旧制三高の波帽と山本帽子店
↑紅萌ゆる丘の花 : 第三高等学校八十年史 写真図説 講談社 1973年 p. 218
旧制高校といえば破帽弊衣に代表されるバンカラ文化だ。制帽と制服といえばエリートの象徴だったが、あえて汚して着用することが旧制高校生には流行だった。京都大学の前身の一つ、旧制三高で御用達だった山本帽子店は100年近く歴史ある帽子店だった。
山本帽子店はどこにあったか
熊野神社の北、東大路の東側にあった。

バス停「熊野神社」の前にあり、この看板に見覚えのある方も多いかもしれない。

1928(昭和3)年1月13日に、熊野神社から百万遍をつなぐ京都市電東山線の延長が完成した。そのため、熊野神社東の子の東大路も拡幅工事だあった。その際、大正時代からあったこの店も移動を余儀なくされたと類推される。

東大路拡幅工事前の熊野神社
旧制三高とのかかわり
旧制三高の同窓会会誌をまとめている「三高私説」というサイトでは、山本帽子店のビラがあった。山本製帽所という名前が記載されている。

https://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/photo.html
販売部 京都市東山線熊野停留所前東側
製造部 京都市左京区聖護院山王町二番地
とあり、製造と販売はそれぞれ別の所在だった。
1945(昭和20)年に入学した人の手記がある。
帽子は正規のものとの連絡が来ていたから、熊野を少し上がったところにあった山本帽子店に米だったか小豆だったかを算段して制帽を求めに行ってくれた父を思うと今更ながら篤い感謝の気持ちがこみ上げてくる。入学式に何を着ていったかの記憶はないが、制服も売っていなかったかと思う。
山本制帽所の後は山本帽子店と名前を変えたようだ。学生帽子の型の一つに「三高型」があり、全国に波及したとある。
広島の小河内俊彦さんから「一高も三高ももとは、傍目には似た形状をしていたが、大正後期~昭和初期にかけて帽子の天井に波の入った「三高型」、つまり俗称では、「波型」となる帽子が爆発的に各地に拡がって現在に至っている。この「波型」の帽子が三高でどういう経緯で生まれたのか、旧制時代のそのままの型で造っている業者を知りたい」との趣旨のメールを頂きました。
三高はたしかに波型をしている。

とある http://www.kishodo.co.jp/museum/cap/hakusen.htm
三高私説のサイトに戻ろう。サイト管理人が山本帽子店の方から手紙を頂いたらしい。
三高の帽子の特約店であった熊野神社上がるの「山本帽子店」に手紙を差し上げたら、山本明子さんから返事をいただきました。
返事によると、「大正十二、三年頃(注)に父が三高共済会の係の人と相談して「波型」を作りあげた」「父は十八才頃より学生帽子の製造を、主人も又それを手伝っておりましたが10年前79才で亡くなりました。いまは京都で作れるものはおりません」「一高型はマチ入り(編集注:この部分を小河内さんは「それまでの旧三高型はマチ入り」として下さいといってこられた。上に記したように元は一高も三高も同じ型であったので山本さんは旧三高型の帽子を一高型と呼ばれたのであろう)、三高型はツマミ入りと私たちは云っておりました」「日満高校が満州に出来て、そこにもツマミ型三高型の帽子カーキ一色を作って送っておりました」「私も82才(2005年現在)ですので昔のことは少しは覚えております。いま家にこのようなものがありますのでコピーして送ります(注:掲示したビラ)。店は息子がしております。私は家の方で一人でしております。」とのことでした。
山本明子さんの父が三高共済会三高型帽子を開発し、全国に波及したとある。
三高帽子誕生の二つの仮説
三高共済会が設置されたのは1928(昭和3)年であり、波帽の開発が三高私説に記載の1923(大正12)年頃だとしたら、5年の隔たりがある。この頃三高にあった共済会でなく嶽水会ではないかしら?また、山本明子さんは1923(大正12)年、ご主人は1916(大正5)年頃の生まれだ。仮に1923(大正12)年頃に三高帽子が出来たという点が正しかったなら、明子さんのお父さんが帽子の道に入ったのは何年からなのか気になる。
さらに、もう一つ気になる記述を三高卒業生の有志が作った同窓会誌に見つけた。1918(大正7)年に入学した田中一穂はこう語る。
酒井校長に依る入学式もすみ、放課後は嶽水会各運動部の入部勧誘盛んな裡に、一方ではグラウンドに机を置き新制服、帽子などの注文取りが盛んに商売をしていた。
帽子は入学式直後から業者が注文を取りに来ていたことがわかる。
閑話休題、私共は一高にあこがれていたところ三高に廻された口で、先輩などのかぶっている帽子を見ると、胴が巾広くて如何に見ても我々の美的感覚から外れ、スマートではないことを発見した。そして、もっと大黒帽子に近い一高式の形のものに美を感じたのであった。
一方制服に就ても、三高型は襟が高く凡そ四、五センチあり、之亦私共の美的感覚に合わず、洋服屋は勿論のこと注文主の我らの仲間をも説得して、襟を低く仕立て直しさせたものであった。斯くの如く、私共の仲間は服装美学と称して、帽子、制服の規制キャンペーンに乗り出し、その運動も着々成果を収め、私共を喜ばせた。此のキャンペーンの精神は、帽子とか制服その他服装等は一高式が最も都会的で美的であると、判断し今から思うと、あまりにも幼稚な考えに支配されていたのだった。
帽子と制服が気に食わなかったらしい。文中の大黒帽子とは還暦に被るようなもので、さらに一高学帽はこういう波のない形だ。

