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『プラダを着た悪魔』が与えてくれた「自分を変える勇気」 ~ルッキズムを利用して偏見を乗り越える方法~



「人は見た目ではなく、
 中身で判断するべきだ。」





私たちが幼い頃から
大人たちに教わってきた道徳観です。



しかし、現実はどうでしょうか?





生きづらさを抱えていると、「弱々しい」「役に立たない」「頭が悪い」という他者の無意識の偏見にさらされます。「人は中身」という正論は、残酷なほど「偏見の壁」に阻まれる。僕は20代の頃、難病のクローン病で働けませんでした。免疫機能の過剰な炎症反応によるものですが、1ヵ月の内に1週間は40℃の高熱を出し、その度に長期の絶食治療。鼻から胃までチューブを入れ、栄養剤を落とす経腸栄養の治療が毎日必要で、なかなか外出の自由もありませんでした。「働きたい」と思っていても、通信教育の添削の仕事や時給100円以下の内職の仕事さえも採用されない状況です。「難病患者」「障害者」というレッテルがあると、求職に応募しても自分の本当の良さ(中身)を見てもらう前にシャッターを下ろされてしまう。そんな悩みを抱えていた頃に見たのが、この映画でした。





「プラダを着た悪魔」




【あらすじ】

ジャーナリストを目指してニューヨークに来たアンディは、偶然に世界的ファッション誌「ランウェイ」の編集部で不本意ながら働くことになる。彼女が就いたのは、圧倒的な影響力を持つ編集長ミランダのアシスタント。ファッションに興味がなく、外見にも無頓着だったアンディは、華やかな業界の価値観に戸惑い、周囲から実力を認めてもらえない日々が続く。それでも仕事を続ける中で、アンディはファッションが単なる見た目ではなく、文化やメッセージを伝える’’アイコン’’であることに気づき始めます。先輩のナイジェルの助言を受けながら自分のスタイルを見つけ、業界のトレンドを理解していくと、周囲の評価は大きく変わり、ミランダの要求にも応えられるほど成長をします。一方で、仕事にのめり込むほど私生活とのバランスは崩れ、何を大切に生きたいのかが揺らいでいく。華やかな世界で成長したアンディは、キャリアと自分らしさの間で選択を迫られ、最後に自分の道を歩くことを決意します。

【プラダを着た悪魔 予告編】
https://www.youtube.com/watch?v=AOhEnUA4CGg

Disney+ (ディズニープラス)





この映画のおかげで、「難病患者」「障害者」というレッテルを、外見の印象で上書きし、社会の偏見をハックすることができるんじゃないかと考えるようになりました。


「自分らしくいたい」と願うとき、私たちは「外見を飾ること」を後回しにしがちです。特に、僕は、難病という大きな困難の前で’’生きることに精一杯’’でファッションは余計なものだと諦めていました。しかし、この映画『プラダを着た悪魔』が教えてくれたのは、逆の真実でした。





心理学に「ハロー効果」という人間の認知のクセがあります。人の一つの特徴が、他の評価まで良く(または悪く)見せてしまう心理現象のことです。例えば、「外見が整っている」といった印象があると、実際の能力や性格まで高く評価されやすくなる。逆に、印象が悪いと、本来の実力が正しく伝わらないこともあります。わかりやすく言えば、顔のいい美男美女は何をやってもカッコイイという強力な心理効果です。顔を整形手術して美男美女になれというものではありません。生きづらさがあっても、あえて美しく強く見せる戦略が必要なのです。




そこで今回は、生きづらさを抱えている人が抱かれがちな「弱々しい」「役に立たない」「頭が悪い」という誤った認知の偏見を正のハロー効果で上書きし、相手の認知を強制的に書き換えるプロットを用意しました。



メニューは次の通り。




「見た目では分からない障害」の壁があるからこそ、「見た目で判断されるルッキズム」を戦略的に利用し、生きづらさを抱える人たちが有利に社会というランウェイを歩く方法を伝えていきます。広告で「カワイイは作れる」なんてキャッチコピーがありましたが、まさしくその通り。現代社会において「ルッキズム(外見至上主義)」は批判の対象ですが、同時に抗いがたい心理学的ルールとして厳然と存在しています。世界が難病患者・障害者を’’社会のバグ’’として扱うなら、こちらは人間の認知の歪みをハックしてマイナスからのスタートを克服すればいい。難病患者・障害者の知識をアップデートすることが僕の役割です。「プラダを着た悪魔」をシンデレラストーリーではなく、「知的サバイバル術」として解説していきます。



Here We Go !



