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終わる前に、もう一度だけ 第2話|誰も望まないアンコール

【タイトル下短文】

救ったつもりだった。
けれど彼女は、もう一度傷ついただけだった。

【本文】

終わる前に、もう一度だけ

第2話|誰も望まないアンコール

消去の光が落ちた。

視界が白くなった。

床も、壁も、会場のざわめきも、自分の体の輪郭さえも、光の中に溶けていく。

神崎透は、自分が消えたのだと思った。

けれど、戻ってきたのは痛みではなかった。

声だった。

「やめて」

日向紗和の声。

透はまだ、自分が生きているのか分からなかった。

ただ、その声だけが、白い光の中で震えていた。

「もう、見たくない」

視界が、少しずつ戻ってくる。

最初に見えたのは、透自身の手ではなかった。

白い床に広がる、黒い線だった。

消えたはずの灯台が、また会場の中央に立っていた。

上半分は、まだ下描きの線のまま。

階段は途中で途切れている。

窓には色がない。

仮置きの灯りだけが、頼りなく明滅している。

『空白の灯台』。

さっき、消えたはずの未完成。

それが、もう一度、現実に押し出されていた。

拍手のためではなかった。

奇跡のためでもなかった。

紗和が閉じようとしていたものを、もう一度開くためだけに。

透は、そこでようやく分かった。

自分がまだ消えていないことを。

そして、その理由を知るのが少し遅すぎたことを。

透が消えなかった代わりに、紗和の未完成がもう一度裂けていた。

右手を見た。

輪郭が、少しだけ遅れて戻ってきた。

指先だけが、下描きの線みたいに揺れている。

触れている感覚が、ひとつ足りない。

消えなかった。

けれど、何も失わなかったわけではなかった。

紗和は、耳をふさいでいた。

目の前の灯台を見ないように、顔を伏せている。

それでも、灯台はそこにある。

会場の床に、彼女の物語が広がっている。

誰にも見せたくなかったもの。

終わらせようとしていたもの。

それを、透が開いた。

もう一度。

「直接消去、失敗」

黒い制服の男が、白い端末を下げた。

声に感情はなかった。

「対象ログが未分類反応と結合。強制完了時、二次再演の危険あり」

警告表示が、会場上部に赤く残っている。

未分類ノイズ。

S級反応。

対象、神崎透。

処理区分、隔離待機。

透は生きていた。

けれど、助かったとは思えなかった。

白瀬エレナが、ゆっくりと手を上げた。

「処理を一時停止してください」

黒い制服の男が、エレナを見る。

「本来は、消去対象です」

「分かっています」

エレナは、透ではなく紗和を見ていた。

原稿を抱えることもできず、耳をふさいだまま立っている少女を、しばらく見ていた。

それから、静かに言った。

「これ以上の再演は、本人への負荷が大きい」

本人。

その言葉で、透はようやく紗和を見た。

さっき見た右手。

承認パネルへ伸びた右手。

それを止めた左手。

透には、あの二つの手が別々の意思を持っているように見えた。

終わらせようとする手。

まだ終わらせたくない手。

だから、止めた。

そう思いたかった。

でも、今の紗和の手は違っていた。

右手も、左手も、どちらも震えている。

どちらが終わらせたかったのか。

どちらが止めたかったのか。

もう、透には分からなかった。

そもそも、分かったつもりでいただけなのかもしれない。

「日向さん」

透は声を出した。

かすれていた。

紗和は顔を上げない。

「ごめん」

それしか出てこなかった。

何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。

原稿を消させなかったことか。

本人に聞かなかったことか。

見せたことか。

それとも、見えたものを信じすぎたことか。

紗和は、小さく首を振った。

許した、という動きではなかった。

謝られても困る、という動きだった。

「返して」

紗和が言った。

透は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「私の原稿」

透は、自分の手元を見た。

紗和の原稿データが、まだそこにあった。

未名の欠片は残っている。

弱く、細く、消えかけている。

いつもの透なら、そこから目を離せなかった。

でも今は、その光より先に、紗和の手が見えた。

震えている手。

原稿を取り戻そうとしている手。

終わらせたいのか、残したいのか、自分でも分からなくなっている手。

透は、手を開いた。

紗和が原稿を取り返す。

奪うようではなかった。

守るようでもなかった。

ただ、自分のものを、自分の手に戻す動きだった。

エレナが、二人の間に歩いてきた。

黒い制服の男は、白い端末を透へ向けたままだ。

端末の先端に光はない。

けれど、いつでも戻ってくるように見えた。

エレナは紗和を見たまま、透に言った。

「神崎透さん」

透は顔を上げる。

エレナの声は、責めていなかった。

責める必要がないほど、静かだった。

「あなたは、彼女の痛みを止めたのではありません」

透の指が、止まる。

「痛みがある場所を、もう一度照らしました」

エレナは、紗和から目を逸らさない。

「本人が、まだ見る準備をしていなかった場所を」

その言葉は、白い会場のどの警告音よりも、透の内側に残った。