兎に角私共の帽子、制服等の規制運動は完全に成功を収め、現に帽子に就ては三高型と云う一つのモデルを残し、ショウウインドウの飾ったのである。洵に豹は死して皮を残したという云うべきであろう。私共は、其の三高型の帽子を更に水に着けて型を崩し、如何にも古狸に見せ様としたのであった。此のキャンペーンの主導者は西村謙三君であったが、先年没せられた。洵に残念である。
筆者は三高入学早々、旧来の学帽はダサいと感じ、キャンペーンを張って学帽と制服のデザインを学生主導で変えたとある。この話が本当なら面白い。さらに、夏向けの麦藁帽子も新規設計して広めるように運動したが、そのデザインは鍔が広すぎてグロテスクだったため評判が悪く不成功に終わったとある。筆者の田中一穂と、文中の西村謙三をより調べてみた。
筆者の田中一穂は梶井基次郎と同学年であり、梶井基次郎の日記の注釈に名前がある[梶井基次郎全集 第2巻 淀野隆三, 中谷孝雄 編 筑摩書房1959年 p. 346]。その後貿易関係の仕事に就き、1948(昭和23)年2月には北川冬彦と同窓会で会っている[日本未来派 (12) 日本未来派 1948-06 p. 4]。
文中の西村謙三は1918(大正7)年9月に三高へ入学し、その後1921(大正10)年4月に東京帝国大学に入学、卒業後は日比谷商事という会社の取締役になっている。三高でも東大でもラグビーをしていた。兄弟の吉田南図書館で嶽水会(当時の体育会や生協に相当する団体)の雑誌を眺めたが、残念ながら上記文献以上に帽子に関わる内容は見つからなかった。
三高の制帽の誕生は1886(明治19)年のことで、帝大(のちの東大)と同じ角帽だったと三高私説サイト管理者は書かれている。
サイト三高私説でも小河内俊彦さんが調べられており、2005(平成17)年8月27日のメールによると、松本市の旧制高等学校資料館から着帽姿の写真など書類みると1923(大正12)年の三高生の写真は波帽だったとある。
三高の方はその後、丸帽に替わります。この際、陸軍明治19年式の軍装から、制服 を採用し、帽子は明治8年式(学習院と同じ)を用いています。なお、一高の方は、海軍型を用いています。
その後、大正12年に一高型と共に各地へ広がっていった三高型が生まれます。
後略
海堀氏によると、学校規則では次のようになっていた。これは昭和9年版であるが、ずいぶん古くから始まり三高解散まで引き継いだでしょうという。
帽 海軍形黒羅紗トシ白線三条ヲ付ス
略帽 麦藁製縁三寸高サに寸五部ハチマキハ海老茶色白線三条アルモノ
帽章 桜花ニ三ノ字ヲ附セル真鍮製徽章
海堀氏も規則では海軍形というのに、明治期はともかく大正中期にはあご紐をつけているものが激減し末期には誰もつけていないので規則と実際が食い違い、「不思議」と述べている。私は規則だけた存在して実態が変わっていたのだと思う。
三高型という帽子は大正以降全国に広がったとある。改めて、いつ頃から三高生の帽子は角帽から波帽に変わったのか、確かめてみよう。
第三高等中学校の制帽規程
同窓会サイト三高私説に記述のある文献を見つけた。