最も手強い偏見は「自分の中」にある




無意識の偏見・思い込みのことを
「アンコンシャスバイアス」と言います。



偏見があるのは、社会だけではありません。





’’自分自身の中にも’’です。





『プラダを着た悪魔』でアンディはジャーナリストを志望していたこともあり、「ファッションにうつつを抜かすのは馬鹿げている」と知的エリート特有の偏見がありました。彼女はファッションを「くだらない」「表面的」と決めつけ、そこで真剣に働く人たちをどこか見下していた。けれど、その偏見こそが、彼女自身の視野を狭め、成長の機会を奪っていたのです。偏見は、社会の中にあるだけではない。自分の中にも静かに潜んでいて、気づかないうちに誰かを、そして自分自身を縛ってしまう。「私はジャーナリストになるのだから、着飾る必要がない」と自分に言い訳をしていた。プライドに見えて、実は「今の自分を変えることが怖い」という防衛本能があるのでしょう。自己のスティグマを脱ぎ捨てることは、それだけ難しいのです。



ですが、アンディには彼女の偏見を教えてくれる仲間の存在がありました。ファッション誌「ランウェイ」で長年働くベテランスタッフで、編集部の裏側を支えるナイジェルの存在です。ファッション業界の厳しさも美しさも知り尽くしている彼だからこそ、ファッションは単なる虚栄ではなく、歴史と文化、そして、意思表示のツールであることを彼女に教えました。アンディにとって’’ただの同僚’’ではなく、価値観を広げてくれる‘’メンター‘’のような存在になったのです。ナイジェルがいたからこそ、アンディは「自己を客観視」できました。僕もこのシーンはプラダを着た悪魔の中で最も好きなシーンであります。

【プラダを着た悪魔 イメチェン編】
https://www.youtube.com/watch?v=bMRLnvhggyY

Netflix Japan



まず、
自分の中の偏見を見つける下地として、


「自分らしさのコア(内面)」


を見つけること。





そのためには。





・自分の決めつけ、
 驕り、慢心を知ること。



・間違いを指摘してくれる
 「仲間」を作ること。





この2つのファクター(要素)が
物差しになります。





僕は1年前から患者団体であるピーペックのプロジェクトメンバーとして手伝いをさせてもらっていて、良かったなと思うことの1つは、社労士としての決めつけ・驕り・慢心が芽生えにくい環境に身を置けていることです。ピーペックがPPI(患者市民参画)の活動を行っていることもあり、「医療の専門知識がなくても、誰でも意見が言える」ことを大事にしています。僕が企画にアイデアを出すこともあるのですが、他にも多様な立場の患者さんたちと屈託ない意見を交わすことができています。ボトムアップの支援がしたいと願っていたので、上下の関係でなく水平の関係性で物が言い合えるというのは、「自分に足りてない部分」を気付かされることが多く、自分にとって学びと経験になっています。社労士の世界は、「先生、先生」と呼び合い、おべっかでも「褒め合い」をすることが社交辞令なので、患者団体の仲間のおかげで、驕ることなく自己を客観視することができているんじゃないかと感じるところです。



戦略的変身のためのルッキズム




なぜ外見を整える必要があるか?





外見はチャンスを生むものだからです。





生きづらさを抱えた人が社会に参加しようとするとき、その入口は狭く、時に理不尽なほど重い扉になります。だからこそ、チャンスを掴むためには、外見でも、コミュニケーション術でも、心理学でも、使えるものは使っていい。外見を整えることは、誰かに合わせるためではなく、自分の想いがちゃんと届くようにするための「パスポート」なのです。『プラダを着た悪魔』では、アンディがシャネルのブーツを履いた瞬間、周囲の’’嘲笑’’を’’期待’’に変えることができました。外見という「非言語コミュニケーション」が成功の鍵となります。





でも。



顔も体型も良くないし、「おしゃれ」なんてムリだよ~なんて声があるかもしれません。



大丈夫。





おしゃれは「感性」ではなく、

「論理」です。





おしゃれというと、「センスがある人だけのもの」「生まれつきの才能」と思われがちだけれど、本当はもっとシンプルなものです。色の組み合わせ、シルエットラインの作り方、清潔感。印象をコントロールするための論理でもあります。特別なセンスのある人だけができるものではなく、賢さがあれば、誰でも学べるもの。してはいけないこと、しなきゃならないこと、ちょっとした知識が必要なだけです。



