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【聖なる経済学】 私の分が増えればあなたの分も増える

訳者コメント:
財産がお金ではなく、米や鶏であったなら、必要以上に貯め込んで独占することは無意味であり、分かち合うのが合理的な判断です。しかし、お金にプラスの金利が付いているので、お金は価値の貯蔵としての機能を帯び、これが搾取と貧富の格差を生み出します。物と同様に朽ちていくマイナス金利の貨幣制度なら、過去の借金の倍返しを永遠に要求するような酷いことは無くなり、過去を赦して前へ進むことができるようになるのです。


私の分が増えればあなたの分も増える

〈自由貨幣〉の導入により、貨幣は雨傘のような存在に成り下がり、友人や知人は金銭の貸し借りを当然のように助け合う。誰も貨幣を保管したり貯金したりできないが、それは貨幣が流通するよう強制されているからだ。しかし誰も貯金することができないのだから、貯金そのものが不要となる。貨幣の循環は日常的で絶え間ないものだからだ。
――シルヴィオ・ゲゼル

現代経済学において「普遍的な手段」と「普遍的な目的」に相当するのは、「交換の手段」と「価値の貯蔵」です。マイナス金利の影響を理解する一つの見方は、これら二つの機能をマイナス金利が切り離すことです。これは根本的な変化です。ほとんどの経済学者は、交換手段と価値貯蔵を貨幣の決定的な機能とみなしています。しかし、これら二つの機能を一つの物に統合すると問題を招きます。なぜなら、交換手段は役立つために流通する必要があるのに対し、価値貯蔵は流通から遠ざけされ保管されるからです。この矛盾は何世紀以上にもわたって、個人の富と社会の富の間に緊張を生み出してきました。

個人の富と社会の富の間の緊張が映し出しているのは、現代において支配的となっている原子論的な〔社会は個人の集合体に過ぎないという〕自己観念です。したがって、この緊張を解消する貨幣制度は、人間の意識に深い影響を与えるに違いありません。第1章で私は次のように書きました。「現代のお金は『私の分が増えれば、あなたの分は減る』という原理を具体化しますが、贈与ギフト経済では、あなたの取り分が多ければ私の取り分も多くなります。それは、持てる者が必要とする者に与えるからです。贈り物が深めてくれる神秘的な認識があります。それは、自分が加わっている存在は、自己を超えた大いなるものでありながら、自己とは別のものではないという認識です。自己が他者の何かを含むまでに拡大したので、合理的な自己利益という原理が変化するのです。」私たちは貨幣に贈与ギフトと同じ性質を与えることができるでしょうか。

自由貨幣を基にした経済において、富の意味は現代とは全く異なり、実際には原始的な贈与社会における富とほぼ同じ性質を帯びます。狩猟採集社会では一般的に遊牧生活を送っていましたが、所有物は文字通りの重荷でした。貨幣以外のあらゆるものが今日抱える「キャリーコスト〔保有のコスト〕」は、紛れもなく現実のものでした。定住型の農耕社会においても、牛や貯蔵した穀物といった所有物は、確かに皆が欲しがるものではありましたが、安全安心をもたらしたのは、むしろ贈与と受領という豊かな社会関係の網の中に身を置くことの方でした。穀物は腐るかもしれませんし、牛は死ぬかもしれませんが、コミュニティに惜しみなく富を分け与えていれば、恐れることはほとんどないのです。

マイナス金利貨幣は、狩猟採集民の経済観念を復活させます。現代の制度では、10人に100ドルずつ貸してあるよりも、1000ドル持っている方がはるかに良いでしょう。しかし、マイナス金利の制度では、今すぐお金を使う必要がない限り、その逆が本当になります。お金は時間とともに価値が下がるので、使っていないお金があれば、喜んで貸します。それは、食べきれないほどのパンを持っているのと同じです。将来お金が必要になったら、自分の人脈の中で即座の必要以上にお金を持っている人を見つけて、借りたお金を返してもらうか、新しく借りを作ることができます。同じように、原始時代の狩猟民が大きな動物を仕留めたとき、肉の大部分を親族関係、個人的な愛情、必要性に応じて分け与えたでしょう。減価するお金と同じように、多くの人に「借りがある」方が、腐りかけの肉の山や、運搬や保管が必要な干し肉の山を抱えるよりも、はるかに良いことでした。あなたが示す寛大さと同じくらいの寛大さを、コミュニティが与えてくれているのに、なぜそんなことをしたいと思うでしょうか。安全安心は分かち合いから生まれます。隣人の幸運はあなた自身の幸運でもあります。棚からぼた餅のように大きな富が転がり込んできたなら、盛大なパーティーを開くことでしょう。ピダハン族の一人が食料の貯蔵について尋ねられたとき、「私は弟の腹に肉を蓄える」と説明しました[44]。あるいは、人類学者リチャード・リーとクン族の男性、ゾマとのこのやり取りで探求されたクン族の富の概念を考えてみてください。私はゾマに尋ねました。