わたしの手許に昭和十四年発行の「創立七十周年記念グラフ」を持っていますが、そのなかの第三高等中学校の写真の中に、「明治十九年より明治二十一年九月頃迄の制帽徽章」および「明治二十年頃の生徒」には「高」の字を徽章とした角帽が制帽として記載されています。
史料神陵史には1887(明治20)年頃に上述に近い写真を見つけた。

三高がまだ京都に来る前、大阪にあった頃だ。確かに「高」の字を徽章とした角帽をかぶっている。1891(明治24年)1月9日の教育勅語奉読式以降、始業式では学生は制服制帽着用とい次第に書かれている(同 p. 645)。1888(明治21)年11月制定の帽章の拡大写真が神陵小史にあった。

左の顔写真は1887(明治20)年までの制帽および徽章らしい。第三高等中学校と改制されてすぐの1888(明治21)年9月、学生の帽制・服制の改定がある。

この時点では角帽のようだ。神陵小史 によると、1888(明治21)年9月に定められた帽子の規定は紺羅紗、黒革紐付き、ただし夏は白布を覆う、とある(同 p. 117)。徽章もこの年の11月に改められて、それまでは「高」の字だったものが白線を三本巻くことになった。「角形帽に『高』の徽章をつけた寫眞は誠に珍らしいものであらう」とあり、角帽といえば旧制高校でなく帝国大学のもの、と考えられていたのかもしれない。たとえば、東京の旧制一高の前身、第一高等中学校では1886(明治19)年9月18日に「帽子改造之件」として、制帽として角帽から丸帽に変更している[第一高等学校六十年史 第一高等学校 1939.3 p. 128]。旧制三高含めて旧制高校では角帽でなく、おそらく丸帽が一般的だったと推測される。
史料神陵史いわく、値段は帽子一号で20銭5厘、二号で25銭、三号で22銭、徽章は15銭、帽帯は6銭とある。夏季に着用する略帽の規定もあり、麦藁帽に三本の白線入りエビ茶色の鉢を巻いたものらしい。
1889(明治22)年9月22日に生徒の服装心得方が規定される。制帽に関する項目を抜き出すと、平日は必ず着帽、校外でも着帽、新入生徒は速やかに調達すべしとある。さらに、同月に掲示された「生徒取締上ノ件会議決」には教室には帽子を持ち込み、ただし教室に入るときは脱帽し、適宜の場所に置くこと、とある。行軍や式辞の際は必ず制服と制帽着用、校外でも制服着帽、制帽をつけるときは制服を着て、見苦しい体裁をすべからず、とある。
他にも、一人称はワタクシでワタシはNG、先生への二人称はサンか先生、返事はハイ、不必要に英語やドイツ語で会話するな、などしつこいくらい細かい。軍隊かよ。弊衣破帽といったバンカラ文化が生まれたのはいつごろか知らないが、細かい規定はむしろ制服や制帽の着用ルールを学生側があえて崩していた表れかもしれない。時代が下るが、1905(明治38)年12月15日には京都帝国大学寄宿舎(のちの吉田寮)を閉鎖する総長命令がなされており、その理由は風紀の乱れにある。学生と大学の両者で管理と自由のバランスで綱引きがあったようだ[吉田寮百年物語 京都大学新聞 2019.07.16]。
1891(明治24)年4月27日には職員の制服制帽規程が規定されている。

職員は三本線入りドイツ形帽、さらに医学部職員服制では教授と助教授は独乙形軍帽、紺羅紗で起床は菊折枝ノ内ニ金線三条、緑線一条とある。
1893(明治26)年三高に入学した高浜虚子の顔写真の帽子の形状を確認すると、角帽ではない。白線三本と徽章の形状から、1888(明治21)年制定の制帽と推察される。

