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【青春の門・自立篇】⑥ ジャズの洗礼と「白熱教室」


20代という10年間に、私は人生のエネルギーのすべてを費やしてしまったのかもしれない。

1970年代後半から80年代前半、京都。 入学式を中断させる赤いヘルメット、「木の下」での秘密の連絡、そして若王子山頂で交わした誓い。

佐藤優が「同志社ガラパゴス」と呼んだ、あの異形で、しかし限りなく自由だったキャンパスの空気を、事実に基づいたフィクション(ファクション)として綴ります。

【同志社大学文学部1978年度生・鈴江康二】


吉田の下宿と「民問研」の影  吹き抜けから差し込む再出発の光

「いよいよ水田ハウスともお別れか――」。そう独り言ちながら僕は荷物の整理を終えた。明日は市民デモで知り合って以来、その後もちょくちょく訪ねてくる龍谷大生の内藤が、緑色の日産キャラバンで引っ越し荷物を運んでくれることになっていた。1982年3月末のことだった。

当時、僕は同志社大4回生が終わるころで、単位不足で留年が確定していた。3月下旬に栄光館(ファウラーチャペル)で行われた卒業式の後、産業関係学専攻の仲間らと夜の木屋町に繰り出した。僕以外にも同じゼミの久保田寛一(関西大倉高出身)、李利夫(蒲郡東高)も留年が確定していた。

久保田、李と僕はGパンなどの普段着で飲み会に参加した。4月から社会人となる卒業生たちは三つ揃いの背広などに身を包んでおり、そんな彼らのはしゃぎぶりとは裏腹に、取り残された寂しい気持ちも込み上げてきた。しかしそれ以上に、これから始まる自分探しの旅への決意めいた思いが強く胸にあった。

新しい下宿は鴨川を東に渡った左京区吉田下阿達町(よしだしもあだちちょう)にあった。大家は丸太町通の薬局の主人で、下宿は東一条から斜めに走る通り沿いにあった京大会館を少し南に下がった長屋の2階6畳間。近衛通の北側であった。

上京区相国寺東門前町の水田ハウスが3畳間だったので、6畳間は随分と広く感じられた。ベッドが備え付けられていたし、卒業していく水田ハウスの隣人・上田茂雄(六甲学院高)からもらった小さな冷蔵庫もあったので、見栄えはよくなった。炊事場とトイレは1階にあった。京町屋の炊事場は昼間でも薄暗かったが、吹き抜けの天井から陽光が筋になって差し込んでいた。

「さあ次はアルバイト先を見つけねば」。当時やっていたプチホテル「ペンション京都」の泊まりのバイトは週1回か2回だったので、それだけでは食っていけない。前期分の学費は貸与型奨学金でどうにかしのげたが、後期分をどうやって工面するか。それも大きな問題であった。

左京区を南北に走る東大路通周辺は京大生の街であったが、大家が「同やんびいき」であったため、下阿達町の下宿は同志社大生がほとんどだった。後で知ることになるのだが、当時、同志社大キャンパスで学友会にゲバルト(暴力)を仕掛けていた謎のグループ「民族問題研究会(民問研)」のリーダーSもまたここに住んでいた。郵便受けに親からと思われるハガキや封書が溜まっていて、Sの居住を知った。面識はなかった。

そんな訳で、毎日新聞社に入るまでは京大生に知人や同僚を作ることはなかった。市民運動の世界でも、日本福祉大出身の京大生協女子職員がいたくらいで、京大生の知人はいなかった。6・15反安保集会などに京大同学会(全学自治会)が赤いヘルメットをかぶって押しかけてはきたが、吉田寮などに住む彼らは仲間意識がとても強くて、外部には閉鎖的な印象を残した。

モダンジャズの誘惑  星野玲子ママと「REMA」の肉切り包丁

「アルバイト募集。委細面談」。東大路通と丸太町通が交わる熊野神社周辺の小さなジャズ喫茶「REMA(レマ)」は東大路通を挟んで京大病院の真向かいにあった。麦飯付きの「らんたん」ラーメンを食べに行った帰りに、僕はその張り紙を見つけた。

