チャート式誕生の地、吉田橘町の数学研究社高等予備校
↑通称青チャートの表紙 数研出版
今年も、熊野寮に受験を終えた新入生がたくさんの入寮している。受験数学といえば、数研出版の参考書『チャート式基礎からの数学』通称青チャートが有名だ。このシリーズが生まれたのは今から100年近く前の京都である。京大のすぐ西、鞠小路通と志賀越道の交差点南西角、吉田橘町29,30にあった数学研究社高等予備学校の星野華水が出版した。この予備校は、後に首相になる竹下登が浪人時代に通っていた。
星野華水とチャート式の誕生
チャート式の歴史に関しては優れた先行研究がある[1]。チャート式を生んだ星野華水(本名半五郎)は、各地の学校で教育者をしており、その頃から教育関係の出版物を出していたが、1923(大正12)年に京都で数学研究社を立ち上げる。1925(大正14)年には京都府桃山中学校に在籍していた星野は、その年に本名の半五郎名義で『数学宝艦』という本を出版しており、奥付には「東三本木丸太町上ル」とある[2][3]。数学研究社の立ち上げもこの地だとみられるが、より正確な地番は不明だが、丸太町橋の西、山紫水明処の近所である。華水の号は1924(大正15)年から使い始めたようだ。
[1] 科学史研究 [第Ⅱ期] 45(240);2006・冬 日本科学史学会 編2006-12 中村滋 杉山滋郎星野華水によるチャート式の起源とその特徴 p. 209
[2] 数学宝典 帝国入学試験研究会 著 数学研究社 大正14
[3] 京都府学事関係職員録 大正14年 京都府教育会 大正11-14 p. 10
数学研究社高等予備校
1923(大正14)年から1927(昭和2)年ごろに吉田橘町29, 30に数学研究社高等予備校を立ち上げて校長となり、いつも満員の講義経験を活かして1929(昭和4)年にチャート式代数学、チャート式幾何学を出版する[1] 。後のチャート式シリーズの誕生である。予備校を作る前から、星野華水は出版をしていた。受験雑誌の出版と、この予備校での講義による実践と、参考書の作成の三つの要素がチャート式を生んだ[1]。チャート式は吉田橘町で生まれたと言って過言ではない。
鞠小路通と志賀越道の交差点の南西角にあたる。

国土地理院HP
数学研究社から昭和初期に出版された参考書に、予備校の写真がよく載せられている[4]。

「数学研究社」「帝国入学試験研究会」の看板が門に並んでいる。交差点から南方向の撮影とみられる。この場所を「チャートの牙城」とする参考書もある[5]。

校舎は新築とあるので、相当の投資が注ぎ込まれたとみえる。予備校では石山寺ピクニック、宇治川ライン下り、テニス大会なども催されていた[5]。シルクハットの肖像が星野華水である[6]。

