自己複製子のない生命
訳者コメント:
子供の頃に読んだ本で紹介されていた「ユーリー-ミラーの実験」は、原始大気を模した材料に熱と放電をランダムに作用させるとアミノ酸が出来たことで、生命の起源に迫るものだとされていました。このようにランダムな試行錯誤を膨大な回数繰り返せば、どこかで最初に自己複製子(レプリケーター)が発生したはずでした。それこそがDNAの原型であり生命の起源だというわけです。最新の分子生物学では単独で自己増殖できる分子は存在が確認されておらず、増殖は数多くの分子の共同作業であり、どこにも自己増殖の中心プログラムは存在しないことが判明したのです。
本節の終盤では、「物質的な」魂というチャールズのスピリチュアリズムが語られます。物質界とは別の魂や霊界が存在するのではなく、物質のもつ創発現象として生命や魂があるという考えを受け入るなら、精霊信仰への新たな理解が可能になるでしょう。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
6.6 自己複製子のない生命
創造神話はその文化の最も重要な信念体系を知る強力な窓となり得ます。第3章では生物学の創造神話について説明しましたが、この従来から受け入れられている物語では、自己複製する最初の分子として生命が誕生し、やがてそれが変異して進化し、現在のような多様な形態になった道のりが語られます。RNAやペプチドが「自己複製する最初の分子」の候補になりうるという憶測が飛び交う中で、見失われているのは現在そのような分子が存在しないという事実です。遺伝子やDNA、RNA配列に、単独で自己複製できるものは存在せず、そうするには他の遺伝子から多くの助けを必要とします。実際、遺伝子の増殖が必然的に伴うのは、多くの遺伝子が互いの複製のために協力しあうことです。この集団的な複製において、それぞれの遺伝子が果たす非常に限られた役割の中には、欠くことのできないものもあります。もしかすると、性ホルモン合成の要となるタンパク質を生成する指示を出しているのかもしれませんし、発生の重要な段階で細胞の分化を開始する別の遺伝子を発現させるのかもしれません。これらの機能やその他の機能は確かに遺伝子の複製に必要なものですが、それだけでは不十分です。最も単純な生物やウイルスでさえ、遺伝子がそれ自身を自律的に複製することはできません。
有糸分裂では多様な酵素とシグナル伝達タンパク質がプロセス全体に不可欠な役割を果たしていますが、各々は異なる遺伝子によってコードされ、それ自体では役に立ちません。ヘリカーゼ、ポリメラーゼ、サイクリン、CDKはそれぞれ別の遺伝子から作られ、ひとつでも欠けると有糸分裂は完全に失敗します。遺伝子がそれ自身を複製するわけではありません。最も根本的なレベルで、生殖(と生存)は協力的な営みなのです。
ではなぜ、生命発生の理論は「最初のレプリケーター(自己複製子)」の起源を説明することに最高の重要性を与えているのでしょうか? 生命がそのようには機能しないのに、なぜ私たちは自己複製できる神話上の分子を探すのでしょうか? 第3章では利己的な遺伝子という生命観を動機づけ強化する文化的偏見について述べました。明確に区切られた自己が競合する世界において、協力は偶発的なものであり、生命にとって必然的・根本的な特徴ではないという見方は、〈科学革命〉の哲学や、私たちが自らに課した分断、自然と互いからの分断に合致したものです。それは、お金や教育、医療、法律、そして宗教のシステムにも見られます。自分たちの文化を生命に投影し、それを「血みどろ」の闘争と見なし、生き残りをかけた冷酷で利己的な競争によって初めから突き動かされていたと考えます。そしてこの「利己的」な振る舞いの主体が遺伝子であり、レプリケーターなのです。
それがエレガントで簡潔な理論なので、またそれが自己と世界に対する我々の文化的概念にとてもよく合致しているので、ネオダーウィニズムの生命発生説は、解決不能ないくつかの難問があるにもかかわらず、長い間支配的なパラダイムとして存続してきました。その最たるものが、中間種の生存可能性と、それと密接に関連する〈還元不可能な複雑さ〉の問題です。組織化の段階を追うごとに標準的な進化論が直面するのは複雑さの飛躍的な増加で、それを方向性のないランダム突然変異と摺り合わせるのは困難です。そして、その答が指し示す先は、関係性によって定義された異なる自己像だけでなく、協力と競争の相対的な重要性についての異なる理解と、生命の本質について「不快で野蛮で短命」とは異なる概念と、コントロールの企てに対する異なる態度と、進歩や人間社会や人間関係に対する大きく異なる理解にも向かいます。
