第一絹糸紡績の盛衰
↑石井行昌撮影 「武徳会の水泳(疏水ダム・絹糸紡績)」明治末頃 歴彩館デジタルアーカイブ 疏水南の冷泉通から北方向を望む
以前の記事で、京大熊野寮の敷地は明治大正期に紡績工場があったと書いた。どんな工場だったのか、どんな人がいたのか、近所から見てどんな雰囲気だったのか、当時の工業的背景と合わせて追ってみよう。
稲垣藤兵衛による設立
1887(明治20)年3月11日の記事には「京都絹糸紡績会社」と名前は違うが、稲垣藤兵衛、中村忠兵衛、野橋作兵衛、西村嘉助、伊藤常八、吉田利助、阿部彦太郎らによって設立されたとある。この時、海外から持ち帰った数千種の見本を三条高倉の川島甚兵衛から見せてもらい、選定したとある。

この川島甚兵衛は川島織物の創始者と見え、前年にヨーロッパへ主に織物工業を視察に行っている。
創設者の一人、縮緬問屋稲垣藤兵衛(二代目、本名恒吉)が1880(明治13)年に丹後向き縮緬の原料生産を目的に、紡績事業を企画した。そのとき、政府の資金援助を期待していたが、紀尾井坂の変で紡績事業推進派の大久保利通が暗殺され、むしろ官営工場の民間への払い下げが多くなり、政府援助前提での絹紡事業は挫折した。それでも、上州新町の紡績所へ伝習生を派遣し、技術を習得して開業に至った。このとき、仏式の新町に対して英式の本練法を採用した。ちなみに、大久保利通は上州新町の官営紡績所の開業式に参加しており、生前は紡績事業に気合を入れていたようだ。稲垣藤兵衛の顕彰碑が相国寺にある。

別文献になるが、丸太町通り南側の本屋西川誠光堂をモデルにした小説にも、第一絹糸紡績はよく登場する。この本屋は戦時中まで実在した。小説の主人公である西川ハルは、著者の妻の祖母がモデルである。ハルの祖父、徳兵衛は三条柳馬場の呉服商「わかやま屋」を営んでおり、中村忠兵衛と並んで第一絹糸紡績の出資者であったと小説には記載がある。
第一絹糸紡績会社は、京都の有志が集まって創設した会社である。二十九年には大規模な紡績会社が幾つか出現するようになった。その為に熟練工の激しい争奪戦すらくりひろげられ、あわや乱闘ということに発展しかけたこともあった。
その縁故で結婚した第一絹糸紡績の職工である吉之助と社宅に住んでいた。
社宅は、工場から道をへだてた斜め向いにあった。工場に並んでその西に一本道を挟んで貸本屋がある。
この後、西川吉之助は妻のコネで採用されたにもかかわらず、社宅の斜め向かいにあった老夫婦の営んでいた貸本屋を買い、渋るハルに本屋営業を押し付けるが、西川誠光堂と名付けられたこの本屋は三高生達の教養の源として発展していく。この話はまた別の記事に譲る。
開業式を伝えるの新聞記事にも、模範とした工場の記載がある。
元来、同社の創始は実に去る明治十三年の半ばに在りて、初めて有志者相謀り、その頃上州新町駅に在りし官設紡績所を模範として工業を起こさんと企て、之が実施参照の儀を上請せしも故ありてその意を果さず、のち八方苦慮してその創業を図りしこと数年、遂に明治二十年二月に至り同志者二十有余名の協賛を得て漸く今日の運びにまで立ち進みたる者の由にて
句読点と仮名遣いは現代ぽく修正した
参考
・日本絹紡糸事業概観 日本絹紡協会 1980.3 p. 40
盛大な開業式
日出新聞(のちの京都新聞)の1887(明治20)年6月25日(火)に、23日に行われた開業式を報じている。
第一絹糸紡績の開業式 予記のごとく、上京元三十二組東竹屋町なる第一絹糸紡績会社にては一昨二十三日開業式を挙行したり。当日は同社表門通りの南北、即ち東竹屋町通り及び東丸太町通りの両方に大なる緑門を設け、また同社の構内には数千の紅燈を吊し近傍各町の各戸前には例の紅燈を吊るしたる松枝を掲げ、いと花美やかに装いし。
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「けんしぼうせき」とフリガナがふられている。午前十時には招待に応じて三百名余りが参加した。京都府書記官、三輪京都市裁判長、検事、元上下京区長、京都府会正副議長、市会議長と代理人、市参事会員、京都府各課長、銀行役員、京都各新聞社員とある。かなり大人数を集めた大掛かりな開業式だ。ちなみに、当時のもう一つの新聞である中外電報には記載が見当たらなかった。
技師「廣田和太郎」により建築工事および機械に関する陳述があったとある。和太郎は誤字で、正確には「廣田理太郎」と思われる。
前述したが、文中にある上州新町の官営紡績所とは群馬県高崎市にあった1878年(明治10年)に開業した新町紡績所である。後に第一絹糸紡績を立ち上げる二人の技師がここで伝習していた。
(前略)第一絹糸の技師長、広田、中村は新町で伝習している。新町から日本紡績会社の多くの技術者が輩出したことは、官営時代なら兎も角、三井の経営に移ってからが多いことは特筆される。第一絹糸の操業に当って、伝習生を新町に派遣して技術の習得をすることを官から許されたが、これは三井に払い下げられたのちも引き継がれた。
第八章故事片々 三 明治時代の技術者の確保と工場建設の苦労話 p. 159
伝習生の二人はそれぞれ、開業式で招待客を案内した廣田理太郎と、後に第一絹糸の中興の祖になる中村嘉吉郎の両技師を指すとみられる。
開業前の乱闘騒ぎ
第一絹糸紡績の開業式の少し前、1887(明治20)年6月20日午後8時35分ごろ、ボヤと乱闘騒ぎがあった。開業式準備ために材木など不用品を東の空き地で燃やしていると、警察が警鐘を打ち鳴らし、上京区第五消防組がとんできた。会社側が火事ではないと門を閉めて消防を入れないでいると押し問答になり、消防曰く瓦礫や丸太を会社から投げ出した。押し合いへし合いの乱闘になったが、このときご近所だった聖護院難波区の京都治安裁判所の會田正豊さんがその場を収めようとする。しかし、一斉に殴られて柵の外の溝に打ち出される。ここで、聖護院宮の元家来を務めた剣柔の達人である巌谷宥英(42歳)さんは、友人の會田正豊さんをかばって、進み来る暴漢の一人を2,3間(4~5m)突き倒した。この一撃を見て後ずさりする者のいれば、会社の門を打ち破って乱入する者もいた。巌谷さんは隙を見て友人の會田さんを門内に押し入れて守り、多勢に無勢と夜の闇に紛れて帰宅した。会社は徹夜して後片付けし、滞りなく開業式を挙行できたとのこと。よかったね。
このとき、騒ぎになった原因は、会社工場の屋根は日光をとるためガラス張りだったため、ただの火が大きく見えたとしている。
歴彩館デジタルアーカイブで検索すると、確かに明治20年頃の上京三十二区に会田正豊という人物がおり、京都府の職員だった。官報では京都区裁判所管内公証人として1903(明治36)年3月8日に亡くなっている。
参考
・日出新聞 第2770号 明治20年6月25日
・日出新聞 第1220号 明治22年4月30日 一面 京都新聞百年史 京都新聞社史編さん小委員会 編 京都新聞社 1979.12
・官報第5908号 1903年03月17日 大蔵省印刷局
鈴鹿弥惣吉の建築
第一絹糸紡績の立派な煉瓦造りの工場を建築した人物は鈴鹿弥惣吉という。京都新聞の前身である日出新聞が、1909(明治42)年に投票で決めた建築十傑の筆頭に選ばれている。