まずは店の雰囲気を知るのが大事だと思い、食後のコーヒーを飲みに木製のドアを思い切って開いた。店内は8畳くらいと狭く、カウンター席と出窓に向けて数席あるだけで、8人も入れば満杯になりそうだった。本格的なモダンジャズというよりも、女性のアンニュイなボーカル曲がかかっていた。

「すみません。表の張り紙を見たんですが」。同い年くらいの眼鏡をかけた店員に声をかけた。「あっそう。ママを呼ぶから待っとき。ちょっと難しい人やけど大丈夫か。僕もアルバイトやけど、もう辞めるんや」。彼はそう言って、2階に連なるインターホンのボタンを押した。「少し待たせてちょうだい」。はっきりとした口調の低い声が、スピーカーから漏れてきた。

10分くらいたって、2階から50代と思われるカーリーヘアの女性が下りてきた。まずは束ねてある伝票を見てからレジを開けた。「今晩もお客の入りが悪いわね。荒神口の『しぁんくれーる』と大違いやわ」。ママはそう言ってカウンター席に腰を下ろした。

これがマイルス・デイビスとも付き合いのあった星野玲子(1927~1996)との出会いであった。

「あんた、こんな仕事したことあるの?」。品定めでもするようにママは瞬きもせずに僕を見た。「はい。西陣のペンションでバイトをしています。喫茶コーナーもあるので、軽食メニューはこなせるかなと思っています」と僕は答えた。

「うちの店は飲み物が主体だけど、まずはお店のアンティークな雰囲気に合う人じゃないとダメなの」。ママは再び僕の顔を凝視しながら、「じゃあ夜食代わりにサンドイッチを作ってみて。冷蔵庫にハムとレタスがあるから、それで」。カウンターの中で眼鏡男が「お手並み拝見」というように僕を見て笑った。

「戸棚に食パンがあるから、これでスライスするんや」。眼鏡男が細長いパン切り専用のナイフで実演してみせたが、切れ味が悪いのかパンの外皮が少しポロポロと崩れ落ちた。「意外とこれ難しいんや」と彼は負け惜しみを言った。そして、「じゃあ次は君の番や」と言って僕にナイフを手渡した。

「ママさん、ナイフより肉切り包丁のほうが慣れているんですが、それでもいいですか」と僕は聞いた。ママが頷き、僕は肉切り包丁でパンを薄くスライスしていった。ペンションで鍛えられたパン切りには自信があった。外皮もこぼれることなく、切った後の断面も美しかった。眼鏡男が「ほう、やるやん」とつぶやいた。

「あんたの雰囲気もこの店に合っているようだし、じゃあ明日の夜もう一度来てくれる」。ママはそう言うと、「最終的には娘が決めるから。それでいいわね。私は『しぁんくれーる』の方に行ってるから、マミちゃんに言っとくわ」。そう言い残して星野ママは皿に入れたサンドイッチを持って2階へ上がっていった。

眼鏡男は笑顔で「これで僕も解放されるわ。後任がなかなか決まらんかったんや。ママが一発でOK出すなんて、君も相当変わり者みたいやな」と、誉め言葉なのか、けなし言葉なのか、よくは分からなかったがそう言って笑った。

午後9時を回ったというのに客も来ず、眼鏡男が僕にリクエストはないかと聞いてきた。ジャズは詳しくはなかったけれど、知っているジョン・コルトレーンのアルバム「バラード」をかけてもらった。

ジョン・コルトレーン(テナー&ソプラノ・サックス)▽マッコイ・タイナー(ピアノ)▽ジミー・ギャリソン(ベース)▽エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス)=1961年12月~1962年11月録音

Say It (Over and Over Again)。冒頭からゆったりとしたサックスの調べが、優しくもどこか切なく店内に鳴り響いた。


浄霊とカクテルの夜  ママと姉さんがくれた「勝負ネクタイ」

1982年4月、僕は同志社大学に入って5度目の春を迎えた。下宿も上京区から左京区へと移り、卒業していった仲間とも別れたが、新しく市民運動で知り合った同志もできて、心機一転の境地にあった。23歳になったというのに社会人として自立するどころか、故郷の親を未だ困らせていたというのに、誠に自分勝手な人間だった。死んだ親父には申し訳ない思いが今でもある。