それでは、僕の実践しているファッション論理を紹介していきましょう。





1. 色の組み合わせ


トップス・ボトムスの合わせの基本は「3色以内にまとめる」。人の目は、色が多いほど情報処理に負荷がかかり、『なんとなく雑に見える』『落ち着かない』『子どもっぽい』という印象につながります。色彩を少なくすると、視覚情報が整理され、自然とまとまりが生まれる。また、色は大きく分けて、暖色(赤・オレンジ・黄色)と冷色(青・緑・紫)があり、似た色同士は並べたときに違和感が出にくいです。同じ色でもグラデーションで合わせてみるのもいいですね。逆に、暖色と冷色を合わせると、調和が失われるので気を付けましょう。黒と白は、暖色とも冷色とも合わせやすい特性があります。これらを踏まえて色選びをするといいでしょう。



2.シルエットの作り方


人の目は、まず輪郭を捉えるため、シルエットが整っているだけで「なんとなくおしゃれ」に見えます。その基本が、A・V・I・Oの4つの型のシルエットを覚える。どれか1つを意識するだけで、全体がまとまり、体型の悩みも自然にカバーできるものです。

まず、A型。上が細く、下が広がるシルエット。例えば、細めトップス × ワイドパンツ、フレアスカートを合わせるもの。印象としては、下に重心ができ、安定感・やわらかさが出ます。レディースの洋服のほうが作りやすいかな。

次は、V型。上が広く、下が細いシルエット。例えば、オーバーサイズトップス × スキニー、細身パンツ。印象としては、視線が上に集まり、スタイルがよく見えます。肩幅や上半身にボリュームがある人に合うから、メンズの洋服と相性が良い。

そして、I型。全体がまっすぐの体にフィットしたシルエット。例えば、細身ジャケット × ストレートパンツ、縦長ワンピース。効果としては、縦のラインが強調され、細見え・きれいめな印象になります。仕事やフォーマルにも使える信頼感のあるスタイルですね。

最後に、O型。腰の位置がわからない丸みのあるシルエット。例えば、オーバーサイズのトップス × ワイドパンツ、コクーンコート。効果としては、やわらかく親しみやすい印象をつくります。最近、僕が最も意識をしているスタイルですね。体型をふんわり包み、丸みのある曲線で優しい雰囲気になります。身長180cmに対し、体重が52kgしかない激ヤセ体型なので、体型を隠すのにちょうどいいです。難病の痛々しさが出ないフォルムだと思っています。

これら4つのシルエットを意識して洋服を選んでいくと、自分らしい格好が作れるものです。また、最後にアドバイスするなら、洋服を買うときに「3つの口(くち)」の形は、注目してください。首回りの口、袖口、ボトムスの裾口。これらの形がどのような形をしているのかも、印象を左右する要素です。



3.清潔感

清潔感は、単なる好みではなく、第一印象を決める要素です。人の脳は、相手の情報を一瞬で処理しようとするため、髪・肌・服の状態・匂い・シワやヨレといった「清潔さのサイン」を最初に読み取ります。ここが「整っている」と判断されると、丁寧・誠実・健康的・信頼できるといったプラスの印象を与える。昔、ドリフターズがババンバ・バン・バン♪「風呂入ったか?」「歯磨いて寝ろよ」と言ってましたよね。そういうことです。いかりや長介に怒られますよ。また、人間の心理作用に「アンカー効果」というものがあり、最初に得た情報が、その後の判断の基準に継続してなってしまう現象があります。例えば、最初に「丁寧そう」と思われると、多少のミスがあっても「たまたまかな」と解釈される。「ガサツ」だと思われると、同じミスでも「やっぱりね」と強化される。第一印象は、それだけ大事なものです。清潔感が欠けると、能力や人柄まで低く見積もられやすい。だからこそ、清潔感は「本来の自分を正しく受け取ってもらうためのテクニック」として必要です。あと、年齢に関係なく生き生きして見える印象をつくるので、アンチエイジングの効果もあります。





以上、3つのことを実践してみてください。慣れてきたら、服全体の統一感も意識するといいですね。「モード」であるのか、「カジュアル」であるのか。使うアイテムもわかるようになってきます。そして、違う印象のアイテムで、その統一感を少しだけ緩くする「崩し」のテクニックなんかも使えるようになったら、自分の「個性」を外見でさらに表現できます。