明治二十年に始めて京都市第一錦糸紡績株式会社煉化造工場及木造付属家建築工事を請負ひ天晴の成功を示し賞予金壱千円を受く
生まれは滋賀県滋賀郡仰木村の北川小太郎氏の四男で、錦糸紡績会社工事では殆ど一命を賭して其の任務にあたったとある。ついでに、同文献で十傑に選ばれている眞野浅治郎なる人物も、第一絹糸紡績増築に関わっている。
鈴鹿弥惣吉は現代滋賀県人物史にも顔写真付きで記載されている。

明治二十六年には京都第一絹糸紡績工場を竣成し、(中略)大正五年京都日の出新聞が建築十傑の投票をなすや、君は實に最高點者たりき、
第一絹糸紡績はもうないが、同じ建築家による煉瓦造りの建物が現存する。1905(明治38)年、北区北野下白梅町に建てられた旧藤村岩次郎邸洋館(衣笠会館)は煉瓦造2階建の洋風住宅であり、国・登録有形文化財でもある。

2007(平成19)年の調査で、屋根裏の棟札から請負人鈴鹿弥惣吉の名前が発見される。

上棟式は1904(明治37 )年10 月11 日に行われたことがわかる。
棟梁は、京都綿ネル工場建設の筆頭請負人とおぼしき鈴鹿彌惣吉であることが判明した。ここに、最後の課題として、衣笠会館本来の役割についての考察結果をまとめとしたい。 まず、施主と施工者との関係については、藤村岩次郎は自邸の普請に先立って、会社の工場の工事を請け負っていた鈴鹿彌惣吉に自邸の洋館の建設を任せた。
上記文献の京都綿ネル工事記録写真(図 7)には鈴鹿組の棟梁らしき人物が写っている。

最前列にいる人物の右から二人目と三人目の間、少し後ろにい る法被姿の人物が巻物をもち、法被の胸に鈴鹿組と読み取ることができた。そこから、工事全体の設計者でないとしても、筆頭請負の施工者・鈴鹿組の棟梁であると判断される。
画像が粗くて他の顔写真と比較しにくいが、鈴鹿弥惣吉その人かもしれない。近年まで現存した京都綿ネルの工場群の建築もこの鈴鹿である。
煉瓦は刻印と寸法から製造所を判定することも出来るので、もし今後この地で地下調査があれば、第一絹糸紡績のものでないか確かめてみて欲しい。
鈴鹿は市参事会員も務め、晩年は裏千家流で茶道をたしなみ、市役所の向かいにあった中京区河原町西の川上喜久邸、京都市盲唖院の建築にも関わった。今後も、鈴鹿弥惣吉の手による建物が見つかるといいな。
参考:
・京郊民家譜 岩井武俊 編 便利堂 1949 p. 9
・木下知威 日本建築学会系論文集, 第75巻 第651号, 1025-1034, 2010年5月
・衣笠繊維研究所報告2023 公益財団法人 衣笠繊維研究所2024年3月発行 第27号ISSN 2758-5190
・清瀬みさを 同志社大学日本語・日本文化研究 第10号 2012年 pp.41-59
・京都綿ネル株式会社創業十周年紀念写真帳 小川一真 編 明40.11
廣田理太郎の煙突
開業式で招待客を案内した廣田理太郎は、第一絹糸紡績の煙突を建てた技師である。四十年前の思い出と題し、彼の技術屋としての半生が1933(昭和7)年6月30日に行われた工学部冶金談話会草稿として残されている。工部学校卒業後すぐに京都に来た。
京都の第一絹糸紡績の機械が遠からず英国から到達するというので私は同社の技師になった
日本鉱業会誌 No. 547 昭和7年7月 雑録 p. 747
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機械のみならず工場と煙突の建設も私がやったが無経験なので実に心配して痩せた、しかし卒業したての若造によくやらせてもらえると思って嬉しくて一生懸命でやった
日本鉱業会誌 No. 547 昭和7年7月 雑録 p. 747
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撮影年は不明だが、南西からの撮影とみられる工場の写真も残されている。

