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これからの可能性

こんなキンドル本も書き、ここに置いておきます。
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第1章 あの記事を書いた日のこと


少年時代の風景


少年時代の風景のことを、
僕はあの記事でこう書いた。

西の山、振り返れば東の山に囲まれた盆地で育った。
冬は空気がキーンと冷たく、
雪道を歩く音さえ遊びだった日々。
夏の夜は田んぼのど真ん中で、
窓の外に灯るホタルの光を、ただただ見つめていた。

その文章が、
思いがけず101もの「スキ」をいただいたとき、
僕は正直驚いた。

特別に稀有な人生だからではない。
うまく書こうとしたからでもない。
ただ、懐かしさをそのまま置いただけだった。

書いた日の僕はまだ…
言葉をこうして積み重ねていく未来を
想像していなかった。

造園や土木の現場で働き、
資格を取り、叱咤され、
「若かったな」と振り返って思えるような、
汗の残る日々を過ごしていた僕が、
まさか自分の言葉を発信するようになるとは。

山口の片田舎で

山口の片田舎で暮らし、
畑の土を踏み、
おかあちゃんと種を選び、
言葉を夜に育てる。

体力の衰えを感じる今日このごろ、
昔のように一日働き通すことは難しくなったけれど、
そのぶん、言葉と向き合う時間が増えた。

この文章を書いた頃の僕は、
まだ自分がnoteを書き続けていくとは思っていなかった。
でも今振り返ると、
あの懐かしい風景を一つ置いたことが
僕の文章の原点だったのだと気づく。

言葉は、
決して力強いものだけが残るのではない。
特別な知識や理屈があるから残るわけでもない。
ただ、素直な時間を閉じ込めた言葉だけが、
ゆっくりと誰かの記憶と重なるのだと思う。

その気づきが、
僕の書き続ける理由のひとつになった。

そして次の章では、
「あの記事がなぜ、知らぬ間に『好き』を積んだのか」
について、もう少し深く見ていきたいと思う。


第2章  知らぬ間に好きが積もっていた


あの記事


あの記事を書いたあと、
しばらくのあいだ、
僕は特別なことを何もしていなかった。

宣伝もしなければ、
「読んでください」と声を上げることもなかった。
ただ、いつも通りの暮らしをして、
いつも通り仕事に出て、
夜になったら、少しだけ言葉を書く。
それだけだった。

