弟に「落ちた」と嘘をついた日
弟は、受かっていた。
県外の美術大学から届いた白い封筒を、私は弟より先に開けた。
表には、赤い文字で「親展」と書かれていた。
開けてはいけないものだった。
けれど私は、封筒の端へ人差し指を差し込み、そのまま破った。
中には、合格通知書と入学手続きの案内が入っていた。
弟の名前。
合格。
入学金、二十八万円。
前期授業料、四十二万円。
手続き期限は、三月十八日。
あと九日だった。
私は台所の椅子に座り、入学金の桁を何度も数えた。
減るはずもないのに。
奨学金が振り込まれるのは、入学したあとだった。
母の入院で貯金は尽きていた。
入学金を借りられる相手も、一人もいなかった。
冷蔵庫には、電気料金の督促状が磁石で留めてあった。
流し台には、母が朝に飲み残した薬の袋が置かれていた。
母は前年の秋に倒れた。
退院はできたが、右手に麻痺が残った。
着替えにも、風呂にも、誰かの手が必要だった。
父は、もういなかった。
亡くなったのではない。
別の女と暮らすために、家を出ていた。
私は高校を出て、地元の食品工場へ就職した。
弟は、絵を描き続けた。
教科書の余白にも、新聞の折り込み広告の裏にも描いた。
母が眠るソファを描いた絵では、毛布から出た動かない右手にだけ、窓からの光が当たっていた。
高校三年の夏、弟は言った。
「大学で、デザインを勉強したい」
私は反対しなかった。
反対できなかった。
私が進学を諦めたとき、誰からも反対されなかったからだ。
ただ、誰も賛成してくれなかった。
それだけだった。
弟は奨学金を調べた。
新聞配達の求人も探した。
東京ではなく、少しでも家賃の安い地方都市の大学を選んだ。
「入学金だけ何とかなれば、あとは自分でやる」
そう言っていた。
その入学金だけが、どうにもならなかった。
隣の部屋から、母が私を呼んだ。
「ちょっと、来て」
二階から、弟が鉛筆を削る音がした。
封筒を持ったまま、私は動けなかった。
弟が県外へ出れば、母の世話をするのは私一人になる。
私はそのとき、二十四歳だった。
工場と家を往復するだけの毎日に、もう疲れていた。
弟までいなくなったら、自分が壊れると思った。
家族だから、残ってほしかった。
一緒に母を支えてほしかった。
少しくらい、私の人生も背負ってほしかった。
その気持ちを、私は「家族を守るため」と呼んだ。
封筒を、自分の部屋にある学習机の鍵付きの引き出しへ入れた。
その日の夕方、弟が二階から下りてきた。
靴も履かずに聞いた。
「来てた?」
私は流し台で、母の湯飲みを洗っていた。
蛇口から水を出した。
水の音で、自分の声が聞こえなければいいと思った。
「来てたよ」
弟は黙った。
私は湯飲みを洗い続けた。
もう汚れなど残っていなかった。
「どうだった?」
蛇口を止めた。
弟の顔を見ないまま答えた。
「落ちてた」
背後で、小さく息を吐く音がした。
「そっか」
それだけだった。
弟は二階へ上がった。
部屋の扉が閉まる音は、思ったより静かだった。
その夜、私は何度も階段の下まで行った。
今なら、まだ間に合う。
お金のことも、母のことも、全部話せばいい。
行くか残るかは、弟が決めればいい。
そう思った。
けれど、一段目に足をかけることができなかった。
翌朝、弟はいつもどおり起きてきた。
母の薬を用意し、味噌汁を温めた。
大学の話はしなかった。
春から、弟は近所の印刷会社で働き始めた。
数年後、弟は結婚した。
結婚式の席次表は、自分で印刷した。
娘が生まれてからは、毎年の年賀状に家族三人の絵を添えた。
私は年賀状が届くたび、そこに描かれた三人を見た。
弟は幸せになった。
だから、あの日の選択は間違っていなかった。
大学へ行けば、今の妻とは出会わなかった。
娘も生まれなかった。
私は二十三年間、その言葉を使って眠った。
母が亡くなったあと、弟と二人で実家を片づけた。
母の服。
古い診察券。
使わなくなった食器。
弟が、私の部屋に残っていた学習机を指さした。
「これも捨てるぞ」
「うん」と言えば、封筒ごと消えた。
ポケットの中で、鍵の角が指に食い込んだ。
「待って」
鍵は、家の鍵と同じ輪にまだついていた。
私は二十三年ぶりに、机の引き出しを開けた。
黄色く変色した白い封筒だけが、残っていた。
隠したことはあった。
忘れたことは、一度もなかった。
弟が封筒を手に取った。
赤い「親展」の文字。
破られた端。
自分の名前。
中から合格通知を取り出し、長い間、見つめていた。
紙を持つ指が震えていた。
「俺、受かってたんだ」
「ごめん」
「いつから知ってた?」
「届いた日から」
弟は合格通知を机の上に置いた。
「なんで」
私は、二十三年間並べ続けてきた理由を口にした。
母のこと。
お金のこと。
自分一人では支えられなかったこと。
弟は黙って聞いていた。
「それ、俺に言ってほしかった」
「言っても、行けなかったと思う」
弟は紙を折ろうとした。
けれど、古い折り目から少し外れた。
やり直さなかった。
「……たぶん、行かなかった」
弟は、折り損ねた合格通知を見たまま言った。
「でも、俺が決めたかった」
弟は合格通知を持って、実家を出ていった。
その後、私たちはほとんど話していない。
母の一周忌には来た。
私にも「久しぶり」と言った。
けれど、二人きりにはならなかった。
弟が帰ったあと、私は湯飲みを洗った。
汚れはすぐに落ちた。
それでも私は、蛇口を止められなかった。
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この物語には、弟の側から描いた第2作があります。
『「そっか」のあとで』
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※本作はフィクションです。
#ちび創作大賞
#あの日の選択