「カイハ(富める者)になるには何が必要なのか? 自分の小屋にカイ(数珠やその他の貴重品)の袋がたくさんあればいいのか?」
ゾマは答えた。「カイを持ったからといって、カイハになれるわけではない。誰かが沢山の品物をあちこちに動かしたなら、彼を私たちはカイハと呼ぶだろう。」
ゾマが言いたかったのは、富を構成するのは品物の数ではなく、友人の数だということのようだ。富める人は、所持品の目録ではなく取引の頻度によって評価されたのだ。[45]

マイナス金利制度における富は、太平洋岸北西部やメラネシアのモデルに似たものへと進化します。そこでは指導者が「自分の集団と他の同じような社会集団との間を往復する品物の積み替え所の役割を果たす」のです[46]。地位が結びついていたのは、金銭や財産の蓄積ではなく、むしろ寛大さを示すことへの大きな責任でした。最大の名声や権力や地位が、寛大であることに最も意欲的で能力の高い人々に与えられるような社会を、想像できるでしょうか。

古代社会では、まさにこのような状況でした。地位は寛大さによって築かれ、寛大さは感謝と義理を生み出しました。領主や王になるには、豪勢な宴会を開き、同僚や部下に惜しみなく贈り物をしなければなりませんでした。『ニーベルンゲンの歌』には、このことが特に明確に示されています。これは中世盛期せいきのドイツの大叙事詩で、はるか昔の史料が基になっています。偉大な英雄ジークフリートの未亡人クリームヒルトが、夫から相続した財宝を惜しみなく分け与え始めると、王は脅威を感じ、彼女を殺害し、財宝をライン川に投げ捨てました(私はドイツ滞在中にその財宝を探してみましたが、見つかりませんでした)。王の権威は賜物ギフトによって維持されていたのですが、誰かが王よりも大きな賜物を与え始めると、その権威は揺らぎました。

自由貨幣経済における無利子融資は、昔の贈り物ギフトに似ています。贈与ギフトには、相互の贈り物を事前に指定してはならないという原則があって、このような融資はその原則に違反しているように見えるかもしれませんが、間違いなく、これらは贈り物です。お金そのものではなく、お金の「使い途」が贈り物なのです。古代においては、贈り物によって生じる義理と期待は社会的に決定されていました。ここでも同じことが当てはまり、社会的決定は契約、合意、法律などの形をとります。これらの具体的な形の根底にある力学は同じです。つまり、必要以上のものを持っている人が、それを他の人に与えるのです。実に単純なことであり、第1章で述べた、人間が生まれ持つ寛大さの表れです。必要なのは、その寛大さを阻害するのではなく、奨励する貨幣制度だけです。人間の本性に奇跡的な変化が起こる必要はありません。私が『人類の上昇』で述べているように、

利子に基づく制度において、安全安心はお金を蓄積することによってもたらされるのに対し、デマレージの制度では、お金の生産的な通り道を持つことによってもたらされます。それはつまり、富の集積する点ではなく、富の流れの結節点になることです。言い換えるなら、「持つこと」ではなく関係に重点を置くのです。喩たとえて言うなら、そしておそらく喩えという以上に、デマレージの制度が調和するのは別の自己感覚であり、その下支えとなるのは、世界のより多くを我と我が物という枠の中に入れるよう線引きすることではなく、他者との関係を発展させ深めることなのです。言い換えるなら、それが促すのは、相互扶助や、分かち合い、富の活発な循環です。

インフレのようにマイナス金利通貨が消費をさらに刺激するのではないかと疑問に思う人もいます。経済学的には、これはデマレージ率が高すぎる場合にのみ起こり、価値の保存手段として貨幣よりも財が好まれるようになります[47]。両者は等しくあるべきです。しかし、この問題をもう少し深く調べてみましょう。私が豊かさの通貨について説明すると、人々はこう反論します。「しかし、私たちは希少性の世界に生きている。天然資源は有限であり、私たちはそれをほぼ使い果たしてしまった。問題は、私たちがそれらを無限であるかのように扱ってきたことだ」と。したがって、豊かさの態度と通貨は、私たちが最も持つべきではないものだと考える人がいるかもしれません。

この懸念に答えるには、まず、希少資源の消費を実際に制限してきたのかどうかを考えてみましょう。制限してはいないのです。お金の不足は資源の換金を加速させてきました。自然のコモンズの枯渇を招いたのは、豊かさではなく不足という意識です。競争と「自分が必要とするよりも多く」蓄積することは、資源が不足しているという認識への自然な反応です。私たちの社会の途方もない過剰消費と浪費は、貧困から生じるのです。それは、個別ばらばらの自己を苦しめる存在の欠如、利子に基づく制度におけるお金の不足、コミュニティや自然とのつながりを断たれたことから生じる関係性の貧困、そして生計を立てるためなら、どんなことでも、何でもいいから、やらなければならないという絶え間ないプレッシャーです。対照的に、豊かさの雰囲気に対する自然な反応は、寛大さと分かち合いです。これは、人間の領域の中だけでなく、その外にも及ぶ分かち合いを含みます。私たちは自然を商品に変えようと躍起になっていて、その商品は真のニーズさえ満たさない。これが不安から出たものでなければ、一体どこにその源があるのでしょうか。