やがて疾風怒濤の生活が始まることにも、僕は気が付かないでいた。「人間が一生に一度だけくぐり抜ける青春の門の入り口」(五木寛之)が、遅まきながらも僕の前に現れようとしていた。

左京区下阿達町(しもあだちちょう)に引っ越した後、夜は下宿に近い京都・熊野神社界隈にあったジャズ喫茶「REMA」でアルバイトをした。生活の糧を得るためであったが、ジャズという音楽を知りたい気持ちもあった。

店の経営者は星野玲子という50代半ばのカーリーヘアの女性であった。彼女は「チャート式」学習参考書で成功した「数研出版」創業者・星野華水の娘で、1956年4月に荒神口に「しぁんくれーる」(Champ Clair フランス語で明るい野原、田園、田舎)という名の音楽喫茶店を開いた。1階はクラシック音楽、2階がジャズ専用で、すぐ近くに立命館大学広小路キャンパスや京都府立医科大、後には予備校の関西文理学院ができたため、若い客が集まり商売は大いに繁盛した。

全共闘運動に参加した後、失恋も重なって国鉄山陰線の踏切で死んだ高野悦子(1949~1969年)もまた、立命館大学の文学部生時代に「しぁんくれーる」(1階?)に通ったことが、日記を基に死後刊行された『二十歳の原点』(にじゅっさいのげんてん、新潮社)に綴られている。

語呂合わせで「思案にくれる」場ともされ、この小さな音楽喫茶は多くの顧客を獲得していた。しかし1978年に立命館大学文学部、そして最後に残った法学部が81年に、北区の衣笠キャンパスに統合移転してしまい、「しぁんくれーる」のある荒神口界隈は学生街としての歴史を既に終えていた。

「鈴江くーん、もう1杯作ってくれるぅー」。カウンターに腰を下ろした30代半ばの女性が、甘ったるい声でカクテルを注文する。彼女はママの一人娘だった。

「それにしてもお客さん来ないわねー」「こんな美男美女がスタンバイしてるのに。ねえー」。

普段はなかなか辛辣な人だったが、今夜のマミ姉さんは機嫌がいいようだった。サラ・ヴォーンが歌う「バードランドの子守唄」(Lullaby of Birdland)をかけていた。

「人生って、望んだようにはいかないわね。ときどき溜め息が出ちゃうわ」。マミ姉さんはカクテルを舐めていた。

若いころの彼女はお転婆娘だったそうで、友達に「ザ・タイガース」で成功することになる岸部一徳、四郎兄弟がいた。沢田研二もまた近くの京都府立鴨沂高校の出身であった。1947年から1949年にかけて生まれた「団塊の世代」であった。

裕福な家庭で育った彼女はやがて上京し、東京・神田駿河台にあった文化学院に入学した。1966年6月29日にビートルズが来日した時は、羽田空港まで歓迎に押しかけた熱狂的なファンでもあった。

そして卒業後、京都に戻ってきた一人娘のために、ママはこのジャズ喫茶「REMA」を開いたのだった。やがて客として通い詰めた慶応大出身の男性にプロポーズされ結婚したが、夫のDVで破局した辛い経験を彼女は抱えていた。

マミ姉さんが来ない日は、僕一人で店を仕切った。とは言っても客は少なく、店のコレクションの中から適当に選んだレコードに針を落とし、長谷川法世『博多っ子純情』や青柳裕介『土佐の一本釣り』といった漫画本を読み漁った。モダンジャズも聴いたが、なぜだか笠井紀美子のアルバム『TOKYO SPECIAL』が好きだった。彼女も京都市内で生まれ、同志社女子高校を中退していた。

毎夜10時になると、ママが荒神口の「しぁんくれーる」から戻ってくる。そして、売り上げの少なさを嘆き、決まって小言を連ねた。母も娘もそろって毒舌であった。それでも我慢できたのが不思議だった。