進化論が最初に取り組まねばならない複雑性の飛躍は、もちろん生命の起源です。この問題の原型はニワトリと卵のような状況で、DNAがその複製を触媒するためにタンパク質を必要とする一方で、タンパク質はDNAによってのみ生成されるというものでした。どちらが先だったのでしょうか? その答となり得るものが、1982年に「リボザイム」の発見によってもたらされました。このRNA分子は触媒機能と情報保存機能の両方を果たすことができ、タンパク質に頼らない「RNAワールド」の可能性を示唆するものでした。しかし、この答はニワトリと卵の問題を別の領域に押しやるだけです(次の段落で説明しますが、読み飛ばしても構いません)。こうした大きな困難にもかかわらず、「RNAワールド」の研究は、ある評論家の言葉を借りれば、それ自体で「中規模産業」を成すほどです[31]。この努力の原動力となっているのは「最初のレプリケーター」が何らかの形で存在したに違いないという確信で、その訳は、生命とは何か、自己とは何か、宇宙はどのように機能するかという私たちの観念全体が、ここに依存しているからです。それこそが個別ばらばらの自己の原型なのです。RNAワールドの理論は、「このようなことが起こったはずだ」という仮定に基づいた、非常に作為的でその場しのぎの前提条件に満ちています。
まず、β-D-リボヌクレオチドで満たされた最初の原始スープを実現するという問題があって、ジョイスとオーゲルという二人の第一線の研究者がこう書いています。「現在知られている化学反応では、生命以前の前駆体からヌクレオシドまたはヌクレオチドを合理的な収率で、しかも多量の関連分子を伴わずに直接合成することは不可能であると結論する。[32]」さらに悪いことに、仮にそのような合成ができたとしても、左旋性のL-異性体と右旋性のD-異性体を分離するもっともらしいメカニズムは存在しませんが、これが不可欠なのは、(生物界にはない)L-異性体の存在がD-異性体の重合を阻害するためです[33]。さらなる問題は、正しい3'、5'結合を持つポリヌクレオチドの合成で、何か特別な触媒がなければ、これは少数派となるでしょう[34]。第三に、複製前の重合メカニズムが仮に存在したとしても、エラーが起こりやすい複製という進化的探索メカニズムがまだないのに、自己複製を行うポリヌクレオチドを膨大な探索空間から探し出すのは困難で、またしてもニワトリと卵の問題です[35]。この難しさを少しでも分かってもらえるように例を一つ挙げると、実験室での生成に成功したRNAポリメラーゼは、RNAレプリカーゼが必要とする機能の1つだけを実行しますが、長さ3のヌクレオチド鎖しか重合できず、それ自身は100のヌクレオチドを含むので、その探索空間は4100というオーダーになることを意味します。[36]
言い換えれば、想像しうる最も単純な自己複製分子でさえ、高度に複雑な化学システムの中でしか出現し得ないのであって、このようなシステムは一般に生体システムによってのみ生成される分子を含んでいます。生命には前提として生命が必要なようです。19世紀に「自然発生」が反証されて以来、このような根本原理は私たちのあらゆる観察と一致してきました。一方、進化のどの段階においても、生命は唐突に複雑さを増してきたのであって、そのどれを説明しようとしても同じようにニワトリと卵のジレンマに陥ります。生命の起源という問題は、複雑さや秩序や組織化の起源とは何かという、より一般的な問題の特殊なケースに過ぎません。
「最初のレプリケーター」なしで生命の起源を説明しようとする理論のひとつは複雑性理論として知られています。カウフマンがその著書『秩序の起源』で説明していますが[37]、この理論は私たちの文化が持つ現在の自己観を脱却する新たな生物学的パラダイムへの重要な一歩です。カウフマンは生命の起源を説明する際、前述の「設計のない秩序」の節で述べた「無償の秩序」という概念を用います。複雑な進化する構造は、フィードバックのような特定の基本条件が存在する場合、多くの数学的、物理的、化学的システムで現れます。生命もその一つなのでしょうか?
