終わる前に、もう一度だけ 第1話|未分類ノイズ、S級反応
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【タイトル下短文】
その作品は、商業成功率0.01%だった。
だから世界は、消すことを正解にした。
【本文】
終わる前に、もう一度だけ
第1話|未分類ノイズ、S級反応
日向紗和は、自分の作品を消そうとしていた。
壇上の中央に立った彼女の前に、透明な承認パネルが浮かんでいる。
本人同意。
完了処理。
未完データの永久削除。
確認しますか。
紗和の右手が、ゆっくりとそこへ伸びた。
その手を、左手が止めた。
一瞬だけだった。
ポケットから出た左手が、右手首を掴んだ。
紗和自身も驚いたように、自分の左手を見る。
すぐに離した。
誰も気づかなかった。
会場も。
審査員も。
完成局の端末も。
ただ一人、神崎透だけがそれを見ていた。
右手は、終わらせようとしていた。
左手は、まだ終わらせたくなかった。
それを、透だけが見てしまった。
新人創作賞、最終選考会。
会場は現実のホールだった。
ただ、壇上の作品タイトルや評価値だけが、来場者の網膜端末を通して、空中に重ねられている。
壁も床も照明も、すべてが白く統一された空間は、明るく、清潔で、無駄がなかった。
紗和の頭上に、作品タイトルが表示されている。
空白の灯台。
その下に、判定結果が並んでいた。
商業成功率、0.01%。
継続読了率、3.2%。
構成安定度、不足。
市場適応率、極低。
映像化適性、判定不能。
完了推奨、削除。
拍手は起きなかった。
ざわめきも起きなかった。
この場では、珍しいことではなかったからだ。
届かない作品は、早めに終わらせる。
それが本人の未来を守ることだと、この世界では考えられている。
壇上の横に立つ女性が、紗和へ向き直った。
白瀬エレナ。
完成局、創作裁定官。
届く作品を残す人。
届かない夢を、本人の未来のために終わらせる人。
エレナは静かに微笑んでいた。
責めるための顔ではなかった。
責めないまま、人を終わりへ案内する顔だった。
「あなたの文章には、強い癖があります」
声はやわらかかった。
「構成は不安定です。人物の目的も曖昧。読者がどこに感情を置けばいいのか、判断しにくい」
紗和は、うなずいた。
「はい」
「けれど、才能がないと言っているわけではありません」
紗和の左手が、ポケットの中でまた何かを握った。
紙だ。
今どき、紙に書く人は少ない。
けれど彼女は、ポケットの中でそれを握りつぶしていた。
「未完成の作品に何年も縛られる人は、珍しくありません。届かなかった言葉を抱え続けて、次の言葉まで失ってしまう人もいます」
エレナは少しだけ声を落とした。
「あなたが作品を失うのではありません。作品があなたを失わせる前に、ここで止めるんです」
優しい言葉だった。
残酷に聞こえないよう、きれいに整えられていた。
紗和は笑った。
「大丈夫です」
その声は、少し遅れて出た。
彼女の瞳の端に、端末が提示した推奨応答文が反射している。
大丈夫です。
私も、そう思っていました。
前に進みます。
紗和は、そのうちの一つを選んだ。
「私も、そう思ってました」
透は、会場の端に立っていた。
補助スタッフ用の灰色の端末を持ち、削除予定作品の処理を担当している。
本来なら、紗和の作品もただの一件だった。
価値なし判定。
完了推奨。
削除待機。
それだけで十分なはずだった。
神崎透は、世界がゴミと呼んだものを、きれいだと思ってしまう。
未送信のまま消された一文。
タイトルだけ残って、本文が三行で止まった物語。
何度も書き直されて、最後には消された会話。
言いかけて、削除された「でも」。
そういうものの端から、細い光がこぼれることがある。
まだ名のない欠片。