ある晩、早めに店を閉めた後で、ママが「ちょっと2階へ上がりなさい」と言った。2階はママの住居で、また説教が始まるのかなと思ったが、素直に従った。

「そこに座りなさい」。ママはそう言うと、僕を呼んだ理由を話し出した。

「わたしもこの商売で少なからず人を傷つけてきたわ」「アルバイトの学生にきつくあたってきたし、中には鴨川で溺死した子もいた。私に怒られてヤケ酒をあおって酔っ払って、冬の鴨川で入水したのよ。可哀そうに」。「この年で自分のそんな業に気が付いたわ。それで出合ったのが浄霊なのよ」「あんた私の言うこと真面目に聞いてる?」

要するに、ママは自分が信心しだした浄霊の御業を、僕にも勧めたかったのだ。同時に自分がマスターした掌をかざして起こす御業の効果について、誰かを実験台にして確かめてみたいという思いもあったのだろう。

僕はママに言われるままに正座した。ママが掌を僕の顔面にかざした。そして少し間合いがあいた後で、「あなたの背後には鎧を付けた武士が見えるわ」とつぶやいた。「あなたの前世ね、きっと」と低い声で言った。

これってよくある話だと思いつつ、僕はママの調子に合わせることにした。「武士は何かに苦しんでるわ」。ママがそう言うと、僕の体が本当に前後に揺れだした。たぶん心理的なものだったのだろう。

こうして、僕は晴れて星野親子の信頼を勝ち得た。ママの浄霊の実験台とマミ姉さんのカクテル作り、で。姉さんが少し深酒した夜は、「鈴江君、マミちゃんをマンションまで送ってちょうだい」とママに頼まれた。マンションは店から歩いて3分もかからなかった。エントランスに着くと「お疲れ様でした。またあした」と言って、僕は姉さんを素早くエレベーターに押し込んだ。

下宿に帰ると、1階に住む年上の太田さん(三重県鈴鹿市出身、同志社大英文科生)が声をかけてくれた。「よかったら部屋でお茶でも飲んでいきませんか」。新しい下宿でただ一人仲良くなった人物で、彼もまた留年生だった。僕がジャズ喫茶でのアルバイトについて話すと、「それって、星野親子に君が試されているのかもしれませんね。きっと」と冗談を言った。

結局、「REMA」でのアルバイトは半年で終わった。大学に籍を置いたまま、10月から大阪市北区西天満の広告代理店に勤めることが決まったためだ。最終日に「強く生きなさい」とママから、マミ姉さんからは「優しすぎちゃだめよ」との言葉を贈られた。そしてエンジ色のストライプ柄ネクタイ(帝人製)をもらった。この一本は勝負ネクタイとして大切に長く使わせてもらった。

このメモワールを書くにあたって、星野玲子ママが1996年に亡くなっていたことを今ごろ知った。1927年生まれだから、70歳まで生きられなかった。マミ姉さんは存命であれば後期高齢者だろう。そして僕は前期高齢者。共に過ごしたあの時代、ジャズにまみれたあの空間を思い起こす。

ママに贈るリクエストは、アート・ファーマーのトランペット曲『モダンアート』。
Modern Art(1958,USA)
Art Farmer trumpet
Benny Golson tenor saxophone
Bill Evans piano
Addison Farmer bass
Dave Bailey drums


「無縁塾」の白熱教室  1982年、反核の炎とアジール

1982年4月、僕は京都市左京区吉田下阿達町(しもあだちちょう)での生活をスタートさせた。西陣のプチホテル「ペンション京都」と熊野神社のジャズ喫茶「REMA」で働いて、生活の糧を得ることにした。

一方で、前年冬から始まった「無縁塾」というサークル活動に精を出すようになった。旧ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)系の定例デモに参加しているうちに、参加を勧められたのだった。

無縁塾の例会は、四条河原町の高島屋の裏にあった南昌院という寺の貸座敷で、「混迷する世界を捉えよう」をテーマにして、学習会が行われた。網野善彦『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(平凡社)という本から拝借したネーミングだった。