高浜虚子は入学して1年で第三高等中学校解散事件にあい、二高(のちの東北大学)へ転校となる。このデザインの帽子を被ったほぼ最後の学年ではないだろうか。
旧制第三高校の帽章
1894(明治27)年6月、第三高等中学校は解散し、第三高等学校に改まる。同年9月、第三高等学校として授業を開始した際に帽章が決まった。ただし、史料神陵史では典拠不明とされている。
また同時に帽章は桜花の中心に三の字を配するものに改めされた。この帽章は爾来現在に至るまでも愛用せられてゐるのである。
制帽は従前の通り白線三条を纏い、桜花の中心に「三」の字を記して、金メッキし、「三」の字は浮彫、図まである。

このデザインの作者は別の文献から判明しており、守住勇魚(もりずみいさな、1854-1927)という。三高で図学の助教授をしていた。

複数の文献から確認されており、同郷の徳島出身である徳島大学教授の河野太郎は
三高の徽章、桜花の形に三、は勇魚の図案である。
徳島県出版文化協会 1971年 p. 92
と記載している。また、同じく三高出身で徳島市立大高等学校校長になった上原浩一も、上記文献を読んで驚いた。河野太郎に根拠を直接尋ねたところ、勇魚の長女都子(くに)の手記『思ひ出』に記述があるという。徳島県博物館の企画展でたまたま手記が送られている時期だったので、急いで見せてもらった。
ノートにしたためられた手記の「明治二十三年」の項に、次のとおり書かれてあった。
「父が勤めて居りました学校が京都の吉田山の麓に移転され第三高等学校となり帽子の記章も桜の形の中に三これも父が作りました」
『思ひ出』が、勇魚の伝記を知る上に、貴重な資料であることは、河野教授も話しておられたが、わたしとしては、なつかしい校章の作者を、その息女の手記によって知ることができたのは、まことにさいわいなことであった。
史料神陵史では典拠不明とされていたが、三高の設立に伴い帽章も改められ、そのデザインを助教授の守住勇魚が行った。1894(明治27)年9月14日、日清戦争開戦にあたって天皇陛下が三高に来るが、その時は新旧の帽章どちらでも適宜つけろとお達しがある[史料神陵史 : 舎密局から三高まで 神陵史資料研究会 編 1994.8 p. 765]。この記載からも、高の字から桜に三へ、帽章が新しくなったことがわかる。1970(昭和55)年発行の神陵史には、当時の科目の一つである図学の担当講師は守住勇魚の一名だけだったようだ。
余談だが、旧制松山高校の帽章も高の字が中央に配されている。京都帝国大学の武田五一がデザインに関わったらしい。
自由の鐘で知られた三高の校風は、四国にうつされて松高の伝統となった。開校とともに、金色の三光(眞善美)の中央に桜花を配し高の字をおいた徽章と白線二條の帽章が制定された。この徽章は京都帝大工学部教授武田五一に依頼し、数種の考案のうちから職員が協議して決定したものであるが三光と桜の配合は、三高と同志社の校風を総合したものであるという"伝統"の当否はともかくとして、
京大の百周年記念館にある歴史展示室には、全国の徽章が展示されている。

松山高校は中央に高の字がある。
かつて旧制三高のあった吉田南キャンパスの図書館には三高時代の資料が多く収められている。その一つに1925(大正14)年2月に調査された学資調査結果がある。制服は制帽と外套、靴は合わせて3年間で115円らしい。入学金は3円、授業料は一年で65円だ。
制服ハ冬服一着・夏服二着・外套一、帽子ハ正帽及略帽(夏季藁帽)各一個、靴三足ノ計算
この頃には正帽のほかに略帽も夏用の麦藁帽子として定められていたようだ。
旧制三高の学帽
丸帽から波帽に変わった時代は、上述したように三高私説のサイト曰く1923(大正12)年頃としている。裏どりのため各時代の写真から、丸帽か波帽か形状を確認しよう。波帽と丸帽の特徴はそれぞれ、マチによる波状の凸凹による立体感と、いっぽう真上から見ると丸く横から見ると扁平なデザインだ。入学時に買い求め、失くさない限り同じ帽子を使っていたらしいので、大体一人につき一つと仮定していいだろう。
1903(明治36)年9月に入学した沢村胡夷は丸帽だ。