この世界では、それをノイズと呼ぶ。
透だけが、たまに、それを美しいと思ってしまう。
補助スタッフ用の端末が、冷たい通知を出した。
作業効率、61%。
推奨行動、確認工程を省略してください。
「神崎」
背後から、同じ補助スタッフの男が声をかけてきた。
「また止まってる。今日だけで二千件あるんだぞ」
「分かってる」
「分かってるなら流せよ。完了推奨が出てるんだから」
男は、透の端末をのぞき込んだ。
「お前、そういうとこ本当に効率悪いよな」
透は返事をしなかった。
端末の端に、古い保護フォルダが一瞬だけ映った。
本来、今日の作業リストには出ないはずの凍結済みデータ。
フォルダ名。
まだ世界ではなかったもの。
作成者欄は、ひび割れたように読めなかった。
透は、すぐに画面を切り替えた。
見なかったことにした。
壇上では、紗和の承認パネルがまだ開いている。
透は、手元の端末に表示された彼女の原稿を見た。
空白の灯台。
本文は未完成だった。
途中で切れている。
人物名も仮のまま。
同じ表現が何度も繰り返されている。
終盤は、ほとんど箇条書きだった。
たぶん、完成していない。
たぶん、整っていない。
たぶん、商業成功率0.01%という判定も、間違ってはいない。
透は画面を閉じようとした。
その時だった。
原稿の端から、細い光がこぼれた。
白い会場の中で、それはほとんど見えないほど小さかった。
でも透には見えた。
文字の隙間。
消された段落の跡。
書きかけの台詞の終わり。
まだ名のない欠片が、そこからこぼれている。
透の指が止まった。
見なければよかった。
そう思った。
本人が消すと言っている。
裁定官も止めた方がいいと言っている。
もしかすると、それは本当に優しさかもしれない。
閉じることも、本人の権利だ。
分かっていた。
分かっていたのに、透の呼吸は乱れ始めた。
削除ボタンに近づく指。
大丈夫です、と笑う顔。
右手を止めた、左手。
それらが、別の顔と重なった。
やわらかくて、疲れていて、それでも透を信じていた声。
——透がそう言うなら、そうなんだろうね。
透は奥歯を噛んだ。
これは、前と似ている。
そう思った。
思ったのに、うまく言葉にならなかった。
止まらなければいけない。
たぶん。
なのに。
紗和の右手が、承認パネルに触れた。
透は立ち上がっていた。
椅子が床を擦る。
補助スタッフの男が振り向く。
「神崎?」
透は答えなかった。
壇上へ歩き出す。
警備端末が反応する。
補助スタッフの立ち入り権限外です。
警告。
警告。
透は止まらなかった。
会場がざわめき始める。
「神崎、何してる」
「戻れ」
「処理中だぞ」
透は壇上の前で止まった。
紗和が、驚いた顔でこちらを見る。
エレナの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「補助スタッフの介入は認められていません」
透は、紗和を見た。
見たつもりだった。
でも本当は、彼女の顔より先に、原稿からこぼれる欠片を見ていた。
「本当に消したいなら、消していい」
紗和は言葉を失った。
「でも」
透は言いかけて、止まった。
数字に先に終わりを決めさせるな。
そう言おうとした。
正しい言葉だった。
正しすぎる言葉だった。
透は、それを飲み込んだ。
代わりに、紗和の笑顔を見た。
「その“大丈夫”は、君の声じゃない」
紗和の目が揺れた。
「でも、私には才能がないって」
「才能があるかは知らない」
透は、原稿を見た。
欠片は、今にも消えそうに震えている。
「でも、これはまだ……」
終わってない。
そう言い切ろうとして、喉が詰まった。
それは紗和のためなのか。
自分が、もう一度あの光景を見るのが嫌なだけなのか。
分からなかった。
分からないまま、透は言った。
「まだ、消す顔じゃない」