そして当時発刊されていた『季刊クライシス』(社会評論社)や『世界から』(アジア太平洋資料センター)といった雑誌が指南本であった。いいだもも、武藤一羊がそれぞれの編集長であったことからも分かるように、共産主義労働者党(共労党)系の知識人が論陣を張っていた。

それまで僕は、同志社大・三塚武男ゼミで労働者の生活問題について学んできたため、社会分析の方法論はマルクス経済学(どちらかと言えば講座派)であった。特に2回生の時に大阪・道頓堀の天牛書店で偶然に見つけた、孝橋正一『社会科学と社会事業』(ミネルヴァ書房)から強い影響を受けていた。

だから、無縁塾というような非社会科学的とも思える「けったいな」名前のサークル活動に当初は馴染めなかった。

それでもこの1982年という年は、欧米や日本で反核運動が大きく盛り上がりをみせた時期であった。米国とソ連の対立が先鋭化し、ヨーロッパの東と西が対峙し、競い合うように中距離ミサイルが増強配備されるなかで、「限定的な核戦争」の危機が現実味を増していた。

冷戦が熱戦になろうとしていた。東欧やソ連という社会主義国家陣営がその後10年でなくなるなどとは、その当時誰も予想できなかった。

欧州とりわけ最前線となった西ドイツ・ボンでの30万人集会(81年10月10日)に続けとばかりに、日本でも82年3月21日に広島に20万人が集まり(「平和のためのヒロシマ行動」)、反核と世界平和を訴えた。僕も無縁塾の仲間らとともに、平和記念公園を埋めつくす一員となった。みんなで地面に一斉に寝転んで死んだふりをする「ダイ・イン」も行った。

そして京都に戻るなり、三里塚(千葉県)で3月27日に開かれた空港反対全国総決起集会にも参加した。反核運動では、5月23日に「平和のための東京行動」(代々木公園など)に40万人が集まるなど、上京する機会も多くなり、まことに慌ただしい日々だった。

このように学習会だけではなく、積極的に外に出るうちに、無縁塾の仲間の間で連帯感が生まれた。とりわけ龍谷大出身の内藤や伏見区の工場で働く田川(新潟県出身)が、みんなを引っ張っていった。

それでも基本的な活動は読書会で、本を決めて担当者がレジュメを作り、それを基に議論を重ねた。米軍が撮影した広島・長崎の原爆投下後の映像を買い戻すための市民運動「10フィート運動」にも取り組み、「にんげんをかえせ」の上映会も行った。

無縁塾の当初のメンバーは、内藤、田川、僕以外に、戎野(京都産業大)、東藤(同志社大)、林(東海大OB)、木下(創価学会青年部)、秦野(龍谷大OB)、武内(花園大)、立川(一燈園)、長井(同志社女子大)、伊藤(関西大学)らがいた。

4月の全京都の新入生歓迎行事として、「金曜新歓連続シンポ」を京大会館で開催した。第1回は、いいだもも氏を招いて僕と武内が司会進行を務めた。菅孝行や山川暁夫、北沢洋子、高屋定国の各氏にも講演してもらったことを覚えている。その結果、大谷大学の新入生であった水本(熊本県出身)、曽我(岐阜県出身)の両名たちが無縁塾に加わることになった。

無縁塾では、花崎皋平(こうへい)『生きる場の哲学』、日高六郎『戦後思想を考える』(以上、岩波新書)、菅孝行『感性からの自由を求めて』(毎日新聞社)、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』(朝日新聞社)を輪読した。併せて白川真澄『もうひとつの革命―近代批判と解放の思想』(社会評論社)から強い刺激を受けた。

