見出し画像

秩父連山のふもとに ときどき現れる「山のおべんとう屋さん」の話

秩父連山のふもとには、
決まった日に開店しない弁当屋があるという。

定休日が決まっておらず、月の半分以上、店が開いていない…

ただ、何かの拍子にだけ、そっと扉が開いている。

そんな絵本の中に出てくるような話に、私は興味を抱いた。


開かない店

長瀞の渓流を見下ろすキャンプ場。ここに来るたびに、あの店のことを思い出す。

私のお気に入りのキャンプ場は、
長瀞の渓流を見下ろす、静かな場所にある。

川の音は一日中途切れることなく、
風が木々をなでるたびに、葉がやわらかく揺れる。

遠くでは、ときおり
秩父鉄道の貨物列車が、低く長い音を響かせて通り過ぎる。

その近くに、うわさの「山のおべんとう屋さん」があるという。だが私はこれまで、その弁当屋が開いているところを一度として見たことはなかった。

山小屋風の建物に看板はある。

『山のおべんとう屋さん』

けれど、店のカウンターらしき窓はひっそりと閉じている。気配だけを残して、そこにはいつも、誰もいないのだ。



五回目の空振り

今日も、閉まっていた。

「またダメか……」

この店を訪れたのは今日で五回目のことだったが、店が開いていたことは一度もない。

けれど、それほど落胆はしていない。
「どうせ今日も閉まっているだろう」と思いながら来ているからだ。

それでも不思議なことに、秩父の山を訪れるハイカーに、その店の存在を知らない者はいないらしい。途中で電車を降りてまで、その弁当を求めて立ち寄る人も少なくないという。


営業日が、存在しない

五回目の訪問も空振りに……


店が閉まっているのを見た私は、しかし、余裕の表情で店に近づいていった。

今回は4泊5日、つまり5日間の滞在予定だった。たまにしか開いていないといっても、5日間連続で閉まっていることはないはず。滞在中一日だけ店が開けばいいのだ。

店のカウンター窓の隣には、昔懐かしい黒板がかけられている。学校の教室にある本物の黒板だ。近隣の廃校から譲り受けたものかもしれない。

そして、その黒板には白いチョークで直近の営業日が書かれている。私はその文字の中に、自分の滞在中の日付を探した――

ところが……

「な、ない!」

そこに書かれていた営業予定日はこうだった。

4/2(木) 3(金)5(日) 7(火) 10(金) 11(土) 12(日) 19(日) 25(土) 26(日)