煙突の寸法は煉瓦で円形、高さ120尺(約36 m )内径5尺(約1.5 m )であり、設計図は英国から来た。廣田は、煙突の建設のために、煙突上面の足場の中心から重りをぶら下げ、その先端が常に底面の中心を指すようにして、重りの線を軸として煉瓦を積んでいった。このとき誰かが煙突を指して「く」の字に曲がっていると指摘したので重役も心配しだし、廣田は夜も眠れなくなった。そこで、機械工学科でワッデル博士なる人物に習った陸地測量術を活かして「トランシット」を借りて煙突を頂上から底部に覗き、睨んでみたが煙突は曲がっていないことが確認できた。
ここで、トランシットは当時の測量機で、ワッデル博士とは1882(明治15)年8月から工部大学で教授をしていた John A. Waddle とみられる。
しかし、重役に納得しては貰えず、工場第一の美観たる自慢の煙突が曲がっては、と愚痴られて技師廣田の信用も「く」の字になりかけた、とある。結局、積み直しも出来ないので120尺(約36 m )の大煙突は東山の一角に屹然とそびえたったが、一向に何も起きないので重役も安心し、廣田の面目もどうにかなった。後から判然したが、煙突の足場が長期間の工事の間に曲がっていたことが、目の錯覚を生んだとある。眼の「イリュージョン」と廣田は呼んでおり、若い学生には実地では周到の注意をもってほしいと言っている。
私が二十四才の時、初めての実地経験に築いたこの120尺の煙突は、明治二十四年の大地震にも耐えて、今日なお岡崎の疎水の船溜りの北側にありますから、見て頂きたい。この煙突もことして四十四歳の齢を重ねました。我邦の工業未だ起らず、工事の乏しい折柄、若年の私がこのような仕事をやらせてもらったのは仕合わせであったのでしょう。
日本鉱業会誌 No. 547 昭和7年7月 雑録 p. 747
句読点と仮名遣いは現代ぽく修正した
廣田の経歴は、2018年の国立科学博物館の調査によって整理されている。
廣田は,帝国大学を卒業後,京都第一絹糸紡績会社技師となった.この当時,機械工学士の就職先は限られていて,必ずしも引く手あまたではなかったようだ.工場では機械の据え付けや煙突の建設を担当した
Bull. Natl. Mus. Nat. Sci., Ser. E, 43, pp. 21–30, December 25, 2020
工部大学は東大工学部の前身の一つである。本人も卒業後の進路が限定されていたことを述懐している。
それから明治二十年に卒業して主任教授谷口直貞博士の推薦によりて直ちに京都の第一絹糸紡績の技師として招聘せられた、その年の機会工学科の卒業生は私が一人で会ったから就職口が降るほどあって断るのに困ったであろうと思われるかもしれぬが、さにあらず、まず横須賀の造船所、大阪の造幣局、しからざれば中学校の先生くらいであった
日本鉱業会誌 No. 547 昭和7年7月 雑録 p. 746
廣田は第一絹糸紡績建設後、技師をしつつ1889(明治22)年に京大の前身である高等第三高等中学校教授嘱託となり、1891(明治24)年には京都を離れて鉱山開発や計算尺の普及に貢献していく。東京の帝大在学中は日本初の自転車同好会を設立し、また日本で初めてオーディナリー型自転車に乗った人物とされている。
第三高等学校一覧 明治22-25年を見ると、明治23年10月に図画の嘱託教員として広島士族廣田理太郎の名がある。明治24年11月時点ではいない。
日本で最初期の暖房
第一絹糸紡績の設備に関して、廣田はこんな文章も寄稿している。
明治工業史の参考資料として廣田理太郎博士より寄せられた原稿に、僭越ながら補遺を添へ左に録する事とした。本文は廣田氏の原稿であり補遺は一字下げて認めた
其後明治二十年頃より我邦に紡績工場が続々建設せらるゝに至りて、工場内を煖める為に鐵管に蒸氣を通じたる、簡単なる煖房装置が行はれたる事と思ふ。その頃京都の第一絹糸紡績會社に於て、工場内の煖房は約三寸の鐞鐵管を床上六尺位高く、柱に取付けられたる簡単なる装置なりしが會社の事務所には右のパイプより分岐してギルドエレメントを用ゐたる正式の放熱器を用ゐ十二の室を煖めたり。是は倫敦のケルチング、ブロザースの供給せるものなるが、其製造元は獨乙國ハノーバー市ケルチング社の製造せるものになりしならん。此煖房は工學博士谷口貞直氏が注文せられて自分によりて施行せられたり。是は恐くは我邦に於ける煖房中最も古く且つ珍しきものと云ふべし。
(補遺)此装置図面を添付しあれども爰に略す。
第一絹糸紡績の暖房設備は師匠の谷口がドイツのケルチング社より注文し、廣田が施行した。日本の暖房歴史上かなり古いものらしい。掲載を省略された、廣田から送られた図面が見たい。ほぼ同じ記載だが、以下のような文献も見つけた。
明治十九年起工せる工科大学本館、同二十一年竣工し眞野文二の設計に依る蒸気暖房装置を施し、又、同年京都に創立せし第一絹糸紡績会社も亦、此の蒸気暖房を採用せり。同工場内の暖房は、約三寸の鐞鐵管を床上より、約六尺も高く柱に取付けたる特殊装置にして、又、事務所は鍔型放熱器を使用せり。是我が国に於て放熱器を使用せし最初なるべく、此の放熱器は、倫敦ケルチング・ブラザーズの供給するところなり。
明治工業史 機械・地学篇 日本工学会 (著)日本工学会明治工業史発行所
1930/12/25 p. 376
鍔型の放熱器を用いたスチームパイプ式の暖房を、日本で最初に使用したのが第一絹糸紡績の事務所とある。廣田は煖房冷蔵協会の会員であり、日本で最初期に暖房設計した眞野文二との写真もある。谷口貞直も暖房を設計した記録があり、活用した分野は近いと推測される。後年、暖房を輸入していた高田商会でも勤めている。