カウフマンによる生命発生の説明の鍵は、自己触媒集合という考え方にあります。標準的な利己的遺伝子説の問題の多くは、原始スープにありそうな構成要素からそのような分子が得られる可能性が極めて低いことに起因します。カウフマンの理論では、自分自身の形成を触媒する分子が出現する必要はありません。必要なのは、分子の集合があって、各々がその集合に含まれる1つ以上の他の分子を生成する一段階を触媒することです。集合内の各分子の形成における最終段階は、集合の別の要素によって触媒されなければなりませんが、これは閉じた触媒系と呼ばれる状態です。組み合わせ論的推論に基づき、分子の多様性がある濃度閾値を超えると、自己触媒集合の出現は避けられないとは言わないまでも高い確率で起こると、カウフマンは主張します。
簡単な例として、AがBの生成を触媒し、BがCを触媒し、CがDを触媒し、DがEを触媒し、EがAを触媒する自己触媒ループを見てみましょう。一つの見方として、Aがレプリケーターであって、複製を達成するための道具としてB、C、D、Eを使うと言うこともできます。しかし、これが恣意的な言い方なのは、集合の他の要素についても同じことが言えるからです。各々が他の全ての要素に依存しているのです。

このような自己触媒ループがカウフマンの自己触媒集合の中心にありますが、話はそれよりもはるかに複雑になっていきます。想像して欲しいのは、複数のループや連鎖、ループ内のループ、それらを繋ぐ相互入力関係、抑制的な繋がり、異なる基質濃度が与えられた場合の優先反応などのシステム…、やがてその全体像は代謝や生態系のように見えてきます。レプリケーターと呼べるような明確に特定できる単位はまだ存在しませんが、私たちはこのシステム内のさまざまなサブシステムに多少恣意的な境界線を引けば、これらの部分を生きていると呼び、化学物質の一部を他のサブシステムに依存している可能性があるものの、内部環境を一定に保てると認識できます。


自己触媒集合と代謝や生態系との類似がけっして偶然でないのは間違いありません。生態学者が生物種間の相互依存関係をノードと矢印のグラフで描くと、上の写真にある極めて精緻な自己触媒集合とそっくりになります。さらに、カウフマンが指摘するように、現代の細胞はDNAやRNA、タンパク質など様々な中間生成物の全てが互いの合成に貢献する自己触媒集合です。上記の自己触媒ループと同じように、DNAが複製者でRNAやタンパク質などはその道具に過ぎないというのは勝手な解釈です。多くの遺伝子が集団的に働いてタンパク質をコードすることで自身を複製すると言う代わりに、多くのタンパク質が集団的に働いてDNA転写とRNA翻訳という化学的段階を触媒することによって自身を複製すると言ってはどうでしょう?