1917(大正6)年の卒業写真では、波帽は見当たらない。1914(大正3)年頃入学の皆、しわのないピシッとした丸帽だ。

1916(大正5)年に入学した小口太郎は波帽に見える。

ついでに、小口太郎のwikiにある長野県岡谷湖畔の銅像も波帽だ。
1918(大正7)年に入学した下村利一郎らのクラスは波帽の様だ。

一方、同じく1918(大正7)年に入学した中井正一は丸帽に見えなくもない。

同じく、1918(大正7)年9月に入学した青柳一郎は入学式をこう振り返る。
入学式に行って驚いた。大体、今まで自分が通っていた東京府立第4中学校は、学則至ってきびしく、先ず帽子、夏は白いカバーを付けた丸い制帽であったのに、三高では、これと同様の制帽が制定されているのに、入学制には、中折あり、カンカンあり、鳥打帽子あり、無帽の人も居た。
三高大正十年卒業生卒業57周年・入学60周年記念誌
田中周友 編 江草四郎 1979.2 p. 189
制帽はあってないようなものだったらしい。三高弓道部の1919(大正8)年の校内大会での集合写真は、波帽と丸帽が混合のように見える。

1919(大正8)年に入学した伊吹武彦(左)と北川冬彦(右)は二人とも波帽だが、微妙にバリエーションが異なる。

北川(右)の波帽は帽章から真上に一本伸びるマチと、左右に伸びるマチがあるいっぽうで、伊吹(右)の帽子には見当たらない。同じく、1919(大正8)年に入学した梶井基次郎は波帽だ。

三高の制帽にバリエーションがあるのかと思ったが、こんな人もいた。
1922(大正11)年に入学した桑原武夫は、七高の先輩からお古を貰っていた。
大正十一年四月、第三高等学校に入学した。桜花の校章、白線三条の制帽を頂いてみな得意げであった。私は七高にいた先輩から、そこで五年間かぶったという古びた帽子を貰い受け、校章だけを取りかえ、よれよれになった白線は二本しかなかったが、新入生には見えまいというところが、やはり得意だった。
二十年前の三好達治君 旧仮名遣いは現代ぽくした
自ら服飾を汚す弊衣破帽文化の一つとみられる。紛らわしいことするんじゃあない。写真を見ると確かに、左から二番目の桑原は帽子の白線が少ない。

同学年の三好達治に至っては、学校でひとり濃緑のソフト帽をかぶって落ち着き払っており、教官も何も言わないので桑原は入学早々驚いた。
クラスの噂では、学校も早々に呼び出して調べたが、三好君は頭にあう帽子が見つからぬからだと答える。御用商人にただしてみても、こんな大きなサイズはあいにく製造しておりませんという。無帽を強制して日射病になられてもこまるので、特別黙認になっているのだということであった。やがて三好君も制服制帽で現れたが、帽子の型が少し変っている。上衣、ズボンとともに「三つ揃」で洋服屋にこしらえさせたからで、帽子にも中島洋服店のマークがはいっているという。もっとも私が手にとって調べてみた訳ではない。やはり同級の丸山薫君のサイズも三好君に劣らぬ大きさで、どんなに酒に酔っぱらったりしても、帽子だけはいつもたいそう大事にしていた。なくすと後がととのわぬからだという。
p. 54 二十年前の三好達治君 旧仮名遣いは現代ぽくした

桑原のきいた噂だが、三好はわざわざ帽子と制服をセットでオーダメイドしていたことになる。サイズがないと断った御用商人は山本帽子店かもしれない。この時代になると丸帽は集合写真ではみとめられない。
1923年(大正12年)4月に入学した武田麟太郎はサイズが小さいが波帽のようだ。

1925(大正14)年10月に、中村直勝と集合写真を撮っている両端の三高生は波帽だ。

1930(昭和5)年三高入学の西山夘三のイラストや写真から、帽子を確認してみよう。何度も引用しているが、吉田南キャンパスにあった自由寮に住んでいた、後の熊野寮設計相談役である。