身につけるものは、挨拶や名刺よりも雄弁な自己紹介です。見た目を磨けば、人としての格も上がる。生きづらさを抱えて、蔑まされているなら、見た目を変えることも立派な対抗手段です。ココ・シャネルの言葉を借りますが、「シンプルと貧しさを取り違えることほど馬鹿なことはない」。おしゃれは高級ブランドを身につけたお金持ちだけができるものではないのです。世の中の有名なIT企業の社長を見てください。どんなにお金があって高いTシャツを着ていても、おしゃれと呼べる人はどれだけいるでしょうか?ルックスに経済的な豊かさや才能は関係ない。知識と努力で「美しさ」はつかみ取れます。ファッションは偏見を排除する「ノイズキャンセラー」の役割を果たすものです。



問われるものは「真の実力」



見た目を変えることは、
「スタートラインに立つ」こと。


では、その先はどうでしょうか?





ゴールを目指すには、
プロフェッショナルな「実力」
が必要となります。





言葉を変えれば、外見で手に入れたチャンスは「高すぎる期待値」でもあります。扉が開いた瞬間に求められるのは、その外見に見合う以上の「実力」です。外見が「期待」を創造し、中身がその期待を「信頼」に変えていく。結論から言えば、「外見」を磨くことも、「中身」を磨くことも、両方とも必要です。見た目だけでは、社会の中に居場所を作れないからです。継続させる力が求められます。『プラダを着た悪魔』の作中においても、変身を成し遂げたアンディは編集長のミランダの自宅にサンプル本を届ける仕事を失敗してしまいます。その翌日、未発表のハリーポッターの原作本を手に入れるように無理難題を課されました。ここで学べるのは、「外見で手に入れた自信は、まだ本物の自信ではない」という厳しい教訓です。外見は自分を強く見せてくれますが、中身(経験や判断力)が追いついていないと、その自信は脆弱なものでしかありません。





それでは、
どうすれば「実力」が
付くのでしょうか?





それは、「失敗」を重ねること。





失敗には、2つの価値があります。



・実力の「現在地」がわかる

・「覚悟」が育つ



失敗することは、自分に未熟な部分があるということ。その未熟さを自覚することで、自分の実力を客観視できます。そして、恥をかき、追いつめられて、初めて「次こそは完璧にやり遂げる」というプロとしての執念が生まれます。成功への最短ルートは失敗の数で決まるのです。外見を整えて、チャンスを掴み取れば、当然、難易度や要求の高い仕事が舞い込んできます。そこで失敗することは、新しいステージに立てている証拠です。難病や障害という壁がある中で社会に出るとき、「失敗してはならない」「迷惑をかけてはならない」と自分を縛りがちになります。しかし、ルックスでこじ開けた扉の先で、何度も転び、そのたびに立ち上がる。その泥臭いプロセスの積み重ねが実力を育てます。



僕は2025年の12月、患者団体の「くすりと生活」で、患者体験を配信してもらいました。結果から言うと、大失敗です。緊張して話すペースも構成もぐちゃぐちゃだし、体も落ち着かない様子でゆらゆらとずっと揺れてしまいました。推薦していただいた患者さんにも、スタッフの皆さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいです。ですが、この失敗を自分で分析して、トレーニングすることによって、すこし人前で話すことにも慣れてきたのです。社労士の研修では、人前で話す時には明るく振る舞うようにと言われたりするのですが、僕にはこれが合わないことに気付きました。難病のせいでハッピーとは程遠い人生を歩んできたので、明るく人の見本になるように振る舞うなんて僕には到底できないものだったのです。明るく振る舞おうとすることに心のムリが生じてしまいます。ですから、僕は、良く思われようとか、飾り立てる虚栄心は徹底的に削ぎ落とすことにしたのです。表裏なくしゃべることに集中しました。そうしたら、落ち着いてしゃべることができるようになってきました。また、緊張することも「見られる意識」が強すぎることに気付きました。例えば、子どもの頃の遊びで「ハンカチ落とし」なんてありますよね。ハンカチを落とされるときに緊張する人はいないと思います。これは、自分がハンカチを落とす人を探すことに意識が向いているからなんですよね。だから、「見られる」ということでなく、「見る」という方向に意識を持っていくようにしました。人前で話すときには、「自分が仲間を見つけるんだ」と探すことに意識を向けるようになったら、これまた緊張が和らぐようになってきました。その後、2026年の4月「くすりと生活」で、前年の僕の登壇を再配信させてもらって、新たにすこし話す場も作っていただきました。今回は落ち着いてしゃべることができたので、及第点をもらえるんじゃないかなと思っています。(もらえたらいいな。)こういった自己成長があったのも失敗があったからです。そして、なにより、この春から「くすりと生活」のスタッフに誘っていただき、嬉しいことに僕もメンバーとなりました。「くすりと生活」は患者体験を発信するメディアのような患者団体で、困難を抱えたメンバーが多く、どのような立場のメンバーであってもそれぞれが役割を持ち、「人を育てる」ことができる組織です。こういった仲間たちとの出会いも失敗があったからじゃないかな~と思ったりするところです。(失敗されたほうはたまったもんじゃないけど。)そして、仲間たちに出会えたからこそ、社労士として「難病支援」を絶対に諦めるわけにいかないと決意を新たにすることができました。