ある日、ふと記事を開いてみて、
数字を見て驚いた。
「好き」が、思っていたより増えていた。

正直に言うと、
その瞬間、うれしさよりも先に、
「なぜだろう」という気持ちが浮かんだ。

あの記事には、
役に立つ情報も、
人生訓のようなことも、
ほとんど書いていない。

少年時代の風景を、
思い出すままに置いただけ。
西の山、東の山。
夏のホタル。
冬の冷たい空気と、
雪を踏みしめる音。

誰かを励ますつもりも、
何かを教えるつもりもなかった。

それでも、「好き」が積もっていた。


考えてみて、
ひとつだけ思い当たったことがある。

あの記事を書いたとき、
僕は「どう見られるか」を
ほとんど考えていなかった。

うまく書こうとも、
評価されようとも、
そんな気持ちはなかった。

ただ、
「ああ、こんな景色があったな」
と、ひとりで思い出していただけだった。

たぶん、
その力の抜け方が、
読む人にも伝わったのだと思う。


年を重ねて分かったことがある

言葉は、
強く握ったときほど、
するりと逃げていく。

逆に、
何気なく置いた言葉ほど、
時間をかけて、
誰かのところへ届くことがある。

あの記事は、
まさにそんな言葉だった。


「好き」が増えた理由を、
はっきり説明することはできない。

でも、
説明できないからこそ、
大切なのだと思う。

人は、
自分の記憶と重なったときに、
そっと「好き」を押す。

「懐かしい」
「分かる気がする」
「自分のことみたいだ」

そんな感覚が、
読む人それぞれの中で
静かに起きていたのかもしれない。


若い頃の僕は、
何かを残したいと思うなら、
頑張らなければならないと
思っていた。

努力して、
声を張り上げて、
前に出なければ、
何も残らないのだと。

でも今は、
少し違う考えを持っている。

無理をしなくても、
言葉は残る。
むしろ、
無理をしなかった言葉のほうが、
長く生きる。


「知らぬ間に、好きが積もっていた」

この事実は、
僕にとって、
とても大きな支えになった。

書き続ける理由が、
はっきりしたからだ。

誰かに評価されなくてもいい。
多くの人に届かなくてもいい。

ただ、
正直に置いた言葉が、
どこかで誰かの時間と
重なってくれたなら、
それで十分だ。


次の章では、
そんなふうに書いてきた中で、
あえて書かなかったこと
途中で消した言葉について、
少し触れてみようと思う。

残らなかった言葉にも、
ちゃんと理由があった。
そう思えるようになったのも、
「好き」が積もった時間のおかげだ。


第3章 書かなかったこと消した言葉

言葉にできなかった時間


言葉にできなかった時間が、
思っていた以上に長かったことに、
最近になって気づく。

書こうとして、やめた夜。
一行だけ打って、
そのまま画面を閉じた日。
理由ははっきりしない。
ただ、そのときの自分には、
まだ言葉が追いついていなかった。

下書きには、
出なかった言葉が残っている。
読み返すと、
間違ってはいない。
でも、
どれも今の自分の声ではない。

だから消した。
だから書かなかった。

そんなことを考えていると、
ふと、
昔の言葉を思い出す。

兄の言葉


兄の言葉だ。

「好きなこと言える弟たちが羨ましい」

その一言だけが、
今も胸の奥に残っている。
続きを聞いたわけでもない。
説明されたわけでもない。

ただ、
そう言った人がいた、
という事実だけが残っている。

あの言葉は、
言えなかった時間そのものだったのかもしれない。
好きなことを言えなかったこと。
言葉を置く場所がなかったこと。
言葉が沈むのを待てなかったこと。

書けなかった自分を、
これまで何度も責めてきた。
でも今は、
少し違う考えが浮かぶ。

言葉には、
準備の時間がいる。
無理に引き上げた言葉は、
どこかで折れてしまう。

書かなかった時間も、
消した言葉も、
なかったことにはならない。

それらは、
今ここにある言葉の
土台になっている。

誰かの言えなかった分まで、
うまく言おうとは思わない。
代わりに語ろうとも思わない。

ただ、
急がずに置く。
今日の自分が立っている場所から、
言葉を置く。

それだけでいい。



第4章 やめたことで、残ったもの

やめることで気がついた

あるときから、
いくつかのことを、
少しずつやめるようにした。

大きな決断をしたわけではない。
宣言したわけでもない。
ただ、
続ける理由が、
自分の中で見つからなくなった。

まず、
人の与太話をやめた。
集まれば誰かの話題になり、
気づけば、
その場にいない人のことを
勝手に評価している。

そこに、自分の時間はなかった。

人の悪いところ探しも、
やめた。
探せば、
いくらでも見つかる。
でも、
それで自分が
少しでも良くなったことは、
一度もなかった。


睡眠不足をやめた。
無理に夜更かしをして、
次の日をぼんやり過ごすのを
やめた。

不規則な生活をやめた。
何時に寝て、
何時に起きるか。
それだけのことなのに、
気持ちはずいぶん
落ち着いた。

栄養不足をやめた。
きちんと食べることを、
後回しにしなくなった。

運動不足も、
やめた。
激しいことはしない。
ただ、
体を動かす時間を
生活の中に戻した。


やめた、
と言っても、
何かを失った感じはしなかった。

むしろ、
静かになった。

頭の中が。
心の中が。

余計な声が減って、
自分の声が
聞こえるようになった。


不思議なことに、
やめたもののあとには、
何かが残った。

朝の空気。
体の感覚。
今日をどう過ごすか、
自分で選んでいる感じ。

そして、
言葉。

前より多く書けるように
なったわけではない。
でも、
残る言葉が
分かるようになった。


年を重ねるというのは、
足すことではなく、