機械 (31) 機械工学談話会 編工業雑誌 1930-04 p. 3
ここからドイツ語文献になるので自信がないが、ドイツのKörting社について調べた。Ernst Körting(エルンスト・ケルチング)とBerthold Körting(ベルトルド ・ケルチング)が設立した会社であり、1860年代には放熱器と配管を分離した近代暖房の基礎を固めた。1880年からはRippenrohren(フィン付きチューブ)の生産、1883年にドイツ初のRippenrohr-Formmaschine(フィン付きチューブ成形機)の製作、1885年にはMild-Dampfheizung(低圧蒸気暖房)を発明した。廣田のいう「鍔型放熱器」はこれらのシリーズの一つだったのかもしれない。
日本においては歴史は蒸気と温水の二種類にわけると以下のように整理される。
・1873(明治6)年 工部大学校本館(東京・虎ノ門)に重力式蒸気暖房設置
・1875(明治8)年 紙幣寮に蒸気暖房が使用
・1880(明治13)年 高田慎蔵が輸入業をはじめる(後の高田商会)
・1890(明治23)年 司法省,海軍省,大審院に高田商会がケルチング式(重力式)暖房を導入
・1907(明治40)年 京都の都ホテルと京都商工銀行に重力式温水暖房が設置される
参考:
・Ernst Körting(1842–1921) https://www.deutsche-biographie.de/pnd118713523.html#ndbcontent
・about us Körting(En.) https://www.koerting.de/en/about-us.html
・辻原万規彦 住環境調整工学「暖房の歴史」 熊本大学講義資料2001.5.18
関西の紡績工場との比較
内部の次は外的な環境を見てみよう。第一絹糸紡績の設立と、同時期に設立された関西の紡績工場と比較し、共通点と相違点を確認してみよう。まず技師に関して。尼崎、摂津、平野の関西の三つの紡績会社を兼任する技師の菊池恭三と、廣田は年も境遇も近い。菊池は1885(明治18)年に廣田と同じ工部大学を卒業し、横須賀造船所計画部に就職し、次に大蔵省大阪造幣局に転じ、さらに工部大学の同期に誘われ、廣田の工部大学卒業年と同じ1887(明治20)年に平野紡績の技術者として招聘される。廣田の言う当時の就職ルートとほぼ同じだ。菊池は、紡績技術習得と紡機購入のため英国に留学し、お雇い外国人に頼らず、1889(明治22)年に尼崎で紡績工場を立ち上げた。
尼崎紡績に工務支配人兼技師長として迎えられた恭三は、第1工場の設計から稼働まで全てについて一任された。三井物産を通してプラット社から輸入された紡機の、据え付けから試運転まで、外国人技術者の手を借りることなく行われた。恭三は日本人技術者による紡機の設置、運転の第一号となった。
また、第一絹糸紡績の特徴の一つに電灯があげられる。
○第一絹糸紡績 同府丸太町鴨川東々竹屋町ニアリ。本年六月二十三日開業セリ。煉化石造リノ美麗タル工場ニテ場中ニハ電氣燈ノ設ケアリ。同所ハ屑まゆヲ以テ絹糸ニ仕上ゲルト云フ。又場内ノ人隅ニ瓦斯製造所アリ。然レモ之ハ照明用ニアラズ。糸ノ毛立チタルヲ瓦斯焼シヲ除去スルニ使ユルモノナリ。
1893(明治26)年9月3日の日出新聞には、奠都千百年祭の紀念祭典で建てられた平安神宮大極殿の地鎮祭に関連し、第一絹糸紡績が電気仕掛けの大文字を作ったとある。
▲電気大文字 第一絹糸紡績会社は西のダムの所に長七間巾六間の大文字を作り電気仕掛けにて点灯するよし
「西のダム」とは疏水の夷川船溜とみられる。平安神宮はここから東へ歩いて10分ほどの近所だ。同文献に「昨夜地鎮祭式場近傍の夜景中最も目立ちし燈火は第一絹糸紡績会社の堤燈」とある。
この時代の京都の灯、ガス灯と電灯の普及具合を小説から追ってみよう。電灯が京都帝国大学の寄宿舎に灯るのは、この7年先の1899(明治32)年のことである。
三十二年には、舎内にも電灯がついて、蛮カラの舎生もまばゆいばかりの文化の恩恵を受けることになった。
今の熊野寮のすぐ西側の仲小路で1908(明治41)年に生まれ、京都一中、旧制三高、京都帝国大学医学部に進んだ松田道雄は、幼少期の記憶をエッセイに残している。家に電灯がついたのは1912(明治45)年だと記憶している。
仲小路の家に電灯がついたのは、妹が生まれてから四カ月あと、明治四十五年九月十三日の明治天皇の御大喪の日のタ方であった。
ガス街灯が出現したのは、その翌年1913(大正2)年のことだ。
仲小路の両端にあった街灯は、はじめは石油ランプであった。夕方になると、脚立をかついだ、顔と手を煤でまっくろにした若い男が走ってきた。脚立をたてて街灯にあかりをつけた。それが、後に庵るとしたから長い管の先に焔のついたもので点灯した。大正二年五月の日の出新聞は、市が「四月より市街各所に二立方の」ガス街灯をもうけたことを報じている。
以上から、1889(明治22)年6月の第一絹糸紡績の電灯の採用と、1893(明治26)年9月の太極殿地鎮祭での電気大文字は、まだ電灯になじみのなかった当時の大衆にとって物珍しかったことが伺える。なぜ電灯を採用したのか。他の紡績会社の資料を見よう。
1884(明治17)年、大阪府西区三軒町に出来た大阪紡績も煉瓦造りの建物で煙突がある。昼夜二交代制であり、そのために照明施設を備えていた。
新工場の開業式は全機械の設置を待って、1884年6月15日に行われた。しかし、工場の操業は1883年7月5日の工場落成とともに、設置された機器を使ってすでに始まっていた。しかも、8月からは昼夜2交替制での生産がはじまっている。夜業の照明には650基もの石油ランプを使っていた。そのため紡機から発生する綿塵によって、常に発火の危険があった。そこで、米国のエジソン電気会社に発電機を発注し、1886年9月には夜業用の電灯が点された。これが民間自家発電の草分けとなった。この電灯設置の話題は瞬く間に広がり、住民から見学の申し入れが相次いだ。大阪紡績は3日間だけ公開日を設けたが、この間に5−6万人もの見学者がきたという。 さて、大阪紡績が開業式を待たず昼夜2交替で操業を始めたのは、株主への配慮があった。同社は1880年10月に資本金で会社設立を発起し、株式の募集を始めていた。政府の保護により設立された紡績工場の成績不振が明らかとなるなかで、新会社の操業まで3年間も待っていた株主のためにも、当初から利益を出す必要があった。
大阪紡績の資料から類推するに、第一絹糸紡績でも株主への配慮から昼夜二交代が推進され、かつ綿塵環境下でも火災の恐れが少ない電灯がガス灯よりも採用されたと考えられる。
また、同社の職工男五十人、女百二十人にして当分の所にてはまず昼だけの就職なるも、遠からず夜業をもなすべきの見込にて追々盛業を期する心算なりと云えり
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後述するが、製品を無事に出荷できるまで1年を必要とする。立ち上がったばかりで不良品が多く品質が低い工場において、いきなり昼夜二交代を進めるのは無謀であり、大阪紡績と同様、株主向けアピールの面があるとみられる。
また、琵琶湖疏水より先に完成した工場だが、1901(明治34)年11月の調査によると琵琶湖疏水の水力発電所の電力を使っていた。得られる2252馬力の内、第一絹糸紡績は動力と電灯にそれぞれ145馬力と20馬力を用いている。白色灯(50~60ワット)十個分を1馬力として、2個分にあたるらしい。ちなみに正確には1馬力=736ワットである。
廣田の師匠の谷口貞直も紡績業に貢献しており、第一絹糸紡績とほぼ同時期の1889(明治22)年に操業を開始した鐘淵紡績(後のカネボウ)の技術的立ち上げに貢献した。廣田の赴任時には既に谷口が紡績機を発注している。この頃、紡績機の輸入には12ヵ月もかかっていたため、谷口の発注後に廣田の赴任が決定したのかもしれない。他の技師は留学して現場と装置を見て技術を学び、買い付けている者が多いが、廣田はそれもなく上州新町で伝習したのち、いきなり現場投入だったので苦労したかもしれない。
この時代、お雇い外国人の採用から、留学による技術屋の育成へと、技術の国産化を徐々に進めていたといえる。
参考:
・植村正治「1880 年代東京大学理学部における機械工学教育」 社会科学 第50巻第2号 研究ノート p. 155
・「京都市疏水事業中電燈に関する次項調査報告書(明治三十四年十一月)」紫草遺稿 坤 芝川又三郎 著, 津枝謹爾 編 芝川得々 1934年 p. 371
廣田の建てた煙突の姿
第一絹糸紡績の南にある琵琶湖疏水夷川ダム(夷川船溜とも)での竣工式開催は1890(明治23)年4月9日であり、その建築時に工事の記録を残した画家によって、琵琶湖疏水図誌にこの工場の姿もスケッチが残されている。

「聖護院紡績工場」とあるが、第一絹糸紡績の工場とみられる。前掲した日本鉱業会誌の写真とも近い角度のスケッチだ。右側の林は熊野神社及びその南にあった準提堂とみられる。別角度からのスケッチもある。

こちらは妙傳寺が左、熊野神社の林が右に見えるので琵琶湖疏水工事前の、南東方向からのスケッチとみられる。写真と同じ形であり、明治末ごろに石井行昌の撮影した写真のも黒煙を吐く煙突が見える。

南東の都ホテルから撮影された写真もある。

1929(昭和4)年時点での、医学部の建物から撮影された煙突形状を確認できる。写真左側の煙突がそれだ。

熊野寮設計相談役だった西山夘三も、1935(昭和10)年に川原町三条から撮影した写真の中に煙突が見える。

この煙突は建屋の姿を大きく変えた、戦時戦後の新日国工業株式会社の工場でもそれらしい姿を確認出来る。

国土地理院 地図・空中写真サービス
この煙突が廣田が第一絹糸紡績設立時に作ったものと同じか確かめるため、高さを検討してみよう。まず、時刻と影の角度から計算できるか、空中写真の撮影時刻を調査したが、残念ながら見当たらなかった。そこで、同じ空中写真にあるほかの建物の高さと、それぞれの影長さの比から煙突高さを概算してみる。高さが既知な近所の建造物として、本部構内の時計台がある。