以上、明治大正昭和にかけて写真から帽子の形状を見渡すと、波帽は1914(大正3)年入学者には見あたらず、1916(大正5)年入学者は身に着けていた。1918(大正7)年12月6日に公布され、翌1919(大正8)年4月1日に施行された高等学校令改正は旧制三高の学制も変えた。神陵史にはこのときの制帽に関して記載が見当たらなかったが、少なくとも1925(大正14)年の学資調査で制帽と略帽の記載があった。
整理すると、波帽の発祥は以下の3つのどれかになる。
1. 1916(大正5)年頃 出典は各時代の写真
2. 1918(大正7)年頃 出典は田中一穂の思い出話
3. 1923(大正12)年頃 出典はサイト三高私説に記載の山本帽子店の山本明子さんの話
このうち、1は写真として残っている分明確な証拠に見えるが、実際は指定制帽をかぶっていないものもいたので何とも言えない。波帽と確実に言えそうなものは1916(大正5)年のマチのみえる小口の写真である。この年は山本帽子店が開店したころだ。また、集合写真を見る限り、1918(大正7)年入学あたりから広く三高に普及したように見える。同年に入学した田中一穂らが広めたデザインがまさに波帽かもしれないし、よく見たら実は微妙に刷新されているのかもしれない。
ネットオークションに旧制三高の帽子の写真があった。詐欺サイトの可能性があるのでURLは伏せるが、外観が細部までよくわかる。


310SANTO HAT のロゴがある。1934(昭和9)年12月創業の大阪の三都帽子かもしれないが、これ以上は不明だった。
帝国大学の学帽
一方の、東一条を隔てた京都帝国大学の学帽は角帽である。




昔の写真を見て三高生か帝国大学の学生か判別つかなかったが、一つのヒントになりそうだ。
全国で帝国大学生の被った角帽は、東京帝国大学において1884(明治17),1886(明治18)年に学生案が採用された。その発明者も判明しており、和田義睦という。日本最初の自転車クラブ会員の一人でもあり、熊野寮の敷地に明治時代にあった第一絹糸紡績の煙突を作った廣田理太郎と同級だ。
複数の文献に記録があるが、服飾の分野で検討された内容が一番まとまっていた。
まずは先に少し触れた角帽創案の経緯について検討しておく。菅見のかぎり創案は明治十七年と翌十八年の二説がある。同時代の資料としては明治十八年三月十日付の『郵便報知新聞(14)』に「東京大學にては是まで一定の制帽なかりしが(中略)一定の帽子を製して(中略)近〻之を用ゆる筈なり」と報じる記事があり、これは『第一高等學校六十年史(15)』(以下『一高六十年史』と略記)が治十八年三月九日に「大學一般の帽子作成の儀聽届らる』として一件の書類を記載しているのに裏付けられる。一方、『東京大学百年史(16)』にも採録される和田義睦「大學角帽の由来(17)」では、角帽創案の当事者である著者が「明治十七年の頃」とされている。以上のにせつについては考案が明治十七年で、その後大学総理並び予備門長への書面による申し入れが行われたのが翌十八年三月と解すれば、矛盾を生じない。
いずれにせよ角帽が学生の側からの自主的な発案から生まれ、それを大学総理が許可するという経緯をたどっている点ではすべて一致する。
服飾美学 (29) 服飾美学会 編 1999-09 p. 65
大学総理とは現在でいう総長にあたる。夜に寄宿舎を抜け出すような学生の不品行をなくし、自己浄化の為に皆で被る制帽のデザインを有志者が申し合わせて申請した。明治十四年に東京大学は、学問を志す若者を指す「書生」と異なり、本学科生のみを「学生」という言葉を定義した。角帽の創案はその差異化の具体的実行だったと平田はまとめている。
他の文献でも、学生だった山口鋭之助の考案を同じく学生だった和田義睦が図案し、総長加藤弘之の許可を得て作ったとある。
参考:
・平田玲子 学帽への思い -帝大角帽と旧制高校白線帽を中心に-
服飾美学 (29) 服飾美学会 編 1999-09
・ボート五十年 久保勘三郎, 宮田勝善 著 時事通信社 1957年 p. 58
・つんどくほん 玉川一郎 著 永立出版 1976年 p. 222
・キショウ堂サイトhttp://www.kishodo.co.jp/museum/cap/cap1.htm
2001年の復刻
実は京大生協が2001(平成13)年に復刻している。
京都大学生協(京都市左京区)がこのほど、京大生がかつてかぶっていた角帽を「復刻」、販売し始めた。下駄を鳴らしてかっ歩したOBらに好評という。
角帽は旧京都帝大時代からの伝統がある。大学近くで角帽を製造・販売していた、大学近くの山本帽子店によると、戦後はかぶる人が減り、一九六〇年代後半にはほとんど見られなくなったという。そのため、角帽作りもやめてしまった。
しかし近年、新入生などから同生協へ「角帽をかぶって入学するのが夢だった」などの声が寄せられるようになったという。そこで卒業生から六〇年前後の帽子を借り、市内の帽子店に「復刻」を依頼した。ひさしなど革製だった部分はビニールに変更したものの、角がやや丸い当時の形や、旧字体で「大學」と書かれた記章など細部は忠実に再現した。
十一月から一個五千八百円で販売。一週間で十個前後が売れるヒットになった。ただ、購入するのは昔を懐かしむ年配の人や教員がほとんどといい、生協では「伝統の角帽も、茶髪の現代っ子にはピンと来ないのかも」と話している。
https://tyumeji.blog.fc2.com/blog-entry-237.html
一応、現在も生協のオリジナルグッズオンラインストアで買える。一つ12,200円 だ。