減らすことなのかもしれない。

削る、というより、
濁りを取る、
そんな感じだ。

やめたことで、
残ったもの。

それは、
静かで、
小さくて、
でも確かなものだった。


第5章 今日という日を

今日という日を

今日という日を、
もっと感じていたいと思う。

何か特別なことが起きなくてもいい。
大きな成果がなくてもいい。
ただ、
今日という一日が、
確かにここにあったと感じられたら、
それでいい。

この文章を書いているのも、
誰かに認められたいからではない。
うまくまとめたいからでもない。

自分自身のコンテンツだと、
ちゃんと感じていたいから。

誰かの言葉をなぞるのではなく、
誰かの期待に応えるのでもなく、
自分の時間を、自分の手で確かめるために、
言葉を書いている。

振り返ってみると、
これまでの人生は、
いつも「誰かの時間」の中にあった。

仕事の時間。
家族の時間。
世間の時間。

それはそれで、
大切な時間だった。
否定したいわけでもない。

でも今は、

これからが自分の時間


はっきり感じている。

急がなくていい。
競わなくていい。
比べなくていい。

今日をどう生きたかを、
自分で分かっていれば、それでいい。

この文章が、
自分史だと感じられるのも、
立派な出来事を書いているからではない。

書けなかった日。
やめたこと。
迷ったこと。
静かに続けてきた暮らし。

そういうものを、
そのまま置いているからだと思う。

これから先、
どれだけ言葉を書けるかは分からない。
どこまで続くかも分からない。

でも、
今日という日を生きた、
その手触りだけは、
確かにここに残っている。

だから、
今日という日を生きたい。

大きな目標のためではなく、
未来の評価のためでもなく、
ただ、
今日を今日として生きるために。



第6章|言葉が残るとき、残らないとき

書いてきてわかったこと

書いてきて、
少しずつ分かってきたことがある。

残る言葉と、
残らない言葉がある、
ということだ。

どちらが正しい、
という話ではない。
どちらも、
そのときの自分から
確かに生まれた言葉だ。

でも、
あとになって振り返ると、
残っている言葉は、
だいたい似た顔をしている。


残った言葉は、
たいてい力が入っていない。

うまく言おうとしていないし、
分かってもらおうともしていない。

ただ、
その日の自分が見たもの、
感じたことを、
そのまま置いただけの言葉だ。

逆に、
残らなかった言葉は、
どこかで頑張っていた。

伝えようとしすぎていたり、
まとめようとしすぎていたり、
「これでどうだ」と
前に出す力が強すぎた。


若い頃は、
言葉は強いほうがいいと思っていた。

はっきり言うこと。
結論を出すこと。
役に立つこと。

そういう言葉が、
正しいと思っていた。

でも今は、
少し違う。

言葉は、
強いから残るのではなく、
馴染むから残る
そんな気がしている。


暮らしの中で使われる言葉は、
だいたい短い。

「おはよう」
「おかえり」
「今日は寒いね」

説明はない。
正解もない。

それでも、
ちゃんと通じている。

残る言葉というのは、
きっと、
そういう場所から生まれる。


この記事でも書いてきた
畑のこと、
家族のこと、
朝の空気のこと。

それらに共通しているのは、
「役に立たせよう」と
していないことだ。

ただ、
そこにあった。

だから、
言葉も、
そこにあったままで
よかったのだと思う。


言葉が残るとき、
それは
「選ばれた」ときではない。

たぶん、
置いていかれたときだ。

急がず、
飾らず、
押しつけず。

時間の中に、
そっと置かれた言葉だけが、
あとから誰かの足を止める。


これから先、
どんな言葉が残るのかは、
自分でも分からない。

でも、
無理に残そうとは
思わなくなった。

残らなくてもいい言葉を、
ちゃんと書いて、
ちゃんと消して、
また置く。

その繰り返しで、
十分なのだと思う。


次の章では、
そんな言葉と一緒に
生きている自分が、
それでも迷う日について、
書いてみようと思う。

言葉が残っても、
人は迷う。
それもまた、
自然なことだから。


第7章|それでも、迷う日がある

迷いはある

ここまで書いてきても、
迷いがなくなったわけではない。

静かに暮らすようになっても、
生活を整えても、
言葉が少しずつ残るようになっても、
迷う日は、ちゃんとやってくる。

理由は、
はっきりしないことが多い。

朝、目が覚めたときから
なんとなく重い日。
体が思うように動かない日。
昨日までできていたことが、
今日はできない日。

そんな日は、
自分でも驚くほど、
心が揺れる。


「ここまでやってきたのに」
「もう分かっているはずなのに」

そう思う自分が、
どこかにいる。

でも、
年を重ねて分かったことがある。

迷わなくなることが、
成長ではない。
迷いをなくすことが、
目的でもない。


迷いは、
自分を見失った証拠ではなく、
まだ自分を見ている証拠
なのかもしれない。

何も感じなくなったら、
迷いも起きない。

迷うということは、
今の自分と、
これからの自分のあいだで、
ちゃんと立ち止まっている、
ということだ。


昔の自分

昔は、
迷っている自分が嫌だった。

はっきりしない自分。
決めきれない自分。
人より遅れている気がする自分。

そんな自分を、
何とか追い立てようとしていた。

でも今は、
少し違う。

迷ったら、
無理に答えを出さない。
今日は決めなくていい、
と、自分に言えるようになった。


体調が優れない日には、
休む。
言葉が出てこない日は、
書かない。

それでも、
一日が無駄になったとは
思わなくなった。

迷っている時間も、