考えてみてください。靴を50足も買うのは、不足感か、豊かさか、一体どちらのせいでしょうか。スポーツカーを3台も買い、1万平方フィート〔約930平米〕の家を買う人は、安心でしょうか、不安でしょうか。所有したい、優越したい、支配したいという衝動はどこから来るのでしょうか。それは、敵意に満ちた、ケチな世界を生きる、孤独で貧困な自己から来るのです。

マイナス金利貨幣が具体化するのは、豊かさ、相互連結性、無常といった精神的な教えです。しかし、これらの教えは、私たちの信念、特に〈お金の物語〉を構成する一連の信念を通して作り上げてきた世界とは、相容れない真実を提示しています。新たな世界に慣れ親しむ時が来たのです。もはや蓄え、貯め込み、「持つ」ことによって豊かになろうとするのではない世界です。それは、与えることで豊かになる世界です。第6章で批判したニューエイジの「繁栄プログラミング」の教師たちは、実は重要な真実を告げているのです。豊かさの姿勢を身につけ、それを体現する世界を創造する必要が、私たちには確かにあるのです。

親愛なる読者の皆さん、考えてみてください。「お金を貸してやろう。ただし、もっと多くのお金を返してくれればの話だがな」と言うのは、本当のあなたでしょうか。生きるためにお金を必要としている時に、それは奴隷制への道ではないでしょうか。デヴィッド・グレーバーが述べているように、アフリカの奴隷貿易で取引された「人間貨物」の調達元は、主に戦争捕虜からではなく、アフリカ社会における借金の担保にされた人々でした[48]。ソロンを有名にした債務免除は、債務に縛られてた人の割合が増加しているという状況がきっかけの一つとなったことは重要な点です。今日では、若者は学生ローンに、家主は住宅ローンに、そして第三世界の国々は対外債務に縛られ、まるで奴隷のように感じています。利子は奴隷制の薄められた形です。そして、奴隷制は奴隷だけでなく奴隷所有者をも貶めるので、私たちは心の中で、そんなものを一切望んでいません。

誰かにお金を貸したとして、義務をその人に未来永劫にわたって負わせ続けるのが、果たして正しいことだと感じるでしょうか。今すぐ返済できないなら、「残念だな、後でもっと多く返済しなきゃならない、もっともっともっとだ」と言うのが、果たして正しいことだと感じるでしょうか。ローンの利息はまさにそれです。返済を迫るプレッシャーです。ゼロ金利やマイナス金利のローンには、ある種の自由が伴います。そこには生涯にわたる借金奴隷の脅威がありません[49]。マイナス金利は生まれながらの本能に相当するものです。友人にお金を貸して、彼女が返済しない場合、最終的に私は「もう忘れていいよ、いつまでもこのことであなたを苦しめたくない」と言いたくなります。古いもの、古い借金にしがみつきたくはありません。マイナス金利の貨幣制度が強化するこの健全な傾向は、私たち全員に備わっていて、手放し、過去を赦し、前に進むのです。


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注:
44. エベレット「ピダハン語における文法と認知に対する文化的制約」
45. リー『ドベ・クン』101ページ。
46. サーリンズ『石器時代の経済学』209ページ。
47. デマレージ率が高すぎると、投機的な資本投資が発生し、過剰生産能力、インフレ、そして好況と不況のサイクルを引き起こす可能性もあります。連邦準備制度理事会(FRB)や中央銀行は、現在(そう思われているの)と同じように、金利を引き上げ(デマレージ率をゼロに近づけて)、経済の過熱を抑える必要があります。将来、金利がプラスに戻ることが適切な時期もあるかもしれません。そのような時期とは、経済成長率が高い時期です。その場合、リスクフリー金利は経済成長率よりも低くなり、金利が通常引き起こす富の集中を防ぐことができます。しかし、持続不可能な天然資源の枯渇によって成長が補助されなくなり、社会資本の回復によって有償サービスの領域が縮小したなら、そのようなシナリオは起こりそうにないと思います。
48. グレーバー『負債』。
49.これは、債権者が担保を差し押さえたり、支払期日までに支払いがなされなかった債務者に対して裁判所に債権回収判決を執行させたりできないという意味ではありません。しかし、待てば待つほど、回収できる金額は少なくなるということです。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-12-negative-interest-economics/

翻訳メモ:
Pirahã:『人類の上昇』では「ピラハ族」と訳していましたが、ダニエル・エヴェレットの著書が『ピダハン』として邦訳されていますので、そちらに倣いました。
obligation:義理。

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