スチュアート・カウフマンは、起源において協力的な自己を示唆していますが、彼のモデルにはまだ微妙な分断が投影されています。細胞は本当に自己触媒的なのでしょうか?人間はどうでしょう? そうではない、と彼は言います。せいぜい言えるのは、各々が自己触媒システムとシステム内システムを含んでいるということだ。各々が自分では生成できない分子の「食物集合」を必要とする。人間は太陽光から糖分を生成することはできないし、代謝に必要な遊離分子酸素も、数多くの必須アミノ酸、脂肪酸、ビタミンも生成できない。したがって、これらの物質とその供給源は自己から除外されるのだ。
生物を定義するために自己触媒集合の一部を切り離すと、その定義には何らかの恣意性があるのが分かります。私たちは、生命の単位をその全体とすることもできますし、もっと小さな部分を選んで、人間で言えば、臓器は生きている、細胞は生きている、ミトコンドリアは生きていると言うこともできます。確かに、このどれもそれだけで生きていくことはできませんが、それは人間も同じことです。どんな生命体も、どんなレベルでも同じことです。
生命体、ひいては自己の生物学的定義にふつう用いられる概念が表現型、つまり核DNAの「発現」です。(この定義がすでに問題を含んでいるのは、DNAの発現は環境条件によって大きく異なるからです。)しかし、そうして定義された生命体は多くの場合、切り離された人間の臓器や細胞に比べて、生存能力や複製能力が高いということはありません。ほとんどの生命体は他の生命体との共生関係に完全に依存しているため、表現型の定義が妥当かどうか疑問視されています。例えば、反芻胃に細菌がいなければ牛はセルロースを消化することができず、すぐに飢えてしまうでしょう。細菌は牛の一部なのでしょうか、それとも別の生命体なのでしょうか? それとも、個別の生物が生態系の最小要素だと捉えていることに混乱の原因があるのでしょうか?
もしかしたら、最初に生物が誕生し、やがて突然変異を起こし、進化して生態系を生み出したという利己的遺伝子説とは反対に、実際には生態系が最初にあって、生物は、生態系の複雑さがあるレベルに達した後で発生した、半自律的な萌芽に過ぎないのかもしれません。もしそうなら、最初の「レプリケーター」を見つける探求は本筋ではなく、個別独立に存在するという自己の本性に関する文化的偏見の産物なのです。もし私たちの自己の境界が他の文化のようにもっと流動的で、もっと開かれ、宇宙を自己と他者に区分するような硬直的なものでなかったら、おそらく私たちはレプリケーターを見つけることにそれほど執着することはなく、別の生命発生の物語をより良く理解できたかもしれません。
カウフマンの研究が示唆するのは、競争よりも協力に基づく生命の物語です。自己触媒ループという単純な例では、一つ一つの要素が全体の生存に不可欠です。一つを取り除けばシステム全体が崩壊します。実際の生態系のように複雑なシステムはより強固なもので、Cを取り除いても、BからDへ、それがだめでもBからEへ行く他の経路ができますが、一つの要素や一つの生物種が失われると、別の喪失の連鎖が始まるのが普通で、システム全体がより単純ではあるけれど生存可能な部分集合へと崩壊します。このシステムは別の面でも協力的で、全体は部分の総和よりも大きなものです。自己触媒集合を二つに分割すると、両方とも自己触媒できなくなり、化学平衡から離れた状態を維持できなくなります。自己触媒作用、ひいては生命は、複雑性から生じる創発的な性質です。あらゆるレベルの生命は集合体なのです。
これは還元主義的論理の限界を示す、文字通り生きた例なのです。創発的な秩序を持つあらゆるシステムと同じように、〈全体〉には分析できない何かが、分解しても理解できない何かがあるのです。詩人たちが昔から知っていたのは、花を雄蕊、萼片、葯、花弁といった植物学的な特性に落とし込んでしまうと、花の何かが失われてしまうことであり、それは生命を作っている酵素、脂肪酸、DNA、タンパク質などの集合体以上のものが生命であるのと同じことです。科学のイデオロギーが長い間にわたって固持してきたのは、美や意味や愛といった高次の特性は、人間による実際には存在しない投影か、あるいは単に低次の「本当の」現象が数多く集まってできたものの総称だということでした。幸せとは、本当は何なのでしょう? それはホルモン濃度、神経伝達物質濃度、脳領域の活性度など、単にそのような状態を決定づける生化学的条件の集合に過ぎないのだ。しかし今日、還元不可能な高次の特性が存在することは数学的に証明でき、そのような現象は生命システムにも見ることができます。