梅華寮という寮もあった[6]。

[1] 科学史研究 [第Ⅱ期] 45(240);2006・冬 日本科学史学会 編2006-12 中村滋 杉山滋郎星野華水によるチャート式の起源とその特徴 p. 209
[4] 模範幾何学 : 指導講義と最新研究 上巻 (中学基本科全集 ; 第3編) 星野華水 著 数学研究社 昭和3年
[5] チャート式代数学詳解 : 受験総括 下巻 星野華水 著
出版者 数学研究社 昭和7 p.7
[6] 数研出版HP 数研出版ヒストリー
竹下登
この予備校の出身者を探してみる。例えば1933(昭和8)年卒の作家の三村雅水は[7]や鳥取の医師である三好實三[8]がいる。有名人は1941(昭和16)年に入学し、のちに首相となる竹下登だ。松江高校に落ちて一年浪人した際、京都の吉田神社近くに住み、この予備校に通っている[9]。数研予備校と表記されている。
竹下は、吉田神社のわりに近くにあった数研予備校に入った。松江中学時代の友達もいっしょだったし、嵐山でボートをこいで遊んだりもした。この予備校は、終戦後に経営者の星野さんが亡くなって閉鎖になり、今では、関西電力一条発電所になっている。
太平洋戦争の開戦は予備校在学中にだ。二回目の受験では再び松江高校に落ちるも、早稲田学院(後の早稲田大学)に合格し上京する。早大在籍時に衆議院議員小川半治の選挙手伝いをしたのも京都であり、荒神口近くに選挙事務所があった[10]。
[7] 三村雅水全集 第3巻 東北山脈社 1991.1
[8] ダモイへの遍歴 : 私の終戦前後史 三好実三 [著]1986.8
[9] 竹下登・全人像 花岡信昭, 小林静雄 著 行研出版局 1987.4 p. 129
[10] 首相・竹下登 : 大正13.2.26-昭和62.11.6 中村宏 著 蒼林社出版 1987.12 p. 43
戦時中の吉田橘町
1942(昭和17)年3月から1948(昭和23)年4月まで、すぐ近所に住んでいた山田稔(後の京大教養部教授)が幼少期の思い出を綴ったエッセイに、周辺の様子が残されている[11]。
移って来た当時、我が家の北どなりには平安高等予備校というのが建っていた。その筋向いの万里小路の角にはチャート式で有名だった数学研究社(俗称「数研」)の建物もあって、いまから思えば予備校の街に私は移り住んだことになる。戦争中に平安予備校は取り壊され(強制疎開か)、また「数研」の方は軍に徴用され、パラシュート工場になって女子工員が働いていた。
周辺は予備校がたくさんあり、数学研究社高等予備校もそのひとつだった。ちなみに平安高等予備校は東一条通の北側、現在のYMCA地塩寮の北隣なので、山田稔は一筋勘違いしているとみられる。当時の志賀越道は白河道ともよばれていた[12]。
[11] 山田稔 特別な一日 読書漫録 平凡社ライブラリー 1999年11月15日
[12] レファレンス協同データベース2010/8/9「万里小路白河道という地名が大正15年にあったが、現在ではどの辺りになるのか知りたい」
その後の吉田橘町29,30
半五郎の没年は1939(昭和14)年[1]だ。過労の末の病死だったという[13]。予備校の事実上の閉校は1944(昭和19)年である[6]。山田稔の記載には、同地は戦時中にパラシュート工場があったという[11]。1951(昭和26)年の地図では同地は「日興被服工業株式会社」とある。戦時中にパラシュートを作っていた記録は見つからなかったが、被服関連の工場であった。
その後、いつからできたかは不明だが関西電力の一条変電所となり、現在も大きな建物が交差点南西にある。
[13] 東京組合四十年史 〔本編〕東京都書店商業組合 編
東京都書店商業組合 1982.2 p. 661
[6] 数研出版HP 数研出版ヒストリー
数研の復活
1947(昭和22)年、数研出版の先代社長である星野剛により、「数学研究社」を興し戦時中途絶えていたチャート式が復活する[6]。戦後の数学研究社の住所を調べて見よう。1946(昭和21)年2月と1948(昭和23)年9月発刊の書籍の奥付に、それぞれ星野剛の住所として聖護院山王町11、数学研究社の住所として河原町荒神口と記載されている[14][15]。同資料の広告に、受験・学習雑誌”CHART”という月刊誌も載っている。数学研究社の設立は1947(昭和22)年であり[6]、同年に社長となった星野剛によって「チャート式」が復刊し、出版事業に着手した[16]。1952(昭和27)年に数研出版株式会社と改称したころに社屋も新築したとみられる。1953(昭和28)年頃には、同社の住所は河原町丸太町下ルになっている[18]。星野剛は星野半五郎の長男である[19]。
チャート式は戦前、戦中から有名であったが、部数を伸ばしたのは戦後だ[20]。星野剛の手腕によるところも大きいだろう。
[6] 数研出版HP 数研出版ヒストリー
[14] 物理化學要項總まとめ [數學研究社理科指導部] [著]
數學研究社 1946年
[15] 新制高校解析學問題集 中川千之助, 中西淸一郎, 村上實 [著] 數學研究社 1948年
[16] 数研出版HP 会社の歴史―会社のあゆみ
[17] 学習書協会30年のあゆみ 学習書協会 編 出版者 学習書協会1977.10 p. 12
[18] 京都年鑑 昭和29年版 京都新聞社 編 京都新聞社 1953年 p. 462
[19] 人事興信録 第11版下 人事興信所 編 人事興信所 昭和12年 ホ14
[20] 追憶赤尾好夫 赤尾好夫追憶録刊行委員会 編纂 旺文社 1987.9 p. 31
星野玲子のジャズ喫茶しぁんくれーるとREMA
1956(昭和31)年4月、河原町荒神口東北角に『しぁんくれーる(Champ Clair シァンクレール)』というジャズ喫茶が開店する[21]。マスターの星野玲子は、チャート式を生んだ星野半五郎の三女である[19]。星野玲子は幼少期に両親と一年近く海外旅行し、そこでジャズ・シンガーの川畑文子と出会った[21]。倉橋由美子『暗い旅』や高野悦子『二十歳の原点』にも登場する有名店だ。マイルス・デイヴィスはじめ、お店にはジャズの大物もよく来ており、多くのジャズミュージシャンと交流を持っていた。『しぁんくれーる』と星野玲子に関しては、京都新聞2019年5月に連載された樺山聡氏の一連の記事に詳しい[21]。ライブハウス『拾得』のオーナー寺田国敏は立命館大学時代にここでアルバイトをしていた[21]。現在は駐車場になっている[22]。
しぁんくれーるの他に、星野玲子は複数のお店を経営しており、そのうち一つに熊野神社近くの『REMA』というお店もあった。そこでアルバイトをしていた人物が、玲子ママと一緒に店番をしていた娘マミとのエピソードを残されている。
1972(昭和47)年に開店したジャズ喫茶『REMA』の住所は熊野神社交差点7軒北へ東側である。1978(昭和53)年6月 発行の『 精密住宅地図左京区(市部)』(吉田地図株式会社)をみると、熊野神社の東側、山本帽子店の南隣、マツダ無線の北隣だ。写真もジャズ雑誌に残されている[23]。