国土地理院 地図・空中写真サービス
京都帝国大学の時計台
時計台の高さは 約 30 m だ。同じ時刻に撮影された写真なので、煙突も時計台も影は北西方向に伸びている。影の長さの比から、新日国工業の煙突高さは約 42 m と概算できる。廣田のいう120尺(約36 m )とピッタリではないが、まあまあ一致している。
以上から、明治時代に廣田が建てた煙突は戦後までそびえたち続けていたようだ。後にこの敷地に出来る、京大教育学部熊野校舎の完成まで取り壊されなかったと考えられる。
英国人据付技師ビンス
1887(明治20)年京都の第一絹糸紡績の立ち上げでは、英国人のお雇い外国人が1名いた。
技師ハ工学士廣田理太郎氏、ホカニ雇外国人壱名アリ
前述した、第一絹糸紡績開業を伝える日出新聞の記事にはこうある。
その据付機械は悉皆英国より取寄せ、また同国のヒートンビシス氏を雇聘して機械万般の事を掌らしめ、之に依って以って将来大いに期する所あらんとするの計画なり
句読点と仮名遣いは現代ぽく修正した
松木貞夫の小説にもほぼ同じ記載があり、日出新聞の記事を参照にしたとみられる。
正式の会社名は、第一絹糸紡績といった。資本金二十万円、会社の敷地面積は三千五百余坪、据付機械はイギリスから取り寄せられて、機械と共に技師ヒートンビシスも招かれた。
技師の廣田理太郎は、このお雇い外国人の通訳をしていた。
而て明治二十一、二年に亘りて同社工場の建築と機械の据付を擔任して、英国人ビンス氏の通弁をしながら絹糸紡績の術を会得した。
日本鉱業会誌 No. 547 昭和7年7月 雑録 p. 747
句読点と仮名遣いは現代ぽく修正した
文中にある英国人ビンス氏が、日出新聞にも記載のあるヒートンビシスと同一人物とみられる。日出新聞は廣田の名前を間違って報じていたので、通訳をしていた廣田記載のビンスという名前の方が信ぴょう性がある。
ここで、1882(明治15)年の大阪紡績設立時は、英国プラット(Platt Brothers)社ミュール精紡機の設置が同社からの派遣技術者ニードルによって行われた。第一絹糸紡績でも据付機械を英国から取り寄せたので、英国から技術者を派遣したと思われる。こうした据付け専門技師をFitterという。
ここで、ヒートンビンスのつづりを仮定して検索すると、紡績会社の英国人技師 Heaton Binns なる人物を見つけた。イギリスの国勢調査から家系図をまとめたサイトによると、1828年頃にHaworth村で4兄弟の長男として生まれ、1861年の33歳の時点でリーズでmechanic fitter、つまり機械据え付け技師を生業にしている。 1871年、45歳の頃にもリーズ郊外で machine maker、つまり機械関係の仕事をしている。
また、同名の技術者にあてた手紙がある。1878年1月10日、Heaton Binns はインドのボンベイ(今のムンバイ)でSassoon Silk Manufacturing Co. という会社の経営者を勤めており、機械の工場での稼働前から入社し、その献身的な絹糸製造の管理監督の努力に対して株主から感謝されている。

Bombay 10th January 1878
H Binns Esq
Manager, Safsoon Silk Manufactg Co
Dear Sir,
We regret very much that your connection with our Mill has ceased from last month, and we take this opportunity of testifying to your Skill and energy with which you discharged your very responsible and onorous duties. You joined the Mill before any machinery was up which by your Sole exertions were put into the working order in which it now is, and have thus contributed to the success of an enterprise which is the First of its kind in India. Your tact in the Management of the Mill operativesand work-people whom you taught the different processesin the Manufacture of Silk has been invaluable, and we have as the representativesof Shareholders, to express our thanks for the important Services rendered by you.
With the best wishes for your prosperity.
We remain
Dear Sir
Yours faithfully,
Panalal Pooranchund Jowhe
この社名とほぼ同じ会社がボンベイにあり、Sassoon & Alliance Silk Mill Co. Ltd. という。デイヴィッド・サスーン商会の関連企業であり、1883年に同名のユダヤ人がインドで絹織物製造業に進出したものだ。香港、広東、中国北部に広大な土地を持っており、要出典だがカルカッタ-香港間および上海-日本間を結ぶ国際航路のアプカーラインの代理店も務めていた。この貿易会社はボンベイで生まれ、ロンドンに本店があった。1840年代以降は世界中に支店を持ち、インドだけでなく広東、上海、長崎、神戸、横浜にもあった。なぜこれほど世界中に影響力を持っていたかというと、三角貿易とアヘン戦争勝利による英国の中国進出において、サスーン商会は国際貿易商の役目を担ったからだ。つまり、財閥にまで発展したアヘン戦争の勝利の証だ。
京都の第一絹糸紡績の据付技師ビンスが上記と同一人物であれば、設立の1887(明治20)年にビンスは約60歳と熟練技師であった。それも、インドで絹糸製造工場立ち上げも経験している。
ビンスは1890(明治23)年6月に解雇された。当時の日本の紡績会社は工場の運転が軌道に乗ると、据付け専門技師に対しそれ以上の協力は工場から仰がなかった。第一絹糸紡績の製品初出荷は1890(明治23)年7月と、冒頭の開業式から約1年で軌道に乗り、据付技師は役目を果たした時期だ。不況も重なり、一般的に高給な派遣外国人は雇用の必要性がなくなったとみえる。
ビンスの記録に戻ると、1881年にはヨークシャーに住み、1891年には60歳でsilk spinning mill(絹糸紡績工場)の経営者となり、1919年にブラッドフォードにおいて91歳で亡くなった。残念ながら、1886年頃~1890年頃に来日した直接の記録は見つからなった。また、イギリスとボンベイと京都のヒートンビンスがすべて同一人物であることを積極的に示す証拠はない。だが、今後インドやイギリスなどから彼の資料が見つかることを願う。また、西川誠光堂の小説には、ハルが自転車に乗った同志社の外国人講師を物珍しがる様子を描いており、当時の京都の人々の印象に残っているなら、何かしら記録が発掘されるかもしれない。
参考:
・山崎 泰央 紡績業の発展を支えた技術企業家 ―山辺丈夫と菊池恭三― (日本の企業家活動シリーズ No.57) 2012/10/15 No. 137 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター p. 6
・清川雪彦「日本綿紡績業におけるリング紡機の採用をめぐって-技術選択の視点より-」 経済研究 36(3) 1985年 p. 214
・Testimonial Heaton Binns silk mill India
三年目のストライキ
お雇い外国人のビンス氏は、その解雇がストライキの遠因になる。当時は紛紜と記載されている。
第一絹糸では、創業三年後の九一年二月には、早くもストライキが起っている。原因は初期の紡績会社にありがちな幹部の横暴である。
引用されている日出新聞明治24年2月25日の記事によると
〔第一絹糸紡績紛紜の詳報〕同社に雇入れありたる外国人ビンス氏は、自から発明に係る製方を以って同社の事業をなし居りたるも、内国の需要に不適当なるを以って、昨年六月限り右ビンス氏を解雇するに至りが、元来ビンス氏は同社工場一般を取締り居りたるが、ビンス氏解雇後は、広田技師工場取締人となりて、部長及び部長心得なるもの男女合して十四、五人あり。其部長か部長心得のものかにて、入社以来重役に対し、佞弁を以って巧みに取入り、重役の信用を厚くするに至りしより、其者の権威益々高く、数百の男女職工は其者を恐るる事甚だしきを付け込み、女工の内にても容貌能きものには甘き言葉を用い、遂に猥褻ケ間敷行いさへあるに至りしより、昨冬に至りて職工中大に激高し、重役に向つて不平をならし、何分の処置あらんことを請求すると雖も、何分重役の信頼厚きものもの事なれば、却って右の請求を為したるものを退社せしむる如き傾きありて、為めに職工に於ても密かに重役の誤信甚だしきを嘆ち居たりしが、本年春以降は其のものの権力ますます強く、いつの程にか工場取締の任に当り居るが如きに不快を感じ、部長渡辺亀之助、部長心得中原孫三郎、大坊研寿、鳩原喜朗、矢野彦助の四名は、さる十一日を以て辞職し、広田技師は東京へ出発したる為めに、職工を指揮監督する人物を失ひたるを以って、十一日以降就職する能はず、合計三百五十六名の職工に一時休業を命じたり。
まとめると、国内需要に合わないことを理由に、1890(明治23)年7月にビンスが解雇される。すると、広田技師なる人物が工場取締になる。一部の部長らが重役に取り入って横暴にふるまい、美人の女工にも猥褻がましい行いをしたので、冬には職工たちが怒って重役にチクった。それでマシになるかと思えば、むしろチクった職工が退社になり、ますます工場取締のごとき横暴をはたらくので、部長と部長心得の四名が2月11日に辞職した、とある。日出新聞の続報によると、会社が部長心得の清家趙九郎なる人物を復職させたことに対して、機関主西川定蔵と職工奥西細二郎をはじめ60名で重役に理由を問いただす。しかし、重役はそちらが引けと職工たちに当たる。対して、職工らは「私情でなく会社の利益を思っての行動なのに、会社が清家をかばうなら出社しない」と抗議の意を示し、3月23日には二条新地新北斗町に集会所を設けて同盟を組み、31名の辞職書を提出する。同盟の中から清家氏に味方するものが現れると、同盟の人々は内通者を使うとは卑怯だ、とますます激怒し、上京警察署の巡査が介入して談判する。しかし、騒ぎは広がり会社は職工69名の解雇と新職工募集を決定する。3月25日の夜には四斗樽を打ち抜いて鯨飲し大声を出す騒ぎになる。4月8日の報道では、会社は29日以来休業し、辞職者は採用せず、職工らを新規募集し、10日には事業を再開した。当分は昼間のみの事業とする。休業中の損失は大きく、一日百円程度を見込んでいる、とのこと。
広田技師、旧字体なら廣田ってあの煙突を建てた廣田理一郎のこと?日出新聞の報道曰く1891(明治24)年春以降に「東京へ出発したる」ため工場をまとめる人物がいなくなったため休業になったと読める。一時的な出張などではなく、離職を指すとみられる。
いっぽう、別の資料によると廣田理一郎は第一絹糸の技師を1891(明治24)年に第一絹糸紡績を退職し、石川県の鉱山技師になった。本人曰く退職理由は
明治二十四年に紡績界も不況となって、高給の技師は厄介物となった様子である。之は何とかせずばなるまいと先輩にも御願いをした。
昭和7年7月 雑録 p. 747
句読点と仮名遣いは現代ぽく修正した
とあり、不況が影響が退職の理由としている。1890(明治23)年から続いていた不況は、明治23年恐慌と呼ばれ、その数年前からあった投機的な企業設立ブームの崩壊だった。鐘淵紡績をはじめ、第一絹糸紡績の誕生と同時期に日本中で紡績会社が生まれたのもこの流れとみられ、ビンスの解雇の時期とも重なる。また、廣田は退職した1891(明治24)年の4月に感謝状を第一絹糸紡績から贈呈されている。退職した年がストライキを報じる日出新聞の記事と一致しており、同一人物の可能性は高い。第一絹糸紡績側も、警察まで来たのだから、何かしら記録を残していることを願う。
ちなみに、清家趙九郎なる人物は明治前期に岡山県高梁市の上房中学に図画教師として同名があるが、さすがに別人かな・・?
参考:
・廣田理太郎関係資料について 前島正裕 国立科学博物館理工学研究部 Bull. Natl. Mus. Nat. Sci., Ser. E, 43, pp. 21–30, December 25, 2020
・京都百年 毎日新聞社 1968年 p. 130 第三編明治中期「楼度運動の芽生え」
酷薄極まる労働環境
経営者や技師だけでなく、第一絹糸紡で働いていた人々からの視点を追ってみよう。西川誠光堂の小説から、第一絹糸紡績には通称「合宿所」と云われる寄宿舎と食堂があり、昼休みには鐘の音が響いていた描写がある。
社宅の裏に廻ると、工場で働く工員たちの寝とまりする通称「合宿所」の食堂があって、昼の十二時になると、粗末な食事に似合わない優雅な合図の鐘の音が響いていた。そして工場は、昼夜のわけ隔てなく稼働していた。
1891年(明治24)3月には部長の横暴に対するストが記録されている。ビン ス氏解雇からの一連のストだ。1896(明治29)年に、北の囲いを乗り越えて三名の女工が逃亡したところ巡査に捕えられた。曰く「最初の約束と違い日々粗食を給せられ、到底辛抱出来ざれば、密かに国元へ逃げ帰らん」としたものだ。1897(明治30)年8月に赤痢が発生する。8月13日までに65名が自然休業となり、工女156名が罹患し、うち14名が死亡している。女工の監禁制縛事件や、同社工女の食費は一日6銭5厘と定めであるが随分苦情が多いとのこと。