でも読者の皆さん、私が「生命とは酵素や脂肪酸などの集合体以上のものだ」と言うとき、そこにもう一つ非物質的な魂という構成要素を追加して、それが肉体に宿って生気を与えるのだと言おうとしているとは思わないでください。真実はもっと驚くべきものです。私は非物質的な魂を信じませんが、私が信じているのは物質的な魂です! 魂は物質から切り離されたものではなく、物質がもつ創発的な性質なのです。一方では、その通り、物理・化学的な質量と力以上のものは存在しませんが[39]、だからといって創発的な高次の現象が本当ではないということにはなりません。魂はラングトンのアリが作るハイウェイと同じように実在します。それは実際に影響を与え、実際に物事を説明する力を持ちますが、それを探しに分解しても、そこにはありません。魂は生物の構成要素の一つなどではなく、それゆえ死の前後で肉体の重さを量ることで魂の存在を証明しようとする実験は見当違いなのです[40]。だからといって、それが現実でないということにはなりません! 幸福、意識、美、自我といった他の創発現象も同様で、そのため従来の工学やコントロールのパラダイムからは永遠に外されることになります。複雑で、非線形で、フィードバックに支配されたシステムであればどこでもそうであるように、部分に手を加えると全体に対して予期せぬ、あるいは逆の効果をもたらす可能性があって、それゆえ生態系を「管理」しようとする試みは問題なのです。
部分ではなく全体に注目するテクノロジーは、現在とは全く異なるものに、過去数世紀の科学的直観に反するものになるでしょう。治癒効果のある薬草があれば、科学はそれを化学成分に分けて「有効成分」を探すでしょう。幸福は一人の全体的な状態として説明されるのではなく、神経伝達物質濃度、ホルモン濃度、関連反応の限定された集合として分離されるはずでした。意識も同じように、脳のある部分、つまり「意識の座」の中に特定されるはずでした。土壌の肥沃度も、有限のミネラルやその他の成分の割合として還元論的に説明されるはずでした。科学は、蒸留し、精製し、主な活性成分を抽出し、滓を捨てることに基づいていました。
この目標と密接に関係していたのが、コントロールの企てでした。なぜなら、ひとたび有効成分を純粋な形で把握すれば、それを使って現実を思い通りに操ることができるからです。私たちは土壌を肥沃にすることができ、患者を幸せにすることができ、薬を純粋な形で作って、元の薬草より的確なものにすることができるというわけです。未来のテクノロジーは、分解すると消えてしまうにもかかわらず実在するもの全てを理解することから生まれます。それは創発のテクノロジーとなるのです。
ルネ・デカルトが自己の本質について考えたとき、彼は同じく基本原則を分離するという方法をとりました。実際、デカルトによって明確に打ち出された自己観が、私たちの世界に対する探求の雛形となっています。滓を捨てたデカルトは、自己の本質的で純粋な核だと信じるものに到達しました。その一粒の「我」は、肉体と感情、感覚、思考から切り離されていますが、それらを見下ろし体験しつつも距離を置いています。デカルトの自己は、ダニエル・デネットが「デカルト劇場」と呼ぶものの観客で、思考や体験、感覚データ、感情が脳という舞台の上で戯れるのを見ているのです。
しかし、最初のレプリケーターのように、生命の基本原理のように、自己を分解しその本質を見出そうとしても、またもや自己はそこに存在しないことを発見するのです。これはまさに神経科学の分野で起きたことで、意識や記憶といった性質は脳のどこか一か所に存在するのではないことが判明しました。仏教も同じ結論に達していて、自己に客観的で個別的な実体はなく、宇宙全体に広がる関係から生まれるのであり、独立した個人は存在せず、全てが相互に繋がり、依存し合い、定義し合っているのです。