https://u-coop-shop.net/item-detail/1066765
山本帽子店の広告
京都帝国大学新聞(のちの京都大学新聞)に名前をよく見かける。





1928(昭和)3年に三高に共済会が誕生する。
1933(昭和8)年の共済会活動の記事に、山本帽子店の名前を見つけた。売り上げ金額は503円30銭とある。[旧制高等学校全書 第8巻 (思想・社会編)旧制高等学校資料保存会 編著1985.12 p. 525]
また、別の資料には三高共済会の帽子の特約店として本田洋服店をあげている[旧制高等学校物語 第3 財界評論社 1965年 p. 493]。制服もこの店なので誤記載でないかしら。
100年の歴史を閉じる山本帽子店
東京帽子協会会員向け業界誌「NEW HAT (ニューハット)」第6号(昭和24年3月20日)がサイト「東京帽子倶楽部」に公開されており、山本帽子店が記載されていた。家族経営のお店で、店主は山本士郎さん(33)。誕生日は1916(大正6)年3月5日[全国各種団体名鑑 1981年版(第9版) /上巻ミカミマーケティング・インスティチュート 編 1981.1 p. 531]。冒頭の三高私説にあった、1995年に79才で亡くなったと山本明子さんが言う、ご主人とみえる。早生まれだから1916(大正6)年生まれだ。18歳から帽子を作っていたなら1934(昭和9)年からになる。
住所は京都市左京区東大路丸太町上る。古くは、丸太橋とあわせて二つの店舗を持っていたが、昭和初年に現在の店舗のみとした。店と商品を清潔にして好感を持ってもらうようにしているとのこと。内観と外観もスケッチされている。


創業年は1916(大正5)年、ただし一部1915(大正4)年とする資料もある[会員・特定商工業者名鑑 1991年版 ]。1979(昭和54)年時点での従業員数は2名[京都商工人名録 昭和54年版 京都商工会議所企画調査部 編 京都商工会議所 1979.3 p. 349]。広告は大学へ年二回程度。日本帽子協会に所属しており、京都市帽子小売組合の代表もされていた[全国各種団体名鑑 1981年版(第9版) /上巻ミカミマーケティング・インスティチュート 編 1981.1 p. 531]。
2023(令和5)年10月31日に山本帽子店は閉店した。いくつかのブログが閉店を伝えていた。

*「山本帽子店」京都市左京区聖護院山王町11 ☎075-771-3428

かつて、詰襟の学生服と3本の白線がある帽子を被った三高(現在の京大)の学生たちが、闊歩していた京都の町。
今や、大学生で、詰襟の学生服を着ているのは、応援団くらいに…。
中学・高校でも爪入りの学生服の学校は、激減し、ブレザーの制服がほとんどになっているのだそう。
この日、ミモロは、京都の丸太町通と東大路通の交差点「熊野神社」の向か側にある「山本帽子店」の前を通りました。
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京都三高の学生帽を作った「山本帽子店」。今月末で100年の歴史に幕。売り尽くしセール開催中 2023-10-18ネコのミモロのJAPAN TRAVEL (Mimoro the cat:JAPAN TRAVEL)
「山本帽子店」は、京都大学にほど近い場所に店を構えて、100年という帽子店の老舗。現在は、3代目に。戦前、ハイカラな人たちの間では、帽子が大流行。誰でも、帽子を被っていました。ここでも、そんな方々のニーズに応えるために、国内外の良質な帽子を販売。さらにオリジナルの帽子製造なども手掛けていました。
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見事、三高生になれた学生にとって、その帽子を被るのは、憧れでした。
「合格したら、ここで学生帽を注文する人がたくさんいらしたんですよ」と。
なんでも三高帽子は、3本の白い白線が特徴。また、学生帽には、それぞれ個性があって、フォルムがみんな異なっているとか。
戦後は、「京都大学」の学生帽を販売。