さらなる詳細は労働運動史にあり、内容は1897(明治30)年当時の日の出新聞からの転載だ。8月に赤痢患者が続出して周囲は交通遮断するも、役員は衛生に係るコストに文句を言う。寄宿舎はいうまでもなく不潔で風通しが悪く、堪えがたい悪臭があり虫の巣窟になっている。自費負担一日七銭の食堂は利益優先で安い米と香の物と腐った食べ物をだす。飲料水は最も気を付けないといけないし、労働時間は長く洗濯の時間もない。いっぽう、重役は衛生環境に少しも注意を払わない、とボロカスだ。消毒予防する警官にすら費用がかさむと重役が愚痴り、警官もあきれた(日出新聞 明治30年8月8日、15-21日、23-24日、9月2日)とある。
この年の10月には、時事新報特派員牛山才次郎が「工場巡視記」其十一に内情を報じている。前半は巡視時の印象と会社の言い分を、後半は近隣で噂を聞き込んだようだ。食堂での食事は朝は味噌汁、昼は菜と汁、夕食は昼と同じ。休業日には生魚か干魚を馳走するとあり、当時としては普通らしい。絹くず粉の排泄装置、汽缶の構造と取り扱い、消防具もあり、夜には電灯がつく。労働時間は朝6時から正午まで、0時40分から午後5時30分までの1日11時間で、夜業も同じ。ただし、夜業は一週間交代だ。賃金は就業生は12銭、普通職工は14銭以上、だしこれは3年前と比べるとかなり低い。食事時間も十分。田舎の工女は悪習があり働きぶりが鈍いとあり、工場に入ることは垢で汚れた服だったものが、お国へ帰る際は令嬢と見まごう服で数十円から数百円持って帰るという。教育は筆算を教えようとしたが希望者が無く、僧侶の談話に切り替え、これも希望者がないので茶菓子をふるまったら大いに増加した。服装は職服を着る。一か月の皆勤で日給1.5日分、三か月で2日分など出来高、純益金割合と賞与もあるという。一見すると役員は労働者に親切で、職工は役員に敬礼し、巡視中は誰も声を発さず厳粛勝な雰囲気だったという。
しかし、記者が風評を周囲に聞くと、粗食で虐待は多く、事故で退所する際は雇い入れ時の旅費を会社が請求するので旅費がなくなり、お国の葬式に間に合わず恨んでいる者もいるという。役員に衛生の思想がない点を記者は非難している。
女工の監禁制縛事件の内情は、寄宿舎内で盗難の疑いをかけられ白状したので、以前あった時計盗難も犯人だろうと5人で4時間にわたり監禁し、拷問で白状させ川端署に知られるところになった、とある。記事内では、女工や職工を見下している様子も見て取れる。
より時代が下った鐘淵紡績上京工場の時代は、寄宿舎や福利厚生に力を入れていたこと別の記事に記載したい。
参考までに同時代、松田道雄は叔父の今村捷二が小学校を卒業後に働いていた名古屋の陶器工場の事を記している。大部屋雑魚寝朝四時半起きで毎朝支店長を整列して迎えていた。
休日はなかった。十三歳の少年に、一日二食で、睡眠も五、六時間しかさせずにはたらかせるのは、あらい人つかいだ。だが、つかうほうの人間からすると、当時はそれが常識だった。
女子の年少者の夜業禁止をさだめた工場法が議会に提出されたのは明治四十三年だった。それも綿紡績業者の反対で政府はひっこめてしまった。翌四十四年に修正してやっと議会を通った。しかし徹夜の就業禁止には、工場法施行後十五年の猶予期間をみとめられた。
工場法の施行規制なるものができて、実際に工場法が効力を発するのは大正五年からだった。それだから、明治四十二年に、十四歳の叔父が、二食で十六時間はたらかされても、まったく合法的な労働であった。
九カ月耐えた叔父は、骨と皮だけになって京都に逃げてきた。
同文献には、京都を走っていた市電も、夜は告知人という提灯を持った少年が電車の先を走って「電車がきまっせ、あぶのおまっせ」といって走る仕事があった。弱者を守る法律は、こうして虐げられてきた歴史から生まれた。
時代は下って1895(明治28)年に京都で行われた第四回内国勧業博覧会では有功一等賞を得る。