難病患者・障害者は失敗する場すら与えれないこそ、ルックスでも何でも利用できるものは利用して、失敗を重ねて、実力をつけていってほしいと願います。



働き方のリデザイン




難病患者・障害者の社会参加は、

「働き方のリデザイン」だ。





難病患者・障害者が社会で活躍するには、まず「対等なプレイヤー」として認識される必要があります。ですが、社会には数え切れない偏見があります。「難病患者は弱々しい」「障害者は気持ち悪い」「あの人はめんどくさい」。そういった言葉の中で「自分を失わない勇気」は大切です。





ルッキズムを利用して自分を守る。





「外見は鎧、中身は剣」




社会で戦うには、鎧も剣も必要です。戦うべき時に戦えない人間に強くなる未来はない。世界が偏見に溢れているなら、自分もルッキズムという偏見を上手く使いこなせばいいだけ。難病患者・障害者が世の中で社会的役割を果たすことが「本当の社会参加」です。「人は見た目じゃない」という言葉は何もしない人間が何もしない自分を慰めるために作った言葉だと思います。今の世の中で、難病患者・障害者が「中身」を見てもらえているかと言えば、大きな矛盾があります。戦いたくなくても、戦わなきゃいけないのが今の状況。だからこそ、「自分らしい条件で働く」ための交渉権として、ルッキズムをうまく利用してもらいたい。難病患者・障害者の社会参加は、どこでどう生きるかを自分で選べる力を手に入れること。劣等感が強い人ほどおしゃれはしてほしいなと思います。社労士の世界がそうであるように、生きづらさを抱えるあなたが「変わろう」とすることをあざ笑う人がいることでしょう。僕はそういった人が大キライです。周りの目なんて後からいくらでも変わる。大事なのは、あなたが今の自分を好きになれるかどうかです。自分らしさで自分の夢のチャンスをつかんでください。



難病患者・障害者の社会参加には、難病患者・障害者自身がキャリア形成できることが必要不可欠です。僕は『プラダを着た悪魔』を再び見て、上司であるミランダの強さも欲しくなりました。社労士になる前は、ミランダが「冷徹な独裁者」にしか映りませんでした。ですが、今はミランダのことを外見も中身も一切の妥協を認めない「実力主義のプロフェッショナル」と認めることができます。ミランダは自分の地位とスタイルを守るために、プライベートも周囲の理解も犠牲にして、孤独な決断を繰り返しています。社会の第一線で戦おうとすれば、どうしても周囲との温度差や理解されない苦しみに直面します。その中で貫き通す「美学」はなにか、教えてくれました。



「ランウェイ」は世界中の女性だれもが憧れるファッション誌です。女性の「共感」を最も大事としています。それでは、日本の「治療と仕事の両立支援」は難病患者・障害者の共感を大事にしているでしょうか?ビジネスの世界では、ファッションを売るにも、化粧品を売るにも、女性の「共感」が重視されるのに、福祉支援の世界は難病患者・障害者の「共感」が重視されていません。ビジネスでは、共感は成果を生む経済的な価値として扱われています。顧客理解、チームマネジメント、エンゲージメント向上、離職防止。どれも「相手の立場に立って考える力」が前提になっていて、共感は数字や成果に直結する「戦略的スキル」として評価されます。しかし、福祉・支援の現場では、支援計画は支援者側の都合で組まれ、「こうしたほうが良い」「これが正しい支援だ」という「支援者の価値観」が先に立ちます。共感が本来向けられるべき相手である「当事者の声」は、驚くほど聴かれていません。



