた。
それでも、姉の口から聞くと、身体の奥が冷えた。
「なんで」
姉は、母のことを話した。
お金のことを話した。
一人では支えられなかったことを話した。
二十三年前に聞きたかった言葉だった。
「それ、俺に言ってほしかった」
「言っても、行けなかったと思う」
僕は合格通知を折ろうとした。
古い折り目から少し外れた。
やり直さなかった。
「……たぶん、行かなかった」
姉は何も言わなかった。
「でも、俺が決めたかった」
あの職員室で首を振ったことと、姉に何も渡されないまま残ったことは、同じではなかった。
僕は合格通知を持って、実家を出た。
姉には、担任から本当の結果を聞いていたことを言わなかった。
◇
家へ帰ると、妻と娘は眠っていた。
机の上に合格通知を広げた。
二十三年前と同じ大学名。
自分の名前。
合格。
僕は棚の奥から、古い紙を一枚取り出した。
印刷会社へ入った年に刷った、春祭りのチラシだった。
赤と黄色の花びらが、わずかにずれていた。
その裏へ、流し台の前に立つ姉を描いた。
少し曲がった背中。
同じ湯飲みを洗う手。
白くひび割れた指。
蛇口から落ちる水。
姉の顔を描く場所だけが、最後まで白く残った。
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この物語には、姉の側から描いた第1作があります。
『弟に「落ちた」と嘘をついた日』
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※本作はフィクションです。
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