春愁のソナタ【カフェ浪漫主義4】
気候変動で数少なくなった麗かな陽差しの日には、行く春を十分に味わう為にも野点ならぬ野珈琲にしたい。草上に座し春の小さな花々との名残を惜しみつつ、寝転んで雲の去来を見送りつつ甘美な春愁に浸ろう。
春愁の野辺の傍らには口語自由詩の青春期とも言える戦前昭和の詩論書がふさわしいだろう。詩歌自体は詠まないあるいは良くわからない人でも、例えば小林秀雄のようにつらつら詩歌論を巡らすだけでも楽しく、この春をより美しく過ごせると思う。

詩論と言っても萩原朔太郎のこの本は詩人の実感に基づいた随想に近い物で、文芸論に有りがちな抽象概念を捻くり回した文章より余程読み易く、題の純正を純情と題を付け替えたくなる。彼は西洋詩は当然として日本の古典に対する批評眼が格別優れている。
和泉式部や新古今集随一の歌姫である式子内親王を熱狂的に評価していて、後には彼自身も日本回帰を宣言するに至るのだ。その辺は彼の『恋愛名歌集』を読んで貰うとして、この『純正詩論』は日本の自由詩を先導せざるを得ない立場から書かれていながら、随所に日本の伝統詩歌への憧れが伺えるのが哀しくも美しい。
また先輩の蒲原有明の文語韻律詩を崇拝しつつも自らは口語自由詩に向かい、日夜酒精の酩酊に浸っていたこの詩人の浪漫の人生を褒め称えたい。彼がよく奏でたマンドリンの旋律は、さぞや春愁に満ちた音色だったろう。賢老の叡智より青年の悩みの方が時流に受けた幸福な時代で、当時の文学青年達の熱っぽい文芸論が聞こえて来るようだ。
珈琲器は本と同時代のフランス製アール・ヌーヴォーの輪花型カップだ。これは我が谷戸の楽園で花の精達と野辺の茶会を開くのに愛用している。
もう一冊は昭和初期の数多の乙女達がこの麗しき本により抒情の甘美を知り初めた名詩集だ。

西條八十は古き良き純情世代の少年少女向けの雑誌類に、毎月多くの詩を書き連ねていた。その名も神々しき『少女純情詩集』は小型天金ビロード張りの実に美しい本で、人気画家の加藤まさおによる数々の抒情的な挿絵も嬉しい。
詩は少女向けのたわい無さと言ってしまえばそれまでだが、西條八十の驚嘆すべき所は本格的な詩や翻訳詩と大衆向けや子供向けの詩などを的確に書き分けられた点だ。
もう少し後には童謡を始め軍歌から歌謡曲まで次々に大ヒットさせ、作詞家としての名が最も大きくなって行く。デビュー当時のあの『砂金』の象徴詩や名作「かなりや」の不可思議な世界を知っていたファン達はどう思っていたのだろう。
かなりや 西條八十
唄を忘れた金絲雀は
象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮べれば
忘れた唄をおもひだす。
それ以上に大人気だった彼の少女小説シリーズに至っては、それらを読んで育った戦後の少女漫画家達に計り知れない影響を与えている。こうなったらいっそ彼の著作の全てを集めて、その技法や発想の多様さの秘密を是非究明したいものだ。
この浪漫主義が衰退に向かいつつある時代に産み出された最も可憐な詩集を手に今の世を想えば、我が春愁は深沈と身に沁み込むばかりだ。学生達がカフェに集い書評や芸術論を戦わせたような青春の街は、もう映画の中にしか存在しない。
そんな想いを更に美しく彩ってくれそうな音楽はスクリャービンの「幻想ソナタ(ピアノソナタ2番)第一楽章」だろう。
この曲は、黒海を訪れたスクリャービンが海辺の宵闇に煌めく月の光を表現したものだと言われているが、春の暖かな陽の揺らめきにもよく合う。色彩感覚に優れたスクリャービンが凝らした後半高音部の美しい和音や装飾音は、その名の通り幻想世界の光の輝きのようだ。
紹介したアレクサンドル・メルニコフの演奏には安らぎの中に確かな抒情もあり、光の煌めきと青春の情感がよく伝わってくる。ショパンの「ノクターン集」やベートーヴェンの「月光ソナタ」が好きなら、是非この曲も聴いてみてほしい。
春の野に惜しみ無く注ぐ陽光はこれらの本が書かれ多くの人に読まれた頃と何ら変わりは無いが、こんな平凡な野辺の花や蝶や風や春陽をゆっくり味わうような人は今では激減してしまった。せめて本稿の読者諸賢だけでもこの短くなった春を惜しみ、美しき春愁の想いを己が身深く沁み込ませて頂きたい。