ちゃんと生きている時間だと、
思えるようになったからだ。


この先も、
きっと迷う。

それは、
避けられない。

でも、
迷いながらでも、
今日を生きることはできる。

静かに、
足元を確かめながら、
歩くことはできる。


次の章では、
そんな迷いを抱えたまま、
ここに言葉を置いておく理由
について、
書いてみたい。

迷いながらでも、
言葉を置く場所がある。
それだけで、
人は少し、安心できる。


第8章 ここに置いておきます

ようやくわかった

ここまで書いてきて、
ようやく分かったことがある。

言葉は、
完成させるものではなく、
置いておくもの
なのかもしれない、ということだ。

誰かに届けようとして、
形を整えすぎると、
言葉はどこか遠くへ行ってしまう。

でも、
ここに置いておくと、
必要な人が、
必要なときに拾ってくれる。


若い頃は、
言葉にも、人生にも、
意味を持たせようとしていた。

役に立つか。
評価されるか。
続ける価値があるか。

そんなことばかりを、
考えていた気がする。

でも今は、
少し違う。

意味は、
あとから付いてくる。
評価も、
時間の中で静かに決まる。

だから、
今はただ、
ここに置いておく。


この記事も、
誰かを導くためのものではない。
正解を示すためのものでもない。

ただ、
自分が歩いてきた時間を、
自分の言葉で、
そっと並べただけだ。

うまくいかなかった日。
やめたこと。
迷った時間。
静かに続けてきた暮らし。

それらを、
なかったことにしないために、
ここに置いた。


これから先

これから先も
どんなふうに生きるのかは、
正直、分からない。

体力も、
環境も、
少しずつ変わっていくだろう。

でも、
今日という日を生きて、
今日の言葉を置けた。

それだけで、
十分だと思っている。


もし、
この文章のどこかで、
足を止めてくれた人がいたなら、
それはとても、ありがたいことだ。

同じように、
迷っていた人。
やめたことを、
まだ許せていない人。

そんな人が、
少しだけ呼吸を整える
きっかけになったなら、
それでいい。


言葉は、
残そうとして残るものではない。

でも、
誠実に置いていけば、
時間の中で、
ちゃんと居場所を見つける。

だから、
ここに言葉というものを置いておきます。

今日の自分が、
確かに生きていた証として。


まとめ

年齢を重ねてわかったこと

年齢を重ねて良かったと
一言で言えることがある。

我を通さなくなったことです。

どうしても我を通したくなったら
その場を 離れるのが一番の解決策。

今更少年時代の光景が目に浮かぶのは
人生が残り少なくなっているからだろうか?
もう、争いごとに嫌気がさしているからだろうか?
陰険な感情からはなにも生まれないことを知っているからだろうか?

なんでもいいのです。

その場を離れたら時間が心の整理をしてくれる


朝日が登る東の山 、日が沈む西の山。
季節がきたら蛍の光が飛び交う田んぼ。
冬になればキュキュと音をたてて歩くのも遊びになる。
寒い中で吐く息も白い煙に。

その記事が100以上のスキをいただけたのは奇跡。

すごい時代にこれからの老後を過ごせるのは奇跡でしかない。

noteという武器を使い自分の思ったことを
考え思考し 整理していく、
これはとんでもなくすごいことです。

使いこなしてはいないが
AIの技術も手助けしてくれるのはありがたい。

今さら聞けないこともAIにならサラッと聞ける。


これは、僕だけの話ではないと思っている。


この近代文明にnoteというプラットホーム があり、
キャンバあり、AIがある。

すごい時代に関われたものです。

僕は素晴らしい武器を使い倒して
自分をまとめ整理していきたい。

他人様の話は可能なかぎりしない


それで怖くなかったか。
ないですね。

これからの生き様にもなります。

年齢をかさねる事ができるということは
とってもありがたいことです。

・子供の成長を見届けることができる。
・おかあちゃんの一日でも長く喜びを見届けることができる。
・子供からのプレゼントを長くいただける。
・世の中がどのように変わるか見届ける事ができる。

これらは素晴らしいことばかりです。
だけど、良いことばかりではありません。

災害で大好きな人を亡くしたなど
人生では思いもかけないことがたくさんおこります。

人生では自分の思いと重なったときに 涙する生き物かもしれない。

経験しなければわからない悲しみは
生きてる限りたくさん起こるものかもしれない。

神様からこんなことも感じたほうが良いよ。
こんな経験は誰もができるわけではないと感じ 言葉に残す。

これだけでもすごいことです。

また、noteだから自身の本音を磨き吐き出すことができる。

僕は6人兄弟の4番目、 長男の兄を自殺で亡くしている。
好きな兄貴が生前言っていたそうです。
思ったこと言える弟たちが羨ましい と言っていた長男が自殺。

これなど当事者しか味わえないことですね。
無理なく好きな言葉を磨ける場所が あるってことはすごいことなのです。


人生を楽しむ


無理なく今の人生を楽しむには
今までできていたことができなくなってる、
コレを素直に認めてやめていく事が大事になります。

人生は長いようで短いものです。
コレだけはできるように成り
磨くことができるな と思うものを見つける
ことが大事になります。

大切なことができるようになると残り人生が楽しくなります。

残りの人生でできることは多くはない。
でも、磨けるものは自分の中にまだある。

そう思えた今を、
大切にしていきたい。


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