生命、生物、ひいては自己を見る考え方として、気まぐれに境界を定めただけのサブシステムと捉え、外に対しては閉じておらず、内には相互依存的なサブシステムを数多く含み、したがって個別の実体を持たないものと見るなら、近代哲学、医学、経済学、宗教、法律、心理学の礎となる前提の多くと対立することになります。新たな自己観はこれら全ての分野で重大な変化をもたらすでしょう。デカルト的な自己は、「我思う、ゆえに我あり」として現代思想の多くを形成した二元論の根幹をなすものです。デカルトが信じたのは、私が「私」であることを認識する本当の「私」、つまり自我の、それ以上分割できない核が、個別ばらばらのものとして存在することです。そのような自己観は〈分断の時代〉の直感と完全に一致します。いま私たちは生命の根底にそのような自己が存在しないことを発見しつつあり、細胞、生物、生態系、そして地球全体を通して、その事実を次から次へとあらゆるレベルで観察することになるのです。私たちが生命のコミュニティーから自分自身をどんどん疎外していくこと、自然からどんどん遠ざかっていくことの根本は、突き詰めれば幻想にあります。〈科学革命〉はこの幻想に声を与えましたが、いま科学はまさにその根底を崩しつつあるのです。
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注:
[31] この節のための調査を行ったのは数年前のことだが、いまRNAワールドは急速に人気を失いつつあるようだ。
[32] ジェラルド・F・ジョイス[Joyce, Gerald F.] とレスリー・E・オーゲル[Leslie E. Orgel] 『Prospects for Understanding the Origin of the RNA World(RNA世界の起源解明への展望)』、『The RNA World(RNAワールド)』第2版, Cold Spring Harbor Laboratory Press, 1999年. p. 68収録。
[33] ジョイス[Joyce, G.F.]、ヴィッサー[Visser G.M.]、バン=ベッケル[van Boeckel C.A.A.]、バン=ブーム[van Boom J.H.]、オーゲル[Orgel L.E.]、バン=ウェストレネン[van Westrenen J.]『Chiral selection in poly(C)-directed synthesis of oligo(G)(オリゴ(G)のポリ(C)誘導合成におけるキラル選択)』ネイチャー, vol. 310, 1984年, pp. 602-604.
[34] ジョイスとオーゲル[Joyce and Orgel,] p. 51
[35] ジョイスとオーゲル[Joyce and Orgel,] p. 62
[36] デイビット・P・バーテル[Bartel, David P.]『Recreating an RNA Replicase(RNAレプリカーゼの再現)』.『The RNA World(RNAワールド)』, p. 143-159
[37] カウフマンの近著『At Home in the Universe』(邦訳『自己組織化と進化の論理 — 宇宙を貫く複雑系の法則』ちくま学芸文庫)は、一般の読者にもわかりやすいだろう。同じ概念を生命発生や進化をはるかに超えたところに適用し、宇宙の秩序と美の起源について非二元論的な直観を養うのに役立つ優れた資料となっている。
[38] 出典はwww3.nd.edu/networks/gallery.htm.
[39] 質量と力の世界にさえ私たちが知らないことが数多くあるということも、心に留めておいてほしい。
[40] 魂という創発的な性質は、生き物の質量を構成する束縛エネルギーと関連しているのかもしれない。死は生命の無数のプロセスのデコヒーレンス(一貫性の消失)をもたらし、これは具現化された情報とエネルギーの莫大な損失であり、従ってそれ相当の質量の損失となる。標準的な物理学では、[訳註:マクドゥーガルの実験で21グラムとされた]この質量が、9×10^16ジュール[広島原爆の1000倍のオーダー、つまり水爆級]のエネルギーに変換されずに消滅することは有り得ないのが分かる。そのエネルギーはどこへ行くのだろう? 今その疑問に答えるつもりはない。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-6-06/

