作者本人も解けなかった国語の入試問題 ─「作者」という神が死んだ瞬間
年をまたぎましたが、前回の続きです。(読んでなくても読めますよ)
あの「よくある不満」は真実か
「作者の気持ちなんて、作者本人にも分からない」
この言葉、どこかで見たことはありませんか?
X(旧Twitter)やブログなどで、定期的にバズるあの言い回しです。
「国語のテストなんて意味がない」という文脈で語られるこのフレーズが都市伝説であるということは前回の記事にも書きましたが、実は単なる負け惜しみや与太話ではありませんでした。
実際に、名だたる作家本人が「自分の文章の試験問題が解けなかった」と証言しているのです。
これらの証言が正しいが故に、この都市伝説に拍車がかかってしまっているような気がするのです。
作家たちが味わった「解けない」衝撃
まず有名なのが、評論家の神様・小林秀雄のエピソードです。
娘に「国語の問題が分からない」と相談された彼が、問題文を読んで「こんな悪文、分かるわけがない」と切り捨てたところ、実はそれが自分自身の文章だった─という話。
さらに、自身の体験として詳細に語っている作家もいます。
共通一次試験に自作が出題された作家・黒井千次氏は、実際に問題を解いてみた感想をこう述べています。
「どの選択肢も自分の気持ちに合わず、腹が立ってきた」
「結局、正解は違っていた」
こちらのnote記事にもありました。
また、現代の作家たちも声を上げています。
「千夜千冊」で知られる編集工学者・松岡正剛氏は、自身の文章が入試に頻出することについて、「試しに解いてみると、ほとんど外れる」「選択肢は全部当たっているように見える」とはっきり書き残しています。https://www.tokyo-shoseki.co.jp/product/books/81453/?utm_source=chatgpt.com
最近ではエッセイストの岸田奈美さん(佐渡島さんが担当編集者なんですね。すごい。)が、自身のnote記事が中学入試に使われた際、「原作者なのに意図が分からなかった」としつつ、「入試で問われているのは作者の意図ではないことに気づいた」と冷静に分析しています。
有料ですが、無料で読める部分だけでもそれが書かれています。
これらは誰かが作った噂話ではなく、作家本人が公言している事実なのです。
なぜ「作者」は追放されたのか
なぜ、書いた本人に正解が分からないという奇妙な現象が起きるのでしょうか。
その謎を解く鍵は、1967年にフランスの思想家ロラン・バルトが発表した「作者の死」という概念にあります。
バルトは「テクスト(文章)は、書かれた瞬間に作者の手を離れ、その意味は読者との関係の中で立ち上がる」と宣言しました。
つまり、「作者がどういうつもりで書いたか(意図)」よりも、「文章としてどう読めるか(記述)」こそが重要である、という考え方です。
実は、日本の入試現代文も、理屈の上ではこれと同じ立場を取っています。
試験で問われているのは「作者が執筆時に何を思っていたか(心の中)」ではなく、あくまで「紙の上に、論理的に何が書かれているか(客観的事実)」なのです。
だからこそ、たとえ作者本人が「そんなつもりじゃなかった」と叫んでも、本文中の論理構成と矛盾していれば、テストとしての正解にはなり得ないのです。
入試問題になった瞬間、その文章は「別物」になる
では、なぜ「作者本人の感覚」と「正解」はこれほどまでにズレるのでしょうか。
それは、入試問題として採用された瞬間、その文章が「作家の手を離れた、別のアート」に作り変えられているからです。
理由は大きく2つあります。
1. 「切り取り(トリミング)」による文脈の切断
入試問題で、小説や評論が丸ごと一冊出題されることはありません。
必ず「一部抜粋」です。
写真の一部をトリミングすると印象がガラリと変わるように、文章も前後を切り落とすと、言葉の意味合いが変質します。
作者は当然、切り捨てられた「前後のストーリー」や「書かれていない裏設定」を知っています。
しかし、出題者(と受験生)には、「切り取られたその部分」しか存在しません。この情報の非対称性が、決定的なズレを生みます。
作者は「全体」を見て答え、出題者は「部分」を見て問いを作るのです。
2. 「芸術」を「論理」に改造
作家は多くの場合、論理だけで文章を書きません。 言葉の響き、リズム、あえて説明しない余白、曖昧なニュアンス─そういった「ゆらぎ」や「ノイズ」こそが文学の味です。
しかし、マークシート式の入試問題に「曖昧さ」は許されません。
出題者は、作家が書いた豊かな「ゆらぎ」のある文章を、メスで解体し、「AだからBである」という論理構造として再定義します。
つまり、入試現代文とは、「作家が書いた『芸術作品』を、出題者が『論理パズル』に改造したもの」 なのです。
生身の作者 vs 文章の中の「アバター」
こうなると、入試で問われている「作者の意図」とは一体誰の意図なのでしょうか。
それは、生身の人間である作家(例えば黒井千次さんや岸田奈美さん)が、家でご飯を食べながら考えていたことではありません。
文章というデータだけを頼りに、論理的に構築される「仮想の作者像」のことです。
文学研究の世界では、これを「内在する作者」と呼びます。
いわば、文章の中にだけ存在する「作者の分身(アバター)」のようなものです。
作品内の機能としての「作者」ですね。
生身の作者が「ただ単に、その情景が美しかったから書いただけ」だとしても、 その場面の直前に「別れ」のシーンがあり、窓の外で雨が降っていれば、 文章の中のアバターは「この雨に、主人公の悲しみを重ねている」ことになります。
入試で正解とされるのは、常にこの「アバターの論理」のほうです。
作家本人が解けないのは当然です。
彼らは「当時の自分のリアルな記憶」を見て答えてしまいますが、出題者と受験生は目の前のアバター(文章)だけを見て答えているのですから。
国語の「神」はもういない
ここまで読むと「やっぱり国語は特殊なゲームじゃないか」と思われるかもしれません。
それは逆です。
作者本人が解けないのは、彼らが執筆時の「記憶」や「背景」という、本文に書かれていないノイズを持ち込みすぎてしまうからです。
対して、入試国語は「初見の読者」が部分的に切り取られた本文だけを頼りに論理を組み立てるように作られています。
つまり、入試現代文においては、熱い作者よりも「冷静な読者」の方が有利な立場にいるのです。
そもそも、「作者なら満点とれるけど、受験生にはさっぱり解けない」なんていう入試問題を作る学校を、誰が受けたいと思うでしょうか。
公平な試験である以上、「作者の心」というブラックボックスを正解にするわけにはいきません。
もしそんな入試問題があったとしても、不公平すぎてすぐに淘汰されてしまうでしょう。
「作者の気持ち」という神は、ロラン・バルトの宣言によって、そして作家たちの敗北によって、すでに死んでいます。
そもそも、書いた本人ですら間違えるのです。
私たちが「作者の心」などという不確かなものを気にする必要など、最初からありませんでした。
ただそこにある「論理」だけを読み解く。
それが、現代文というゲームの唯一にして最大の攻略法なのです。
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