今日は4/13(月) 滞在するのは4/17(金)までだ。

黒板に書かれている予定からは、まるで狙い撃ちしたかのように、この期間がまるっと抜け落ちている。

「店主が旅行にでも行くのだろうか……」

さすがに落胆した私は、肩を落とし店を後にした。

今度こそ『山のおべんとう屋さん』の手作り弁当が食べられると思っていた……

しかし、ここまでくると、ただの偶然とは思えない。山の神に「そこはお前の行く場所ではない」と拒絶されているかのようだ。


書き足された日

追加の営業日が書き足されていた黒板

二日後の4/15、わたしはその日の食材を仕入れにスーパーに行った。帰りに、何気なく山のおべんとう屋さんに寄り道してみた。

店は相変わらず閉じ、ひっそりとしていた。しかし何か違和感があった。ここからは文字までは読めないが、黒板に書かれている文字が二日前に見た配置と違う気がする。

おそるおそる黒板に近づいて白い文字を凝視した私は思わず「え!うそだろ!」と叫んだ。

黒板には二日前に書いていなかった日がいくつか書き加えられ、その中になんと4/16が含まれていたのだ。

「明日店が開く!」
ついに『山のおべんとう屋さん』の弁当が食べられる。

開いている朝


いらっしゃいませ、のひと言で、緊張がほどけた。


朝の光はまだやわらかく、山の影が長く伸びている。川の流れはいつもより少しだけ澄んで見え、風の匂いもどこか違っていた。

次の日の早朝、私は足取りも軽く「山のおべんとう屋さん」へ向かっていた。

実はこの店、開いている日は少ないのだが、開いていれば朝の6時からやっているのだ。朝が早いハイカーに配慮してのことかもしれない。

やっと巡り合えた『山のおべんとう屋さん』が開いている日。気がつけば、三食ともその弁当を食べるつもりでいた。

お店は開いていた。今まで、窓が閉じカーテンごしに暗い店内を覗いたことしかなかったが、ついに窓が開け放たれ、明るい店内とカウンターの向こう側に立つ店主の姿をみた。

窓から見える中は、小さな山小屋のようだった。木のぬくもりと、どこか懐かしい匂い。

カウンターの向こうに立っていたのは、どことなくウサギに似た顔立ちの女性だった。

「いらっしゃいませー」

その元気な一言で、わたしの緊張はゆっくりと解けていった。店主の明るい笑顔を見ていると、なぜかずっと前から知っている人のような気がした。


山のおべんとう

手づくりハンバーグ弁当。食べきれるかな、と思ったけれど、気づけば最後の一粒まで食べていた。
これで900円。思わず二度、値段を確認した。

この店では、多くの人が事前に弁当を予約するらしい。頼めば、その人だけのための特別な弁当も作ってくれるという。

だが予約をしていない私は、その日に並んでいる弁当の中から選ぶしかない。

選んだのは、白身魚の南蛮漬け、ハンバーグ、そして季節の彩りを詰めたお花見弁当。

どれも手作りで、しっかりとした重みがある。「どれもおすすめですよ」そう言って、店主は笑った。

気づけば私は、時間を忘れて店主と話し込んでいた。山のこと、川のこと、この店を始めたきっかけのこと。

話は尽きることがなく、どこか時間の流れがゆるやかになっていく。

「あ、代金払うの忘れてた!」

私があわてて支払いを済ませると、
「私、お客さんとおしゃべりに夢中になって、ときどきお弁当代もらうの忘れちゃうんですよ」

店主はそう言って屈託なく笑った。


帰り道


野上駅。時間がゆっくり流れている。


帰り道、私は野上の小さな無人駅に立ち寄った。無人のホームの軒下には、つばめの巣があり、小さな命がせわしなく動いている。

その光景を見ていると、ふと、あの店のことが頭をよぎった。

なぜ、あんな場所にあるのか。
なぜ、あんなに不規則なのか。

けれど、その疑問は、考えれば考えるほど、どうでもよくなっていく。


三つの食事

夕暮れの荒川と、秩父鉄道の貨物列車。この景色を見ながら、お花見弁当を食べた。
(画像はイラストです。実際の線路位置や貨物車輛とは異なります)


その日は結局、
朝昼晩と三食すべて、この店の弁当を食べることになった。

朝は、川のそばで白身魚の南蛮漬けを。
昼は、木陰でハンバーグを。
そして夕方、少し冷たい風の中で、お花見弁当を。

どの弁当も、不思議なくらい心にしみた。味が特別というより、その場の空気ごと、体に入ってくるようだった。

気づけば、あたりはとても静かだった。さっきまで確かに聞こえていた川の音が、どこか遠くなっている。

そして、ときおり聞こえる貨物列車の低い響き。


振り返ると

振り返ったのは、ほんの気まぐれだった。

店を後にするとき、店主は笑顔で手を振ってくれた。

「また来てくださいね」

その言葉は、どこか現実よりもやわらかく響いた。

しばらく歩いてから、ふと振り返った。
ほんの、気まぐれのように。
風が一瞬だけ、止まった気がした。

すると——

カウンターの奥に、白い影が見えた。
耳の長いエプロン姿のうさぎが、じっとこちらを見ている。

「え、う、うさぎ……?」

私は思わず目をこすった。

もう一度見ると、そこにはいつもの店と、店主の姿があった。何事もなかったかのように、穏やかな笑顔で立っている。

あれは、ただの見間違いだったのか。

それとも——

秩父連山のふもとには、時々だけ現れるお弁当屋がある。そしてそこでは、少しだけ、時間の流れが変わる。

次に訪れたとき、またあの店に出会えるかどうかは分からない。

けれどもし、扉が開いていたなら。

その日はきっと、ただの一日ではないのだと思う。(文:千里ふうた)

山のおべんとう屋さん は実在します

山のおべんとう屋さん のがみ(Facebook)

※営業日は不定期です。お出かけ前に必ずご確認ください。

秩父連山のふもとに ときどき現れる「山のおべんとう屋さん」の話

🔽(こちらの記事も好評です)

🔽(こちらの記事も好評です:絵本風やさしい記事シリーズ)

🔽(こちらの記事も好評です:節約ブームシリーズ)