エレナが静かに言った。
「神崎透さん」
名前を呼ばれて、透は少しだけ肩を揺らした。
「本人が閉じようとしているものを、他人が開く。それを救いと呼ぶのは、少し傲慢ではありませんか」
その言葉は、会場に落ちた。
誰も反論しなかった。
透も、すぐには返せなかった。
エレナは続ける。
「彼女は同意しています。あなたは今、彼女の意志ではなく、あなた自身の未練に従っているように見えます」
透の指が震えた。
当たっている。
そう思った。
それでも、欠片は消えかけていた。
透は紗和を見た。
「嫌なら、言ってくれ」
紗和は口を開いた。
何かを言おうとした。
けれど、その前に承認パネルが淡く光った。
完了処理、準備完了。
十秒後、自動削除。
透の中で何かが切れた。
紗和の答えを待てなかった。
待つべきだった。
分かっていた。
それでも透は、紗和の顔を見ないまま、原稿の欠片に触れた。
指先に熱が走った。
次の瞬間、熱は痛みに変わる。
爪の下に、細い針を差し込まれたような痛みだった。
透は息を詰めた。
世界の輪郭がずれる。
白い壁に、文字が浮かび上がった。
消された一文。
未送信のメモ。
書きかけの台詞。
途中で止まった比喩。
仮の名前。
消したはずの段落。
それらが光になって集まる。
けれど、その光はきれいなだけではなかった。
いくつもの別案が重なり、低いノイズを鳴らしている。
推敲で消された台詞たちが、紗和の声で同時に漏れた。
紗和が、一歩だけ後ずさった。
自分の声に追いかけられた人のように。
会場の誰かが耳を押さえる。
端末が警告を出す。
未完ログの不正展開を確認。
エレナの声が鋭くなる。
「やめなさい」
透は止まれなかった。
止めたかったのかどうかも、自分で分からなかった。
ただ、その欠片はまだ温かかった。
だから、手を離せなかった。
会場の白い床に、黒い線が走った。
はじめは細い下描き線だった。
それが何本も増え、床を裂くように広がっていく。
白い壁の表面が、薄い紙のようにめくれた。
その下から、シャーペンで引いたような荒い線が現れる。
背景のアタリ。
消されたラフ。
未完成の町の輪郭。
壇上の中央に、骨組みだけの灯台が立ち上がった。
上半分はまだ線だった。
階段は途中で途切れている。
窓には色がない。
灯りの部分だけが、仮置きの丸で示されていた。
それでも、その灯台は確かにそこにあった。
網膜端末の表示ではない。
現実の床を押し上げて、未完成の景色が立っている。
会場ではない場所が、会場を侵食していた。
海のない町。
誰も迷わない町。
すべての道に案内線が引かれ、すべての人が最短ルートで歩く町。
道に迷う人はいない。
立ち止まる人もいない。
寄り道をする人もいない。
町の真ん中で、仮の名前の少女が、未完成の灯台を見上げていた。
周囲の人々は笑っている。
顔はまだ描かれていない。
灰色の輪郭だけの人々が、同じ声で言う。
海なんてない。
船なんて来ない。
迷う人なんていない。
灯台なんて、何の役に立つの。
少女は、灯台の一番上に、まだ描かれていない灯りを置こうとしていた。
その手も、半分は線のままだった。
それでも少女は言った。
「誰も迷わないなら、灯りなんていらないって言われた」
声が少し揺れる。
別案の台詞が重なる。
灯台は目印。
灯台は祈り。
灯台は、帰り道。
全部違う気がする。
少女は、言葉を探しながら続ける。
「でも、迷えない町の人は」
そこで一度、声が途切れた。
未完成の沈黙。
続きが、まだ決まっていない沈黙。
それでも少女は、仮置きの灯りを握った。
「夜になっても、立ち止まる場所がないんだと思った」
会場の空気が揺れた。
完璧に整えられた受賞作を見ていた時よりも、会場は静かだった。
不完全だった。
粗かった。
矛盾していた。
商業成功率0.01%の物語だった。