東京都社会保険労務士会の「治療と仕事の両立支援」もそうです。困難性の高い障害者ほど深く関わらない対応を求められます。僕には、相談の場だけ当たり障りない対応をして、他機関にたらい回しにし、自分の責任が問われないように保身の支援をしているように見えます。支援しやすい患者だけを選んで支援し、支援の難しい困難性の高い患者とは距離を置く。患者の選別を行っているみたいです。障害年金の申請や就業規則の作成といった難病患者・障害者に直接関わる独占業務がありながら、患者を見殺しにするような行為が正しいものなのか。例えば、弁護士であれば、どのような凶悪な殺人犯であれ、裁判でその人権が守られるように最後まで弁護を尽くします。医者であれば、どのような残忍なテロリストであれ、医療の現場で、その命が守られるように最後まで救命の治療を施します。難病患者・障害者は殺人犯・テロリストではありません。好んで難病患者・障害になった人など、誰ひとりいないのに、自身に非のある殺人犯やテロリストより軽薄に扱われ、見捨てられる。独占業務を持った社労士が諦めてしまっては、誰が助けられるのでしょうか?社会保障のプロフェッショナルとはなんだろう。独占業務とはなんだろう。最近、よく考えてしまいます。東京都社会保険労務士会は社労士の認知度を上げることに必死ですが、政治献金をしたり、サイネージ広告を出すより、もっと大事なことがあるんじゃないでしょうか?社会保険労務士の資格が難関試験なのに、世間でいまひとつ尊敬されないところには、職業団体が社会的職責を果たしていないところに原因があるように思います。


昨年、僕は治療との両立・障害者等就労支援委員会の公募に落選しました。抽選とのことでしたが、この公募以降、多摩支部の社労士の多くから避けられ、無視されるようになりました。開業当初と変わらない態度で接してくれる社労士は本当にごく僅かです。落選後、はじめて参加した障害者就労支援の研修で、治療と仕事の両立支援の新しく委員になった社労士が、「あの人が木藤先生」と知らない社労士に僕の名前を吹き込んでいるのがトイレに向かう瞬間に聞こえました。もうちょっとわからないようにやってほしいなと思いつつ、笑顔でわからないフリをしてやり過ごしました。この頃はまだ治療と仕事の両立に携わる社労士の人たちを信じたいという気持ちが残っていたのですが、その淡い希望の光が黒く塗りつぶされていったのを覚えています。もう関係は戻らないということを悟り、なんとなく社会から切り捨てられる人の気持ちがすこしわかるようになりました。


だからこそ、僕は、難病患者の社会保険労務士として、難病患者・障害者の支援を最後まで諦めたくない。近年まで、就労支援を含めて難病患者に公的支援がほとんどなかった問題があります。僕は社労士になって、専門家が責任を追及されたくない保身から困難性の高い難病患者・障害者をたらい回しにして、見捨ててきたことも一因になっていることに気付きました。特に難病患者の支援は、支援者の数が少ないということもあります。ただでさえ支援者が少ないのに、難病支援に有用なスキルを独占業務として社労士以外には使わせない。それでは困ります。年金事務所の行政協力で、指導する社労士が窓口に訪れた障害年金専門の社労士に対し「ああいう社労士になってはいけないよ」と言ったことを思い出しました。僕が障害者であることも難病患者であることも伝わっていなかったようなので、口を滑らせただけのことかもしれませんが、社労士の中にも障害者に対して「無意識の偏見」があるのは確かです。窓口に訪れる社会保険労務士はあくまで代理人であり、その背後には必ず依頼人がいます。しかし、無意識のうちに「代理人」だけを見て判断をしているのではないかと疑ってしまうことがありました。僕は現在、障害年金専門の年金教室に通っています。登壇に立たれる障害年金専門の社労士は、「障害者を助けたい」という強い熱意も技術も持っていて、僕には輝いて見えます。社会保険労務士の業務の中で「良い業務」とか「悪い業務」とか、ないはずなんだけどな。



僕はこうした偏見の原因は、「相手の背景情報を知らないこと」があると考えています。みんな、同じ社労士なのに、障害年金専門の社労士の背景情報を知らない。そして、障害者の背景情報も。難病患者の背景情報も。他人のことだけでなく、僕自身も偏見はまだまだたくさんあると思います。





だから、僕はもっと難病患者のことを知りたい。障害者のことを知りたい。患者団体への協力をもっともっとがんばりたい。





それが僕のプロフェッショナルだと思うから。





今回もブログ記事を
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。



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