「これが残ってて…」と見せてくれたのは、多分100年くらい前の学帽。ほぼ新品。「昔はこれを時計台にようけ納品に行きました」との想い出話も。数年前に倉庫整理していて発見。「これは捨てられまへん」。
Rocky平野 2023年10月21日山本帽子店の閉店 - 2023.10月末
山本帽子店の名前を東の御辰稲荷神社で見つけた。

クマノ電停上ルと書かれており、熊野神社東の市電の電停があった頃のものと見える。
学帽へのあこがれと廃止運動
白線帽は象徴的な面でもよく引き合いに出される。エリートの象徴として旧制高校の白線帽は若者のあこがれの的だった。「三高型」という言葉をよく見かけるのは昭和3~5年頃からであり、昭和初期のビジネス本には流行を生むための言葉と解釈している。
(中略)関東の小中學生が一高や慶応の學風を慕ふて羨望の的となつてゐると看取したのらあらうか、学帽の販賣語は、一高型とかKO型などゝ稱して賣り出されてうぃる。
関西にあつては、一高型が三高型と稱せられてゐるのも、確かに急所をねらつた販売語のひとつである
帽子販売に関する文献によく登場する。

1954(昭和29)年の育児本には、児童向け制帽の売れ行きの六割は三高型であり、「これは山に波が打つていつので柔らかみがあり、見た目もカワイイので、一しよに買いに行くお母さんが惚れ込むという」とある。

憧れの旧制高校にいざ入学した学生たちは制帽を購入すると、敢えて汚して使用感をだした。わざわざ醤油で汚したり、古いものを使ったり、あえて違う帽子をかぶる者もいた。そのくせ、多くの学生はどこに行くにも学帽をかぶっていく。例えば、自由寮に住んでいた織田作之助は銭湯にまで制帽をかぶっていく学生を小ばかにしている。
私は生れつき特権というものを毛嫌いしていたので、私の学校が天下の秀才の集るところだという理由で、生徒たちは土地で一番もてる人種であり、それ故生徒たちは銭湯へ行くのにも制服制帽を着用しているのを滑稽だと思ったので、制服制帽は質に入れて、和服無帽で長髪を風に靡かせながら通学した。
角帽はかぶっている方がモテたと桑原武夫は残している。
私は学生時代から山間僻地をよく歩いたが、角帽のときの方が、背広のときより遥かによくモテた記憶がある。今もこのあたりで米の買い出しに行くとき、角帽だとヤミ値の半額くくらいで売ってくれる農家もあるという。
初出 新潮・1948年9月号 旧字体と仮名遣いは現代ぽく修正した
滝川は、大学生が軍服の如き格好をする必要がどこにあるのか、女子学生は市民の服装をしているのに男子学生だけが角帽の特権にひたるのおはおかしい、イキなものでも何でもない、と看破している。
制服制帽を着ているために、大学生は社会的に特権的階級をつくっている。世間は大学生であるが故に、一般人には許されないような行為をも大目に見ている。学生は制服姿であるが故に特殊待遇群をつくって平然としている。なんとなく卑怯な振舞である。
旧字体と仮名遣いは現代ぽく修正した
滝川は帝国大学では制服で押し通したが、教室の出入りが不自由なので好んで来ていたわけでなく、詰襟服の「くさい物に蓋をする」といった構造も嫌だと書いている。
映画「風立ちぬ」でも帽子は各キャラクターの象徴的アイテムとして使われる。
まとめ
学生時代にいつも自転車で素通りしていたお店が、京大と比肩するほど長い歴史を持っていたとは知らなかった。今は閉店して違うお店になっているが、熊野神社前のバス停を利用する時、学生さんは時々思い出してほしい。
また、各時代の制帽や制服の規程を見ると、一人称まで規程する軍隊のようにガチガチだった時代や、逆に制帽は学生ら自らが発案した自由な歴史も垣間見えた。東大で生まれた角帽と同様、三高でも学生から発案したのであれば面白い。当時の学生の述懐しか証拠がないが、今後の新しい発見に期待したい。服装規定は自由な雰囲気の獲得もしくは放棄するまでの、大学の変遷を知る一つの手がかりになるかもしれない。