ここで、山本茂実のノンフィクション「ああ野麦峠」を紹介したい。は明治30~40年代の諏訪の紡績工場で働く女工たちに綿密に取材にしており、時代と場所は異なるが当時の雰囲気を克明に伝えている。皇族のご高覧にあずかる工場経営者たちと、同日自殺した工女の死体が水車に引っかかった様子、また工女たちは恨み節を歌にしつつ働き、その結果できた綿糸や生糸で得た外貨を戦艦購入に充てる政府といった、社会の両極端を交互に描画し、二極化した世界を痛烈に批判している。第一絹糸紡績でも歌われた女工小唄があったかもしれない。
さらに言うと、「あゝ野麦峠」では工場経営者らも暴れ馬のような絹糸相場や、詐欺師同然の横浜の外国人買付業者らに翻弄され、生き残るのに必死だった様子が描かれ、金持ち経営者対貧乏労働者という単純な二項対立でなかったことがわかる。工女達への綿密かつ膨大な取材によって浮かび上がる物語は目を見張るものがある。オススメ。
参考:
・石月静恵ほか「京都近代女性史年表」愛知女子短期大学研究紀要 (25) 人文編 1992-03 p. 88
・京都府百年の資料 4 編集: 京都府立総合資料館 出版者 京都府 1972年 p. 87 七一「第一絹糸紡績会社同盟罷工」、同 p. 91 七四「第一絹糸紡績女工逃亡の件」
・京都地方労働運動史 渡部徹 編著 京都地方労働運動史編纂会 1959年 p. 28
・婦人弘道叢記 (36) 日本弘道会事務所 1897-09 p. 82
中村嘉吉郎の奮迅
上述のように、なんやかんやあって第一絹糸紡績から技師の廣田が去ったのちの、1912(大正元)年の資料から、その後の栄枯盛衰を眺めてみよう。
京都に計画した絹糸紡績の工場は、工事は大半落成を告げたが、何にせよ我が国では最初の事業である故、研究資料が一つもない。当時上州新町に農商務省の官設紡績所があった。その設備は却々完全であった所から、彼れは技師なる工学士廣田理太郎氏及び、数名の職工と共に伝習生となって、ここに日夜研究を怠らず二箇年の後ち、漸く研究の大要を了えたので、帰来彼れは教授方々機械据え付けを担当して居た、英人技師ビニスと云ふ人と協力して、明治二十三年の七月、三千錘の第一絹糸紡績は、漸く製品を出すようになったが、問屋の評判はすこぶる悪く、取引は杜絶され、為めに製品は山積し、殆ど球根の絶頂に達した。時も時、折悪しくも英人ビンスは帰国する。技師清家某は病死するという始末で、会社の前途はすこぶる暗澹たるものであったが、彼の努力はよくこの難境に堪えた。
1912-03 p. 143
句読点と仮名遣いは現代ぽく修正した
この清家という人物、ストライキ騒動の渦中にあった部長心得(次長とほぼ同じ)の一人だ。あのあと病死したのか。お雇い外国人の名前はビニスとビンスが混在しているが、おそらく正しくはビンスだ。カタカナの誤植なのか、よく名前を間違われるな、この人は。
中村は、廣田と同じく上州新町で技術習得しているが、2年もいた。別の文献には3年ともある。廣田は大学卒業後すぐに京都に赴任したので、中村のほうがながく上州新町で研鑽していた可能性がある。中村は、第一絹糸紡績の設備は海外と同一にもかかわらず製品の品質が低い理由に技術力の低さを認め、私費を投じて機械を購入して試験し、欠点を見出して改良に勤めた。もともと、工場設立の目的は丹後向き縮緬の原料生産にあったため、中村は丹後に赴いて絹績に必要なセリシンを多量に残留させる手法を発見した。1894(明治27)年7月には異例の昇進で工場次長となり、日露戦争を通して事業を復興させて1897(明治30)年には配当八割を達成し経済界を驚かせた、とある。感謝状を総代の阿部彦太郎から貰っている。

若いころ、上州新町紡績に伝習にいった話が記載されている。一緒に伝習生をした廣田理太郎は1歳差だ。
中村は第一絹糸紡績を他の紡績会社との合併を推進し、創業時のお手本だった上州新町の紡績所(この頃は新町三井紡績所)とも合併する。
明治三十五年三月第一絹糸紡績の呼びかけで不況打開協議会が開催され、大合同の提案の結果、富士紡、日本絹綿を除く六社は統合して日本錦糸紡績会社の設立となった。
さらに、1911(明治44)年には鐘淵紡績に吸収され、中村は紡績業界を去ろうとするも、専務の武藤に留意されてあえて閑職についた、とある。文章は全体的に中村に対する称揚のきらいがあるが、第一絹糸紡績の製品初出荷は1890(明治23)年7月という大事な情報がある。開業の1889(明治22)年6月から、1年近くかけてやっと安定したとみられる。
地図で見る第一絹糸紡績
第一絹糸紡績は東西172 m、南北76mという敷地広さを持っていた。
同社の総坪数は三千五百余坪にて東西九十五間、南北四十二間。その工場は東西五十五間、南北十六間なり。その据付機械の紡錘は三千錘にして、英二百号の単糸十斤を僅かに一時間にて紡ぎ得べしという。
句読点と仮名遣いは現代ぽく修正した
敷地面積3480坪のうち建屋は910坪、本社建物はすべて煉瓦造りで、事務所、製糸倉庫、原料倉庫、雑倉庫、職工詰所、同寄宿所など数棟あり、110馬力の蒸気機関もあったという。開業式の記事から、南は東竹屋町通り、北は東丸太町通りに面する。
1892(明治25)年の地図で見ると、当時の地図で見ると、熊野神社の西の通り、現在の丸太町通りの南側に建屋が見える。