例会は夜に行われたが、会場の南昌院を出た後も四条河原町の路地裏にあった深夜喫茶で、コーヒーを飲みながら議論の延長戦が続いた。とにかく、よくしゃべる連中だった。

単なる政治談議にとどまらず、「正義とは何か?」「わたしたちは、どう生きていったらいいのか」という、政治哲学を含んだ「僕らの白熱教室」であった。


【番外】同志社「2・1決戦」から50年  寒梅館に立つ観察者

ロシアがウクライナに攻め込む前の2022年2月1日、僕は同志社大学の学生会館(通称・学館)前で、出版社・鹿砦社(兵庫県西宮市)を経営する松岡利康さんら5人と合流した。

この日は1972年2月1日に学館前で機動隊と激しくぶつかり100人以上が検挙された「同志社2・1決戦」からちょうど50年にあたるメモリアルデー。

松岡さんは明徳館屋上に立て籠もり逮捕・起訴され裁判闘争を長く続けた人物で、今も反権力の志を持続している。そして「50年の日はたった一人でも決戦の現場に行く」とSNSで発信していた。僕はそれを読んでメールを送り特別に参加させてもらったのだった。

松岡さんは当時、元は神学生寮だった此春(ししゅん)寮に住み、「全学闘」(全学闘争委員会)の活動家として学友会運動に携わっていた。

全共闘運動が全国的に退潮し、同志社ではここぞとばかりに学費値上げが理事会によって決定された。

松岡さんは反対運動の象徴として仲間数人と明徳館屋上に籠城し排除する京都府警機動隊との攻防を繰り広げた。彼ら籠城組を支援するために2月1日、学館奥にあったサークル棟「別館」に結集した赤ヘル軍団が公道の烏丸通に出た途端、規制する機動隊との正面戦になった。

松岡さんとともにこの日メモリアルデーに参加した3人は当時京大生であった。熊野寮に住み「応援部隊」として同志社に駆けつけて、逮捕されたのだった。

一人は起訴され裁判をかかえ就職もままならなかったが、京大院(修士)を修了し建築家となった。他の一人は紆余曲折をへて軍需専門商社「山田洋行」に入社した。後の一人は教育労働者として定年を迎えた。

当日参加した最後の一人は「リベラシオン社」をインターネットで運営する岩田吾郎さん。高校を出て労組書記局などに勤めた共産主義者同盟(第2次ブント)の元活動家である。

かつての学館と別館があった場所には「寒梅館」という貴族趣味的な建物が建っていた。そこのレストランは「フレンチがおいしい」という評判だが、僕らは行く気がしなかった。

烏丸通を渡り西門から入構し明徳館前についた。僕が在籍した当時もここは学生運動の表舞台で、教室から持ち出した多くの机を針金で固定し、それに大きな立て看板がもたせかけてあった。

「松山学長 大衆団交 ランチM前」などというふうに。西門から歩いてくると自然にその立て看が目についたものだが、いまでは当局公認の看板だけが整然と明徳館の壁にもたせかけてあるだけだった。

コロナ禍と冬休みで学生も少なかった。記念撮影しようとしていたら、大学院に在籍するという女子学生が、「シャッター押しましょうか」と声をかけてくれた。僕が「同窓会なんですよ」と説明すると、彼女は「卒業後もお越しになるなんて素晴らしいですね」と返してくれた。松岡さんは感無量のような表情で屋上を見上げていた。

西門を出て烏丸通の真向かいにあるレストラン「モナミ」に入った。名物のジャンボオムライスは健在だったが、僕らはそれぞれ一品料理を頼み、瓶ビールで乾杯した。

1972年「同志社2・1決戦」の後で検挙された学友たちはそれぞれの人生を送ったに違いない。

「京大参加者が来てくれて、同志社からの参加者が私だけだったのは不徳の致すところ」と松岡さんが詫びた。

告知が直前になったのと、それぞれに事情があるのだろう。50年は余りにも長かった。

岩田吾郎さん(リベラシオン社)は、2025年6月28日に亡くなったそうです。和歌山県で登山中に事故に遭ったということです。同志社からの帰り道、京都・四条富小路の居酒屋で、松岡さんらを交えて、楽しくお話させていただいたことを思い出します。新左翼関係の機関紙や資料をコツコツと収集・整理されていました。合掌
http://www.0a2b3c.sakura.ne.jp/

(つづく)


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