「彼女は、あなたに見せてほしいと言いましたか」

言っていない。

透は答えられなかった。

「私たちは、成功率を見て終わらせようとする」

エレナは、静かに続けた。

「あなたは、欠片を見て終わらせまいとした」

透は息を止めた。

「見ているものが違うだけで、本人より先に決めたことは同じです」

完成局は、成功率を見て終わらせる。

透は、欠片を見て終わらせない。

向きは違う。

でも、本人より先に答えを出しているのは同じだった。

「作品を、消したかったんじゃない」

紗和の声がした。

透とエレナは、同時に彼女を見る。

紗和は原稿を胸の前で握っていた。

涙はなかった。

怒鳴りもしなかった。

ただ、疲れたような声だった。

「たぶん」

その一言で、言葉が止まった。

紗和は、原稿を見ない。

見ないまま、握っている。

「作品を見たくなかったんじゃない」

もう一度、彼女は息を吸った。

「それを書いてた時の自分を、見たくなかった」

透は、そこから先を言えなかった。

「信じてたんだと思う」

紗和の声は、小さかった。

「少しだけ」

そこで、また言葉が途切れた。

原稿を握る指だけが、少し白くなる。

「これが形になったら、何か変わるかもって」

崩れかけた灯台の線が、足元で揺れる。

「でも、何も変わらなかった」

紗和は、ようやく透を見た。

「だから、消したら、その時の自分ごと終われる気がした」

透の喉が詰まった。

紗和の声が、少しだけ震える。

「まだ、見たくなかったのに」

会場は静かだった。

誰も拍手しない。

誰も笑わない。

誰も、さっきの灯台を美しいとは言わない。

透も言えなかった。

美しいと思った。

消してはいけないと思った。

まだ終わっていないと思った。

けれど、その全部が、紗和の痛みを通り越した場所にあった。

透が見ていたのは、欠片だった。

紗和が抱えていたのは、欠片ではなかった。

「ごめん」

また、その言葉しか出てこなかった。

紗和は首を振った。

今度も、許したという意味ではなかった。

「謝られても、戻らない」

その通りだった。

欠片が見えても、それを抱えてきた人の疲れは見えない。

消えたくないものがあることと、消えたら楽になれると思ってしまうことは、同時に存在する。

透は、崩れかけた灯台の線から目を逸らした。

その先に、紗和の手があった。

エレナが、紗和の前に新しい承認パネルを開いた。

前よりも小さい。

表示も少ない。

本人意思の再確認。

完了処理を継続しますか。

紗和は、すぐには動かなかった。

エレナは急かさない。

黒い制服の男も何も言わない。

会場の観客たちも、息を潜めて見ている。

けれど、透には分かった。

これもまた、見られている選択だった。

誰にも責められていないようで。

誰にも命令されていないようで。

それでも、選ぶところを見られている。

エレナが言った。

「日向さん。選択はあなたに戻します」

紗和の前に、三つの選択肢が浮かぶ。

保留する。

再審査を申請する。

完了する。

「完了処理を続けることもできます。停止して持ち帰ることもできます。再審査を申請することも可能です」

言葉だけなら、正しい。

あまりにも正しい。

だから、透は苦しくなった。

自分が本当は言いたかったことに近い。

彼女に選んでほしかった。

でも、自分はその前に動いてしまった。

透の足が、少しだけ前に出そうになる。

止めろ。

そう思った。

いや、違う。

止めるな。

今度は違う。

透は両手を握った。

右手の輪郭が、下描きの線のように揺れた。

今、見るべきなのは欠片ではない。

紗和の手だった。

選ぼうとしているのか。

選べなくなっているのか。

選ばされているのか。

それを見ないまま動けば、また奪うことになる。

紗和の右手が、ゆっくりと上がる。

さっきと同じ右手。

けれど、もう同じには見えなかった。

左手が止めるかどうかを、透は見なかった。

右手が本心で、左手が本音だと決めることも、もうできなかった。

どちらも、紗和の手だった。

彼女自身の手だった。

紗和の指が、承認パネルの前で止まる。

保留する。

再審査を申請する。

完了する。

どの文字にも、まだ触れていない。

透は動かなかった。

今度は、動かなかった。

その時だった。

パネルの端に、小さな更新表示が走った。

推奨選択肢を再配置しました。

崩れかけた灯台の仮置きの灯りが、一度だけ点いた。

紗和は気づいていない。

エレナも何も言わない。

黒い制服の男だけが、透ではなく、紗和を見ていた。

文字の順番が、静かに変わる。

完了する。

保留する。

再審査を申請する。

ただ、順番が変わっただけだった。

けれど、一番上に来た「完了する」だけが、ほかの文字よりもわずかに明るかった。

紗和の指先が、ほんの少しだけ上へ吸い寄せられた。

紗和の指は、まだ空中で止まっている。

透も、動かなかった。

けれど、目は逸らさなかった。

今度は、彼女の選択を奪わないために。

そして、この世界が何を奪おうとしているのかを、見逃さないために。



前話はこちら
第1話|未分類ノイズ、S級反応

続きはこちら
第3話|まだ、青とは呼ばないで


シリーズはこちら
終わる前に、もう一度だけ

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