現在の地図と比較しよう。

黒いで囲んだ四角が東西172 m、南北76mに相当する。現在の熊野寮敷地に、北東角のうどんやさんから南東の京大職員宿舎ディアクレストを足した区画と同程度の敷地面積だったようだ。
明治時代、こっそりここを歩いて敷地面積を測った人たちもいた。
第一絹糸の高率配当の噂が市中に流れ、紡績事業に対する投資熱がもりあがるが、日本絹糸(下京工場)の設立に対しては、第一絹糸は何とか思いとどまるよう反対したが、時勢はどうにもならず、そこで第一絹糸は警戒を厳重にして技術の外部に洩れることを防いだ。日本絹糸は新町から資料をえて、グリーン・ウッド社へ注文することができたが、工場の敷地さえ見当つかない。止むをえず。深夜竹屋町の工場の周囲を歩いて、その歩数から大凡の敷地を推定したとの話がある。
鐘紡でも田中村に工場を建設する時、滝川氏は人をやって竹屋町の工場の坪数を歩数によって推定して参考としたという苦心談が伝えられている。
第八章故事片々 三 明治時代の技術者の確保と工場建設の苦労話 p. 159
日清戦争後、投資熱の高まっていた紡績業界において、技術者確保と情報保全の競争が激しさが見て取れる。文中の竹屋町は、第一絹糸紡績のあった東竹屋町を指すとみられる。当時、第一絹糸紡績と同時期に東京で生まれた鐘淵紡績によって、第一絹糸は後に吸収合併される。文中の滝川とは、北の田中村にできる鐘淵紡績工場長だった滝川定次とみられ、後の京大総長である滝川幸辰の叔父であり育ての親でもある。
参考:
日本蚕業雑誌 (21) 日本蚕業雑誌社1889-07
ご近所さんたち
第一絹糸紡績が小説やエッセイにも登場するさい、特徴として繭を煮る独特なにおいが皆の記憶に残っているようだ。
東は明治四十四年に鐘紡に合併された絹糸紡績の大きな工場だった。工場の高くて長い塀が障壁の役をしただけでない。繭をにる異様なにおいが私たちを遠ざけた。
松田道夫の幼少期の思い出を描いた上記エッセイに出てくる繭を煮るにおいは、西川誠光堂の小説にも記載がある。
風の吹き具合で、異様なにおいが鼻孔を刺戟するが、それは、絹糸会社の高い塀からあふれ流れてくる繭をにるにおいである。
参考文献に、上記松田道雄のエッセイがあり、その描写を下敷きにしたと思われる。
躰の弱かったハルは、床の中で鐘の音を聞くこともあったし、繭を煮るような鼻を突く臭いをかがされることもあった。
この繭を煮るにおいに関して、たんぱく質を煮る独特の香りだと紡績業の資料によく見かける。この煮る工程、第一絹糸紡績の技術部担当の工場長である、中村嘉吉郎が1901(明治34)年に特許を得た「蚕繭解舒液」が混じっていたと思われる。負野薫玉堂の納屋で開発された。
この液は醗醗酵精錬上、蚕蛹中のある成分が、蛹油のアンモニア石けん溶液の中のセリシンと相まって作用して蛍石光菌を発生し、絹に最も有害な枯草菌を死滅させ、しかも、摂氏八十~九十度の高温になってもなお盛んに発育をつづけてセリシンを加水分解を起こさせるという特徴をもっていた。
京都帝国大学理工科大学教授の吉田彦六博士の指導を仰ぎ、グリセリンやアンモニアを加えて効果を発展させたとある。
同様に、小野茂平によって新しい絹錬用石けん「美也精錬剤」が1909(明治42)年の夏に発明され、東竹屋町の第一絹糸紡績の工場でも用いられた。後の、第一薬品工業の創立に関わってくる製品だ。ハルや松田が嗅いだにおいにこれも含まれているかもしれない。
第一絹糸も、時代の流れにはさからうことができなかった。
吉之助が恩義を感じるような人たちも、日を追って会社をやめていった。転職の時期が来たと吉之助は悟った。
「わしは会社を辞める」
会社から戻って来た吉之助が、帳場のかたわらにある虎バサミに座りながら、静かに言った。
まとめ
第一絹糸紡績が設立され、合併し絹糸紡績になるまでを追ってみた。
経営面では、丹後縮緬原料生産のため、官営工場を模範として縮緬問屋の起こした工場だったが日清戦争後の起業バブルから一転、明治20年代後半には恐慌のあおりを労働者が食らっていた。旗振り役として初期に模範としていた新町紡績所も含めて合併再編を進め、日露戦争で需要を獲得して復活した。
技術面では、煉瓦造りの建物を建てた建築家、煙突と暖房導入した技師、英国人据付技師、薬液を開発した技師などが活躍していた。特に、英国人技師ヒートンビンスはインドでも絹糸紡績立ち上げにかかわっていた可能性がある。
労働面では、開業から3年でストライキや労働争議があった。経営者や技師たちの残す栄光にあふれた資料だけからは見えない、劣悪な環境にあった労働者たちの闘いがあった。
地元からすると、煉瓦作りは物珍しいが、開業式で乱闘するし、いつも繭を煮る変なにおいはするし、夜も明るく動いているし、電灯で大文字を作る気概はあるが労働者の食事や衛生面に重役が気を使わないので逃亡者が出るし、最新技術を労働者の幸せでなく投資家向け広報にかけるような、どちらかというと微妙な存在だったのかもしれない。
熊野寮に住む学生さんは、敷地内で煉瓦を見つけたらひょっとしたら第一絹糸紡績の名残かもしれないので、じっくり観察してみよう。
・1880(明治13)年 縮緬問屋稲垣藤兵衛が紡績事業を企画
・1887(明治20)年2月 同志者二十有余名が協賛
・1887(明治20)年 廣田理太郎、第一絹糸紡績技師となる
・1887(明治20)年6月20日 開業式前に乱闘
・1887(明治20)年6月23日 第一絹糸紡績、開業式
・1890(明治23)年7月 製品初出荷
・1890(明治23)年6月 英国人据付技師ヒートンビンス氏解雇
・1891(明治24)年 廣田理一郎、第一絹糸紡績技師を辞す
・1891(明治24)年2月 ストライキにより職工69名が解雇
・1893(明治26)年9月 平安神宮大極殿の地鎮祭で電気大文字を披露
・1894(明治27)年7月 中村嘉吉郎、工場長に
・1895(明治28)年4~7月、第四回内国勧業博覧会で有功一等賞受賞
・1896(明治29)年8月4日 女工3名が北の塀から脱走
・1897(明治30)年8月 工女156名が赤痢に罹患し、うち14名が死亡
・1897(明治30)年10月 時事新報特派員牛山才次郎巡視
・1897(明治30)年12月 職工監禁制縛事件
・1901(明治34)年 中村嘉吉郎が「蚕繭解舒液」特許獲得
・1902(明治35)年、第一絹糸紡績は6社と合併し絹糸紡績会社に
・1909(明治42)年夏 小野茂平開発の絹錬用石けん「美也精錬剤」販売
・1909(明治42)年9月 鈴鹿弥惣吉、京都日出新聞が募集した建築十傑筆頭に選ばれる
過去一長い文章になった。ここまで読んでくれてありがとうにゅう。
追記(2024/8/23)
昭和9年の電気雑誌OHMには高田商会の廣田氏が50Hzの発電機を輸入したとある。この廣田氏が廣田理太郎その人なら、日本の東西で60Hzと50Hzに電気の周波数が分かれたインフラに関する重大事案に関わっていたかもしれない。