住所は聖護院山王町11であり、戦後すぐの時期に数学研究社本社があった場所である。どちらのお店も、星野玲子が星野華水もしくは星野剛から引き継いだと想像される。閉店がいつかは分からないが、『しぁんくれーる』の閉店1990(平成2)年より先だった。現在は食堂マルシンになっている。
[21] 樺山聡 オーナー美女の正体は実は…「しぁんくれーる」にささげた人生 京都新聞THE KYOTO 2026.04.24
[22] 立命館史資料センター 立命館あの日あの時
<懐かしの立命館>広小路時代に通ったあの店は今…?
[23] スイングジャーナル 32(6) スイングジャーナル社 1978-05 p. 280
まとめ
参考書のチャート式は京都の吉田橘町にあった数学研究社高等予備校で星野華水によって生まれて全国に広まり、星野剛によって戦後に復活された。この予備校は戦時中に竹下が通っていた。戦後に数研出版となり、現在は御所の南西に関西本社を置いている。また、50年代からは星野華水の娘である星野玲子によるジャズ喫茶『しぁんくれーる』と『REMA』がそれぞれ河原町荒神口と熊野神社東側にあり、前者は数学研究社本社があり後者は星野剛の住所でもあった。
数学の青チャートは私も高校三年間でさんざんお世話になり、いまだに実家の勉強机にある。鞠小路通の一条変電所付近を通る際には「ここでチャート式が生まれたんだな~」と、熊野神社東側のバス停で市バスを待つときには「ここにも数学研究社があったんだな~」と、荒神橋から河原町に出るときには「ここに有名なジャズ喫茶があったんだな~」と思いを馳せてみて欲しい。
・1885(明治18)年9月 星野半五郎、愛知県に星野庄衛門の子として生まれる
・1920(大正11)年8月 星野剛、星野半五郎の長男として生まれる
・1923(大正12)年 星野半五郎、京都で数学研究社を立ち上げる
・1923(大正14)年から1927(昭和2)年ごろ 吉田橘町29, 30に数学研究社高等予備校が設立される
・1927(昭和2)年11月 星野玲子、星野半五郎の三女として生まれる
・1929(昭和4)年 『チャート式 幾何学』と『チャート 式代数学』数学研究社より星野華水の号で出版。
・1932(昭和7)年8月10日 数学研究社高等予備校維持財団設立
・1939(昭和14)年 星野半五郎没
・1947(昭和22)年 星野剛、「チャート式」復刊、数学研究社を興し出版事業に着手。
・1952(昭和27)年 数研出版株式会社に社名変更
・1956(昭和31)年 河原町荒神口電停前角に『しぁんくれーる』開店
・1964(昭和39)年7月15日 円山公園野外音楽堂の講演後、フラリとマイルス・デイヴィスが来店
・1972(昭和47)年 熊野神社交差点上ル東側に『REMA』開店
・1973(昭和48)年8月 星野玲子、ニューヨークのマイルス・デイヴィスを尋ねる
・1990(平成2)年頃 『しぁんくれーる』閉店
・1996(平成6)年7月16日 星野玲子亡くなる
・2015(平成27)年 数研出版関西本社、上京区小川通丸太町上ル上鍛冶町340から中京区烏丸通竹屋町上る大倉町205番地に移転
その他参考
・レファレンス協同データベース2019/7/7「数研出版の創業者であり、チャート式の創始者でもある数学教育者の星野半五郎(華水)の経歴を知りたい」