なのに、誰かが息を止めた。
誰かが目を逸らした。
誰かは、顔をしかめた。
誰かは、泣きそうな顔をした。
エレナは、黙ってそれを見ていた。
透の指先から、血のような赤い光がにじむ。
指先の感覚が、ひとつ消えた。
再演は長く持たない。
灯台の線が崩れ始める。
灰色の人々が白紙に戻っていく。
少女の顔も、まだ描かれないまま消えていく。
最後に、仮置きの灯りだけが残った。
それも、すぐに消えた。
会場には、また白い壁と白い床だけが戻った。
けれど、何かは戻らなかった。
完了承認パネルは、まだ開いたままだった。
紗和の右手は、そこに触れていない。
彼女は、灯台を見ていなかった。
原稿も見ていなかった。
透のことも見ていなかった。
自分の両手を見ていた。
さっきまで、終わらせようとしていた手。
今は、何をしたらいいのか分からなくなった手。
透は紗和を探した。
すぐには見つけられなかった。
壇上の隅に、彼女は立っていた。
笑顔は消えていた。
泣いてもいなかった。
ただ、唇の色だけが抜けていた。
紗和は、小さく言った。
「なんで」
会場の誰も動かなかった。
透も動けなかった。
紗和は、ゆっくり顔を上げた。
その目は、透を責めているというより、開けられたくなかった引き出しを勝手に開けられた人の目だった。
「なんで、見せたの」
透は何も言えなかった。
紗和はもう、原稿を見ていなかった。
自分の両手だけを見ていた。
その手は、まだ震えていた。
エレナの言葉が、遅れて戻ってくる。
本人が閉じようとしているものを、他人が開く。
それを救いと呼ぶのは、少し傲慢ではありませんか。
透は、自分の手を見た。
紗和の原稿は消えていない。
でも、紗和は救われていない。
その事実だけが、白い会場の真ん中に残っていた。
低い判定音が鳴った。
会場中の端末が、一斉に同じ文字を表示する。
未分類ノイズを検出。
市場予測不能。
感情変動値、基準超過。
再演ログ、分類不能。
S級反応。
白瀬エレナが、ゆっくりと透を見た。
その表情から、微笑みは消えていた。
怒りではない。
失望でもない。
ただ、処理対象を確認する顔だった。
「神崎透」
透は答えなかった。
「あなた、何を拾ったの?」
透は、自分の手を握った。
指先がまだ痛む。
血は出ていない。
けれど、痛みだけが残っている。
その時、会場の照明が一段落ちた。
正面の扉が開いた。
そう思った。
だが、違った。
黒い制服の男は、扉のところにはいなかった。
気づいた時には、透の目の前に立っていた。
距離の途中がなかった。
歩いた音もなかった。
ただ、最短距離だけが結果として置かれていた。
男の手には、細い白い端末が握られている。
刃物ではない。
銃でもない。
けれど透は、それを見た瞬間、背筋が冷たくなった。
会場中の画面が赤く染まる。
透の補助端末も。
天井の案内パネルも。
紗和の削除承認パネルも。
透の視界に重なるスマート表示までも。
赤い文字で埋まった。
未分類ノイズ、S級反応。
対象、神崎透。
処理区分、消去。
黒い制服の男が、白い端末を透へ向けた。
「バグを確認しました」
その声には、怒りも迷いもなかった。
「神崎透。あなたの未完を、ここで完了します」
白い端末の先端に、光が集まる。
透は、ようやく紗和の方を振り返った。
彼女はまだ、自分の両手を見ていた。
その手を震わせたのが、世界なのか。
それとも、自分なのか。
透には、分からなかった。
守りたかったのが、彼女なのか。
欠片なのか。
自分の未練なのかも、分からなかった。
それでも、分からないことを、離す理由にはしたくなかった。
透は、紗和の原稿を握り直した。
次の瞬間、消去の光が落ちた。
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